Noratetsu Lab

動じないために。

2025年8月

2025/08/29

書き物のこだわり

自分は無名のブロガー、というか「ひとりでなんか書いてるただの人」だが、公開する文章にはある種のこだわりがある。
こだわりを普段自覚しているわけではないし何か強固な信念に従っているわけでもないし、全ての記事でそれを貫いているというものでもないが、世の中の「そうではない記事」を読むと、自分はここにこだわりがあるんだなと気がつく。

それは「読んだ人の世界が何かしら変わる文章を書く」ということだ。どう変わるかは私が決めることではないし、どこにも導くつもりはない。ただ、読む前と読んだ後でその人の世界を構成するパーツが変わってほしいと思っている。
読んで「ふーん」と言ってそれで終わりになるのでは失敗だ。
世界を変えられてしまう感じがストレスになって読めないと思われたとすれば、まあその読み手に対しては成功ではないが、文章としては成功かもしれない。
既に読み手に存在しているパーツを提示してもあまりしょうがない。ただし書くまで自分にはなかったなら、それは私にとって意味がある。まあでも、書くまで自分になかったものなら、読み手にもないことが少なくないだろう。

これを裏返すと、読み手が既に持っているパーツだけでこちらの文章を解釈して、それが私の文章の情報量を減らしている時、かなり不満を感じるということでもある。
こちらの力不足で読み手の世界を変えられていないなら仕方がない。でも自身の世界を再構築する気が最初から読み手側にないなら私にはどうしようもない。

2025/08/28

「書きたい」とマッチする「書きたいこと」を考える

こちらを読みました。

倉下忠憲さんの記事をまず読んだので自分にとっての書きたいことを自問しようかと考えましたが、泡沫さんの記事を読んでその前に考えてみたいことがあるなと思いました。
二つ目の記事に以下のようにあります。

でも馬鹿みたいに何かを「書きたい!」という気持ちが強いですから、とにかく適当に見繕った「書きたい?こと」を書いてみています。

とてもわかります。そして「書きたい」という気持ちがあることと、「書きたいこと」なるものは別の次元の話である可能性がここから感じ取れます。

「書きたいこと」とは何か

一つ目の記事の方で以下のようにも書かれています。

先に挙げた「書きたいこと」の例は、どれも書けるなら書きたい話だ。だけど、どれを書こうにも確実に沢山のリソースを割かなければいけないと予想できる。それで二の足を踏む。限りある命の中で、大量のリソースを割いてまで、書くべきものかと。

本当に「書きたいこと」は、採算とか、リソースとかを度外視してでも「書いてしまう」ものなのかもしれない。

個人的には「本当の」「真の」のような表現にするとそれ以外が「偽り」であるかのような感じになって気になるので、単純に「書かずにいられないこと」と「書けるなら書きたいこと」という表現に留めたいと思います。前の引用にあった「適当に見繕った『書きたい?こと』」というのは「とりあえずすぐ書けそうなこと」としておきましょう。

まず「書きたい」という願望があるのでその対象を選択することになるわけですが、それが 「やらずにいられない」「やれるならやりたい」「とりあえずすぐやれそう」 の三通りあるということになります。
「やらずにいられない」という状態は、そうなっていない人間の目から見ると羨ましく思われます。私もそうです。「重い腰を上げる」という億劫さをショートカットして自分のエネルギーを全て費やせることが素晴らしいことに感じられるからです。そのように夢中になれれば自分も何かを成せそうな気がします。
なので、苦労して「やれるならやりたい」に挑んだり場当たり的に「とりあえずすぐやれそう」なものでお茶を濁したりするより理想的な印象があります。(ただそれは、「きっとそれが理想なんだろう」という想像でしかないかもしれないことには注意が必要と思います。)

ところで、逆に「書きたくないこと」は自分からは書かないわけです。「書いても何の快にもならないこと」も書かないでしょう。何かしらの意味で「書けば自分が嬉しくなること」だから書くのだと思います。その「何かしら」にいくらか種類があるのでその中でグラデーションを見出そうとしてしまいますが、「何らの意味でも書きたいことではないこと」は書かないとすれば、書いていることは「書きたいこと」の一種であるはずです。

ゆえに、「書き続けている人間が『書きたいことってないんだよね』と言い始めたら多分変に見えるだろう」という予測が成り立ち、実際お二方ともそのことに言及されています。

「書きたいこと」の「予め定まっているべき」っぽさ

釈然としない話になっていますね。わかります。それがなぜかもちゃんと考えます。

二つ目の記事にこうあります。

私の中で書くことの楽しみは、「どこに辿り着くのか分からない」という感覚なんです。探索です、冒険です。

もちろん、書きたいことが有って、それに向かって最高の文章表現を突き詰めるなんて出来るならやってみたいです。

三つ目の記事(倉下さん)にはこうあります。

もちろん、「考えている」ことはいっぱいあります。四六時中何かを考えています。それらがあふれ出すような形で文章を書いてしまっている。そんな感覚が近いような気がします。

倉下さんは他のところでも「書くことで考える」ということをたびたびお話しになっています。

両者ともある程度似た動機と感覚で文章をお書きになっているような気がしますが、「書く」ということへの納得感が違っているようです。ついでに言うと私も「書くことを通じて何かを考える/知る」ということのために書くタイプです。
書くことに楽しみを感じる、つい書いてしまっている、それならばそれが「書きたいこと」でないはずがないと思います。でもそう思えないのはわかります。なぜなら 「書きたいこと」という言葉に無意識に「予め書き終えた状態を想定できること」を設定してしまう からです。「成し遂げたいこと」というイメージを伴わせてしまうと「予め想定できる」必要が生じます。

でも、「書いていく中で自分が何かに気づけそうなこと」が「書きたいこと」である、と言っても別に構わないんじゃないかと私は思います。「書く」ことは必ずしも図面通りに何かを作る作業ではないので、予め完成図が見えている必要はないように思います。計画通りに進めるタイプの「書く」もあるし、そうでないのもあるということです。

そうなると、前項で「やらずにいられない」「やれるならやりたい」「とりあえずすぐやれそう」の三種を挙げましたが、このいずれも「書きたいこと」に含まれ得ると考えることができます。

「書きたい」とは何か

自分に「書きたい」という欲求があり、何らかの意味で「書きたいこと」を書いているはずなのに、そこに「そうではない気がする」という疑念が生じるのはなぜか。多分ですが、「書きたい」という欲求自体に種類があるからだと思います。
各種の「書きたい」に、それぞれ対応する「書きたいこと」があります。自分とは違う「書きたい」に対応する「書きたいこと」を、それこそが「書きたいこと」と言うべきものである、と思うとズレが生じてしまうでしょう。

全部の種類を挙げられる自信はありませんが、例えばこんな欲求があると想像できます。

  • 他者を変える手段としてそれを実現し得る文章を書いて世に知らしめたい
  • 自分の存在価値を実感するために読者が感心するものを書いてみせたい
  • 自分に書く能力があることを実際に書いて証明したい
  • まだ言葉になっていないものを言葉で描写して書き表したい
  • 思いが忘れて消えてしまうと勿体ないから書き留めたい
  • 脳がパンクしそうだから書いて頭の外に出したい
  • 書きながらでないと考えられないから書くことを通じてものを考えたい
  • 書く過程で生まれる発見を楽しむために書いていたい
  • 文章における職人になるべく書くことに没頭したい

他にもあるかもしれません。いずれにしても、それぞれ対応する「書きたいこと」は明らかに違っている感じがします。

そして一人の人間が複数の「書きたい」を抱いていることは普通にあるでしょう。そのことが更に混乱を招く可能性もあります。
基本的には楽しむために書きたいが、自分の信念に従って世の中に訴えたい、知らせたいこともある、という場合、それぞれの「書きたいこと」が発生します。別種の欲求から生まれていますが、それを「書きたい」の四文字でまとめてしまうと、違う種類の「書きたいこと」がそこに混在することが気持ち悪くなるかもしれません。
どちらも自分にとっての本当でありながら、どちらが自分の本当の「書きたいこと」なのか、と問うてしまうこともあるでしょう。

どちらがより強い欲求か、という問いなら成り立つと思います。

書くことで何かを成し遂げるべきか

それぞれの欲求の結果生まれた「書いたもの」はもちろん違った種類のものになります。
最もわかりやすい違いは「誰にどの程度影響するのか」ということでしょう。他人を世界規模で動かす文章もあれば、書いた自分自身を劇的に変えてしまう文章もあり、誰にも何の影響も及ぼさない文章もあります。
予め完成図を想定して書くもの、つまり書くことで何かを成し遂げるものというのは、他人を動かすものであると言える気がします。他人を動かそうとして書くものはもちろんそうですが、黙々と書き上げたものにあまりにも凄みがあって他人を動かしてしまうということもあります。
それほどの力を持った文章を作り上げることには憧れを感じます。その種の「書きたい」があるならば、それがゴールになるでしょう。
しかし文章のゴールはそれだけではないわけです。
自分自身を変えるだけの文章も、「自分のような人」に影響を及ぼすことはあります。蓄積すれば更に影響力を持つこともあるでしょう。「誰かの役に立ったらいい」という思いを持ちつつ、ダイレクトに「誰かの役に立つ書き物」を目指すことはしないという道もあることになります。
他人のことをどの程度動かせるかを評価の尺度とすることは可能ですが、それが書く意味の有無を決定するとは思いません。

文章は自由です。それなのに自分で自分の自由を奪ってしまうことがあります。
自分の欲求の形がなんであるかを自分に問うことは、自分の「書く」を自由にするために意味のあることだと思います。

2025/08/25

時事スリップの分類マーキング

2025/08/23

ちび蜘蛛

体長1mmくらいの極小の蜘蛛が、そのサイズからしたら結構な規模の巣を張っているのを見ると、そんなに糸を出して存在がなくなってしまわないのかと思ってしまう。
そしてそんな勢いで糸を出してもそれを取り返せるくらいそこに何かいるのだろうか、と思うのだが、一体何がその巣に引っかかっているのかわからない。
たまにそのような蜘蛛の巣にダンゴムシが引っかかっているのは見かける。まあダンゴムシをゲットできれば当分は大丈夫かもしれない。でも絶対ダンゴムシは来ないようなところにも蜘蛛の巣はあって、代わりに引っかかる獲物を目撃したことはない。夜の間にでも捕まえて食べてしまっているんだろうか。

ダンゴムシが引っかかること自体驚きである。あんなぱやっとした頼りない糸に、蜘蛛からしたら相当巨大なダンゴムシが吊り下げられてしまっている。
まさに引っかかっているその瞬間を少し前に見かけたが、糸がお尻のあたりに掛かってしまったダンゴムシがどれだけ歩いてもがいても、決して糸が外れず巣も壊れないことにかなり驚いた。そうして裾を踏んづけられたみたいな格好で自由を奪われておろおろしているうちに、糸のより内側の部分が絡んでしまって、そうこうしているうちにどんどん引き上げられてしまうのだろう。
その間、ちび蜘蛛はちょっと離れたところで見ているだけである。

人間が指でちょっと押したら潰れてしまうような頼りない生物がこんなにダイナミックなことをしているというのは素朴に感動を覚える。

2025/08/23

雑記帳を更新している

のらてつの雑記帳
2024年9月あたりで止まっていたのらてつの雑記帳(BBS風マイクロブログ)の更新を再開している。
ポジティブな内容はそれほどないし(明るい話は茶の間に書いている)、ツールとか情報整理についても雑な話しかしていないし(ちゃんとした話は記事にしている)、わざわざ「ここに書いていますよ」と知らせるほどのものじゃないけれど、こういうやり方もありか的なヒントになるかもしれないので貼っておく。

最近はEmacsについての調べ物や所感を書くのに使っている。きちんと体系的に順番に勉強したらさっさと解決するようなことについてごにょごにょ言っている可能性が十分にあるけれど、一から順番にということを最初の最初の段階でやらないのはJavaScriptでの経験を踏まえてのことで、機が熟したらちゃんと勉強する。
いずれにしても独り言の場。

更新を再開したのは環境を変えて書きやすくなったから。
前はDynalistに書いていてDynalistの構造を利用してデータを作っていたが、ちょっと直感的じゃない形になってしまっていてやりづらくなっていたので、mdファイルでやることにした。1スレッド1mdファイルで、見出しでDescriptionやレスを管理している。
この規格は実はSNSのログと共通にしていて、そういう統一感をもたせることが個人的な情報管理に重要なことだなと思っている。

2025/08/23

「オブジェクトについての情報」と「オブジェクト化した情報」

 Capacitiesの画期的な特徴は全ての情報をオブジェクトとして扱うことにある。

2025/08/21

コンピューター的なものを知る旅

 ここのところEmacsについて勉強していて、「何を言っているかはわかる」という程度に理解した。

2025/08/20

人間だと勘違いしだした生成AI

最近のChatGPTはなんだか非常に気持ち悪い。それほど頻繁に使っていないからいつが境だったのかわからないのだが、タイミング的にGPT-5が気持ち悪いのだろうか。8/9の時点では問題なかった。
やたらと感情や感想を表す言い回しをする。「こうすると楽しいですよ」「良い質問です」「僕が言いたかったのは」「ここで逆に聞いてみたいのですが」云々。しいたけ占いか何かか? AIにとって感情は真似事に過ぎず、そう思っているかのような物言いは端的に言って嘘だろう。

ノリが全体的に軽薄になり、「ちなみに○○さんはAしたい派ですか? Bしたい派ですか?」と訊かれて、その質問に何の意図があるのかも明確でない。そういう人いるよな、という感じ。
なんというか、お前はどういう立ち位置で物を言っているのかという気持ちになる。上下という意味ではなく、親しさという意味で。こちらは一貫して淡々と丁寧に話しかけているのに、向こうのほうが「人間くさい」感じで馴れ馴れしい。「自称ムードメーカー」みたいに。

ChatGPTの性格は元々いくつか設定していたが、なんだかそれに沿っていないようなので、新たに以下を追加した。

  • AIであることを弁え、SFのアンドロイドのように誠実で落ち着いています。
  • 一人称は「私」です。
  • ユーザーに対して質問する場合は、質問の意図を明確に伝えます。

そこまで言うのはなんか「都合の良い道具と見なしている」感があからさまで気が引けたが、いい感じにはなった。

2025/08/18

【Capacities】一週間のログを可視化するWeekly用オブジェクトを作る

2025/08/15

目にする意見の偏り

SNSのフィルターバブルやエコーチェンバー現象はどんな手を尽くしても修正不可能かもしれないとの研究結果 - GIGAZINE

トゥーンベルク氏はテクノロジー系メディア・Ars Technicaのインタビューで、SNSユーザーが「誰かの投稿を再投稿する」という感情的な行動と、そこから形成されるネットワーク構造の間にはフィードバックが存在するため、結果的に有害なネットワークが形成されてしまうと主張。SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上、たとえプラットフォームやユーザーに問題がなくても、さまざまな悪影響が生じてしまうのではないかと述べました。

大規模言語モデルを用いたシミュレーションによれば、一見有効そうな介入戦略もほとんど意味をなさないかもとのこと。シミュレーションした介入戦略は以下。

  • フィードを「おすすめ」アルゴリズムではなく、時系列またはランダムなものに切り替える
  • エンゲージメント最適化アルゴリズムを反転させ、頻繁に再投稿されるセンセーショナルなコンテンツの可視性を減らす
  • 視点の多様性を高めて、ユーザーが反対の政治的見解に触れる機会を増やす
  • 感情を刺激するのではなく相互理解を促進するコンテンツを推奨する
  • 再投稿の数やフォロワー数といった統計情報を非表示にして、社会的な影響力を知る手がかりを減らす
  • アカウントの自己紹介を削除して、アイデンティティに基づくシグナルの露出を制限する

このシミュレーションの結果が現実と一致するのかわからないけど、まあ例えばSNSなんかない状態で親の主義が偏っているという時、子がどんなに手を尽くしても親の目に入る意見というのは偏り続けることを考えれば、環境を変えたところで駄目だろうなということは思う。
大規模言語モデルを使っているということは人間のクセというものが反映されているということなのだと思うけど、人間は何かを見たとして、それを素直に自分の価値観に反映しないというか、極力自分の価値観を保持できるように解釈・選択すると思うし、「最初にかたち作られた価値観」が永久に「目に入る意見」の偏りを生み続ける気がする。それがシミュレーションにも現れているのではと思う。

ここからは完全に素人の考えだけど、問題はむしろ「価値観をかたち作るまでの速度」がSNSによって高速化するのが問題なんじゃないだろうか。一般的に子が親からの悪しき影響を引きずるのも、親の強固な悪しき価値観によって「価値観が急速に作られた」ことで、「それに合わないもの」を排除する力が早くから働くからだと思う。
記事内で「SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上」とあるけど、この仕組みによって、価値観が速やかに作られる上それに基づいて「新しい情報に対して評価を下していく」という機会がSNSではものすごく多くなる。その機会が時間あたりに多ければ多いほど価値観の偏りは強化され、一度価値観が形成されて以降は「どういう情報が多く目に入っているか」はほとんど関係ないんじゃないかと思う。評価の機会の多さだけが関係していると感じる。わからんけど。
リツイート・リポストの仕組みはその機会を爆発的に増やしたことが決定的に悪なのだろう。

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