Noratetsu Lab

動じないために。

2019年10月

2019/10/11

現代文で読解力を身につけられなかった話

 今はこうして文を綴って人が見る場に投稿しようとするくらい、文章を書くことが好きです。読むことにしても、活字中毒ではないですが文を理解することに不自由を感じることはあまりないように思います。
 しかし中学や高校の間はそうではありませんでした。というか、現代文という授業で自分は何を学んでいるのか全くわからなかったのです。


 わからないというのが今となってはわからないのですが、当時はずっと現代文の授業というものに対してふわふわしていて、何かを掴むこともないままなんとなく学校を卒業してしまいました。とりわけ評論の勉強がさっぱりで、その後普通に読めるようになってから振り返ると、授業によって獲得したことはひとつもなかった気すらします。相当なコマ数あったはずなのに! もったいない!

 当時の私に何が起きていたのか、そしてそれがどういう事態を引き起こしたのか、振り返って考えてみたいと思います。
 以下は私の経験の話なので、そういう習い方じゃなかったよという人もいるかもしれません。

①小手先のテクニックが邪魔

 現代文の授業や試験対策では、色々なテクニックを教わりました。例えば、

  • 「第一に〜」「もうひとつは~」等は丸で囲め!
  • 「〜のだ」「~なのである」の前が筆者の主張!

 という感じ。これが役に立ったかというと、正直なところ役立った記憶はありません。試験に対しても役立てられませんでしたし、その後の生活に於いては尚更です。
 いや、普通に考えて世の大人はそんな読み方をしていませんよね。
 だいたい、書く側にそういうルールが徹底されてなどいないので、そのような小手先のテクニックを覚えたところで、まあちょっとしたヒントにはならなくもないかもしれませんが、実用的に有効に使えるとは思えません。
 まあ知らないよりは知っている方が得だろう、何であれ無いよりは有ったほうがいいのだ、と思われる気がしますが、個人的には他人の文章について「テクニックで読むもの」という軽薄な意識があるのは後々邪魔になったので、教わって良かったかどうかは微妙なところです。
 もちろん、先生たちは生徒に入試で少しでも良い点を取ってもらいたい、一人でも多く志望通りの学校に合格してもらいたい、という善意と熱意と使命感で知りうることを全部教えてくれようとしていたのだと思うので、先生たちやカリキュラムが悪いと言いたいのではありません。うまく活用できた生徒もたくさんいるのでしょう。
 ただ、私とは相性が悪かった……というか、そうやってテクニックを教えてもらっていい段階に、私は達していなかったのだと思います。

②要約とは「枝葉を削ぎ落とすこと」という思い込み

 現代文の授業では要約がつきものですよね。評論というのは基本的には核となる主張があって、それに説得力を持たせるために根拠となるものを並べて論理立てて文章が構成されていますから、何が核であるかを掴むのは大事です。読解力を高めるにあたり要約を試みることが重要なのは言うまでもないことです。
 しかし。その要約をするために、こういう言い方をどこかでされた記憶があります。「枝葉末節を削ぎ落とし、根幹となっているものを書き出しなさい」と。はあ、枝葉末節。枝葉末節という言葉を手元の辞書で引くと、「主要でないこと。重要でないこと。」とあります。まあ確かに、核の主張を直接表していない文や、主張を補強する役割でしかない文は、「主要でない」部分でしょう。要約ということをするにあたっては、そこに含めるべき要素ではないかもしれません。でも、単に「要約には入れなくていい」というだけで、その一文が無駄なものなわけではないですよね? 必要ない文ってありますか? 何らの必要もないなら作者は書きませんよね。無駄だらけの稚拙な悪文なら、そもそも授業の教材や問題文として採用されないはずです。
 いえ、先生たちの言いたかったことはわかります。主張の補強でしかない部分を主張の核だと勘違いしていては文章を読解することができませんから。ちゃんと重要な部分を見抜いて、その文章全体が一体何のためにあるのか察知できるようにならないと、実質的に文盲と同じです。子どもたちがそうなっては困ります。(そうなってしまっている人は年代問わず結構いるように思いますが。別に若者に限った話ではありません。)
 しかしながら、そもそも評論的な文章というのは、「根幹+枝葉末節」という構造ではないように思われます。ピラミッド状の頂点に著者の主張の核があったとして、それを下から支えるように論拠が並んでいるはずです。そしてその論拠を支えるためにまた条件とか補足とか例示とかが並んでいます。論理としての正しさを保証する他にも、比喩や言い換えなど、文意を理解をしてもらうために必要な文もあります。それはそこに無くても論理自体の強度は変わりませんが、無いと読み手に理解される確率が下がり、文章の価値が減る可能性があります。価値が減るという言い方はちょっと適切ではないでしょうか。ともかく文章は読んで理解されなくてはあまり意味がありません。
 要は、文章全体、本全体の一文一文全てによって、著者の主張というのは支えられていると思うのです。良い文章は一文も無駄なく何らかの役割を負って存在しています。「削ぎ落としても構わない枝葉末節」が、教科書にも採用されるような質の高い文章に存在しているとは思えません。そのような軽率な言い回しが国語という教科の授業の中で出てくると、国語教育とは……という気持ちになってしまいます。著者や文章に対する敬意を全く感じられません。「まあ、要するにこうだよね」というような不遜な態度は著者の意図を正確に読み取ることの妨げになってしまいます。
 一方で、もっと要約のしやすい文章というものがあります。それは例えば新聞の記事です。著者の気持ちや主張などが入っていない新聞記事は、シンプルに情報としての重要度で内容を段階に分けることができます。従って、字数が何文字与えられているかで、要約に含められる情報の範囲が変わります。
 そのような要約にしても、記事に書かれている情報はすべて誰かにとっては重要な情報になり得るから書かれているのであって、枝葉末節という言い方を安易にするものではないと思いますし、**「枝葉を削ぎ落とす」のではなくて「核に焦点を当てる」**のが大事だと思うのです。

③問いを解くために読むという非現実性

 テクニックや要約で問題が生じるのは、結局のところ、中学や高校の国語の学習というのが「問いを解く」という形式になっているからではないかと思います。取り上げられる文章は「問いによって解かれるもの」として生徒の前に現れます(今はわかりませんが私の時はそうでした。)
 現実問題として、問いを与えて解かせないと生徒の状態を数値的に判定できなくて成績をつけられないので、学校という組織で成績によって生徒に評定というシールを張らなければならない以上は、この形式は仕方のないことなのかもしれません。実際の読解力を確認したいのなら、本を読ませてその本について対話すれば簡単にわかることですが、それで先生が感じ取った読解力というのはあくまで先生の主観になってしまいますから、公正に成績をつけられる保証がないので難しい問題です。いちいち一人ひとりと対話している時間などないという制約もあります。
 でも、大人になってから評論的なものも含めて様々な文献を読むようになって、それらの文章を「問いを解くもの」として読むことはなくなりました。問題文が添えられていないので当たり前です。代わりに、自分の問題意識や関心を元に、それを解決したり膨らませたりするという目的を持って読むようになりました。
 中学や高校では学校からひたすら文章を寄越されて読む状態なので、別に読みたいと思ってないですし、文章の主題に対して問題意識も関心もないことが多々あります。なので授業では、文章を読み、先生に文意を噛み砕いてもらい、その内容に対して興味を持つように促され、その上で問題を解き、最後に要約してみる、というような流れになっていたように思います。その授業での流れが、実際に文章を読むという行為とは随分乖離しているように感じました。(総合学習の時間によって「問題意識を持つ」ということは訓練されるようになっていますが、そこで教えられていることと現代文を直結させるのは生徒には少し難しい気が当時はしました。)
 そもそも、「問いを解く」というのはどういう行為なのでしょう。前提として、正解を判定できる問いは「いつ、誰が読んでも同じ答えになる」ものですよね。ですが文章というのは読む側の状態や価値観によって意義や価値が変わってくるものですから、「問いを解く」という行いは内容を吸収して糧にするということとは別の次元にあるように思います。じゃあ何のためかといえば、読解力の基礎として「一意的に決まるものを確実に読み取る」という力を鍛えているのではないかと思います。内容を吸収する以前のことです。文盲にならないための基礎の基礎ですね。それは大事です。
 でもここでひとつ、それを習得できているという感覚のために決定的に欠けていることがあるのですが、それはその文章を読み取った結果、何か具体的な問題を解決できたという実感がないことです。大人になってからの「読む」行為がすいすい進んでいくのは、自分が抱えている問題が解決されるからではないでしょうか。困ったことがあって、その解決策を知りたくて、読んだら解決したのでハッピー! という実感があるので文章を読む行為が有意義なものになっています。あるいは、知識や発想が足りないなあという意識があって、それを広げる術を知りたくて、読んだら見識が広がったのでハッピー! という実感。前者はメカニズムやノウハウを書いた文章、後者は評論やエッセイなどが主です。大人になっても文章がうまく読めないのは、自分が何に困っているのか、自分に何が必要なのかを自覚できないからで、そのことを現代文の授業では教えてもらえないような気がします。そこがないから実質文盲の状態から抜け出せないような。
 真剣に読むということのモチベーションを考えてみても、誤読しては自分が損するから誤読しないように一生懸命になって読むのではないでしょうか? 文章を誤読したところで、現代文の評価が下がるだけで今の生活には何の影響もないとなれば、神経を注いで疲労してまで頑張って読む意義など感じられない気がします。

④私に欠けていたこと

 色々と書いてきましたが、主題は現代文の授業の批判ではありません。現代文の授業とは何であって、そこには何が有って何が無くて、何を自力で獲得しなければならなかったか、そのことを生徒であった頃の私がわかっていなかったことに問題があったという話です。もしかしたら、先生たちがちゃんと教えてくれたことを、私の考え方が未熟だったせいで右から左に聞き流してしまっただけかもしれませんから。

 さて、文章を読むという行為や現代文の授業に関わる要素を、思いつく範囲でちょっと並べてみようと思います。

国語の先生たちがやりたかったこと

  • 誤読しない読解力を身につけさせること
  • 入試を突破する力をつけさせること

当時の私の意識にあったこと

  • 入試を突破すること
  • 国語以外も合わせた全体の成績を上げること(現代文は相対的に優先順位が低かった)

文章を積極的に読む動機となること

  • 自分が解決したい問題を解決すること
  • 自分が獲得したい知識・発想・感受性を獲得すること

文章を「読める」ようになる条件

  • 文章を通して何かを得ようという目的意識
  • 誤読するわけにいかないという切実さ

私に欠けていたこと

  • 目的意識と切実さ
  • 文章やその著者に対する敬意

 並べてみると、これで文章が読めるようになるわけがない、という気がしてきました。読めるようにならないし、読みたいとも思わないのは当然です。
 ちなみに、ゲームの攻略本なら普通に文章で書いてあっても読めました。パソコンの取扱説明書なども同様です。必要があって読むものだから読めたのでしょうし、単純に誤解なく読む力ならもう身についてもいたのでしょう。というかそれができなければあらゆる教科の教科書も読めないので、普通に学校に行っていたらその程度の読解力はあって当然とも言えます。
 それ以上の読解力が必要だから現代文という授業が中学・高校とあるはずですが、それ以上のものの読解には単に能力としての読解力より目的意識と切実さが必要なのであって、私はそれを授業ではいまいち得られずに終わってしまいました。得られた人は素晴らしいと思います。
 そういうことは本来現代文の領域ではなく、人間社会で生き延びるための能力として学校の外で親などから教わるようなことである気もしますし、総合学習の指導も年々レベルアップしているのでそちらでしっかり補われるようになっているかもしれません。

 兎にも角にも、現代文の授業がいったい何時間あったのかわかりませんが、自分の認識のズレによってその時間を有意義に過ごせなかったことが残念です。その後に読解力が身についたことは幸運でした。
 同じように大人になってから読み書きが得意になった人が、「昔は国語の成績悪かったんだよなー」と言いながら朗らかに笑っているのを時折見かけますが、そのことについてはちゃんと考えなくてはならないような気がします。

 ひとつ言えるのは、「学校の現代文がピンとこなくても国語力がないとは限らないぞ!」ということです!

(※この記事は一度noteに投稿したものの下書きに戻したものです。)

2019/10/08

変わる?変わらない?更新する?――ツール選びに迷わないために

 先日、Notionから学んだこととしてデータベースの五形態について書きました。

 更に、ここに「まだ変わる可能性がある」のか、「もう変わることはない」のか、という区別をしていますというのが今回の内容です(複雑になるので今回はデータベースの形態と絡めた話はしません)


 なぜその区別をしなくてはならなかったかというと、書き込むツールとして適切なものが変わってしまうからです。そして以前まではそこの区別が曖昧で、だいたい内容の種類だけでツールを決めようとしたので「なんかしっくりこない」ということを繰り返すことになりました。
 例えばスケジュールにしても、「もう決まっている日程」と「まだ変わるかもしれないorまだ決まってない日程」とは書き方が変わりますよね。アナログだと、決まったことはペンでびしっと書けますが、まだ決まってないとか仮押さえでしかないとかいうときはシャーペンやフリクションボール、あるいは付箋を使ったりすることになります。更に「このあたりでこれをやっておきたいなー」みたいな自分の中での計画は、他の動かないスケジュールに混ぜると全体の視認性が悪くなってしまいます。
 ToDoも、完了するまでは「工程や日程が変わる可能性がある」情報として柔軟性のあるツールなどで管理しますが、完了すれば過去のことになるので「もう変わらない」情報として日誌に記録したりすることになります。タスク管理アプリなどでは済んだToDoをそのまま情報としてアーカイブして必要な時に探すこともできますが、そういう考え方が向かない人や、他の人にログを見せなければならない人は別途記録としてまとめ直すことになりますよね。
 単純な話、書き直せないツールでは「まだ変わる可能性がある情報」は処理しにくいですし、逆に簡単に書き直せてしまうツールで「もう変わることがない情報」をストックするのは人によってはしっくりこないということにもなります。これからのことと済んだことが混在するのも望ましくありません。

 具体的に「まだ変わる可能性がある情報」とは何かと言うと、ToDo未定の日程ふとした考えアイデア、といったものです。
 一方で、「もう変わることがない情報」は、やり終えたこと決定した日程見聞きしたもの学んだ教養、などです。
 更に、「更新する可能性がある情報」もあります。これは「対象は決まっている」が、「内容は変わる・増える」かもしれない情報です。つまり二種類が一体になっている形態のもの。調べ物マニュアル読書メモ何かへの感想分析や考察、などがそういった形です。考え事やアイデアも内容によってはこちら。
 ツールを適切に選択するために、私は情報をこれら2+1種類に分けて捉えることにしました。

 それではそれらをどう使い分けていけばよいでしょう。場所自体を変えたり、ひとつの場所の中で工夫したり、色々と区別の仕方があると思われます。例えば、

方法① デジタルとアナログ併用
 変わらない→ノートや手帳
 変わりうる→アプリやwebツール

方法② ノートの使い分け
 変わらない→綴じてあるノート
 変わりうる→メモ紙・ルーズリーフ

方法③ バレットジャーナル式
 変わらない→マンスリーページやFutureLog
 変わりうる→デイリー部分の箇条書き

方法④ 付箋の活用
 変わらない→ノートや手帳の紙面に直接記入
 変わりうる→付箋に記入して貼付

方法⑤ webツールの使い分け(一例)
 変わらない→Evernote
 変わりうる→Scrapbox、Dynalist

 といった形。私はこれらの組み合わせと応用で情報を管理しています。
 具体的にどうしているかというのは、やっている分には手間でもなく自然なのですが列挙すると膨大な数で複雑な仕組みであるかのように見えてしまうので、一部だけ触れようと思います。

ToDo

 ToDoについては、やり終える前が「変わる可能性がある情報」、やり終えた後が「もう変わることがない情報」となります。
 タスク管理アプリを色々試しましたが、個人的に紙に書いたほうが良かったのでアナログ管理です。管理の流れはGTDというタスク管理法を元にしています。
 B7サイズのメモ用紙を使っていますが、使い方は複数あります。
 ①洗い出し
 ②今週やること
 ③今日やること
 ④○○なときにやること

 まず①の洗い出しは、GTDで言うところのinboxの役割です。いつやるかは置いておいてとにかく「あ、あれやらなきゃ」「これいつかやっとこ」と思ったものを書き出していきます。そして定期的にそれを②以下に振り分けます。
 ②の今週やることリストは、メモ用紙に一週間の日付を振ったり枠を作ったりして(形式は気分により)、必ずこの日にやらなきゃいけないということを書いています。最初は手帳に書いていましたが、手帳でタスク管理をするということ自体が合わなかったのでメモ用紙に変えました。
 ③の今日やることリストは、①②を踏まえてその日やることをメモ用紙に列挙していくものです。複雑な工程があるものは紙を分けて細かく書き出します。
 ④の**○○なときにやることリストは、例えば「5分でやれること」「連絡が来たらやること」「外でもできること」「帰ったら家でやること」「ホームセンターで買うもの」みたいな、場所や時間などの状況ごとに作るリストです。
 ②~④に振り分けられない、いつでもいいようなToDoは「いつかやる/いずれやる」というリストをノートに作って溜めておきます。
 そして
やり終えたことは日誌用の大学ノートに1行1件で書き込みます**。バレットジャーナルで言うKeyのような記号を自分で設定し、またキーワードをマーカーや色鉛筆で強調して、どんな種類の記述かひと目でわかるようにしています。時刻や時間帯も記録します。ちなみにこのノートには、完了タスク以外にも食事の記録や目に留まったことなど生活における「もう変わることがない情報」を書き込んでいるので、どんな日だったかひと目でわかるようになっています。
 更に、「いつやったか」を後から知る必要があるものはマンスリーカレンダーに書いておきます。連絡のログや、定期的な実行や交換が必要なものなど。
 用が済んだメモ用紙は一応全部取っておいていますが、見返す必要に迫られたことはないので、そのうちそのまま処分すると思います。マニュアル化すべきものは分けて別のノートに書き写したり貼りつけたりします。

スケジュール

 ウィークリーの欄までは要らないタイプの生活をしているので、大学ノートに月間ページを自作しています。適当に架空の予定で作った例がこちら。

画像

 自分の今後の行動を左右する予定・日程類は全部ここに書いています。まだ決まっていないことは付箋に書いて貼っておきます。
 ToDoの項で書いた通り、毎週「今週やることリスト」を作るので、この日程表では予定が時系列順に並んでいなくても支障ありません(私の生活スタイルでは)
 そしてここには「やったこと」の類は書きません。これとは別に、上記で触れたマンスリーカレンダーのページを作り、ログの類はそちらに書きます。

読書メモ

 読書まわりは、読了リストが「もう変わらない情報」、読んだ感想や関連する情報のメモが「変わる可能性がある情報(更新する情報)」です。
 読了リストはルーズリーフに書いています。前は読了日に出版社に出版年にと書けるものを全部書こうとしていましたが、ぶっちゃけそんな情報はここには要らなくてただただ面倒くさくなってしまったことが何度もあったので、シンプルに著者と書名だけを並べています。何年のリストかは上部の日付欄に書いています。
 読書メモはA5サイズの無地のノート(場合によってはA4紙を折って真ん中をノート状にホチキスで留めたもの)に書いています。出版社などの細かい内容はこちらに書きます(読書メモを作る時はやる気があるので)。読書メモの内容については昨日投稿した通りです。そして自由に書きたいときに罫線があるのが苦手なので徹底して無地です。基本は見開きを単位として、余白はあまり意識的には取りませんが、途中で記述が終わって紙面が余っても同じページに複数の本の読書メモは取ることはしません。
 「更新する可能性がある情報」の類はだいたいどれもこの形式で、リスト+ページ/見開き単位の紙面、という形です。PCを用いた作業が関連することはScrapboxかDynalistに書いて管理しています。特にScrapboxはリンク集を作れば簡単にリスト+それぞれの内容ごとの紙面という形になります。

 私の例については以上ですが、このようにして**「変わる」「変わらない」「更新する」を意識し始めて、書く場所や使うツールに迷うことが減りました**。データとしての情報の扱いはよくわかっていなかったので、それについては冒頭でも触れたようにNotionを通して解決しました。
 使うツールに根拠と必然性がある形になったので、後からもやもやしてくるということがなくなりそうです!

(※この記事は一度noteに投稿したものの下書きに戻したものです。)

2019/10/07

読んだ本を忘れない5つのメモ

 本屋さんに行くと、読書術の本というのがたくさん置いてあります。
 ○○リーディングという名前がついていたり、速読法を紹介していたり、逆に熟読を勧めていたり、読書術といっても様々です。


 読書術がひとつに収斂しないのは当然で、本の種類も多様なら、著者のスタンスも千差万別で、そもそも読む側の私たちの環境や問題意識や性格もバラバラです。何のためにどんな本をどう読む必要があるか、それは人の数だけ多様であるのが普通です。
 そして人に言われなくとも、私たちは本によって様々な読み方を自然にしています。例えば速読も、方法を詳細に教わらなくたって本屋で立ち読みしている時はだいたい速読になっています。「ぱらぱらめくって引っかかるキーワードの周りだけじっくり読む」、という速読のキモは、「ぱらぱら飛ばして読まざるを得ない」という状況下にいれば普通に実践していることですよね。それを更に有意義なものになるような工夫を加えて意識的におこなって、そしてその読み方でも良いと受け入れればそれが速読術ということになるのだと思います。

 さて、そのように多種多様な方法があり得る読書術ですが、唯一大事なことは「メモを取る」ということだと思います。
 速読は立ち読みで自然にやっているよ、と先ほど書きましたが、じゃあ立ち読みしていれば本を買わなくても良い、座って読まなくても良い、ということになるかと言えば、全くそうではありません。なぜなら、メモを取れないからです。速読もメモがあってこそ「速読術」になり得ると思っています。
 メモを取らない読書は、読書に費やした時間の価値を大きく減じます。五感をフルに使った実体験と違って、読書体験は言葉を忘れてしまうと内容をすっかり失いかねないのです。なので、読書体験をその後の糧にするには、読書体験を鮮やかに蘇らせるきっかけとなるものを書き残さなくてはなりません。これを見ればその本で感じたことを次々思い出せる、という鍵となるものが必要なのです。
 と言っても、それは全く大仰なものでも難しいことでもありません!

 ここからは読書メモをあまり取ったことのない人に向けた「メモ術」の話になっていきますが、最初に述べたように読み手は環境も問題意識も性格もバラバラなので、必要なフォーマットもバラバラであって当たり前です。ノートのどこにどう配置してどんなメモを取るかというのは、自分にとって何が必要なのかを自分と対話して決めていくしかありません。
 ただ、私の経験上、これを意識すればこの本のことを忘れないぞ、というポイントがいくつかあります。今回はそれを紹介したいと思います。

①事実として重要なことを図化しよう!

 どの本も、何か事実があって、それについて述べているはずです。こんな社会問題がある、こんな仕組みで政治や経済が動いている、こんなトラブルが仕事にはつきものだ、人間とはこういう心理が働いている、などなど。自然科学や文学・語学などについてももちろんそうです。小説なら、こんな出来事があって、こう展開した、ということがその作中での事実になります。
 そういった、その本で著者が示したい事実を図で簡単にまとめましょう。綺麗で正確な図を作るのが目的ではないので、紙一枚にさらさらっとで構いません。もっと書きたくなったらどんどん増やせばいいです。
 どんな図を使えばいいかわからなくなってしまったら、例えば黒上晴夫氏がまとめているシンキングツールを参考にして、合いそうなものを選んで整理してみるといいかもしれません。

 あらゆる主張は事実への反応として存在するので、「何の話だったっけ」というのを記録しておくと、後からメモの意味がわからなくなるという事態を防ぐことができます。
 図より文章の方が自分に馴染むという人は、短い文章の箇条書きや少し長めの文章で一冊要約するなど、文章を使ったまとめ方をするのが良いでしょう。

②著者のメッセージを一文で書こう!

 メモを取ろうと思ったからには著者と何か共鳴する部分があったはずです。問題意識が同じだとか、まるで私のために書いてあるみたいだとか、こんな人になりたいと感じられたとか。著者の結論は自分の意見と違っていても、やりたいことは似ているようだとか。その部分をひとことで書いておくことをおすすめします。
 端的に表されている一文を探して抜き書きするというよりは、自分の言葉で「この著者はこれが言いたかったんだろうな、これが著者の人生のテーマなんだろうな」と考えて書き表してみると良いと思います。
 本というのは著者の「こんな社会・世界であってほしい!」というような思いによって生まれるものですよね。本を書くのは大変なことですから、何か信念がないとなかなか成し遂げられません。その信念が読み手それぞれと合うか合わないかというのは相性次第であり、著者のことを「なんか良い」と感じられたら幸運です。その幸運を逃さずキャッチしましょう。

③自分が感銘を受けた文章を抜き書きしよう!

 今度は自分基準のメモです。
 まずは「この一文良い!」と思った時にはそれをどんどんメモしましょう。
 事実として重要なことをメモするのも大事ですが、文そのものが心に響いたとかクスッときたとか、自分の感性に従って興味深い文章をメモしていくと、読書メモが言葉の宝箱のように価値あるものになっていきます。
 特に、「自分もこれをしたい」「自分もこう生きたい」と感じた時にそれを書き留めておくと、メモを読み返した時に自分の願望や理想を思い出して心機一転のチャンスになることがあります。

④読みながら思いついたことを書こう!

 読書は自分の脳を刺激する行為なので、本を読んでいると急にあれやこれやと閃きを得ることがあります。それらもできるだけ書き残しておきましょう。
 閃きは、本の内容と関連することもあれば、全く関係ないこともあります。本の主題に対する仮説、自己分析、生活への応用案、明日の仕事のアイデア、今晩食べるもの、などなど。全部読書体験の一部として読書メモの中に含めてもいいでしょうし、明らかに関係ないものは別のノートに書き留めるのでもいいと思います。
 とりあえず、読書をすれば何か閃くものだと考えて、自分の思いつきをメモに取る用意をしておくと良いでしょう。本の内容そのものよりも、本から刺激を得て自分で閃いたことのほうが自分にとって重要だということもよくあります。

⑤登場した固有名詞を書き留めよう!

 どんな種類の本でも、大抵はたくさんの固有名詞が登場します。人名や参考文献、地名に料理の名前、その他色々。
 多くの場合は何かエピソードがあってそれらの名前が出てきますが、エピソードを面白いと思っても固有名詞は案外覚えておけないものです。「どんな話だったか」というのは自然と覚えられるのに、「何の話だったか」はあっさり忘れ去っていることがままあります。
 出てきた名前を全部漏らさず書こうとする必要はありませんが、面白かったことは是非具体的な名前もセットでメモしましょう。
 名前さえわかれば後で調べることも簡単にできますからね。
 おさらいすると、

①事実として重要なことを図化しよう!
②著者のメッセージを一文で書こう!
③自分が感銘を受けた文章を抜き書きしよう!
④読みながら思いついたことを書こう!
⑤登場した固有名詞を書き留めよう!

 の五点です。
 ノートのページ内にそれぞれの枠を作ってもいいと思います。私は書く場所を区別することはせず、ペンの色を変えて同じ場所にどんどん書き連ねています。本によって、何ページもメモすることもあれば1ページの上半分しか使わないこともあります。全ての本について上記の五点を揃えてメモするわけでもありません。
 紙面の使い方も人それぞれですから、後から追記したいタイプの人は余白を多めに取り、そういうことはあまりしないという人は詰めて書いて良いと思います。必要が生じればその都度別の紙に書いて挟んだり付箋を貼ったりすることも可能です。もちろんデジタルツールを使うのもありです。続けやすい形でやりたいぶんだけやりましょう。読書というのは個人的なもので、やり方に正解はありません。
 どんな形のメモであれ、自分で書き残したことは自分の糧になり宝になります。仕事で役に立つこともあれば、生活習慣を変えることもあり、気持ちが上向きになることもあります。読みっぱなしで記憶が薄れるとともに失ってしまうのはもったいないです。
 皆さんの読書体験が素敵なものになりますように。

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