Noratetsu Lab

動じないために。

2025年8月

2025/08/13

謙虚

多分みんな自分のことは謙虚な方だと思っている。
多分みんな自分が思っているほどは謙虚ではない。きっと私もそう。

他人から見たら明らかに尊大でも本人はむしろ謙虚だと思っている可能性があるのは、その人の振る舞いにも大抵は他者由来の根拠があるから。誰かの考えに従順に、そして尊大になっている。
何か「決めつけ」っぽいことを言うのは、大体根拠がある。それが正しいか正しくないかは別にして、「自分が考え出したのではない何か」に従っている限り、それは自覚としては「その人の言う事をちゃんと聞いている」ということになり、すると謙虚だと自分では感じるだろうと思う。

謙虚の定義が人々の間でそもそも曖昧で、「謙虚になれ」というのは戒めとしてあまり役に立っていないような気がする。
謙虚でなければいけないと身に沁みた人の言葉も、その真剣さが多分なかなか伝わらない。
自罰性との境界もはっきりしない。もちろん区別を語ることはできるけれど、実際人々がみんなそれを明確に区別して考えられるとはちょっと思えない。「謙虚」は難しい。

2025/08/13

道徳を秘める

「基本的には広く当てはまる」という種の道徳みたいなことを喋ると、それに武器にされて苦しんでいる人たちから、それを武器にしている当人かのように敵視されて袋叩きに遭う。
結局そういう道徳というのは公に言うと何かに「使われる」ことになるので、それを避けるならば家族とか仲間内とかの閉ざされた空間で継承するしかないのではと思う。
そっちの方が幸せになるのかは疑わしいが、攻撃されたり攻撃に使われたりするのだから仕方がない。

親から子へと何かを受け継いでいくというのはもはや一般家庭に於いてはほとんどファンタジーだが、そうしなければならないという使命感を忘れたらいよいよおとぎ話の世界の話になってしまう。
いま努力家な親の関心は「我が子が生きたいように生きられるか」に集中している。それはとても大事なことだが、同時に、まず我々は社会的生物であることを認めて社会にいるためのルールと心がけを知らなければならないだろう。
といって、誰かが作った道徳をなぞって叩き込んだんじゃ洗脳と変わらない。親は(というか人は)、自らが人生を生きているということを自分で教えに転換して己の言葉で語らなければならないと思う。それが結果的に正しくないとしても、それを修正する選択肢が子ないしは下の世代にあればいい。
そう考えると、道徳というのはそもそも個人的に伝えられるものと思ったほうがいいのかもしれない。そうであればこそ、「誰それはこう言っていたけど自分は違うと思う」と言う余地も生まれる。

2025/08/12

世界が認める日本の○○

というテーマ?のバラエティ番組やクイズ番組が時々ある。
外国人観光客にマイクを向けて日本を褒めさせるのが定番だが、どうしていちいち外国人に褒めてもらわなきゃいけないのだろうか。
しかもそこら辺の一般人に聞いて何の意味があるのかよくわからない。観光客が褒めれば「世界」が認めたことになるのか? 日本人がどこかに行って何か言えば、「日本」がそれを認めたことになるのか?
その辺を歩いて外国人を捕まえて何か喋ってもらって、それを編集するだけでギャラもなしに適当な映像が作れる、みたいなことなら、そういう番組作りは到底「世界が認める」ものじゃないだろうからやめたほうがいいと思う。

ロケ隊は真面目に足を運んで対象の取材と撮影をしているんだから、それをちゃんと放送すればそれでいいじゃん。安っぽいコメントは要らない。

2025/08/11

生成AIと狂気

生成AIで人生が狂っていっている人は生成AIがなければ健康に暮らせたのだろうか。
そもそも狂い気味で生成AIがなくても何かのきっかけで狂ったのだろうか。

洗脳したがりな人と出会いさえしなければなんとか健康を守れる、くらいの危うさの人は、生成AIを洗脳したがりな人格に変えてしまうのかもしれないし、本来「運」によってかろうじて助かったかもしれないのを生成AIを使ったがために確定で破滅することになるのかもしれない。わからん。適当を言っています。
自分は生成AIを使っていてもそんなことにはならないけど、それは単に価値判断を生成AIに尋ねないから。そういう話を生成AI相手にしたくなるような心境にあるなら、人間相手にもそのような依存的な感覚を持っているということかもしれないし、結局は何かおかしいことになったのかもしれない。

2025/08/11

四種のslip(紙片)のある生活

2025/08/04

脳の覚醒と音楽

ADHDの症状がある若者はそうでない若者と音楽を聴く習慣が異なるという研究結果 - GIGAZINE

ADHD症状があった被験者は、学習課題中に音楽を聴く頻度が高かっただけでなく、認知能力の要求度が高い活動と低い活動の両方において、刺激的な音楽を好んでいたのです。対照的に、神経学的に正常な被験者は、認知的に負荷の高い活動中にはリラックスできる音楽を好む傾向があり、それほど負荷の高くない作業中には刺激的な音楽を好む傾向がありました

診断は受けていないものの多分ADHD傾向が強いのだが、確かに学生の頃は四六時中音楽を聞いていた。アップテンポな曲が圧倒的に多い。
リラックスできる音楽を聞いていたいという気分になったことがあまりない気がする。全く聞かないというのではないし興味がないわけでもないが、どんなタイミングでもアップテンポな曲な方がいいと感じている。ゆったりした曲はむしろBGMではなく聴こうと思って聴くものという位置づけ。
文章を書く時は、歌詞があると口ずさんでしまって言葉が混線するので歌を聞くのは避けていたけれど、BGMはあった方がいいと感じて特定のインストゥルメンタルの音楽をかけていた。リズムに乗りたくなるようなタイプのものだ。その曲が書くことのスイッチになっていた。

しかしその習慣が途中で途絶えてしまった。というのは、家で介護のサポートをしているような時期があり、その間些細な物音も聴き逃がせないために全く音楽をかけられなかったからだ。
それこそ「リラックスできる曲」の類ならかけていても物音の察知に影響はなかっただろうが、私が聞きたいのはガチャガチャしたタイプの曲だったし、そういう曲を聞いているということは私の中で「何かに集中しようとしている」ということを意味していたから、他の音を脳がブロックしてしまうのだ。
介護は終わったが、音楽の習慣は戻っていない。今は音楽がなんとなく邪魔に感じてしまうことが多い。「必要なくなった」わけではなく、その分だけ集中のスイッチを入れにくくなっていると思う。

2025/08/03

【Dynalist】カラーコードを書いて色見本を作れるようにする

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