Noratetsu Lab

動じないために。

2024年12月

2025/01/01

2025年

 あけましておめでとうございます。
 年始には目標らしきものを書くことにしているので今年も書いていきましょう。範囲は情報整理、書き物、プログラミング関連です。


 去年から始めて途中になっていることがデジタルデータとメモ・ノートなど紙類の整理です。今までは整理法を考えるということにけりがついていなかったのでずっと頭で考えているような状態が続いていましたが、去年のうちに方法に納得ができたので今年はひたすら作業を進めていきます。
 紙類については、明確に残しておきたいもの以外はノートだろうが全部処分してしまうつもりです(スキャンしてデジタルデータ化はします)

 あとは普段の作業で余計な手間をかけてしまっていることについて、「それ二度手間になるよ」ということをきちんとチェックすることを心がけたいところです。初手の億劫さに負けて後々手間を増やすようなことがなかなか直らない(直そうという気持ちを維持できていない)ので、今現在のスッキリの波に乗ってそういうことが苦にならないような思考回路を身につけたいと思います。
 この怠惰についてはプログラミングを始めてだいぶ良くはなりました。その意味でもプログラミングを学んだことは大きな意味がありましたが、それでもなかなか根治は難しいので今年は積極的に二度手間撲滅に取り組んでいきます。
 なおこれは「必ず一度で片付ける」という意味ではありません。問題は「手間が増える」ところにあるので、分割しても手間の増殖にならないとか分けることに他に利点があるという場合にはそれでいいわけです。

 今年は概念やシステムの明確化にも力を入れたいと思っています。例えば去年出した「文脈エディタ」という表現や、Capacitiesを中心としたオブジェクトベースの情報整理、あとは数本記事にした「じゆうちょうノート術」といったものです。
 そうして考えたことを今年はnoteに投稿することも考えています。自分のサイトは研究室、noteは発表の場、というふうに自分の中で使い分けて両方を適切に活用したいと思います。過去に自分のサイトに書いたことの整理整頓の成果を発表するのも良さそうです。
 以前は自分の中で捏ねることが自分にとっての「書く」であったので、その意味ではnoteは自分にとってあまり相応しい場所ではなかったので自分のサイトを作ったわけですが、考えの整理が進んだことによって「捏ねる」より一歩進んだ領域での「書く」ができそうな気がしており、やっとnoteへの投稿に自分で納得できるかもしれません。
 そう考えるとトンネルChannelはどういう位置づけと捉えたらよいか、というのが少し難しいところですが、トンネルChannelはなんといっても往復書簡的なやり取りが発生することが醍醐味です。ならば往復書簡になるように書いて他の人に言葉を手渡すことを目指すのが自分の中で自然です(これまでの私はうまくできていません)。となると、「自分なりに完成させたいこと」よりも「自分の頭では完成しなさそうなこと」を共有することに向いているでしょう。考えが進まないから保留、みたいな処理をしてしまっているものこそ出番かもしれません。いずれにしてもメンタルが安定している時には積極的に投稿したいと考えています。
 そしてそれらへの投稿を通して自分なりの思想めいたものが明確になってきたら、何らかの方法でよりきちんとした形にしたいと思っています。

 あとは対人面として、人の言動に動じないようにすることを目標にしたいと思います。
 誰が何を言っていても、それが本当に何らかの影響力を持っているのでない限り実際はどうでもよいわけです。たとえ客観的に見て正しいと思えないとしても、それを正すべき立場に自分がいるとか、対処しなければ実害が発生するとかでない限り、わざわざ踏み込んでまで正そうとしてもその努力の甲斐というのは基本的にないように思います。というかそうすることは多くの場合不遜です。(立場や利害があるなら別です。)
 不愉快だとか許容できないとかいう気分になることは避け難くあります。しかしそれが気分の問題に過ぎないのなら、それは自分でどうにかできるものでもあります。今のところ、気分をそのままにしてなんとかブレーキを踏もうとして失敗しているということが日常でしばしばあるので、気分の見つめ方、鎮め方を身につけたいところです。(しつこいようですが立場や利害があるなら別です。)
 アウトライナー的な意味でもう一段階「レベルアップ」すると、「どうでもよいことはどうでもよいとする」ということになるでしょう。労力はどうでもよくないことに払うべきで、自分の精神力を大事にすることを第一にしたいと思います。

今年の目標まとめ

  • デジタルデータおよび紙類の整理
  • 二度手間撲滅
  • 概念やシステムの明確化と各媒体に合った発表
  • どうでもよいことはどうでもよいとする

 それでは今年もどうぞよろしくお願いします。

2025/01/01

ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート

毎年元日はウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを見ている。

今年の指揮はリッカルド・ムーティ。
今回は初めて女性作曲家の曲目が演奏されたことが話題だ。コンスタンツェ・ガイガー(Constanze Geiger)の《フェルディナント・ワルツ》。
あとバレエもいつもと趣が違ったように思う。解説などを全然見ていないので個人の感想だが、ひょっとするとものすごく劇的なことだったのではないかと思った。
ヨハン・シュトラウス2世の《加速度ワルツ》の方は、恋愛風の雰囲気ではあったのだが一体どういう関係性ということになっているのか全くわからない。衣装も不思議。男女三人で踊る場面や男性が男性をリフトする場面が印象的だった。滑稽味があって面白かった。
ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ《トランスアクツィオン》の方ではウィーン産業技術博物館の機関車の前で、かなり前衛的な黒い衣装で行われた。踊りは機関車の動きを表していて、そういう人工的な無機物を表した演目は珍しいのではないかと思った。

毎年見てはいるものの、特に詳しいわけではない。よくわからないながらも、やっぱりラデツキー行進曲を聞かないことには一年が始まらないな、などと思っている。儀式のようなものだ。
そういえばMCは林田理沙アナだったが、さすが芸大音楽学部出で造詣が深いということなのか、曲後のコメントにかなり気合が入っていた。せっかく時間と金をかけて学んだわけだし、専門分野が活かせるのは良いことだ。
ゲストは夏木マリで、リッカルド・ムーティの大ファンということで愛溢れるコメントがとても良かった。

2024/12/31

2024年の振り返り

 今年も今日で最後、ということで一年の振り返りをしておこうと思います。

 他の振り返り系記事(クリック/タップで開きます) - 上半期の振り返り/浦島太郎再び - 下半期の振り返り - よくわかるNoratetsu House(2024年版)~前編~ - よくわかるNoratetsu House(2024年版)~後編~
2024/12/31

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

大晦日はいつもならEテレで第九とクラシック名演奏を見て過ごすけれど、今年はスーパーマリオブラザーズの映画の地上波放送があったので21時まではそちらを見た。第九はちょうど合唱から見られた。

かなりの評判だったのを知っていたのであまり不安なく見始められた。冒頭はちょっとしんどい流れだったけど、まあ物語を作るとなればこうならざるを得ないんだろう。上手くいっていない人生が物語の中で輝かしいものになっていく、というのは定番中の定番だ。
異世界にワープしてからはずっと面白かった。ピーチ姫が強くて良かったし、クッパがそういうところを好いているというのも良い。ピアノで弾き語りし始めたのには笑った。クッパの所業は普通に酷いんだけどね!
ドンキーコングやマリオカートがストーリーの中に自然に組み込まれていたのには感心した。
マリオシリーズは64時代までしかやっていないからその後にできた設定がどこにどのくらい反映されていたのかはわからなかったけれど、昔やったきりの人間にも楽しめた。愉快な大晦日を過ごせて良かった。

2024/12/30

よくわかるNoratetsu House(2024年版)~後編~

 総集編の続きです。


42: Notionはこう使うことにした① 期間が限られたものを扱う

Notionは何度か付き合いを試みて失敗に終わってということを繰り返してきた。その失敗のほとんどが、「継続できない」ことにある。このまま続けられたらきっと素敵になるだろうと思いつつ、継続できないのだ。 その時点の生活に、「Notionの手入れをする」という時間を加えることができない。
Notionについて「何に使うか」を考えると、何でも素敵な気がしてきてしまう。実際自分が継続できさえすれば素敵な世界にしていってくれるのがNotionというオシャレな万能ツールのすごいところであって、 Notionの可能性に思いを馳せる限り自己不在の幻想が無限に広がっていく。

43: Notionはこう使うことにした② 公開状態を利用する

最後が今回の話の鍵で、人の目によく映るように整えたいという欲求だ。自分を良く見せたいという欲かもしれないし、少しでも見る側が楽しくなるように、そして負担がないようにという親切心かもしれないし、 とにかく他者の存在を意識することで「整えずにいられない」気持ちを抱くこと。
やはり他人の目というのは強力なもので、自分しか見ないなら「どうせ自分しか見ないし」という怠惰に流れがちな人も、誰かが見る可能性があると思えばもうちょっとちゃんとしようと思って頑張る気になることは少なくない。手を付けさえすれば「あっちももうちょっと」「ついでにこっちも」と言ってちょこちょこ手を加えたくなるものだったりする。
もうひとつポイントがあって――もしかしたらこちらの方が重要かもしれないが――一度公開してかつ実際に見に来る人がいる場合、基本的にはそのページを継続せざるを得ない。Notion以外の別の媒体に移るという選択はしにくくなるだろう。訪問者をむやみに振り回すわけにはいかないからだ。

44: Notionはこう使うことにした③ アイコンを使いこなさない

そのようにしてページごとに最強のアイコンを選ぶみたいなことをやっていたわけだが、その割に、実用上は思ったほど嬉しい感じではないことにやがて気がついた。選ぶのは楽しいのだが、そうやって選んだアイコンが並んでいる状態が本当に役に立っているかというと、どうも疑問符が付きまとう。なんでだろうと考えてみると、答えは単純だ。カラフル過ぎるのである。 いちいち情報量が多く、そして統一感がない。見ていてちょっと疲れてくる。 そのような選び方をしてしまっていた。
日常的に使うものについては、自分の「楽しい」が時にストレスを発生させるということにも注意を払う必要がある。

45: Capacitiesを使い始めた

これを見て、私は「そうなんだよな!」と膝を打ちました。思いつきや学びを書く所謂ノートと、本の情報や人の情報、議事録等々は、自分の中では明確に種類が違っています。 ひとつのツールで管理したいものではありますが、できれば分けて扱うことが可能であってほしいと思います。 且つ、ビューやプロパティがそれぞれに合わせて違っていると自然です。(中略)単にタグ付けで区別しただけでは私の中では不十分で、相応しい見た目をしていることでやっと納得に至った感があります。

46: CapacitiesのDaily Notes

47: Capacitiesを使い始めて一ヶ月/分類方法の使い分け

もし十年前とかに登場していたらきっとEvernote同様に機能の目新しさに振り回されていたが、色々と経て具体的に「私はこういうツールがほしいのだ」と思い描いている状態で出会ったから、必要なことを必要な分だけやり、無意味なことはしないということを自然と判断できている。いいことを思いついたと思っても、でもそれは実用的ではないんじゃないかと判定する嗅覚がだいぶ育っている。
Objectは色々と作っている。しかし作る前に必ず作るべきかどうかを書いて検討している。(中略)昔だったらとりあえずObjectを作ってみてしっくり来なかったら解体しよう、という順番でやっていたと思うが、 未熟なうちは「これは有効じゃない」という結論を下すのが難しく、ずるずると無意味に延命させて情報のごちゃつきを招いてしまう。 とはいえ実際に作ってみる前に検討できるのはそういう失敗の積み重ねがあってのことかもしれない。
自分に何も用意がない状態でこのアプリケーションを使い始めてしまうと、一体どれで何をすればいいんだと迷ってしまうかもしれない。その意味でCapacitiesは「初心者向き」とは言えない。 痒いところに手が届くのが嬉しいツールなので、逆に他のツールを渡り歩きながら痒さに苦しんでいるようじゃないとピンと来ない可能性がある。

48: ライフ・アウトライン日記: Capacitiesにお引越し

49: ノートツール環境スナップショット(2024/09)

50: 古のホームページ化を考える(日記)

一方で、別に何月何日に書いたかなんてどうでもいいような内容もあって、それがブログ的な形で並ぶのはなんだか見るのも書くのも変な感じがする。古のホームページの方がその点では自然にコンテンツが作られていたように思う。

51: Capacitiesでは扱わないでいること

扱う情報をクリアにすると書きましたが、そのニュアンスを伝えるためにはそもそもCapacitiesで何をしたいのかを明らかにすることが必要かもしれません。 私がしたいことを一言で言えば、自分の人生に直接関わっていることの把握と管理です。私がすること、したこと、見たこと、知ったこと、好きなこと。あるいは、私とは如何なる人間であるかを掘り下げること。 情報の種類を自由に定義できるCapacitiesは、その目的に非常にマッチしています。
重要なのは、Capacitiesがあることで他のツールの使い方も明確になることです。Capacitiesで混ざってほしくないものは、Capacities以外でも混ざってほしくなかったものです。しかしこれまでは境界が自分でわからなかったのでごちゃごちゃと突っ込んでは「なんか違うんだよなあ」と思い続けてきました。 Capacitiesを使うことは、自分が無意識に仕分けているもののルールを知る助けになると思っています。

52: Capacitiesのマイオブジェクト① 全体像

53: Capacitiesのマイオブジェクト② 自分と関係するモノ系

つまるところ、 「家」「生活」の雰囲気をそのまま再現する オブジェクトタイプになっています。モノの種類によってオブジェクトを作ってしまうとすれば、「知ったもの」「欲しいもの」など「まだ自分の生活と関わってはいないもの」を含めてしまう可能性がありますが、そういうものが混ざると自分の生活の様子を反映しないものになっていくので、ここではそういったものは混ざらないようにしています。
Capacitiesを使うようになって強く意識し始めたのが「 自分と直接関わっているか、そうではないか 」ということです。そのステータスは変化する可能性があるわけですが、オブジェクトタイプを後から変えられることによって、関わる前はItemオブジェクト、関わりができたら専用オブジェクト、というふうに簡単に切り替えることができます。

54: Capacitiesのマイオブジェクト③ 知識系

オブジェクトタイプを定義できるというのはとても素晴らしいシステムですが、全ての情報について然るべきオブジェクトタイプが定義されていなければならないと考え始めると途端に息苦しくなり、実用が難しくなってしまいます。

55: Capacitiesのマイオブジェクト④ Yearly Note

Yearly Noteオブジェクトで達成したいことは、「つまるところ、この期間はどういう雰囲気だったか」がひと目でわかるということです。(中略)ただ全部並んで表示されればいいというわけではなく、俯瞰の高度を上げるに従って記述がおおまかなものになっていかないと、全貌を把握するためにいちいち認知資源を大量消費してしまいます。 「参照しに行く手間が減る」ということと「俯瞰できる」ということは別物と考えています。
「Home」というページの問題点のひとつが、ホームとして適切な状態であるように更新し続けなくてはならないことでした。いや、もちろん本当の意味で「そうしなければならない」わけではありませんが、 アクティブなページとして意味をなすにはメンテナンスが必要 なわけです。で、要らなくなったものをえいやっと除去していければいいのですが、なんとなくそうしがたいことがしばしばあります。ページ自体を消してしまうわけではないにもかかわらず、そのページへのリンクをなんとなく取り除けないのです。「たまには見そう」みたいな曖昧な理由で残してしまったりします。そうして雑然とした感じが続きました。全く合理的ではありません。

56: Capacitiesのマイオブジェクト⑤ Webクリップ

最初はWebクリップというものを「きちんとオリジナルを保存しておくもの」と見なしていたので、個々の記事がオブジェクトであることに何も疑問を抱いていませんでした。(中略)しかし、検索をかけた時にそのページが検索結果に並ぶと、大きな違和感を覚えました。その記事のタイトルは私にとって「あれ」と指さしたい形のものではないからです。
複数のWebクリップをひとつのページの中に貼るということをすればそのページはどんどん膨張していきます。それでも、ページを分ける必然性が自分の中にないならそれでいいわけです。困ったり気持ち悪く感じたりしたら分ければよい話です。 自分の主観で「もはやひとつの塊とは言えない」となるまではまとめて扱うのがオブジェクトベースだと言えるのかもしれません。

57: Capacitiesのマイオブジェクト⑥ セルフマネジメント系

沢山のオブジェクトタイプが並んでいると圧倒されるような気持ちになるかもしれませんが、本人としてはこれらは「分類した」のではなく 「自分の中でそもそも分かれている」ものをそのままそれぞれ扱っているだけ のことで、複雑なことはありません。
今回書いたMapオブジェクトやDoingオブジェクトのようなものは、他の人が用意してくれるのを待っていてもおそらく一生叶えてもらえないだろうと思います。そういうものを定義したいと感じる人にとって、Capacitiesは強力な助けになるでしょう。

58: Capacitiesとマインドマップの両輪でいくことにした

このことについては「解決」はしていない(しようがない)が、このもやもやはエネルギーにもなり得る。あらゆる思考や思いつきは、発生時点で何とも結びつけられそうになかったとしても、完全に単独で存在しているということは多分ありえない。それが生まれた経緯や動機というものがあるはずで、自分の中にどういう思いがあることでそこに至ったのかを考える余地がある。それが見つかればその下に思考や思いつきをくっつけることができる。
客観的な分類ではなく自分の思いを突き詰める方向で上位ノードを考えていけばだんだんと集約される方向に向かうだろう。もちろん全てを一点に繋げる必要はなく、自分の中で分けて考えた方がいいものは違うマップにするなどして分けて考えれば良い。 いずれにしろ、位置づけに納得したいという気持ちを燃料にして整理を進めるというのは位置づけなくていいツールでは生まれない流れであり、それを積極的に利用するのはひとつの手だ。

59: Capacitiesのマイオブジェクト定点観測(2024/12)

この二つのことを合わせて考えた時に、「 Capacitiesが辞書になるのではなく、Capacitiesの中で辞書的なページを扱えばよいのではないか 」と思い至ったわけです。Node.jsの辞書、○○語の辞書、○○県の辞書、○○史の辞書、といったページがあり、それをまとめるオブジェクトタイプがあればスッキリします。
自分の生活に直結する情報を扱うオブジェクトタイプは後々のことも考えてきちんと設計する必要がありますが、知識の類は今現在楽しいと思えるのが一番で、今後も変わっていく可能性が大いにあります。
私がCapacitiesで作っているのは情報のデータベースではなく自分の興味に沿ったスクラップブックのようなものなので、 「どういうスクラップブックにしたら楽しいか」が唯一大事なこと です。

60: SoulLinkMapとの出合い

あまりにも応用可能性が広いのでチュートリアルのファイルを触ってもそれだけでは一体何をどうすればいいのかよくわからなかったりするのだが、私の中にあった「こういう見た目でこういう構造のツールがあったらいいのに!」という要求にほぼそのまま応えてくれるアプリケーションであることに気がついてからは、それまで辺りを覆っていた霧がすっかり晴れたような感じで自由に使えている。
私個人の感覚で言うと、Capacitiesに向かないものイコールSoulLinkMapに向いているもの、という感じで、時代を超えて相互に凹凸がカチッと嵌まるものに思えて一人で感動している。「あれ」と指させるもの(=オブジェクト)はCapacities、どうにか言葉で表現するしかないもの(≒サブジェクト?)はSoulLinkMapで扱えばいい。

T5: 手帳についての自分語りおよび来年の手帳・ノートのこと

それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、 人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。 イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。 いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。

61: 虫眼鏡を当てさえすればよい

要は、 新しいことを書こうなんて思っていないところにも、真剣に書きさえすれば新しいことは生まれるのだ。 むしろ、新しくないし大した意味もないようなところに何らかの新しい意味が生まれ出ることの方が楽しいし、素朴な感動がある。
となれば、何かしら書きたいとなった時に考えるべきは、「何を書こうか」「何を言おうか」ではなく、「何に虫眼鏡を当てようか」ということになる。 何に虫眼鏡を当てても何かはある。何かを見出すまで倍率を上げ続ければ良いのである。

62: B6バインダーを自作する(案)

あまり立派なのは勿体ないし加工も難しいのでやめておくとして、百均に売っているようなややペラっとしたバインダーならカットしようと思えばできる。というか、 かなり前の話だが『「超」整理法』に感化されて「超」整理手帳の真似事をしようとして、Z式バインダーを切って使っていたことがある。 (中略)その試み自体はまあお遊びのようなもので実用的というわけではなかったが、面白いことをやってみた感はあった。

63: 「へえ~」なメモと記事データを一体で扱う

一方で 「あわよくば記事にしてしまおう」というある種の下心があると「気が向く」のでちょっと労力を割いて調べ物を進められる。 結果として、メモはノートになり、「へえ~」の感動はより深いものになり、自分の心はアウトラインの規模とともに豊かになっていく。
この「自分にとって意味があればいい」と「増やせるなら増やしたい」の掛け合わせによって、今まで宙ぶらりんになっていた「へえ~」にフローが生まれ、最終的に公開するにせよしないにせよ、記述を豊かにする動線ができるようになった。メモに根拠のある居場所ができたことにはかなりのスッキリ感がある。

64: ObsidianをWebクリップ用ツールにすることにした

あと個人的には、Evernoteのデータというのがひとつの大きなデータベースとして存在していたのも「不純物の混在」を強く感じさせる要因になっていたなと思う。ローカルファイルならひとつひとつのページをもっと自由に「個別のファイル」として認識できて、邪魔になったらとりあえずアプリケーションが自動で認識しない場所に取り分けておく、みたいな操作をできればスッキリできた。それは「バックアップを取っておいて削除する」とは感覚的に異なる操作なのだ。
クリップしただけでは役に立たない、というのは本当にそうだと思う。なので情報を役立てるためには自分の手と頭を使って情報を適切に加工する必要がある。それはそれとして、とりあえず自分の手元に持ってきて安心を得るというのも私の中で重要なことなので、それが簡単かつ綺麗にやれるObsidianのWebクリッパーの登場はたいへんありがたい。

65: 記事ページに「構造化データ」を設定した

66: 目次と索引とオブジェクト

ネットワーク型の情報管理が流行る中、階層構造での管理は欠点が目立ってどこに行っても批判されているような状態ですが、しかし完全に階層構造をなくすことに私は不安感がありました。それはつまり、「目次がない」あるいは「地図がない」という心許なさだったのでしょう。

67: 自分のノートフローを明らかにするために

そういうことを考える時に、まずどこにどう書いて考えるのか、それもはっきりしない。というのは、 考えようとしている領域を指し示す呼称がないからだ。 もちろん、単に考える場を作るという意味ではどのツールでもいいから「私は結局どういうシステムを働かせて動いているのだろうか」という項目なりページなりを作ってその中に書けばいいのだが、名前がないと考えた結果を取り扱いづらいし多分継続的に考え続けられない。
ということで、自分が考えようとしていることを「ノートの流れ」、つまり「 ノートフロー(note flow) 」と表現することにした。ChatGPTに「これこれこういうことを指してノートフローと言い表そうと思うがどうか」ということを尋ねたら「英語的にも自然だし良いと思うよ!」という旨が返ってきたのでこれでよしとする。

T6: 目次必要性の傾向を考える

そう考えると、用途別ということに加えて例えば「掴みたさ」の強度を基準に強・中・弱くらいに分けてそれぞれ適当なツールをピックアップしてみるというような試みもありかもしれません。傾向で語ることはツールの正確な理解には必ずしも貢献しませんが、しかし無意味なことでもないと思っています。

68: 『ライフハックの道具箱2024』にてCapacities紹介記事を書きました

書くにあたっていつもの数倍神経を使いはしましたが、短い記事を一本提出するだけなので、そんなにきっちりしなくてもできたことではあります。しかし 敢えて雑にやる意味もない ので、意識的に情報をきちんと整理しながらやりました。元々几帳面な質ではなく油断するとすぐ雑然とするので「どうせなら綺麗にやっていこう」と意識しています。
Capacitiesはその「どうせなら綺麗に」という気持ちを惹起してくれるので、ズボラ人間でも恰も几帳面な人かのように情報を整えられます(個人の感想かつ当社比の話です)

69: 下半期の振り返り

 以上です!

 ところで、去年まではこの「よくわかる~」のまとめは全て手作業で作っていました。記事とエディタを往復してコピペを繰り返すわけです。しかし今年はDynalist上で各記事のピックアップしたい行に色をつけておき、プログラムでまとめて機械的に出力してちょちょっと整えるだけで済むようになりました。記事データを全てDynalistで管理することによって可能になった処理です。
 デジタルデータは自分で自由に加工できてこそ、と思います。

2024/12/29

よくわかるNoratetsu House(2024年版)~前編~

 今年も一年間に投稿した記事から一部分をピックアップして振り返っていきたいと思います。どんなサイトかがわかるようにということを目的とした総集編です。
 去年までは投稿場所がBloggerでブログ名は「Noratetsu Lab」でしたが、今年は自分で作ったこの場に拠点を移したので今回は「よくわかるNoratetsu House」です。


 一部分のピックアップでは文脈が削ぎ落とされるので、フックになるように一部を太字にするなどしておきました。複数の部分を引用しているものがありますが、引用と引用の間には必ずしも繋がりはありません。
 まずは上半期。

1: 2024年

読み手にとってありがたみがあれば万々歳だが、それ以前に、 少なくとも未来の自分にとって「当時の考えや思いを言葉にしておいてよかった」と感じられるような文章でなくてはしょうがない。 過去の自分に「ありがとう!」と言えるように、その時々なりの誠実さでもって文章を書くことを心がける。
SNSのタイムラインは常に不意打ちである。 自分の場に流し入れるのは、不意を打たれても影響がないものに限ったほうが精神的には安全だろう。

2: 世間観察メモはナンバリングしながら書き溜めることにした

T1: 2024年の展望@トンネルChannel

3: じゆうちょうノート術(仮)

例えば読書ノートの取り方に思いを巡らせてみたりすると、一念発起して専用ノートを用意してびしっといい感じに書き込んでいきたくなるのですが、そう思った時は「血迷うな!」と自分を止めます。

4: サイトの作り方④取得したデータを加工する

5: じゆうちょうノート術(仮)②中身の書き方

と言っても、特別なことはなんにもありません。自分が作ってしまうルールやフォーマットからの解放がこのノート術(仮)の肝心なところです。
あとは、チラシの裏に書いて捨ててもいいような、計算などの一時的なメモを書く場にもなっています。そういうメモは案外残っていると嬉しいんです。役に立つという意味ではなく、気分的に。
これまで書いてきた通り、見開きを基本の単位としながらも左右で別の内容を書いていることがしばしばあります。 二間続きの和室みたいなもので、間の襖を開けたり閉めたりしているような感覚です。

6: 最終稿が投稿サイトに依存していると更新が億劫

几帳面に手元のファイルをまずきちんと更新して、投稿サービスではコピペするだけ、という手順を守っているならまだいいのだが、面倒になって投稿サービス上だけ更新して最終稿がそのサービスだけにあるとなると、いかにも「ちゃんと管理できていない」という感じがする。

7: じゆうちょうノート術(仮)③16分割レイアウト

8: RPG的ライフ・アウトライン

また「内政」「外交」は政治的な言葉だが政治のニュアンスを含めたいという意図は全然ない。自分の個人的なこと(=内)と他者との関わり(=外)について考えていくとなった時に、 かつて光栄の三國志シリーズにハマっていた私は「内と外と言えば内政と外交だな!」と思って、政治的どころかむしろ「身近な言葉」として採用した。 私の中では子どもの頃にやったゲーム用語なのである。
同じ発想で、 Tak.さんのアウトライン・プロセッシング論に度々出てくる「未使用」はドラクエ流に「ふくろ」と書くことにした。キャラ一覧の一番下にあって、各キャラが現在装備・所持していないものが全部入っている宇宙的容量の謎の容れ物である。 「てんくうのつるぎ」も「うまのふん」も一緒に入っているような雑多な感じは、ともすると規範意識に影響されがちなアウトライン使いを柔軟にしてくれるかもしれない。
ところでいずれの言葉も、それに伴うイメージのうち余計な部分はしれっと無視して、またその言葉では補いきれないイメージもしれっと補完して考えている。(中略)この無視と補完は、人それぞれの歴史が反映されるものだと思うので、ただ人の語彙を真似してもうまくいかないのだ。

T2: 理想のタスク管理ツール

入力欄の設計は難問です。メタデータが複雑になると入力欄も複雑になってしまいます。 チェックボックスにしろリスト選択にしろ、ひとつひとつは簡単に選択できてもそれがいくつもあると嫌になってしまうでしょう。
タスク管理アプリが続いたためしがありませんが、それも入力欄の見た目の問題が少なからずあったように思います。しかしタイトルしか入力できないのではそれもそれで困るのです。わがままな話です。

9: 今月の振り返り(2024年1月)

具合が悪くなるたび、心身ともに健康な日を無駄にすることがどれほどの損かを思うのだが、しかし元気になるとその切実さを忘れてしまうから困ったものだ。(忘れないように今ここにわざわざ書いている。)

10: じゆうちょうノート術(仮)④読書ノート

私の個人的な性質として、 ガイドにできるものが多いと(例えば方眼罫)、それを活かそうとしすぎてしまう ということがあるので、あくまで無地のノートにこだわっています。
区切って書くと各マスにゆとりが生まれるので、ページあたりの記述量は減ることが多いです。逆に、区切ることで隣との隙間なくみっちり書き込んでも気になりにくい面もあるので、むしろ増やすことも可能ではあります。マスというものの解釈次第でノートの雰囲気は変わるでしょう。 罫線のない無地であることで、マスの中の密度は全く自由に決められます。 大きい字で何文字かだけ書いたマスの隣が極小の文字で埋め尽くされていても問題は何もありません。
考えてみると、巻物のように全部広げて見られるならともかく、 ノートはどう頑張っても見開き単位でしか見られないわけですから、続きの内容がすぐ次に書いてあろうが離れて書いてあろうが割とどうでもいいことですよね。

11: じゆうちょうノート術(仮)⑤インデックス

子どもの頃に「じゆうちょう」を使っていた時、インデックスを作ろうとしたり「相応しいページ」を考えたりした人はあまりいないと思います。 自分で自分の自由を奪わないように、「こうしたら良さそう」という一見ポジティブなアイデアにも慎重になることが肝要です。
インデックス作りに囚われないために重要な大前提がひとつあります。それは「 インデックスとにらめっこして内容を思い出すよりパラパラめくった方が早い 」ということです。ノートがよっぽど大量でなければ、インデックスはなくてもどうにかなるでしょう。
上の方で書いたように私はある程度ノートを書き進んでからインデックスを作りますが、その理由は規範性への囚われ回避に加え、 ちょうどいいタイミングで振り返りの機会を設けるため です。

12: 「名づけ」を考える ①「台無し」恐怖症?

そもそも「従え」というのが通用するのは「従うことが正解だから」という建前があるからですよね。 与えられるものは正解であることが保証されている、という構図に慣れすぎているように思います。 もちろんそんなものは幻想なのですが、既に正解であるはずのものに自分が手を加える余地などないという体験が続くと、それがそもそもどういうもので成り立っているものなのかを考えること自体がなくなってしまう気がしています。
しかも、自分が余計なことをしなければ完璧であったものを勝手に自己判断で動いたせいで台無しになる、というようなことを恐れていれば試すこともできません。「台無し」のイメージの程度が問題で、 実際にはせいぜい「ちょっといまいちになる」程度のマイナスしかないようなことにも、まるですっかりゼロになるかのように恐怖しているようなことがあり得ます。

13: 「名づけ」を考える ②忠実な実践のための言い換え

馴れ馴れしい言い方になりますが(すみません)、Tak.語とのらてつ語は傾向としてちょっと遠い位置にあるので、翻訳しないと自分の世界の概念に繋げられないわけです(逆にTak.さんから見てものらてつ語は翻訳の必要が生じると思います)つまり私の言い換えというのは「Tak.さんのメソッドを忠実になぞるために、忠実に翻訳する作業」ということになります。
良くも悪くも言葉があるとそれに引っ張られてしまいます。連想ゲームは意図せず進行してしまうものです。なので、対象がどんなものであり、それが自分の感覚・知覚においてどう表現されるべきか、じっと観察する必要があるでしょう。どちらかと言うと、 「名前をつける」のではなく「名前が見出される」 感覚になろうかと思います。

14: 「名づけ」を考える ③「名づけ」を言い換えてみる

そういうわけで、意味内容を示すことを目指すタイプの「名づけ」をそれ以外の名づけと区別する形で言い換えてみようと思います。(中略)そこで行われることは、自分が知っている語彙の中で、その情報(または情報の集合)が持つ意味合いと共通点が多いものを探し出すこと、あるいはその特徴を他と区別しながら指し示せるものを探し出すことです。(中略)この試みを何と呼ぶか。 自分がその言葉によって特定の領域を想起できる状態を目指しているのだから、「象徴探し」なんかがいいかもしれません。

15: ライフ・アウトライン日記: メソッドをなぞる効能

重要なのは、そのように元々あった要素を、Tak.さん式のフレームに収めて扱うようになったということだ。 適当な段ボール箱に突っ込んでいたものをちゃんとした棚に並べるようになったみたいな感覚だ。
取り組む際に「とりあえずは忠実にやってみよう」という意識を持てることは大事なことだ。 自分で考え出したものはあまりに有効性の保証が乏しいので、「とりあえず続けてみよう」と決めるのはなかなか難しい。 実際は「なんでもいいからそのまま続ける」ということこそが重要で「どうやるか」は割と二の次だったりするのだが、より良い方法を探さずにいられない欲張りな人間にはそれが呆れるほど困難だ。
なぜTak.さんのライフ・アウトラインはこうなっているのか、ということをよくよく考えることが、 自分の中に生まれる「良いこと」面した規範性を撃退する ひとつの有効な手立てとなっている。

16: Noratetsu Lab Dict.の改修作業をします

17: ライフ・アウトライン日記: ノート欄を楽しむ

逆に、項目を縛るものがないということは「動かせてしまう」ということでもある。すべての項目を全く自由にしておきたいかというと、必ずしもそうではない。 「これは親項目なのである!」と思いたい時は、むしろゴテゴテと修飾して「重く」した方が納得感があったりする。 修飾が複雑になると別のストレスが生まれるのであまり変なことはしない方がいいが、敢えてどっしりさせるというのはひとつの選択肢だ。
何十行にもわたる考え事をした時などは、それを開いたままにしておくわけにはいかないので親項目を閉じてしまうことになる。すると、親項目を工夫しないと中身の存在感が消え去ってしまい、 「すごく考えた」という雰囲気がそこから失われる。 視覚的に邪魔だから閉じるのだが、そこにあった空気まで霧散するとちょっと困ることがある。

18: 一人で考えていると記事ができない

何かへの反応なら、「ここまで言い表せば十分である」というラインが見える。対象と程度が明らかになる。 そうではなく自分の中から出そうとしている場合には、対象があやふやな上どこまで言うべきかも自明ではない。
要はほどほどの距離の多様性が必要だろう。思考の相性が良く(つまり言っていることがすんなりわかり)、かつ自分では思いつかないような話をしてくれる存在。そういう人や場、読み物を見つけておいて日常的に巡ることが自分を停滞させないためのひとつの要になる。

19: 『すべてはノートからはじまる』の技法に自分なりの表現を当てはめてみた

この本では著者から「技法」としてポイントを示してもらっているわけだが、そのポイントに合わせて「目的+動詞」の形で要約したら非常に理解がクリアになったので、普段の読書でも勝手に「技法」として表現していったら良いだろうと思った。ちゃんと「技法01」「技法02」という風にナンバリングすることがミソだ。

20: サイトの引っ越しをしました

T3: 「賢くなる」と情報ツールの位置関係

(自分自身が情報ツールを使う理由は)一言で言うと「がらくた箱」ということになるでしょう。格好をつけて書くと「心が動いたものログ」です。「がらくた箱」は私的なコレクションではありますがコレクター精神によるものではありません。スクラップブックと重なる部分は多いでしょうが、スクラップブックのようなテーマ性もありません。(中略)それをやる理由にはもちろん「好きなものを集めておくと嬉しいから」ということがあります。しかしそれ以上に、 心が動いたものを自分で頑張って捕まえないと自分が何に心を動かす人間なのか自分でわからなくなるという不安があった 、というのが大きな理由です。

21: 今月の振り返り(2024年2月)

また今月は本(主にKindle)を読む時間を多く取れた。「本を読むぞー!」というポジティブな気分だったからではない。心身ともに不調が目立ち能動的なことが難しい日がしばしばあり、暇つぶし的なこともできないがただボーッとしているのも嫌だという時に、本を読むほかない、となって読んでいた。
本を読むということの優先順位が下がりがちな身としては今月の傾向は地味に大きな変化に感じられた。 何しろ消去法で残ったのが読書だったわけだから、読書に際して気合が要らなかったのだ。

22: 豆エッセイのある濃いタイムライン

それはさておき、Podcastの語りに要約的な一文を与えるということをしばらくやっていて思うのは、「他の人の言葉はなんだかんだ要約しやすい」ということだ。 単に容易であるというよりは、「決着がつきやすい」と言った方が良いだろう。
それもそのはず、 自分の発想はあくまで「イメージ」で、一方人の言葉というのは「この人はこう言ったという事実」である。 ファンタジー小説と議事録くらい違う。
できれば「イメージ」状態と「事実」状態を両方保持したい。となると、もしかすると「イメージを一般化する」ということにこだわりすぎていたところに問題があるのかもしれない。(中略)やるべきは「変換」ではなく、「そこに含まれている構造の発見」だろうと思う。イメージを言葉にしたものはそのまま置いておき、そこから構造を見出す。当然、それは骨格に過ぎないので、イメージ全体の要約にはならない。恐竜の骨を見ても色や羽毛の有無はわからないのと同じようなものだ。それはそれでよいのである。
場所をはっきり分けるかどうかは置いておくにしても、居場所として納得できるように運用するとすれば、イメージはイメージで文章外の何かに依存せずにひとかたまりの文章として完結させることと、 雑多さによって印象を薄め合わないこと が必要に思える。つまり、「豆エッセイ」を作ること、そしてそれによって構成された「濃いタイムライン」を作ること。これにはイメージの場を永久に編集可能なままにしておかないという意味もある。

23: Obsidian再び

時には余白が狭いということも重要だ。なんでもかんでもゆったりオシャレっぽくすると自分の泥臭さとマッチしなくなる。あとシンプルに視界に入る情報量が減って困る。

24: がらくた箱と知の箱

ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。

25: 自分の「知」に必要な三つの箱

ただしそれ(=私に知的好奇心がないこと)は、何かを知ることに喜びがないという意味ではないし、何かを見てもそこから知的刺激を受け取らないという意味でもない。単に「もっと深く知ろう、もっとたくさん知ろう」という欲がないということで、何かを知ること自体にはそれなりの感動を抱く。 喩えるなら、ケーキを食べれば喜びを感じるしケーキを味わうつもりもあるが、積極的にケーキを食べたいと思うわけではない、というようなものだ。
豆エッセイというのは基本的に「思いついてしまったもの」でできている。 「思いついてしまう」というのは結構難しい性質を持っていると思っていて、自分の中から生まれてくるのだから一見能動的で積極性があるもののようだが、実際は自分の脳が自分の意識の都合にはお構いなしに勝手にやっていることだ。 自分の意識としてはむしろ受動的な情報のように思える。受動的なもの向けの設計をしないとうまくいかない。

T4: 今年新規導入・再導入したもの

(ライフ・アウトラインは)生活・人生の舵取りに関わる情報を包括的に扱う手法で、私としては何か初めてのことをやっているというよりは、今まで秩序なくとっ散らかった状態でやっていたことを「Tak.さんが設計した棚」に収めてやるようになったという感じです。その意味ではファイリングの技法を学んだような感覚でもあります。
当時は自分に関わる情報をあまりにごっちゃに扱っていました。一緒くたに扱えることが良いことだと思っていたからです。 ですが自分の性質を考えるに、明らかに関連の薄いものは別の箱に入っていた方が良いようです。

26: 思考の描写ログ

エッセイと表現しているが結局何をしていることなのかというと、「頭の中のイメージを人が読めるレベルの言葉にする」ということで、これを端的に言うなら私の中では「表現」または「描写」が合う。「表現」と言ってしまうと世間に発表できるレベルまで整えるイメージがあるので、「描写」にしておこうか。描写した結果として書かれたものを指すなら「描写」というより「随想」なのだが、動詞としては「描写する」が合っている。「ログ」と合わせて「描写ログ」。まあ悪くない。頭の中のことであるということを強調して「思考の描写ログ」としたらどうか。

27: 三つの箱(領域)の整理

28: ScrapboxとObsidianの個人的使い分け(2024年版)

ページがひとつひとつ存在していることが常に良いかというと、必ずしもそうとは言えない。というのは、例えば今現在私が「がらくた箱」として使っているScrapboxプロジェクトには4000ページほど存在しているが、これが全て個別のファイルとしてローカルに出力されたらちょっと耐えられない。ファイルが何千もあるということ自体圧倒される感じがして嫌だし、実体を持った形で並んでしまうとページの無秩序さが気になってくる。適当に使うことが難しくなるのだ。
逆に、内容によってはScrapboxではちょっと困るのだが、その要因はこの「視界に入る機会」にある。あるページが存在していても、そのページに至る導線がその後全く作られなければ、そのページに行き着くことはない。(中略)「必要が生じた時に見つかればいい」型の情報ではないものを扱うとするならば、それでは少し不便になる。

29: がらくた箱と宝石箱

子どもの頃のがらくた箱というのは、その時点で自分の目に輝いて見えたものを収集したもので、まだ関心の幅も大したことがないから必然的に純度が高く範囲が狭いものになる。例えば「情報」はその箱にはほとんど入らない。しかし大人になっていくと、むしろ情報に対して関心を持つ方が多くなるし、関心を抱く領域も広範になって、己の心の赴くままに集めていると量的に収拾がつかなくなる。

30: 「文脈エディタ」としてのアウトライナー

そしてふと気付いたことがある。単発のメモはやがて鮮度を失い死んでいってしまう一方で、 何かのアウトラインの中に存在している一行は、多くがそれ単体では意味が不十分であるにもかかわらず、かなりの月日が経っても「どういうつもりで書いたんだったっけ」ということにはならずに生きたままだということだ。
ただし、だからといって文章にしなくていいということではない。アウトラインは文脈の保存はできるが人に伝えるものとしての「思い」はそこに乗りにくい。事実が保存されているだけで演出がないからである。読み手の中に何をどのように響かせるかはレトリックにかかっていて、おそらく完全にリニアな表現(文章、映像ほか)でないとその力は十分に発揮できない。

31: メモとノートと書き物と文脈

メモを長い間生かすためには、その一文が既に言語化されている文脈と十分に接続することが重要ということになる。 つまり小さいノートに変身させるということだ。
例えば「メモとノートと書き物は分けて考える」という閃きが生まれたとして、そのままでは「なんで?」というのがわからない。そのうち何がしたかったのか忘れてしまうだろう。そしてメモは死んでしまう。でも、仮に「デジタルノートツールを適切に使い分けたい」という言語化された文脈と接続すれば、なぜごっちゃにしちゃまずいのかがわかる。縦しんばその時点にあった「どう分けるべきか」のイメージを忘れたとしても、そのメモはHPを半分くらい保った状態で生き残るように思われる。

32: 土であって種ではない

で、これ(=アトミックなノート)はつまり「土壌」なのだと思う。 あくまで「土」であり、じつは「種」ではないのだ。 「種」だと思って膨らませようとしても、「芽」が出るのではなくて「良い土」になっていくのであり、表現としての文章にはなっていかない。考え事は進むのになぜか文章に繋がらないということが時々あるのだが、それはこういうことなのだと思う。良い土になっても「種」がなければ一向に芽は出ない。 「種」というのは自分なりの文脈であり、自分の価値観に基づいて自分や他者をどこかに連れて行くための根源である。 良い土に種を蒔けば、それは芽を出し大きく育つ可能性が高くなる。

33: 結局考え事はどこでしているか

豆エッセイはTwitterをやり始めて爆発的に増えた。(中略)「つぶやき」に留まらないサイズの何かをTwitterで言い始めた時には、それはもう豆エッセイなのである。何か人に伝えたいこと、つまり文脈があり、それを人が読める程度の言葉にしている。それらは大体自分にとって重要な内容で、ツイートを書くというまさにその行為によって形を成したものであることが多く、なるべくきちんと保存しておきたい。しかしそれがなかなか難しかった。

34: 今月の振り返り(2024年3月)

メンタルがよろしくないと「茶の間」の更新が難しいようだ。書くネタが思いつかない。素朴なものに焦点を合わせられなくなってくる。あと何かを人にシェアしたいという気持ちがさっぱり湧かなかった。

35: ノードの本文を判定して任意のスタイルを設定する(Dynalist)

36: 古いノート・メモを年ごとに角2封筒に突っ込んだらスッキリした

前はサイズごとに扱っていたので時系列がよくわからなくなっていたのだが、 やはりメモ・ノートの整理の大前提として時系列に並んでいる必要があると思う。 自分のテーマとしてはっきりしているものはテーマごとでいいが、それにしてもそのテーマ内ではやはり原則として時系列で整理されているべきだろう。
例えば「ノートの使い方に関する自分の思索の変遷」みたいなことを辿るとすれば、それ用のノートを作っていたのでない限りは、年単位でごちゃごちゃと入っている中から漁って確認することになり、如何にも効率が悪い。が、 年単位でごちゃごちゃと入っている中を漁るということは、実のところ事前に想像するよりは簡単に済む作業でもある。 それ以上の効率は必要なのかどうか。
様々な形式で書いたものが封筒というひとつの入れ物にまとめて収納されている状態は、私にとっては思いのほか気分が良かった。 こんなにもめちゃくちゃにノートを書いてきたのにそれが全部ひとまとめになっている、ということになぜだか感動を覚えた。 きちんとバインダーに綴じたりノートに紙片を貼ったりして集約するよりむしろ「ひとまとめになっている」感があるのだが、多分そうやって変形したりせずに元の形のままであることを許容しているからだろうと思う。

37: 角2封筒で物理的に粒度を調節する

重要なのは、取り回しが楽な範囲で管理することだろう。パンパンに詰め込んだ場合、重くて取り出しにくい上に中身も出しづらい。そしてゆとりがないと内容物の確認のためにはいちいちすっかり出してしまわなくてはならない。それはひとまとめの粒度が大き過ぎる。封筒をケチってはいけない。
自分で封筒を手に取った時にちょうどよいと感じる粒度が、情報の管理上もちょうどよい粒度なのではないかと思う。 物質的な感触を基準にして決めるというのはアナログならではのことだ。

38: お問い合わせお返事/自分の手で創造する余裕

最近は「知識がなくても簡単にサイトが作れる」みたいなサービスがたくさんありますが、みんながそういうものに頼ってしまうと、サービス提供者が想定する範囲のものしか世に生まれないということになるでしょう。

39: カードとは何かを考えてみる

で、カードであることの何が嬉しいかというと、情報をオブジェクトとして扱えること、そしてそのオブジェクトに任意の文脈を持たせられることだろうと思う。
カードを使うこととネットワーク型の情報管理をすることは別に全然イコールではない ということも大事なポイントかもしれない。これはデジタル世代ゆえに発生する混乱に思える。

40: 「知」のノートの種類

41: 上半期の振り返り/浦島太郎再び

 もう半分はまた明日。

2024/12/29

報道の日

報道の日2024|TBSテレビ
MCは膳場貴子、中田敦彦、井上貴博TBSアナウンサー。
一部だけだが見ていた。普通に暮らしていたら察しとることは難しいことが数多く語られていた。ここで軽率に要約するわけにはいかないような相当に踏み込んだことが多々あって、いや知らなかったな、と思うこと頻りだった。
中田敦彦の抜擢とその風貌にちょっと驚いた。個人的に彼をどう思うかは置いておくとして、YouTubeを主戦場とする有名人をテレビの報道番組に繋げることは今の時代には意義深いことに思えた。

2024/12/28

下半期の振り返り

 一年の振り返りを書こうと思って読み返していたら上半期の振り返りをしていたことに気がついたので、まずは一旦下半期の振り返りをしておこうと思う。


 今年は上半期と下半期で心境にかなりの変化があった。ライフイベントとして節目になるような何かがあったというわけではないのだが、いくつかのことが重なって結果として大きく違ってしまっている。全体としては良い方向への変化だ。

 転機となったことのひとつがCapacitiesとの出合いである。今振り返ってみるとこのことは本当に大きな出来事で、私にとって必要な「第二の脳」的なものはこういう形をしているのだと漸くわかった。
 Capacitiesを使い始めたのは8月半ばで、それ以降このサイトでもCapacitiesについての記事を多く書いている。そのあたりから気分としては上向いていたのだが(今年は4月頃までかなり精神状態が悪かった)、CapacitiesをいじることやCapacitiesとともに物事を片付けるということがあまりに面白くてアウトプットに時間を割かない日が続いてしまっていた。しかし12月に入ると俄然やる気が湧いてひょいひょい書けるようになったので、その前までに無理して書こうとしなかったのは結果的に良かったような気がしている。
 Capacities推しが高じて『ライフハックの道具箱2024』にてCapacitiesの記事を書かせてもらいもした。

 もうひとつ出合いがあって、それがSoulLinkMapだ。Capacitiesによって「自分に必要なこと」そして「しかしCapacitiesでは実現できないこと」がはっきりして、それを埋めてくれるほぼ完璧なツールがこのアプリケーションなのである。十五年以上前に作られたアプリケーションを今になって発掘できたことには運命的なものを感じる。
 CapacitiesとSoulLinkMapという両輪を得たことで個人の情報管理(つい先日「ノートフロー」と名付けた)について迷うことはなくなり、シンプルに「考える」「書く」に時間を充てられるようになった。その結果12月には「書く人間」として復活できた。メインコンテンツの記事の他に「茶の間」の更新も捗るようになった。
 もちろん転機になったのはツールとの出合いだけではないのだが、この二つのツールとの出合いというのは単に「いい感じのアプリケーションだな、手に馴染むな」という話に留まらず、自分の脳にとって必然性を感じる衝撃的なものであり、十分に劇的なことだった。

 そうして頭がクリアになったこともあり、近々書こうかなと考えているネタが10本ほど溜まっている。今月中に投稿するつもりでいたものの、残りの日数を数えてみると新たな記事を書いている場合ではない。自分の中での恒例行事として「よくわかるNoratetsu Lab」と題した年間まとめを投稿することにしているし、大晦日は一年の振り返りをしないと締まらない。
 通常の記事更新は数日中断することになるが、どんどん書こうという気合いも筆のノリも保ったまま年を越せれば来年は幸先良いスタートが切れそうだ。

2024/12/27

『ライフハックの道具箱2024』にてCapacities紹介記事を書きました

 毎年の年末に倉下忠憲さんが発行なさっている『ライフハックの道具箱』の2024年版が発売されました。

 私も参加しております。「ネットワークファーミングツール」セクションのCapacitiesの項です。コンパクトにまとめるのに骨が折れましたが、気合を入れて書いたのでCapacitiesのことが気になっている方はお読みいただけたら嬉しいです。Kindle Unlimitedで読めます。
 私も他の方の記事はこれから読むところなので楽しみです。

 さて、告知だけというのも当サイトの記事としては寂しいかなと思ったので、Capacitiesの使用風景の紹介を兼ねてこの原稿を書く際に使ったツールの話でも書いておこうかと思います。
 原稿を書くとなってまず最初にしたことは、CapacitiesでProjectオブジェクトを用意することです。タイトルは「ライフハックの道具箱2024にCapacitiesの記事を寄稿する」でした。そのままですね。(厳密には「寄稿」ではないのですがそれはさておき。)

画像

 やるぞ~という気持ちを表すものとしてアイコンに炎を設定しました。そしてこのページをピン留めしておきます。
 このページには、締切等の決まり事や字数の目安などのメモ、どういう工程で何をするかの検討、やり取りのログといったことを書き込んでいきました。内容そのもの以外の情報を全部ここで扱うという形です。
 作業を進める時はデイリーノートにトグル項目としてこのページへのリンクを貼り、下位項目に個別のToDoやログを記述します。するとこのページのバックリンク欄に作業ログが並びます。
画像

 次に、Dynalistに専用のファイルを作りました。ファイル名は「ライフハックの道具箱2024」です。ここでは内容に関わることを扱います。

画像

 公式の情報、他の方が書かれた記事のリンク、自分が思うツールの特徴、文章の構成などを全部ここに集約しました。本文もここで書きます。
 自作のChrome拡張機能によってDynalistで文字数カウントできるようにしてあり、普段からごく普通のテキストエディタのようにしてDynalistを使っています。あちこちに情報を分散させずに済むので取り扱いが楽です。Chrome拡張機能を自分で作って活用する(Dynalist)
 また、今回書くにあたって公式ドキュメントとブログはほぼ全部に目を通しました。といっても私は英語をすらすらとは読めないので、ChatGPTの力を借りました。元の英文を全部Dynalist内にコピーし、ChatGPTによる訳をノート欄にペーストし、英文と和訳を照らして誤訳や省略などがないか気をつけながら読んでいきます。ChatGPTのおかげでドキュメントを読むだけなら英語が不自由でもほとんど困らなくなりました。ありがたいことです。
 本文はMarkdown書式で書いていて、書いたものはGitHub Gistで確認しました(もちろんSecret設定です)。バージョン管理ができること、コメントをつけられることから、原稿を扱う形式として便利だと思ったからです。

 原稿提出後はその後のやり取りのログをCapacitiesに記録し、全部終わってからCapacitiesとDynalistの内容を整理して、後で見て一目瞭然な形に整えてこの件については完了ということになりました。
 書くにあたっていつもの数倍神経を使いはしましたが、短い記事を一本提出するだけなので、そんなにきっちりしなくてもできたことではあります。しかし敢えて雑にやる意味もないので、意識的に情報をきちんと整理しながらやりました。元々几帳面な質ではなく油断するとすぐ雑然とするので「どうせなら綺麗にやっていこう」と意識しています。
 Capacitiesはその「どうせなら綺麗に」という気持ちを惹起してくれるので、ズボラ人間でも恰も几帳面な人かのように情報を整えられます(個人の感想かつ当社比の話です)

2024/12/27

ケムシカジカ

ギョギョッとサカナ★スターで「ケムシカジカ」という魚のことをやっていた。

この魚、何から何まで奇天烈でびっくり。

  • アンコウのような皮弁でもじゃもじゃ
  • 更にヒドロチュウがもさもさくっつく
  • 歯が三列あり、飲み込み方がベルトコンベア風
  • 魚なのに交尾する(雌の生殖器に雄が精子をかける)
  • 魚なのに卵の孵化に三~四ヶ月かかる
  • イガイやフジツボの隙間に埋め込むように産卵する

見てから時間が経った状態で書いているのでいくらか忘れてしまった気がするが、とにかくヘンテコだ。
変かどうかというのはあくまで人間にとって馴染みがある姿・在り方と違うかどうかに過ぎないので勝手に変とか言うのも失礼な話だけど、どこをとってもいわゆるお魚像からは離れていて生態が紹介される度に「ええっ」と仰け反ってしまった。
個人的に、人間が勝手に「へんないきもの」「ざんねんないきもの」と呼んでいる種のいきものが好きなので、こういうのを見るとHPが回復する感じがある。変じゃないいきものも好きだよ(人間を除く)

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021