自分はどういう人間であるかに焦点を当てた話。
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忘却に伴う恐怖/私が欲しい第二の脳
「記憶は薄れてしまう」ということを私はかなり恐ろしく思っている。
それは「全てのものを全て覚えておきたい」ということとはちょっと違っている。自分が例えば砂粒の集合のようにできていたとして、自分でも気づかぬ間にさらさらと砂粒が流れ出し、いつの間にか自分の一部が欠けている――そういうことに恐怖を感じているのだ。
その感覚には少なくとも二つのことが関係している。
まず「忘却への備えが下手」ということがある。恐れている割に、この半生のかなりの部分でうまく記録をつけられなかった。若い頃はそもそも記録をつけていなかったし、大人になってからは飽きとか際限のない「よりよい形式探し」によって記録が分散して、結局振り返りができないということになっていた。
今起きたこと、今感じたことを、今大切にする。その習慣がなかなか身につかなかった。見たり聞いたり、そしてそれに何かを感じたりしただけで恒久的に自分の一部になった気がして、それをちょっと立ち止まって愛でるということをしないで次に行ってしまうから、気づいた時にはせっかく自分の一部になったものが失われているということになる。
あるいは、記録をつけ始めても、将来振り返りやすい形式みたいなことを小賢しく考えてしまって、結局今今それを大切にするための記録にはなっていないということが続いていた。だから平気で形式を二転三転させ、「より劣った形式」でつけた記録は蔑ろにしてしまう。
そうなると、記録をつけてはいても結局自分の頭頼みになり、忘却が恐ろしいという状態を全然解決できない。
忘却への備えの問題の他にもうひとつ、「何かを感じたということが自分にとってものすごく重要である」ということがある。
何かを感じて、それによって自分が出来ていると思っているから、後から忘却に気づいた時に巨大な喪失感に襲われることになる。「感じ直す」ことはもうできないわけだから、二度と取り戻せないのは確実であり、その取り返しのつかなさに絶望的な気分になるのである。
で、その「感じた」というのは言葉にするのが難しい。記録の時点で正確に書き表すことは到底できないことが明らかだ。あまりにも大変な感じがしてしまうので記録を諦めてしまうということが子どもの頃に起きていたのだが、そうして何も残さないと綺麗さっぱり丸ごとなくなってしまうおそれがある。100%再現できる記録はできなくとも、1%でも書いておけばそこまでの喪失にはならなかったはずだが、そういうことは若い頃にはわからなかった。
なにしろ、「何かを感じる」ということはひっきりなしに起こるのだ。ひとつひとつはそこまで特別なものには感じない。立ち止まって格闘している暇があったら次の「感じる」に移った方がいい。そもそも上述したように「感じたものはちゃんと自分に刻まれる」と思い込んでいた。そうやってパックマンのごとく動き回って「感じる」を続け、そうしてそれらがさらさらと呆気なく零れ落ちていることに後から気づいて困ったことになっているのである。
もちろん、忘却によって失われたものがあるとしても、過去に発生した「感じる」は確実に今に繋がっている。具体的に何を感じたのかは忘れても、何かを感じるということを重要なものに位置づけ続けてきたということは確かに自分を形作っていて、だから今こうして「自分が感じたこと」を仔細に書き表すことで文章をつくることができている。
とはいえ、やはり忘れるに任せていては不安だし、自分の一部が失われていくのはあまりにももったいない。
今世の中には忘却に備えるためのツールやメソッドというのがたくさんある。「第二の脳」というフレーズもしばしば聞く。その場合の「脳」にどういう「脳らしさ」を期待するかというのは自明ではないと思うけれども、今私が欲しているのは「忘却によって自分が欠けていくことを防ぐもの」なので、忘却する自分の脳をサポートして一緒に記憶してくれるものとしての「第二の脳」を考えたいと思う。
情報を無限に入れられて、そしてそれが勝手に消えないというツールはたくさん生まれている。紙のノートも、捨てたり焼失したりしない限りはずっと残しておけるものだし、日記をつけるのがうまい人はもうそれで私が抱えているような問題はほとんど解決していると思う。
昨今は言うまでもなくデジタルノートツールの隆盛が目立つ。紙のノートは「記録」に特化しているが、デジタルツールだと「ある括りによってまとめて取り出す」というようなことが可能になる。より「脳」的であると言える。何かを思い出す時、脳は関連したものを一緒にイメージすることができるわけで、それとある程度似たことを再現してくれることになる。もちろんキーワードによって捜索するということ自体、紙のノートにはない「脳」っぽさがある。
一口にデジタルノートツールと言っても、情報をどう保管しそれぞれにどういうフックを付けるかというのはそれぞれ異なっている。どれかの場所に必ず属すフォルダ(あるいはツリー)形式、キーワードを好きなだけくっつけて串刺し検索を可能にするタグ形式、情報と情報をリンクで繋ぐネットワーク形式、平面上の位置に意味を持たせる付箋・マインドマップ・カンバン系の形式。他にもあるかもしれないし、ひとつのツールがそれらの形式を複数カバーしていることも多い。
これらの形式というのは、後から情報にアクセスする時の辿りやすさを左右する。
種別が明らかで混在の可能性がないものならば、フォルダ形式が直感的かつ「必ず辿り着ける」ものだろう。どこかには属しているわけだから、フォルダを開けていけばどこかでは見つかるはずである。一発で見つけられないとしても入っている候補のフォルダというのはある程度絞られるのだし、フォルダの粒度が大きすぎない限りは力技でどうにかできるという利点がある。この形式は「脳」らしくはない。いや、脳内でも情報をカテゴライズして認識している部分はあるので全く違うわけではないが、少なくとも脳内では「必ずここらへんに入っているから、探せば出てくる」ということにはならない。
何かに属しているとは限らない形、つまりネットワーク型ツールの多くは、情報の在り方がより実際の脳に近いように思える。キーワードが含まれさえすれば絶対取り出せるという意味では脳より強力だが、情報が大量になってくるとキーワードがわからなくなった時に取り出せる可能性がかなり薄くなる。タグ機能があるとしても、タグ付けが必須でない場合には自分の几帳面さにかかっていて、「ここさえ探せばいい」という安心感はやや得にくい。探すとなればフォルダ形式と違って捜索範囲が全体になってしまい、虱潰しに探すことは現実的でなくなる。脳のようにすっかり失われるということはないが、実質的に辿り着きにくくなるので忘却と似たことが起こる。実際の脳と似たライフサイクルになるわけで、それはとても自然な感じがすると同時に、脳と同じ欠点を一部引き継いでしまうということでもある。
こう書くとフォルダ形式の方が良いと言いたいのか、と思われそうだが、もしそうなら今ネットワーク形式がこんなに流行ってはいない。今話しているのはあくまで「忘却によって自分が欠けていく」という事態を防げるかどうかの観点で、日々の情報の取り扱いでのフォルダ形式の欠点とネットワーク形式の利点はよく指摘されている通りである。
さて抽象的に「情報」と言っているけれども、そもそもどんな情報を忘れたくないという話だったか。それは「何かを感じたということ」だ。それは自分の記憶が薄れて失われたらもう二度と取り戻せず、そして私にとってはそれが失われることが自分自身の一部を失うことと同じように思われるので、なんとか失わないようにしたいのだという話を前半でした。
そういう情報は、「まあなくなったらなくなったでいいや」式の管理とは相性が悪いであろうということがわかった。ガラクタ箱のように、何が入っているか忘れてしまっても箱を開けて漁れば「こんなのあったなあ」と言って全てを確認できる、そういう保管方法が良い。しかしモノではなく情報を扱い始めると、ガラクタ箱に溜めていたのとは比べ物にならない規模の内容量になってしまって、情報同士が埋もれさせあって振り返りが難しいということになりかねない。大きい箱ひとつではなく、何かしらの基準で分別した箱をいくつも用意した方がいい。そのような用途なら、フォルダ形式またはツリー形式のイメージの方がネットワーク形式より合っている。
自分以外のことはわからないので想像だが、多分「何かを感じたということ」を普通そんなには重要視しないのだと思う。今日明日の仕事には全然関係しないのだから当たり前のことだろう。「情報管理」の四文字で思い描く対象にそういうものは普通含まれない気がする。日記の話ではよく出てくる話であっても、それについて「情報」という言い方はしない。
しかしながら、私はそういったものを「自分の人生上に生じたもの」としてある種「モノ」的に扱いたいという思いがあり、そうなると情報管理の手法を使って記録・保管したい。そういう発想で情報管理を考えると、それはタスク管理とも個人情報管理とも知識管理ともアイデア管理とも違った領域の話になるような気がする。
ここ数ヶ月ずっとCapacitiesの話をしているが、私の中にある「オブジェクト感」というのは、こういった前提があってのものだ(ということにここまで書いてきて気がついた)。この感覚にぴたりと填まるツールがそれ以前になかった。Capacitiesと出合ったことで、Capacitiesになぜ納得できるのか、他のツールのどこが引っ掛かっていたのかを考えられるようになった。
自分の脳だけでは情報を扱いきれないというのは現代人共通の悩みで、それに対処するために「第二の脳」となってくれるツールを皆欲している。しかしその理想の形というのは各々でおそらく驚くほどバラバラなのだと思う。TPO次第でその時必要な形が違ってくるということもあるだろう。私自身Capacitiesで全てをカバーしているわけではない。
だから、「第二の脳」として相応しいツールは何か、というより、「私が欲しい第二の脳」とはどういう形をしているのか、ということを真剣に考えることが情報管理に於いては重要だろうと思う。
NTA-DIY:何をどう書いたらいいか考え直す
ノートテイキングアプリDIY体験記の連載再開、と思って意気揚々と記事を投稿する気でいましたが(ほとんど書き終わっていましたが)、ちょっと待てよと思ったので一度立ち止まります。自分らしい文章になっていない気がしたのです。
例によって、自分の頭の中だけで完結させていい話をわざわざ書いて投稿してしまうことにします。内容としてはどちらかというと「ノートテイキングアプリDIY体験記」ではなく「ブログの書き方ド下手問題」の方に入るべきものかもしれません。いったい誰得かというと、私得のためのものです。
二ヶ月半ほど前にも一度立ち止まりました。その時は動機が曖昧だという問題の解決を試みました(なんでこれを書いているのか考え直す(NTA-DIY:なんでこれを書いているのか考え直す))。記事内で示した動機を並べると以下のようなものです。
- 食うためでないプログラミングがもたらしてくれる自由の共有
- 私が私の人生を忘れないための記録
- 自分でアプリケーションを作ってもいいのかもという気持ちの肯定と惹起
- 見切り発車したもの勝ちというメッセージ
- 自力で何かを作ることの感動の共有
もう一段階整理すると、
- メッセージ① プログラミングは自分を自由にするものである
- メッセージ② プログラミングは誰でも今すぐチャレンジしてよいものである
- メッセージ③ 私の人生にはこういう日々があったのである
という三つのメッセージに集約できるかもしれません。①②は自分以外の誰かへのメッセージで、③は未来の私へのメッセージです。
さて、動機についてはまずまず明らかになりました。しかしそれに沿って書いてみようとした時、何かが「違う」感じがしました。動機を明らかにする以前よりはピントが合ってきた感はあるのですが、何か足りないのです。自分が読者だったとして、多分「へえ」とか「ふうん」とかは思うのですが、読んでよかった感をどこから得ればいいのかわからない感じがしました。
文章自体は書けるのに、その文章がブログ記事に投稿されるものとしてはピンと来ない。そんな時こそ「ブログの書き方ド下手問題」の出番です。自分が書いたからといって自分に定着しているわけではありません。ヒントがあるかもと思って読み返しに行きました。
ちょっと長くなりますが、今の自分の問題意識に関連する箇所を抜き出してみます。長いので重要なところを下線で強調します。
ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~
私が何かを書くに当たっては書き手が主人公であり続けるのではなく、読み手が主人公になれる瞬間がある文章を綴らなければ私のエネルギーは無駄になるだけなのだ。
ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~
自己の中の現象を書き表わそうとしたとき、その現象の瞬間、つまり「気づき」にフォーカスしたくなる。私の中でこれが起きたのだ、ということに力を入れて書きたくなってしまう。確かにそれを含むように書くのではあるが、その気づきというのは他人にとっては必ずしも意味のあるものにはならない。少なくとも本人ほどはそこに感動はしない。本人にとっても、本当はそれが単発で意味をなしているのではなく、そこに至る経緯がそこに意味を作り出しているからである。
自分語りに対して読み手が期待するのは、書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、案外「膝を抱えてぐだぐだといじけている」ようなことなのではないかと思う。気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。
ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~
無理して結論めいたものを書こうとしなくてよかったのにな、と思う記事がいくつもあるのだが、結論を捻り出さないとしてその記事はどういう位置づけになっただろうか。そう考えると、多分それは「近況報告」というものだったのだろう。「○○してみた結果、~と言えそうだ」とまでいかずに「○○してみた」で止めても良かった。
ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~
そもそも私が「自分はこうすることにしたんですよ」と書きたいのは、上述したように自分のやり方の有効性を示したいからではなく、ただ単に、こういう私がここにいて、こういうことをやっているんですよと言いたいからというだけである。こういうことを考えてこういうことを始めてみました、こういうことをやったらこういう学びを得たんです、それが言いたいだけなのである。そしてへえこういう人がいるんだなと思ってもらえたらそれで良いのである。別に私のやり方は他の人の役になんか立たなくていいし(役に立てばそれはそれで嬉しいけれど)、のらてつ流の何とかが広まってほしいとも思わない(広まったらそれはそれでまあ気分は良いのであろうが)。
ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~
文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。
やはりここまでの回で考えてきたように、私に書けるのは「自分が困っていること」の分析または「今自分はこうしている」という近況報告くらいなのだろう。
ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~
何かが不十分であった過去という経緯があり、何かを気づいたり獲得したりすることによって変化し、より良い状態に至ったという流れが文章の骨格となる。逆に言えば、そういう骨格が見出された時、そのことについて話さずにはいられなくなるとも言える。
現状について気づいたことがいくつかあります。
- 読み手が共感し得るポイントが明らかでない
- Before/Afterがはっきりしていない
- 読み手を引っ張ろうというメッセージ性が強すぎる
- 文章を書いている間自分自身に発見がない
むしろどうしてこれで書き続けられると思ったのか。「ブログの書き方ド下手問題」での内省はなんだったのか。頭を抱えてしまいますが、このズレが発生するのにも理由があります。別にこのシリーズ記事以外の単発記事には違和感はないのです。普段書くにあたっては、「ブログの書き方ド下手問題」での格闘はちゃんと活きています。
この「ノートテイキングアプリDIY体験記」というシリーズは私にとって、というかこのブログに於いて、かなり特殊な位置づけになってしまっています。冒頭で整理した動機でそれが明らかになっていますが、何かしらのメッセージを誰かに送ろうとしているものなのです。「プログラミングは自分を自由にするんですよ、あなたもどうですか」「プログラミングをする時は見切り発車でやっちゃっていいんですよ、あなたもえいやとやってみてください」、といった具合です。そもそも私はそういう風に書きたくないのだということを繰り返し記していたはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。
やはり根本には、「プログラミングの素人なのに、プログラミングについて書いて、何か意味があるのか」という疑問があります。本音としては意味があろうがなかろうが書かねば気が済まないから書くのですが、自分の良識がそれにいちゃもんをつけています。ちゃんと読み手が得するように書きなさいよと。さしあたっては、「自分もプログラミングしてみたい!」という気分にさせることを目指したらいいんじゃないかと。それに貢献しない記述は文章を冗長にするだけだから省きなさいよと。
なんだかおかしいことが起きている感じがバリバリします。今のところは書いていて全く楽しくないというわけではないのですが、楽しみきれていないと感じてはいます。一応の体を成した時点で終わりにしてしまうからです。そして普段の単発記事と違ってこのシリーズは体を成すのが大変なので(自分の良識の要望に応えようとしているために)、一応のラインに達した時点で「もう疲れたから投稿してしまって次に行きたい」という気分になっています。おかしい! 勝手に書いているブログなのに、恰も仕事でやらねばならないことを最低限クリアして片付けているかのようです。おかしいおかしい。
自分が目指すべき姿勢として「読み手が主人公になれる瞬間がある文章」を書く、ということを述べました。また、今しがた自分の良識からの文句として「ちゃんと読み手が得するように書きなさい」と表現しました。これらは似ていますが、しかしおそらくはかなり違っています。
基本に立ち返る必要があります。私にとっての基本、つまり文章を書く時の根本の目的とは、「自己の仔細な言語化を通じて他の誰かの内面の言語化に貢献する」ということです(ブログの書き方ド下手問題③~自分節を見つけ出す~)。対象は「自己」で貫くのが正解でしょう。しかし現時点では「プログラミング」「ツール作り」を対象にしているので混乱が生じるのです。プログラミングを対象にしてしまうから、語る資格があるとかないとかいうことを考えなくてはならなくなるのです。
いつもは「まさに自分と同じ状況にある人」とのシンクロを図って書いています。普遍的な話題なら、性質的に重なるところさえあれば職業も年齢も性別も趣味嗜好も関係なくシンクロの可能性はあるでしょう。しかし「プログラミングに悪戦苦闘している自分」のことを書くとすればシンクロする可能性のある範囲はかなり絞られてしまいます。似た性質であることに加え、更にプログラミングに挑戦してかつ悪戦苦闘している人、にしか共感が生まれないかもしれないからです。なので、文章を書く努力が無価値になることを恐れて、「まだ挑戦していない人」という、より広い範囲に向けて書こうという気持ちが生まれているわけです。
ですが……別にいいじゃないか、という気がしてきました。シンクロする範囲は狭くて結構。というのも、私より先に進んでいる人が「そうだったなあ」と思ってくれるかもしれませんし、この先挑戦し始めた人が「あれはこういうことだったのか」と後から納得してくれるかもしれません。読んだ時点で共感はなくてもよくて、「よくわからないけど、なんか意味のありそうなことを書いている気がする」くらいの感想を持ってもらえたら御の字というものです。
他の人が言ってくれることは私が頑張って言わなくてもいいわけで、私は私の時間と労力を、私からしか出てこないかもしれない何かを搾るために費やしたほうが良いはずです。
そういうわけで、記事の在り方をもっと「いつもの調子」に寄せる形に改めてやり直していきたいと思います。自己満足は自己満足として本気で徹底しなくては、読み手にとっても面白くなりませんよね。
用語集へのリンク
「使っていない」と書くと使うようになる
ずっと前から恒例のことなのだが、何かのツールについて「使っていない」と書くと間もなく使い始め、「使っている」と書くと使わなくなっていく。
なのでつい先日書いた ノートツール環境スナップショット(2023/09) の状況から既に変わりつつある。
具体的には、Dynalistをあまり使っていないと書いたのでDynalistが復活し、逆にNotionとOneNoteは開く頻度がやや低下している。(他のアプリケーションは状態を維持。)
Notionでやろうとしていたことの一部がDynalistに移動し、OneNoteでやろうとしていたことはTextManager(自作ツール)に移りつつある。
天の邪鬼?
自分はどうしても自分の決めたことと逆を行きたいらしい――というのはおそらく間違った解釈である。私はなんて天の邪鬼なんだ!とか思っていないで、何が起きているのかを淡々と見つめることにする。
自分の脳は別に「逆」をやりたいわけではないと思う。じゃあ何なのかと言うと、たぶん、単に新たな道を見出そうとしているだけなのだ。
「道を見出していない」と思うと、「いや、実は道はあるんじゃないか」と考え始める。逆に「道を見出した」と思うと、安心してそれを「済んだこと」にしてしまい、別のことを考え始めてしまうのである。
血流
自分が何に対してどの程度活発に思考を巡らすかというのを、私は日頃「血流」でたとえて考えている。放っておくと血流は滞っていくが、「使えていない」とか「考えたことがない」といった自覚を持つとそこに血が巡りだす。
すると、ついさっきまで何も思いついていなかったのに、急にアイデアが浮かんだりする。新しいアイデアというのはとても良いものに思えるので、じゃあ試してみようとなる。そうしてあっちにふらふら、こっちにふらふらということになっていく。
血流は常に全体に全力で巡らせられるわけではないので、どこかが活性化すればどこかが停滞する。新しい領域あるいは滞っていた領域にどわーっと流れ込む時、その直前まで血流が豊かだったところの流量が減じてしまう場合がある。血流を滞らせてはならないと感じている箇所は減らないが、瞬間的にわーっと活発になったようなところは引く時もあっという間である。
振り回される度合いの変化
この性質は困ったものだし、ずっと振り回され続けているのだが、しかし現在の状況については冒頭で丸括弧内に補足した「他のアプリケーションは状態を維持」の部分が重要だ。昔はメインで使っているツールごとあっちこっちにふらふらしていたから本当にその後が大変になったが、今は不動の領域があるので混乱は少なく済んでいる。
ツールのことも自分のことも全然わからなかった若かりし頃は、誰かが何か言ったり自分が何かに気づいたりする度にわーっと右に揺れ左に揺れを繰り返した。まあ多分、仕方のないことだったのだと思う。
今不動だと思っているものがいつふらっと揺れるかはわからないが、前よりは「揺れた後」のことを考えるようになったので、その意味でも安定はしてきているとは思う。
色々と悟ることによって、振れ幅が大勢に影響のない範囲に収まり、ただ新たな道の模索を楽しむ趣味として落ち着いていけばいいと思う。
流れで書けない時
自分は流れで書くタイプだ、ということを何度か書いている。
- アウトラインではなくキューを作る
- 脱「運頼み」の道のり(トンネルChannel)
- 飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ
しかしある話題についていつものように書こうとした時に、全然流れで書けない、流れが発生しない、ということに直面した。
どうやって文章を書いているのか
今月のお題、「どうやって文章を書いているのか」について私も改めて書いてみたいと思います。
文章を書くという工程を以下の三段階に分解して考えてみます。
- 対象の決定
- 本文の構築
- 推敲と投稿
対象の決定
何を書くかということはいつどうやって決めるのか。
私の場合、最初の一歩は大きく分けて二通り、「人の投稿を見る」と「ふと思って呟こうとする」のどちらかです。
誰かがSNSかブログに何かを書いているのを読んで、それに対して自分の反応を書こうと思うというのがひとつのパターンです。その場合、書く対象というのは他の誰かが生み出してくれているということになります。連想によって少しジャンプすることはありますが、大まかな方向性は見かけた話題によって決定づけられます。例えばこの記事は提示されたお題によって決まったものということになります。
自分で対象を生み出すこともあります。ふと頭に浮かんだことを、大抵はTwitterその他に投稿しようとして言葉にして、それが文章の元になるパターンです。厳密には他の人の何かに影響を受けているかもしれませんが、そういう自覚が薄いか、直接的な関係性を感じないほど飛躍しているかすれば、自分の感覚としては自分がふと思ったことということになります。
Twitterに実際に投稿したのを後から文章にすることもありますし、投稿せずに取っておいて文章化することもあります。かなり前に呟いたことをサルベージするということもあり得ます。
なお、何かがふと浮かぶ頻度というのはムラがあります。いくらでも湧いてくるような時期もあれば、探したって見つからないという時期もあります。
その差が何によって生じているのかは正直よくわからないので、自分をアクティブにする手立てみたいなものは残念ながら書くことができません。強いて言えば楽しい気分でいることだろうかと思っています。
本文の構築
本文の種類には、私の中ではこれまた大きく分けて二つのものがあります。先日書きましたが(脱「運頼み」の道のり)、「自分の言語化のための文章」と「人への伝達のための文章」です。なお自分のために書いたことが結果的に人に伝えるべきことになったという場合、それらは分かち難いものになりますが、その場合は書く過程としては前者にカテゴライズされます。
どう違うかと言えば、書き表すことが次の書き表すものを生むか、書き表すべきことをピックアップして整理しておいて書き表すか、ということになるでしょう。
これは個人差が大きく出そうなところだと想像しますが、自分が自分を知るという点に於いて有効な言語化というのは、私の場合文の形になっているものです。単語やフレーズを並べていくのではなく、きちんと句点が付くような文を綴っていく形です。そうやって書いた文は、次の言語化を生みます。それが繋がってひとまとまりの文章になっていきます。
一方で、既に知っているものを並べることで人に伝達するものを作る場合には、文の形にしておかなくても構想を練ることができます。キーワードを並べて構成するということが可能です。アウトライナーが活躍するケースです。ただしこのパターンの場合も、実際に文章化していくと、書いていく中で自分が自分を知る瞬間というのがあちこちに発生するので、必ずしも事前の想定通りの構成にはなりません。それは倉下さんやTak.さんが繰り返し書いたり述べたりしておられることでもあります。
全体の流れとしてはこのどちらかということになりますが、どちらの場合にしても文章化が常にすいすい進んでいくわけではありません。次が浮かばずに手が止まるということが当然あります。
この場合、次を捻り出そうと頑張りがちですが、しかし実のところ、「次に繋がらない道に一歩進んでしまった」ということがかなり多いです。なまじ文を作れてしまったのでもったいないのですが、それはあってはいけない文だったということがあるのです。そういう時はその文を削除します。
と言ってもバックスペースでばっさり消すというのではなく、没の欄に移動する(没とわかるようにする)という処理をします。今使っているツール(TextManagerと名付けた自作ツール)では、プログラミングのようにコメントアウトできるようにしていて、「// 」を頭に付けて「そこにあるけど(本文としては)ない」という状態にします。本文をコピーした時にコメントアウト部分は自動的に取り除かれるようになっています。
推敲と投稿
ここまでは基本的に、書くために使っている何かしらのツール上でやります。
一通り書き終えたら投稿先のエディタにコピペします。そのまま投稿ボタンを押せるつもりで文章をペーストしますが、実際にはそのエディタ上であちこち推敲することになります。
最初から最後まで何度か読み返し、リズムが悪いところや意味の通りにくいところを修正していきます。投稿先のレイアウトでプレビューするとそれまで気づかなかったことが見えてきたりします。
この段階で内容が大きく変わったということは今のところありませんが、表現は結構変わることがあります。
推敲は念入りにやる場合もありますし、簡単に済ませてしまうこともあります。
ざっとやるだけで終えてしまったものは後から読んだ時に読みにくいことがよくあります。なのでやはり入念にやるのが理想ですが、当然手間がかかることなので、実際どの程度労力を割くかは内容次第です。絶対に伝えたいようなことなら読みにくさがなくなるまで自分なりに頑張り、そこまででもない時は他のことに時間を費やすことを優先してさっと済ませています。
同じ時間推敲したとしても、推敲の出来自体もまたムラがあります。推敲力が下がっているタイミングだと、何度読んでもわかりにくさを自分では認識できなかったりします。日を置いて読み返して「何言ってるんだこいつは」と自分で思うことになります。
また、初稿を書いた時点の自分の状態がいまいちだと、推敲に苦労するような変な文章を自分で生み出してしまっていて、頑張ってもうまく推敲が進まないということにもなります。
推敲力の上下をコントロールすることは多分無理なので、無難な対処法は「必ず日を置く」ということだと思います。が、それより投稿したい気持ちが勝っていれば投稿してしまいます。
大した文章を書いているわけでもありませんが、自分の書き物について整理するならばこんな感じになります。
なぜか文章を書くのが楽になった
この頃、ブログ用の文章を書くのが楽になったなと感じている。
文体や内容の質が変わったわけではないと思うが、なんとなくすらすらと言葉が出てくる。事前にアウトラインを整理することもなく、大体いきなり書いて、自分としては「これでいい」と思える文章になっている。
書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う
ちょっと迷いが生まれた時に、自分が前に書いたことを読み返すと、「ああ、そうだよな、そうだった」と迷いを振り払ってくれることがある。
私はこのブログで自分の問題を解決しようとする記事をよく書いているので、その問題が再発したような時に読むと特効薬を得たような気分になる場合が結構よくある。
逆に言うと、一度解を得たにもかかわらず、ちょっとすればもう忘れているということでもある。
何かについて書いている時というのは、その対象についての知見という意味では、人生史上最高に天才的になっている時であると言っても良いかもしれない。もちろん自分比なので、他の人と比べての天才性ではない。あくまで自分の中で一番敏い瞬間だというだけである。
なぜそうなるかといえば、意識をそれに集中していられるからだ。内容によっては事前に入念な取材すらしている。書き終えてしまえばそんな風には意識を割いていられない。一瞬その対象についてのプロのようになっても、その瞬間が過ぎればもう素人である。研究者にとっての研究対象のように現在進行系であり続けているものなら話は別だが、記事を書いた時点で一区切りということになるとその範囲に於いては急速に素人化していく。
書いている時の自分は(自分比で)天才なので、それまでの自分は思いついていなかったこともすらすら思いつく。書いてみるとびっくりするほど滑らかに理屈が通ったりする。「そうだったのか」と思いながら書いているということがよくある。
それが正しいか誤っているかはここでは置いておく。正しいとか正しくないとかいう以前の問題がここにあるのだ。
当たり前のことだが、自分の信念というようなものは、繰り返し繰り返し同じ結論を導き出すから自分の中に形を持っていくものだろうと思う。事柄Aを見ても事柄Bを見ても同じことを思う時に自分にとってそれが確信になっていく。それが正しいか誤っているかはやはりここでは問わないものとする。とにかく、何度もそれを思うから自分の中に定着する、ということが今大事なことである。
ところが、天才な自分が何かを思いついた時、それが如何に筋が通ったものであっても、思ったのは「一回」なのである。厳密にはたった一回じゃないにしても、少なくとも繰り返し繰り返しということにはなっていない。今まで思いついていなかったのだから書く以前は零回で、書いた後に同じ結論に至る体験が重ねられなかったとしたら、結局書いた瞬間のたった一回に終わってしまう可能性は普通にある。
そうなると、その先覚えていられないのも当たり前である。理屈として尤もかどうかは定着とは関係がない。理屈として見事ならいつでも何度でも同じように導き出せるような気分になるが、そんなことはないのである。実際に繰り返し思うことでしか定着はしないと感じている。
書きながら自分が導き出した結論というのは、所謂偏見の類以外は自分の中に再現性がないと思ったほうがいいくらいかもしれない。偏見は自分の人生経験と密接に結びついているのでそう簡単には消えてくれないが、閃きは一度形にしてさえあっという間にどこかに飛んでいく。メモしただけでは忘れるのと同じで、きちんと手間をかけて文章にしたってそれだけではあっさり忘れてしまうのだ。
つまり、自分自身が繰り返し読み返すことで自分の書いた文章というのは完成されていくのだと思う。文章そのものは書き直さない限り変わらないが、その文章を書くという行為の周辺にあったことの、自分の人生に於ける意味が、読み返しによって豊かになっていく。
何かを書こうとしているその一瞬だけ自分は過去にないほど天才的になり、その天才性は書かれた文章によって保存されている。自分自身は瞬く間にポンコツになっていくけれども、文章さえ書けていれば、その時一瞬だけあった己の聡明さに後から頼ることができる。
それは非常に不思議で面白いことだと思う。たとえ向上心高く常に前進して総体としては賢くなり続けていても、一瞬の天才性がずっと維持されるわけではない。しかし形になっていれば失われっぱなしにならずに済む。
やはり何より自分のために、自分の思いは形にしておくべきだと思う。それを公開するか否かは別だが、公開しなくともきちんと格闘して言葉にするのが自分のためになるだろう。
チェックボックス依存症だった私
こちらの投稿に関連しての考え事です。
こちらを読んでぼーっと考えている時にふと思い至りましたが、そういえば少し前まで「チェックボックスを用意して、チェックしていく」ということに妙に囚われていたような気がします。
一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。当時からそのように言語化できていたわけではありませんが、今思うとそんな感じです。
仕事ではないことにまで点検項目を用意して、それに「よし」「よし」「よーし」とやっていかないと自分の一日に納得できないという心境です。そして、「よし」「よし」「よーし」とはいかないので、いつも納得できていませんでした。しかし納得しようがしまいが日々は過ぎていき、納得できない日々が延々と続いても私は今日も生きています。
(正確な文脈をわかっておらず)「get it done」と聞いて私はGTDをパッと連想しました。GTDという概念を認識したのは結構後のことで、Evernoteを知ったよりも後なくらいなのですが(ビジネス書の類を読むのは好きな方なのに、全然接触しなかったのです)、そんな私でもGet Things Done的な感覚はいつの間にやら刻み込まれていたようです。
多分私の場合は、バレットジャーナルの影響が大きかったのだと思います。バレットジャーナルという手法が私にそういう価値観を植え付けようとしてきたわけではないのですが、単純にあの「バレット」感に憧れを覚えて、イケてる感じの手帳像を思い描いた時に、そういう生活が手帳に綴られていくのがきっと良いのだろうと思ったところはあると思います。
あるいは「タスク管理ツールが流行っている」という状況もその傾向を後押ししたでしょう。チェックマークをモチーフにしたアイコンのアプリがたくさん並んでいたりするわけです。チェックを見ると何かをチェックしたくなります(私だけかもしれません)。
まあおそらく、倉下さんがご指摘になっている「get it done」というパラダイムの力で、どこを向いてもそういう気分を惹起させられる世界になっているのだと思います。
そういう仕事術的なものに関心を持つ前の若かりし頃、精神的によろしくない状態が続いていたのですが、今思い返してみると、チェックボックスを使うことがなくとも「その日必要なことはやったはず」と頭の中で思えていれば、一応その日の自分の生活に対して不満を抱くことはありませんでした。自分のメンタルのよろしくなさはそこじゃないところに起因していたからです。
しかし、精神的に不調であったせいでやるべきことができなくなってきた時に、私は仕事能力のなさを解決する術を探すことに道を見出してしまいました。仕事術の本や雑誌を色々読んで、色々なことを知りました。それらは私に希望を与えてくれましたし、何より楽しかったのですが、気づかぬ間にちょっとした洗脳を自分に施してしまったような気もします。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。
もちろんちゃんと生きていくために、やるべきことをリストアップしてそれを遂行していくというのは当たり前に必要ですが、自分は駄目じゃないと思いたいがためにリストを膨らませてもしょうがないのであって、目的の曖昧な「やり終えた」の数稼ぎは自分の人生に何も貢献しないように思います。
人生および生活(仕事のプロジェクトも含む)は有機的で流動的で、その「状態」を可視化するのが難しいので、成果を人に具体的に報告できるようにしたいのもあって自分のアクションがわかりやすくなるような形式を認識の形として採用したくなる気がします。特に、脳内の主語が「わたし」になっているとそうです。しかし世の中の素敵なことは、主語を己以外の何かにして全力を注ぐ中に生まれているのではないか。
私は子育ての経験がないので想像になりますが、もし子どもが生まれて必死に育児に励まなければならなくなったとしたら、今日子どもに対して何をしたかのリストを自分が作りたがるとは思えません。自分が何をやったかより、今日子どもが無事に生きられたかが重要で、それが達成されればそれで良いからです。主語は「わが子」です。忙しすぎて大事なことを忘れる可能性があるからという切実さによってリストは正しく活躍すると思いますが、それはもう自分の精神の傷に当てる絆創膏ではないはずです。
自分語りが長くなりました。
何かをやり終えたとしても、それが望ましい結果につながっていないということはぜんぜんあるわけです。
要は、結果が伴わないにもかかわらず「やり終えたがる」ということの原因を、自分の中に探してみたということになると思います。
日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。
NTA-DIY:なんでこれを書いているのか考え直す
自分のシリーズ記事について自問自答してもいいだろう、そしてそれを記事にしてしまってもいいだろう、と思ってちょっと書くことにします。
一般的に見てこの種の自問自答は他人にはあまり面白くないものと思いますが、まあ、自分のために書くものなので私が助かれば良いのです。
さて、このシリーズはノートテイキングアプリケーションのDIY(NTA-DIY)体験記として書いているわけですが、本当のところ何がしたくて書いているのか、というのが微妙に曖昧だったなと感じています。
無目的に書いているというよりは、自分の中に動機があるはずだがその動機を自分で正しく捕まえられていない、という状態でした。やりたいことがあって書いているのは確かなのに、それをピンポイントで押さえられていなかったのです。
まえがき(NTA-DIY:まえがき)を今読み返してもなんとなく漠然としています。学びを書き残したいという気持ちは強くありましたが、その学びとは何なのかははっきりしていませんでした。
プログラミングの力がほぼゼロだった状態から前に進んでいって今に至るその過程を言語化したい、というところまでは明確なのですが、あったことをただ並べているだけでそれが「伝わる」状態になるかというと、どうも違う感じがします。
食っていけるような技術を得たわけでもないのに、プログラミングで食っている人がそこらじゅうにいる中でわざわざ体験を書く意味とは何なのか。
食うためでないプログラミング
まず「食うためではないプログラミング」の意義について考えたいということがあります。
今の人々の様子からすると、プログラミングで食っているプログラマー、本職は別にあるけど自作ツールを公開するくらいのことはしているサンデープログラマー、全くプログラミングをしない人、のいずれかに分かれているように思われます。つまり、「ちょっとプログラムを書く」という層が見当たらないのです。
もちろん、そういうライトな層は発信できることが乏しいのでわざわざ発信しない場合が多いでしょうし、発信してもスキルの劣る素人の文章は話題に上りにくいという事情もあるでしょう。しかし体感として、実際に「ちょっとプログラムを書く」という層は薄いだろうと思っています。積極的にプログラミングの話をしている人以外の人々は、全然やらない、全くわからない、ということがほとんどのように見えます。
食うためではないプログラミングをするということはつまり、プログラミングの勉強がそのまま稼ぎに繋がるわけではないということですから、プログラミングの勉強に手間がかかることと天秤にかけてもなおプラスになるイメージは持ちにくい、ということはあると思います。私もそう感じていた面があったので、ずっと手を付けないできました。プログラミングを覚えたところで、それで何をするのよ、という疑問があったわけです。
プログラミングに無縁だった当時の自分に、今の自分が如何に自由かを伝えたい。そのために、食うためではないプログラミングにどういう意義があるのかを言葉にする必要があります。実際には過去の自分には伝えようがないので、自分と似た人間の誰か一人にでも届けばいいなという思いです。
情熱の記録
そのように「プログラミングと無縁な自分」と「プログラミングをちょっとだけできる自分」のビフォーアフターを表現したいというのは動機として大きな要素なのですが、しかしそれだけではありません。それだけなら具体的に時系列を追って自分の体験を書き記す必要はあまりないでしょうし、直接心に訴えるような文章を目指して書いたほうが早いように思えます。
わざわざ細かく書いているのは、読み手に何事かを伝えたいということとは別に、自分のために書く必要を感じているからです。
自分が生きた証をこの世に残したい、ということにはさして興味がないのですが、自分で振り返って「いろいろ考えていろいろやったはずだけど、なんだったかなあ」と思う羽目になることには非常に大きな恐怖を感じています。自分の人生がどこかに飛んでいってしまったように感じるからです。全てを記録しておかねばということではないのですが、いっときでも情熱を傾けていたはずのことは、そのまま飛んでいってしまっては困ります。困る割に記憶力が弱くて全然定着せずにすぐ飛んでいってしまうので、どうにか残しておかなくてはなりません。
書き残すにあたって、普通はそういう時こそ日記の出番かと思いますが、日記を「後から読み返して楽しいくらいの記述」程度にしっかりしたレベルで継続するのが私には困難なので、自分以外の読み手の存在を借りる必要があります。人が読むと思うとちゃんと書かなければなりませんし、またそう思えさえすればするすると言葉が生まれていくのです。
励ましというよりは
ここまでは、前々から考えていたことでした。ですがこの二点はどうも噛み合っていません。今書いてきたように、それぞれ別の動機であって、そのままではうまく絡み合わないのだろうと思います。
それゆえに、「書けるのはこんなもんだけど、これでいいんだろか」という気持ちがいつもつきまとっていました。自分に書けることのレベルは決まっていますし身の丈に合ったものを書くしかありませんが、読み手に手渡そうとしているものが曖昧なのはよろしくありません。
噛み合わせるにはどうしたらいいかと考えて動機を整理した時、上述の二点がまず浮かんだわけですが、「異なる二つの動機が離れたところにあるからうまくいかないのだ」という結論ですんなり納得できたわけではありません。というのも、それとはまた別に何かあって記事を書こうとしているはずだ、という気持ちがあったからです。鎹(かすがい)となる何かがあるに違いないのに自分でそれを捕まえられていないことが問題なのではないかと思いました。では、それは何か。
これまでの記事をお読みいただいている方はご存知と思いますが、初心者初心者と言う割に、いきなり「ツール」と呼べそうなものを作ってきました。コードはぐちゃぐちゃでへんてこですが、それなりの機能は備えているものです。プログラミングが既にわかる人からすれば大した処理ではないことは明らかなものですが、全くやったことがない人から見ると「えっ、すごい」と感じる可能性もあるのではと想像します。
その意識の乖離を埋めたいという思いがまずあります。ただ、これまで伝えようとして何か違うなと感じていたところでもあるのですが、「ちょっとできるようになればこんなにも自由になるんですよ」というメッセージが自分の本当の思いなのかというと、どうも少しズレているような気がします。
なぜかといえば、私がツールを作るにあたって用いているものは、「ちょっとしたプログラミングのスキル」だけではないからです。なので私と同じ程度のスキルを身につけてもらったとして、それによってすぐツールを作れることを保証することはできません。「JavaScriptの勉強をたった一週間やるだけでこんなこともできるんですよ」という話をするとすれば、それはちょっと詐欺臭い感じがします。
できるとかできないとか、そういう観点での励ましをしたいわけではないのかもしれません。励ましになればそれはそれで大変嬉しいのですが、「あなたもできるよ!」という話をしたいというよりは、「既存のツールにもやもやしているくらいなら自分で作ったほうがいいのかも」という気持ちを後押ししたいと感じています。
自分にできることは「選ぶ」だけではない
立派なプログラマーが作った立派なアプリケーションが多様になるにつれ、「その中から選ぶ」ということがますます当たり前になっています。色々なものがあるので、その中のどれかひとつくらいは自分に合うような気がしてしまいます。今はまだなくても、待っていれば誰かが自分にぴったり合うものを作ってくれそうな気もします。親切で気の利いた開発者が世の中にたくさん存在しているのを知っていながら、敢えて手間をかけて自作する、なんていうことはもう考えにくいのではないでしょうか。会社で使うアプリケーションが定められていれば尚の事です。
しかし、これまでの実感からして、本当に待っていれば自分にぴったりのアプリケーションを誰かが作ってくれるかというと、正直に言ってそれは望み薄だろうと感じています。ビジネスとして成り立つためには、リリースするアプリケーションは汎用的なものにならざるを得ず、個々人の痒いところに手を届かせるには限界があります。今は有志がプラグインを開発してそれを拝借するという形が当たり前になりつつありますが、どれだけ多様性が増していっても、自分が欲しい機能を必ず誰かが作ってくれるわけではありません。どうしたって、「これがあればなあ」「この機能のここがこうなっていればなあ」というちょっとした不満を抱えながら我慢して使わざるを得ないのです。(奇跡的に自分の要望を完璧に満たしてもらえることもあり得るにはあり得ます。)
そうなった時に、「自分にはどうせ作れないし」と悄気げるのではなく、「やってやろうじゃねえか、ええ?」と思っていいのだぞ、ということが私の言いたいことの核にあるような気がしてきました。例えばアウトライナーがほしいと思ったら、まだそんなスキルはなくても、作ろうと思っていいわけです。作ろうと思えばいずれ作れます。「どうせ」とか言っている場合ではありません。作るったら作るのです。
(念の為言い添えると、何も「不満を言ってないで自分で作れ」と迫っているわけではありません。作るも作らないも自由なのであって、作るためのコストが収支としてマイナスになるなら挑まない方が賢明ですし、自力で作らないでいるのは悪だとかいうことではないです。)
いきなり作れ
で、自分で作ってやろうとなった時に、「まずJavaScriptの知識を一通りインストールして…」と座学を決め込む必要はありません。もちろん基本的な文法については学ばなければ何もできませんが、解説書の最初から最後までまず読み通してから、などと考え始めると自由を得るまでが遠すぎます。そもそもそんな簡単に「一通り」勉強できるようなものではないので、如何に早く見切り発車してしまうかが大事だと個人的には思います。何事も子どもの習得が早いのは、全貌なんか気にせず知識を得次第に行動するからでしょう。
また、初心者のうちに「他の人のコードを参考にしよう」とは考えないほうが良いです。工夫が凝らされた実践的なコードというのは初学者には到底読めません。積み木遊びしかできないのにタワーマンションの図面を解読しようとするようなものです。頑張っても「全然わからない」という気持ちに覆われるだけでしょう。読んでないで作るのです。おみくじを作る、じゃんけんを作る、トランプゲームを作る、メモアプリを作る、タスク管理ツールを作る、やれることは色々あります。どんどん作るのです。
そして「じゃあこんなこともできるのかな?」と何か思いつけば、もうそこに「これまでこの世に存在しなかったツール」が誕生するのです。それを作れる人は無限にいますが、誰も作らなかったからこの世に存在していなかったツールを、他ならぬ自分の手で作り出したことになります。別にそれは世界初のひらめきというわけではないでしょうが(それはそう)、少なくとも自分の視界を作っている世界の中では見当たらなかったものを自分で作り出せたなら、それは結構嬉しいことで、そして結構すごいことです。
というようなことを、私は記事を通して伝えたいのだと思います。
行きあたりばったりな紀行文を目指す
誰かの旅の話を聞くとします。事前に綿密な計画を立て入念に準備を整えて決行に至った旅の話も興味深いですが、行きあたりばったりで(あるいは想像とあまりに違っていたために)全てが偶然の出会いとして語られるような旅の話はわくわくします。冒険譚のような感じがするからでしょう。
実際の旅を行きあたりばったりにやるのはリスクが高すぎるのでそうそう真似できませんが、もっと身近なことを十分な予備知識なしにやってみることはできます。例えばオモコロの「やってみた」系の記事は、たまにシェアされてきたのを読んでみるといつも楽しさと驚きに満ちています(昔のニコ動もそういうのが面白かった)。いずれも本気でやっているので準備は入念になさっていることが多いですが、予備知識があるはずもないものに挑むわけなので、やっている本人が一番びっくり、みたいなことがたくさんあります。
何かしら「やってみたらこうなった」という要素があり、そこに何らかの面白みが伴っているとわくわく感が生まれるだろうと思います。実際、自分がプログラムを書いている時というのは、(サンデープログラマーはきっとみんなそうですが、)ふと思いついたことを試しにやってみてその結果に感動したり心躍らせたりしているわけです。その気分を共有しなくては書いた甲斐がありません。オモコロのような高度な愉快さを提供できるわけではありませんが、兎にも角にも目指してみなくては話は始まらないでしょう。
現状は「記録」あるいは「説明」といった様相なので、もう少し切り口を工夫した方が良いのかもしれません。とはいえ説明的に伝えなくてはならない要素が多いので、切り口を変えて改めて語り直すということもあり得ると思います。もしくは、説明的な部分を註にするのもありかもしれません。ブログを書いていて註をつけたことがなかったので今の今まで思いついていませんでしたが、文脈から外れる要素はそうやって話の外で補えばスッキリさせられそうです。
やっているうちにだんだん雰囲気が変わってくるとか、同じ話を繰り返したいだけ繰り返すとか、そういうのを防いでしまう必要はないわけですから、しっくり来る表現を探しながらふらふら書き進んでいきたいと思います。