WorkFlowyとScrapboxの共通性がどこにあるかという話が話題にのぼっていたので、ちょっと考えてみました。
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といっても私はWorkFlowyユーザーではないので(試してみてやめたというのではなく、Dynalistから入ってこれがいいとなりました)、具体的に素晴らしさを語ることはできませんが、WorkFlowyの見た目や他の人の体験談から感じたところを書いてみたいと思います。
「ある」というストレス
何かが「ある」ということは、なかなか無視できないものと思います。誰かがそこにいる、何かがそこにある、何かの音がしている、何かの匂いがする、個々人で程度の差はあれど常日頃そういったものから影響を受けているはずです。
ツールでも同じです。自分に合う機能が「ある」ということ、自分に合わない機能が「ある」ということに、やはり影響を受けるものと感じます。
自分に合わない機能がそこに存在しているというのは、そんなことが些末に思えるほどそのツールを気に入っているか、何かが「ある」ということから元々影響を受けにくい体質か、そのいずれかでない限り、いくらかはネガティブな影響を受ける気がしています。早い話が「邪魔」だとか「余計」に感じるのです。物理的に場所を取っているわけではないとしてもです。視界に入るというのはそのくらいの力があるのでしょう。
自分の要求の何かに沿った機能があるという場合にも、それが常に良いこととは限らないかもしれません。いくら自分の需要に沿っていると言っても、本当に100%沿っているわけではないかもしれませんし、自分の需要自体が形を変える可能性もあります。そうなると、高いレベルでマッチしているツールに、マッチしきっていない部分に目を瞑って自分が合わせようとしてしまうこともあり得ると感じます。
それが無意識化で行われている時、うっすらストレスが溜まり始め、ある時ふと「なんかもっとシンプルなツールないかな」という気持ちとなって現れるような気がします(これは推測です)。
ここで肝心なのは、「合うものがある」にしろ「合わないものがある」にしろ、その影響を「受ける」ことになるということです。否応なしに受けてしまうのです。
でも逆に「ない」ことに対しては、自分が能動的に考えを巡らせることができるのではないかと感じます。WorkFlowyもScrapboxも「ない」機能があるわけですが、そのことについて私たちは自分で意識的にどうするかを判断することになるでしょう。
もし余計なものが何もないとすれば、ユーザーはいつも能動的でいられるということなのかもしれません。
解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得る
シンプルシンプルと言いますが、シンプルというのは要するに何なのか。それを考えると、「解釈の余地がない、且つ無限の解釈があり得る」ということだと私は思います。
WorkFlowyやScrapboxは、パッと見た時に自由過ぎて戸惑うということはあるかもしれません。自分で道を見いださなくてはならない戸惑いです。「例えばどう使うのが効果的なんだろう」とヒントを得たくなる心境です。しかしそれは「正しい使い方は何だろう」という疑問とは異なるものと思います。つまり、「このツールをどう解釈しなければならないのか」という正解探しからは無縁なのではないかと思います。
もちろん、正解探しの生活に順応しすぎて何にでも正解を探そうとしてしまうというユーザー側の個人的な(あるいは社会的な)問題はあり得ますが、それはツールの設計のせいではないわけです。
他方、ある目的のための機能が付与されているツールでは、その機能があるということに対して、「目的として設定されていることを正しく解釈する」という必要が生じます。無視してしまってもいいのですが、何らかの目的があることをわかっていながらそれに一切興味を向けないというのは誰にでもできることではないことと思います。わかった上で敢えて違う目的に使うということはしばしばあるでしょうが、それはまずわかるという段階を踏んでのことになります。
複数の機能が搭載されているとなれば、それらを併せて使った時に達成されるものが何なのかを解釈しようとするでしょうし、その上でそれに沿うか敢えて無視するかを判断することになります。私たちが普段から特別意識せずにやっていることですが、そのことがなんとなく煩わしさを生じているということはあると思います。
Goさんの記事の中で、
アウトラインを個人ひとりが操作するだけでは不十分で、複数の人が自由に操作できる機能を重視している訳です。
とありました。Scrapboxも共同編集で本領を発揮するツールでしょう。これができるためには、誰が使ってもツールに対する解釈に差が生じない必要があると思います(ただし自由だということ自体をわかるために慣れが多少要るとは思います)。
少し専門的なツールを採用して教育によってそのツールに対する解釈を統一するというのはよくあるケースかと思いますが、そういう強引さを解消できるのがWorkFlowyやScrapboxのようなツールなのかもと思っています。
同時にWorkFlowyやScrapboxには無限の解釈があり得ます。いずれのツールも、その設計からユーザーが導き出せるものが個々人で違うと感じます。それはツールが予め定めた読みではありません。きっとここが肝なのだ、と各々が判断して、「じゃあこう使おう」と決めることができるのです。
そして面白いことに、自分以外の人が導き出した解釈を見ると大抵「なるほど確かに」と納得できます。ちょっと立ち位置を変えて見るとそういう姿が浮かび上がってくる、ということが容易に想像できるのです。
それは「紙の使い方」が無限なのと同じことだと思います。その無限さを邪魔するものがなければ、ある基本的な仕組みが持つ可能性というのは無限にあるものなのでしょう。WorkFlowyもScrapboxも紙よりは限定的かもしれませんが(紙にはないデジタルならではの自由さを加えてもです)、それでも無限と思えるような解釈の可能性を感じます。
デジタルツールで追求しうる「基本」はおそらくいくつかの方向性があり得て、それら全てを包括した万事の基本となるツールというのは追究され続けながらもまだ実現されていないと思いますが、WorkFlowyとScrapboxはそれぞれひとつの方向の「基本」を実現しているのだと私は感じています。
具体的に「基本」とは如何なるものなのかというのはまた別に考える必要があると思いますが、ツールの設計そのものについての見識が私は十分でないので踏み込まないことにします。
ふわっとした話になってしまいましたが、自分が感じていたことをちょっと頑張って言葉にしてみました。
デジタルツール界のイーブイ?
余談ですが、WorkFlowyやScrapboxのようなツールはポケモンで喩えると「いつでもイーブイに戻れるイーブイ」という感じがします。進化するもよし、しないもよし。
イーブイが愛されるのと同じように、WorkFlowyやScrapboxはその可能性の広さと何びとも拒まない愛嬌を愛されるのかもしれません。