B6バインダーを自作する(案)
うちあわせCastを拝聴していて、B6サイズがちょうどいいのに汎用的なバインダーがないんだよね、というようなお話があった。
動じないために。
先月、サカナスターで「ハス」というコイ科の魚のことをやっていた。
口が面白い! 大きく波打った口は獲物をがっちり捕まえることに役立つようだ。コイ科としては珍しく完全魚食性とのこと。歯がない代わりに口を変形させる形で進化したようだ。
ハスという魚については全然聞いたこともなかった。メインの生息域の琵琶湖周辺じゃないとなかなか食べられないのだろう。
なお動きが俊敏なことから「早子」と書いて「はす」と呼ぶとのこと。
一昨日たまたま見た番組で山形県新庄市の合鴨生産者の話をやっていた。
犇めくひよこ可愛い。鴨の雛って本当に愛らしい姿をしている。
普通55日程度で出荷されるところを、この農家ではゆっくり育てて75~90日とかで出荷になるらしい(日数はうろ覚えだが確かそんな感じ)。しっかり育った個体は明らかに首が太くなっていて、なるほど美味しそうだと思った。
あまり食に関心がないので普段料理を見てもそんなに「美味しそう~!食べたい~!」とはならないのだけど、今回紹介されたものはなんだかものすごく美味しそうに見えた。合鴨のモツのアヒージョ食べてみたい…。
「手帳とともにある生活」に漠然と憧れがあります。いや、憧れというより、そのようでなければ生活というものは完成しない、というような気持ちがあります。
それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
かつて手帳が担ってきた役割というのは、その多くがパソコンやスマートフォンの中にあるアプリケーションに移っていきました。スケジュールもメモも連絡先も地図も、今となっては紙で扱う必要はあまりありません。デジタルだと電気とインターネットの状況、デバイスの健康状態に左右されるという理由で「念の為」紙にも情報を用意しておくということはありますが、デジタルでやれるならデジタルでやるという方が多くなっています。
「手帳とともにある生活」に近づけるために、これまで手帳の役割を増やすことを考えていましたが、それはつまり、既にデジタルでやっているものをわざわざ紙の手帳に戻すということになります。手帳がなくても回っている生活に、手帳を使いたいがために変更を加えるということです。このように言い表すと土台無理なこと(あるいは余計なこと)をやろうとしている感が滲み出てきます。
ところで、現時点で手帳を全くまともに使えていないのかというと、実はそんなこともなく、バイブルサイズの6穴システム手帳に自前のA6紙をセットしたものをずっと使っています。むしろほぼ毎日開いています。
しかしながら、それでも「手帳とともにある生活」を送っている感覚はありません。このシステム手帳の役割は「参照」に限られていて、サッと確認できなくてはならない各種の情報や、あるいはWindowsのショートカットキーや正規表現の書き方など画面の外にあると嬉しい情報といったものを入れています。ほぼ毎日開いてはいますが、新たに書き込むことは稀です。つまり、対話がないのです。
やはり「ともにある」「パートナーである」という感覚のためには対話が必要でしょう。実際にはあくまで壁打ちの壁であって対話相手は自分自身であるにしても、過去の自分を保存し未来の自分に向けてそれを放ってくれることで対話を成り立たせる、その役目を担ってくれるかどうかが「パートナー」と言えるか否かを決めているように思います。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。
いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。
そして、私は後者を選択することにしました。対話相手は既に別のアプリケーションが務めてくれています。なんとなく、無機質なデジタルツールをパートナーとは思いにくいところがありますが、幸い最近は特定のアプリケーションへの愛が深まっています。今ならそれらをパートナーと表現して構わないと思え、そうであれば無理して手帳をパートナーにしなくてもいいだろうと。同時に、「生き字引」として傍に控えていてくれるイメージを持つことで「手帳とともにある生活」として納得がいくのではないかと思うに至りました。
ということで本題です。来年は以下のような編成でいこうと思っています。
アナログ
バイブルサイズ6穴システム手帳
A5サイズ綴じノート(無地)
B5サイズWリングノート
デジタル
Capacities
SoulLinkMap
Dynalist
Googleカレンダー
ノートとしては基本的にA5サイズのノートを使っていますが、これはどうにもデジタルでは表現しがたいことを手で書く(描く)ためのもので、使用頻度はそれほど高くありません。今のところタブレットを使っていないため紙のままになっているのであり、ゆくゆくは消滅する役目かもしれません。
他に雑学的なものをメモする雑記帳として、ページ数の多いB5ノートを用意しています。以前は小さめのノートを使っていたことがありましたが、この用途では紙面が小さいことには何もメリットがないと気がついたのでB5サイズになりました。デジタルツールのどれかに書くことにしようとしていたこともあったものの、検索するよりパラパラ見られた方が良く、デジタルである必要が全くないのでデジタルツールから引き上げました。
デジタルツールについては、スケジュールはやはりGoogleカレンダーに頼ることとして、それ以外の個人的なメモおよびノート要素はCapacities、SoulLinkMap、Dynalistの三つのアプリケーションに担ってもらうことにします。この形態はつい最近確立しましたが、三本柱として私の中で非常に納得感があります。(ツールの話は個人サイト内で諸々書いています。)
三つの役割を書き表すとこのようになります。
Capacities
日々の拠点にする(デイリーノート)
タスクおよびプロジェクトを管理する
「あれ」と指せる類の情報を保管する
SoulLinkMap
Dynalist
文章を書く
URLを保存する
例えば読書メモ、Web記事のメモ、自分が思いついたことのメモ、といったものは全てSoulLinkMapに取ります。所謂「勉強」もSoulLinkMap上でやっていこうかと思っています。
このような感じです。未だ嘗てなくスッキリとした気分でいるので、少なくとも手帳・ノートに関しては気持ちよく新年を迎えることができそうです。
後半も後半の一部しか見ていないのだけど、なかなか見応えのある傑作だなと思った。まずこの時代の話をこの密度で一年間やれたのがもうすごいことなのだろう。
最終回手前の回で公任と道長がぶつかり倫子がまひろに秘密を突きつけたが、「鎌倉殿の13人」でも最終盤にこの感じの「主人公の不義理が責められる」展開があった。普段大河ドラマを見ないからそういう展開がどれほど一般的かわからないけれど、主人公だからといって人間関係上の至らなさがスルーされないというのは見ていて面白い。
道長は大局的に正しいことを言っているが、公任たちからすれば誰のお陰でお前がその地位にいられたと思っているんだという思いも多少あろうし、まひろ一筋すぎて他の人間への心配りがちょっと欠けているせいで盟友の公任たちに余計な恥をかかせたという雰囲気が漂っているのが秀逸。史実では各々にどういう機微があったのかわからないけれど、ドラマとして見事にできている。さすがだなと思う。
月並みだけど人が死んでいく様子を見ると悲しくなるなあ…。柄本佑の演技が本当に見事だった。
いくつもの死や身近な人間の認知症といった悲しみもあり、一方で交わされてほしい会話が各所で交わされ、そして次の世代の活躍と時代の変化の予兆も描かれ、色々に思いを馳せたくなる最終回だった。あらゆるシーンが良かった。
あとまあなんといっても倫子様。思ってたんと違った感じの圧倒的に強いエピソードを打ち明けられてプライドがぼろぼろに…。そんな中で真っ先に娘彰子を思い、権力者の妻として家を守る覚悟を決め込み、最後まで殿を想ってまひろに頭まで下げる。黒木華の纏う雰囲気と演技力が輝いていた。
ロバート秋山も本当に良かったなあ。もう完全に藤原実資にしか見えない。藤原実資役のロバート秋山ではなく、あれこそが藤原実資その人ですという感じ。そのくらいの好演だった。
ラスト、騎馬武者たちが後ろから追い抜いていき、道長が守り抜いた泰平の世が道長の死とともに終わりを迎えようとしているのを、都を出たまひろだけが感じ取ったという描写がとても良かった。ロマンスが核にあるドラマではあったんだろうけど、最後は非常に大河ドラマらしかった。平清盛や鎌倉殿の13人を自然と想起する。
見たのはドラマ全体からするとごく一部だけど、良いドラマであったことを滑り込みで知れてよかった。
SoulLinkMapというアプリケーションに最近出合った。フリーウェアと言えばのVectorからダウンロードできる。Windows用。
ブラウントラウトという魚が国内の川で生態系を脅かしているらしい。
しばしば人間が後先考えずに放流して自然をめちゃくちゃにするということがあるけれど、飛騨市の小鳥川というところではかつて釣り堀用に養殖されていたのが台風の被害を受けて意図せず流れ出してしまったということで、なんともやりきれない気持ちになった。
ちょっと何かあっただけでそうなるような場所で外来生物を扱うということ自体が危険だし、やむを得ずやるなら厳重に壁で囲うなどすべきなのだろう。ウイルスなら「絶対流出させない!」と自然と思えるだろうけど、なまじ目に見えて手で扱える大きさであるだけに、その生き物の運動能力を基準にして「これなら普通大丈夫」で済ませてしまうパターンが多いのだろうと思う。備えにはお金もかかるし。
それにしても、何か事故が起きたり実態が明らかになったりする度に「そんな状態でやってたのか」と驚き呆れることになるわけだけど、「念の為」は心にも頭にも経済にも余裕がないとできないことで、きちんと上手くやれているところの方がむしろ人間という生き物がやることとしては異様なのだろう。
個々人のそういうステータスに依存せずにちゃんとやるために組織というものがあるのだと思うけど、世の組織はあまりそのようには機能していないように思われる。
昨日、金曜ロードショーにて『アナと雪の女王/家族の思い出』『美女と野獣/ベルの素敵なプレゼント』の二本立てで放送されていたのを見た。
それぞれディズニーらしい心温まるエンディングだったし、この季節にはぴったりなのだろう。(なおアナ雪の方は前に見たことがあった。)
それはそれとして、どちらも「気持ちを込めてわくわくしながら準備したものが台無しになった」という展開を経ての「いい話」エンドだったので、深く傷ついて悲しむ様子を繰り返し見させられ、結構心が疲弊した。よくある定番の展開だし、実在の誰かが悲しんでいるわけでもないし、「あーあ」って言って軽く流し見ればいいんだろうけど、一本だけならまだしも立て続けに二本となるとなかなか。
他の人がどういう感想を抱いたのかわからないけれど、組み合わせるならタイプの違う物語の方がよかったんじゃないかと思った。スケジュールの都合上ここに二本突っ込むしかないのだと言われたらそれまでだけど。
それはそうと、美女と野獣の方に出てきたヴィランのフォルテ、多分当時としてはとてつもなく滑らかなCGですごいなと思った。
Capacitiesに自分で定義しているオブジェクトタイプの話。今回は前回(Capacitiesのマイオブジェクト⑥ セルフマネジメント系)までの定義から変更した点について書きます。