Noratetsu Lab

動じないために。

2022年10月

2022/10/31

アウトライナー×つぶやき×平面配置①~経緯編~

 前回メモを取ろうとすると文にできなくなる件、Twitterなら十分に読みやすいメモを書けるのに自分だけが見るメモ用のツールにメモをしようとすると雑に書いてしまうのが不本意だ、という主旨のことを書いた。
 そのことを解決するデジタルノートツールを作ったので、そこに至るまでの経緯とツールの様子について書いていくことにする。長くなるので前半後半に分け、今回は経緯の話をする。


 R-styleで前回の記事を取り上げてくださった。

 こちらの記事内で、次のような指摘がある。

誰が読むのかはわからなくても、「誰かが読むかもしれない」という想定があるだけで書かれるものは変わってくるし、誰も読む可能性がないものはそれに見合った書き方をしてしまう。
 そして「できればツイート画面だろうがメモ用ツールだろうが変わらず淡々と書けるようになりたい」という私の願いに対して、「おそらく叶わないだろう」として次のように書かれている。
もちろん、人間の脳は可塑性があるので、訓練すればできるようになる可能性はある。(中略)あるはメモツールを開いたときに「これはもう一人の自分に語りかける窓なのだ」と強く信じられるようになるしかないだろう。
 その通りだと思う。拝読した時点では「そうだよな~そもそも無茶な願いだよな~」と思ってこの話はお終いにしかけたのだが、いや待てよと思い直した。
 倉下さんは「メモツールを開いたときに『これはもう一人の自分に語りかける窓なのだ』と強く信じられるようになるしかない」とお書きになっており、そうすれば実現し得るという条件でありながら、しかし到底無理であるという感が漂っている。なぜかと言えば、メモツールにはどう見ても「他に人はいない」からである。「強く信じる」ということをしなければ「もう一人の自分」などというものがそこには現れてくれない。「メモはちゃんと取ろう」という心がけすら貫けないのに、もう一人の自分がいるのだとただ信じ続けるなんてできようはずもない。
 しかし逆に言うと、「もう一人の自分がいると自然に考えられるメモツール」があったとすれば、自分の信じる力に頼るという無理をする必要はなくなるように思える。そこをどうにかすれば、どうにかなるんじゃないか? そう思って、自分の意思の如何から離れ、具体的なツールの設計を考え始めた。

 設計の話に移るにあたり、少し話題を戻して、私はどういう状況下でメモが捗り、どういうツールにやりにくさを感じているのかを振り返る。
 前回、Twitterなら捗るということを書いたわけだが、その理由としては大きく二点ある。
 まず「人が見る可能性がある」ということだ。これは倉下さんもご指摘の通りで、読み手がいるとなればそれに合わせて思考が自動的に動いてくれるところがある。フォロワーのタイムラインに流してしまうものであるからには、フォロワーが「なんじゃこりゃ」と思うものは避けたいし(自由気ままに生きたいもののあからさまに迷惑になりたくはないのである)、一応は読めるものにしようと心がけることになる。
 もうひとつは、140字という字数制限だ。これが日本語話者にとっては絶妙な数字で、無駄な言葉を省きつつちゃんと全部埋めれば、ひとつのツイートでひとつの意味を示せるぐらいの長さなのである。それを超過するのは大概意味が整理されないまま複数混在してしまっているということだろうし、100字にも満たないような短さだと情報として不十分な場合が多い。格言的な一言を投げるのでもなければ、考えの言語化というのはそう短く済みはしない。140字を埋めるということは十分な言語化のための丁度良い目安になる。このことにより、140字を埋めようという気持ちになりさえすれば、読み手のいない非公開アカウントでのメモも比較的きちんと書きやすい。(誰しも自然にそうなるはずだと言いたいのではない。)
 この二点は「書く」時に捗る理由だが、Twitterには他にも好ましい要素がある。まずツイートの見た目が良い。ひとつのツイートがひとつのブロックにきちんと収まっており、左にアイコン、上下に周辺情報が書いてある。以前情報カードの特徴について少し考えたことがあるがデジタルツールでの情報カード性および文脈との結びつきの在り方、本文の他にその周辺情報が近くに添えられていると認識の助けになるし、直接その情報を「使う」ということはなくともなんとなく安心感を覚える。(この感覚は人それぞれかもしれない。)
 加えて、ツイート検索をした場合、条件に合うものが抽出された状態でタイムラインとほぼ同じ見た目で並ぶということになるが、これもまた個人的に気に入っている挙動だ。検索結果のスタイルが通常画面と同じ状態で並ぶ、というのはそんなに当たり前のことではないように思う。検索用の画面に従った検索結果用のスタイルで表示される場合の方が多いだろう。このことはTwitterでの投稿がツイートという単位で行われていることで実現できることなのだろうと思う。

 さて、それではTwitterをメモツールにしてしまえばいいじゃないかという話になるのだが、話はそう簡単ではない。Twitterは自分用メモのためのサービスではないし、書くのは良くてもその後操作することが不可能だということがメモとしてはネックになる。ツイートしたデータを何らかの形で取得して何らかのプログラムで加工して…ということは考えられなくはないが、明らかに回りくどいし、適切なメモツールが他にあればそれを使うに越したことはない。
 メモを書いた後に必要になる操作は、メモ自体をより望ましい表現に編集すること、そのメモに新たなメモを足していくこと、他のメモと関連付けていくこと、といったことである。用が済めば消すことも必要だろうし、「消す」と言っても「削除する」のか「アーカイブする」のか「取り消し線を引く」のか「薄い色にする」のか、欲する動きはメモの役割次第で違ってくる。
 小さい単位での操作と言えば、それを得意とするのがアウトライナーであろう。編集も加筆も並べ替えも簡単だし、「消す」操作もいろいろなパターンがあり得て、好きな形を自分で選択できる。ツイートがアウトライナー上に並んで、それを操作・編集できればかなりいい感じだろう。例えばデイブ・ワイナーが公開しているアウトライナー(Drummerほか)は、アウトライナー上からTwitterに投稿できるようになっている。
 じゃあアウトライナーでいいんじゃん、と思いたくもなるが、ところがどっこいそうはいかない。そうはいかないというのは私の性質と照らせばということであって、アウトライナーで全然問題ない人はもちろんたくさんいるだろうし、別にアウトライナーの至らなさを批判しようというのではない。

 現在私がアウトライナーをメインのツールとして活用しづらく感じる理由は、操作性の問題ではなく、ビューが自分の感覚と合っていないことにある。
 アウトライナーは書けば書くほど縦長になっていき、俯瞰するとなればスクロールを繰り返すしかない。「畳む」ということで全体を把握できるのがアウトライナーの売りだが、俯瞰というのは必ずしも「より上位のレベルの記述に絞る」ということで達成できるものでもない。全体が見たいというのは全体が見たいということであって、要約していきたいという気持ちとはまた別なのである。
 また、アウトライナーは「行」を縦に積んでいる状態のため、記述が数文字でも横幅いっぱいでも、その行が占める面積というのは同じである。短いメモが続くと右側には空白が目立つが、縦方向には一行は一行としてどんどん積まれて伸びていく。つまり、情報量に対して使用される面積が大きくなってしまう。その結果、内容としては大した濃さでもないのに全体を見渡せないということになる。
 例えばKakauはカラムの概念によってこのもったいなさを解決している。教室の黒板のように使えて、情報をまとめるにあたってはとても有用なツールである。
 少し前に自分が作ったデジタルノートツールでは、ノードをアウトライン構造から解放し、付箋状に分解して平面に自由に配置できるようにすることを試みた。挙動の実装は一応できたものの、その機能がそんなに嬉しいかというと、案外そうでもなかった。平面配置できるのはいいのだが、平面配置させるということにいちいち手間を使っていられない感じがしたのである。
 ということで、今回考えたのは、アウトライン構造を保ったまま横方向にも表示するという手である。当然、自力で配置するのではなく、プログラムが自動でそのように配置してくれるということだ。というか、ほとんどCSSの力でそのように表示されるようにした。

 つまりまとめると、

  • ツイートのように書き、タイムラインのように並べられて
  • アウトライナーのように操作・編集できて
  • 平面いっぱい活かした表示ができる

というツールを設計しよう、と考えたわけである。(つまりビューは三通りあるということだ。)

 こうしてツールの使用感とビューの問題は解決したとして、肝心の「もう一人の自分がいると自然に考えられる」という状況はどうセッティングすればいいのか。
 これは私個人の経緯が根幹を成すものになってしまうので、同じツールを使えば他の人も同じように感じられるということではないが、とりあえず自分は解決したので記しておこうと思う。
 まず前提として、私は頭の中に「規範意識と合理性に沿った判断をしたい自分」と「自分の性質に正直に従ってカオスに生きたい自分」のふたつが存在しているということを強く感じている。別に人格が分かれているという話ではないのだが、判断基準が二つあるとか、片方の判断がそれと矛盾したもう一方の要素によって台無しにされるとか、そういうことを常に感じるということだ。かつては規範意識と合理性の側が勝ってしまいがちで、自分の本質を抑えつけて「真っ当」っぽい選択をしようとして、その結果精神を壊してしまうことにもなった。よって後者の側を解放しなければならないと思ったのである。
 とはいえ規範意識と合理性を潰してしまえばいいかというとそれも間違っている。あくまで「二つの基準を併せ持っている」のであって、抑圧されてきた側が本当の私というのではないのだ。つまり両方が対等に並ぶ必要がある。
 そこで、私は二つの絵文字を使って、合理性っぽい側と本音っぽい側に分けて自分の思いを整理するようになった。それはメリットとデメリットで分けてそれぞれリストアップ、ということではなく、自分Aと自分Bの対話という形を取っている。交互にセリフを書いていくようなものだ。折り合うまで対話を続けることになる。
 いつもそれをやっているわけではないし、最近は合理性がむやみに決めてしまうこともなくなったので対話の頻度も下がっていたが、今回「もう一人の自分」ということを考えた時、このスタイルを再現すればいいのではないかと思い至った。

 もともと絵文字で視覚的に区別を付けていたことから、Twitter風のビューを採用するなら同様のアイコンを作って可視化すれば都合が良いと考えた。そしてそれをアウトライナー上でもわかるようにすれば完璧である。
 何か思いを書く時には、基本的に自分Aと自分Bのどちらかを選択して書くことにする。すると、どちらかが選択されたからには次はもう一方にも喋らせたくなる。そこでおおよそ交互に話すという形態が成り立つためには、きちんと互いに情報を渡す形にせねばと考える。そうして、ただメモをちゃちゃっと書いていた時よりずっとしっかりしたメモを書き残せるようになった。

 これらを如何にしてデジタルノートツールとして実現したか、というのは次回に詳しく書くことにする。
 文章だけだとあまりにもイメージが曖昧なので、フライングで一枚スクリーンショットを貼っておく。

画像

 これはアウトライナー部分で、右にタイムライン、左に平面配置のビューがある。それらのスクリーンショットは次回の記事で。
 

2022/10/29

勢いを感じる/勢いに乗る/勢いが余る

文章の勢いというものについての投稿を拝読しました。

私も自分なりに「文章の勢い」が何かということについて考えてみたいと思います。


「この文章は勢いがある」「勢いに乗って書き進んだ」「勢い余って失言している」、これらの「勢い」は果たして同じものだろうかと考えると、個人的には全部違うものを指しているように感じられます。
読んだ時に読者を引っ張る、あるいは振り回す力と、書く時に書き手の背中を押す力と、自分の中の偏見や諸々の軽率さを制御できない書き手の迂闊さとは、それぞれ別に考える必要があるのではないかと思うのです。

読んだ時に感じる「文章の勢い」とは何か。客観的に語る術がないので自分の感覚を言葉にするしかありませんが、例えば「力強さ」「繋がりの滑らかさ」「意表を突く展開」「内容の量が多い」「逸脱と復帰が繰り返されている」……といった要素をいくつか含んでいるものに対して「勢いがある」と感じているように思います。「勢いがある」と思っても、それがどういう種類の勢いかはその時々で違っているわけです。
強いて共通点を挙げるとすれば、「自分(=読み手)が想定する自然なベクトルとは異なる方向・量・速度で意味と意味が繋がれ、且つそのことに対して不快感を抱かない状態」だろうかと思います。
この「読み手にとっての勢い」は、前提として書き手にとって勢いがある文章でなければ実現し得ないものかもしれませんが(私にはそれを断定してしまうことはできません)、その一方で演出によって意図的に作る種のものでもあると私は感じています。自分がスラスラ書いたところで、読み手が乗れないのなら読み手の中に勢いは生まれないからです。たまたま書き手が読み手の視点と一体化した状態で書くタイプならば書いた時点で演出が完了しているということもあるでしょうが、基本的には効果を狙って作り上げるもののように思います。

今度は文を紡ぐ時に書き手自身が感じる「文章の勢い」を考えてみます。
まず、逆に勢いを失っているように感じるのはどういう時か。自分を振り返ってみると、「わかりきったことを必要に迫られて書いている時」「調べたものを頑張って噛み砕いて言葉にしている時」「予期しない読みをされないために予防線を張っている時」「そもそも自分でもよくわかっていないことを無理して書いている時」といった場合に「勢いのなさ」を感じます。そういう時は大抵文章を生み出すスピードも落ちますし、たとえスピードは維持されていたとしても気分としては書けば書くほど重たくなっていきます。
ではこのことを元に、軽快に勢いに乗って書いている状態が如何なるものかを考えてみると、私の感覚では「ほとんど全ての文が新たな意味を持っている」という状態だと感じます。その文章を通じて示したい結論に向かって進んでいるかはあまり関係ありません。新たに生み出す文が、そこまでに書いた文には無い意味を持っているかどうかです。
新たな文に新たな意味が宿っているということは、書き手にとっても書いた瞬間に新たな意味を得たことになるでしょう。言いたいことを再現するための文を書き、全体としてはそれを達成するものだとしても、そこに思いがけない新たな閃きが伴っていることがしばしばあります。頭の中のイメージ通りにそのまま書き表しただけでも、書く瞬間までその単語は思いついていなかったということがあれば、その単語によって次の新たな意味が生まれることもあるわけです。
書きたいという欲求を持って、あるいは書かねばという使命感を持って書いている人間にとっては、新たに表現し得る発想を得るのはこれ以上無い「快」ではないかと思います。そして往々にして、新たなものは更に新たなものを呼び込みます。そうして次から次へと文が生まれて繋がっていき、そこに「波に乗っている」「勢いが生まれている」という感触を得るのではないでしょうか。

ついでに「勢い余った文章」について自分で(勝手に)定義しながら考え直してみます。
通常その言い回しを用いる場合はあくまで慣用句として使われるので、実際には「何らかの勢いが余分にある」という意味ではなく、「程度が好ましい範囲から逸脱している」ということを示しているだろうと思います。適切にブレーキをかけないからそうなるのだ、というニュアンスを持たせるにあたり便利な表現ですが、別に「勢い余った」という表現でなくとも良いのだと思います。
慣用句としての意味合いは脇に置いて、先程考えたことを踏まえて「文章の勢いが余っている」という状態を考えてみると、「意味を新たに生み出し過ぎている」、つまり「意味が多すぎて本筋が曖昧になっている」ということなのではないか、と個人的には思います。内容を整理しないまま脱線を繰り返して、無目的に読んだり聞いたりしている分には楽しいとしても、結局どこに向けて何が言いたい話なのかよくわからないまま終わってしまう、そういうイメージです。
この意味での「勢いが余っている文章」は、必ずしも不適切とは思いません。それがプラスに働くかマイナスに働くかは時と場と状況に依るもので、主張を明確にしなければならない文章や講演でその調子では困りますが、エッセイや小説など自由に書くことが許される文章に於いては、むしろそういう形でしか生み出せない意味合いというものもあるだろうと思うので、積極的に勢いを余らせて書くこともあり得ます。普通は同時に発生しない複数の情報をほとんど一度に読み手に渡すことによって、それぞればらばらに渡されたのでは起こらなかった化学反応が読み手の中で生じることもあるでしょう。

考えたことは以上ですが、例えばこの投稿の文章は、書き手としての私にとっては勢いのある文章ですが、読み手にとっては文と文の間に飛躍(ポジティブな飛躍)を感じるものではないだろうと思うので(そういう演出を何も加えていないので)、勢いの程度としては概ね「普通」のものと思います。
私は「文章の勢い」というものをこのように解釈しました。
 

2022/10/20

メモを取ろうとすると文にできなくなる件

 前回に引き続き、うちあわせCast第百十五回に関連して。今回はアイデアメモの取り方がうまくないということについて。


 誰しももはや耳にタコができるほど聞いていることだろうが、思いついたことというのは、その場で書き留めないとたちまち霧散してしまうものだ。思いついた時は「こんなに印象的な閃きを忘れるわけがない」と思ったりするわけだが、多くは一時間も経たない内に「印象的な何かを閃いたはず」という気配だけを残してすっかり消え去ってしまう。閃いた瞬間は何度でも「閃き直す」ことができそうに思えても、結局は一度逃したら永久に戻ってきてはくれないことばかりだ。本当に重要なことは閃き直すことができるにしても、それはごく限られた発想だけだろうと思う。
 この通り思いつきというのは「書き留めないと失われる」ものだが、じゃあ書き留めさえすれば失われないのかと言うと決してそうではない。自分で書いたメモなのに、何日か経つと意味の再現にもたつくようになり、何ヶ月や何年とかいう単位で時間が経過してしまうともはやただの文字列に過ぎなくなる。その文字列を見てその場で新たに何かを閃くことはあっても、メモを取った時の自分の心境やそこにあった文脈を再現することは叶わない。

 なぜ再現できなくなるのか。それは「読める」ように書いていないからだろう。思いつきの前提にある環境・心情・文脈というのは、情報量としてなかなか膨大で言語化は容易でないものなので、メモにいちいち書き添えてはいられない感じがする。しかし多くの場合、それらの周辺情報がなければメモというのは意味を成さない。よって、もし未来の自分に活用してもらいたいのならば、何らかの形で周辺情報は添えておかなければならないだろうと思う。
 例えば日記の中にメモを書いたとして、それを後から読み返すとする。その場合は、他に日記として書いている内容も再読して前提を自分にインストールしたならば、ある程度周辺情報を再現できるのでメモの意味がわかる可能性も高まる。ただその場合、まず「日記を読む」という行為が先にある必要がある。基本的には、日記を読みたいから読み、その副産物として偶然メモを発見できた、という流れになるだろう。
 そうではなく、日記の中に埋もれさせずに「メモを書き溜めておいて、それを活用する」という格好にしたいのならば、「たまたま日記に周辺情報を書いていた」という偶然任せにせずに、他の積極的工夫をした方が良いのだろうと思う。(とはいえそこまでする必要があるのかどうかは人それぞれだろうし、無意味にメモの活用に囚われて「メモのためのメモ」になってもしょうがない。)

 私の中でうまくいっているやり方がひとつあって、それはTwitterを利用することだ。(うまくいっていると言っても、狙ってやって成功したのではなく、考えてみるにこれがうまく働いているじゃないか、と後になって思ったものである。)
 アカウントは公開でも非公開でもいいのだが、何かメモしたいことがあったら、それについて「他人が読める文章で」「可能な限り140字埋める」ということを心がける、これだけである。これだけだが、簡単だと言いたいわけではない。みんなもTwitterにメモするといいよ、という話をしたいのでもない。
 ツイ廃としての長年の鍛錬(?)の甲斐もあって、140字単位の文章にすることにはそこまで苦労はない(ただしたった140字とは言っても何秒かあれば書けるというものではないので、時間はあっという間に溶けてしまうという難点はある)。前回の記事アウトラインではなくキューを作るで書いたように、読み手の存在を意識することでずっと書き続けていられるタイプでもある。前提を共有していない他の誰かが読めるような文章で書こうとするわけだから、自然と未来の自分が読み返した時にその話の前提を取り戻しやすいものになる。
 つまり――思いつきをその場で文脈とともに文章化すること自体は、できなくはないはずなのである。

 ところが。
 もしTwitterの画面を開いていたならばそこに文章化できたメモでも、他の「メモのための場」に書き留めようとするとそれがなぜか全然そうはならない。如何にも「メモっぽく」メモを取ってしまうのである。
 より短く簡潔に書き留めた方が勝ちかのように、ササッと書いて済ませようとしてしまう。つまり「敢えて読み物にしないようにしている」という状態になっている。本当はちゃんと文章化した方がいいとわかっているのに、「メモなんだし」という意識がそれを邪魔している。一秒でも早く「メモを取る」という行為を終わらせたいという気持ちになっている。元の作業に戻りたいという意識がなくとも(つまり暇でも)、メモ書きは可及的速やかに終わらせたい。
 変だよなあと思いながらも、この気分のコントロールは失敗しっぱなしで現在も解決できていない。代わりに少しでも見返したくなる環境にして書き加える機会を増やそうとはしていて、それはある程度は有効に働いているが、結局ツイート下書き画面なら数分かけただけで書けたはずのことを、あの手この手を尽くしてもそのレベルのメモにならないという状態になっている。もちろん腰を据えてノートを作る気になれば充実させることもできるが、それはもう「メモ」から離れた別の領域のものになっている。

 じゃあ全部ツイートにすればいいのではというと、そういう話にもならないのが困りどころで(何しろ整理・管理がしづらい)、できればツイート画面だろうがメモ用ツールだろうが変わらず淡々と書けるようになりたいのだが……どうすべきかは未だわからない。(書いているうちに何か思いつくかと思ったが、残念ながら今回はそうならなかった。)
 

2022/10/19

アウトラインではなくキューを作る

 うちあわせCast第百十五回を拝聴した。メモ術・ノート術・執筆術の違いが語られており、うんうんそうだよねと思いながら聴いていたが、それはそうと自分の「文章を書き上げるために書くもの」はどんなものかを考えると、なんだかよくわからないなという気がしてきた。


 ブログ記事を書く時にエディタとして使っている画面は、上半分がアウトライナーで下半分が本文を書く欄になっている。アウトライナー部分には書くために必要な文字情報が並んでいて、それを見ながら本文を作っているということだ。
 一応話の流れを整理することを念頭に置いて上半分にアウトライナーを配置しているのだが、しかし文章のアウトラインをアウトライナーに書くことはあまりない。全くないわけではないが、アウトライナーを使っている割にはアウトラインの整理が習慣になっていない。アウトラインを作らないアウトライナーとはこれいかに。
 じゃあ何を書いているのかと言えば、まず正確に書かなくてはならない単語や貼る必要のあるURL、内容に関連して調べたものの類がある。資料としての「メモ」および「ノート」だ。その他は、だいたい「書こうとしているものに関連して思いついたもの」が書き留められている。これも「メモ」の範疇だろう。
 あとは本文を書いている途中で没にした部分を「没」という項目の下に並べている。どの箇所から切り落としたのか、なぜ没にしたのかをメモすることも偶にある。
 こんな感じでいつも何かはアウトライナーに書いているのだが、考えてみるとこれらはいずれも文章の道順を整理するものではない。

 アウトラインを整理することを試みたことがないわけではない。でもあまりプラスに働いたことがない。
 もちろん、アウトラインの整理が必要なほどの長さ、あるいはそれだけ体系的な内容のものを書いていないから、ということは理由のひとつではある。そういうものを書こうとしたらやはりアウトラインは整理しておかないといけないと思う。
 ただ――これは比較的長い小説を書こうとした時のプロットなどもそうなのだが――「この内容をこの順で書いたら良いだろう」ということを予め並べておいた時、びっくりするほど書き進められないということが多々ある。書きながら思いついた時の「ピタリとハマる」感じがとても鮮烈なので、それが運任せにならないように前もって用意したいと思ったりするのだが、そうやって予め溜めた「使えそうなアイデア」は、書いている最中に降臨したアイデアとはどうも様子が違っている。(ここでは「展開」についてのアイデアをイメージしているが、その他のネタ全般もそうである。)
 自分が書きたいメッセージや展開からしても、この内容はこのあたりに書いておく必要がある――そのような必然性をある程度の強さで感じて配置しているにもかかわらず、むしろそう配置したことによって、その場所にそれが書けなくなっているようにすら思える。実際その位置が適切かどうかに関わらず、「前もってその位置に置く」ということ自体が自分を邪魔している気がする。仮置きであっても、「置く」という行為が私にとっては既に枷になっているのかもしれない。(一応念を押しておくとこれはあくまで私個人の話であって、他の人もそうだとは全く思っていない。)

 それでは私が書く時というのは何がどうなっているのか。
 抽象的な話になってしまうが、どういう流れで書くかはほとんど「イメージ」で決めている気がする。読み手の気分の流れのイメージや登場人物の心情の流れのイメージ、その他諸々の「読み手」ないしは「作中に生きている存在」の何かしらの流れに沿って書こうとしている。そしてそれらは、「その場に至って初めてその先がわかる」ということが発生するものでもある。
 このことは、Twitterで無限に連投できるタイプであることとも関係するだろう。普段は思うがままにはツイートしないようにしているので実際に表でバカスカ連投しているわけではないが、非公開のアカウントでは、非公開であるにもかかわらず、「読んだ人はこう思うはずだから続けてこう書く」ということを踏まえて果てしなく続いていくのである。
 こういう「イメージ」に沿うという場合に、具体的に何に焦点を合わせているかは自分でも定かではないが、少なくとも理屈で決めているのではないことは確かだ。(ちなみに理屈でやろうとすると書き続けられなくなるということを前に書いた。(ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~
 ほとんど自分語りなのだから自分自身の気分の流れでやっているんじゃないのか、と言うと、それは案外そうでもない――というか、自分の気分はリニアにならないので、自分の気分に沿おうとしてもひと続きの文章にはなっていかない。これも一般的にそうと言いたいのではなく、私の頭の中がめちゃくちゃだという話である。ただしド下手問題シリーズ(アウトライナーの使い方ド下手問題/ブログの書き方ド下手問題)は少し例外的で、あれは書きながら自分が変身しているので「自分の変化」という流れに沿っているが、そうやって自分自身を変える心づもりでいるのでない限りは、自分というより他の存在の流れを思い浮かべている。それにド下手問題シリーズにしても、変身の過程そのもの以外の要素は大方読み手の状況に沿おうとすることで成り立っている。
 こう考えると、何らかの「沿うべき流れ」をイメージしているからには、それがアウトラインになるのではないかという気もしてくる。実際、多分頭の中で「もやもやとしたアウトライン」ができているのだとは思う。前に「アウトライナー的な文章」の印象を感じると言っていただいたことがあるのだが、それは恐らくそういうことなのだろう。
 しかし、それを言語化して並べておくことができるかというと、これが全然そうはならない。自分の頭の中にあるイメージが失われるのが怖いので私としては書き留めておきたいのだが、そうやって書いておくことが功を奏したことはほとんどないのである。先述したように「その場に至って初めてその先がわかる」という事態が発生するせいもあるが、それ以上に言語化するということ自体に困難を感じている。私が何かを書く時にメインとなっているのは、情報として単語を並べて示せる部分ではなく、「繋ぎ」「文と文のあいだ」のところにあるような気さえする。
 結局、いつも即興演奏のように文章を書いている。そして即興演奏を録音したものを後からいじって加工することで、聞くに堪える音源として完成させるというようなことをやっている。もちろん、文章を書くということは多かれ少なかれそういうものであって、予定通りになどいかないのが常であろう。しかしそれにしたって、自分はアウトラインを作るのが下手すぎるし、即興に頼り過ぎている。

 アウトラインらしいメモをまともに作っていない状態でなんとなく何千字かの文章を書けてはいるわけだが、即興演奏的なやり方では流れを掴めない時に全く進まないのではという恐怖があり、アウトラインをうまく作って自分の波に左右されずにコンスタントに書けるようになりたいと常々思っている。もっと長い文章に対応できないのではないかという不安もある(対応する必要に迫られることがあるかどうかは別として)。どうにかして、博打的な要素をなくしたい。
 しかしながら、どうもアウトラインの言語化がしづらい。その上、最初の方で書いたが、「位置づける」ということをした瞬間にその部分がむしろ死ぬような感覚もある。何が起きているのかを言語化するのは現状難しいのだが、とにかくそういうことがある。おそらくは、前もってやったがために実際に生じる流れというものを実質無視することになり、逆に位置づけの根拠が失われているのだろう。

 と、ここまで書いてきて今ふと思ったのだが、もしかすると、アウトラインを「予定」として考えているから駄目なのではないか。それは「固定してしまっているから」という意味ではなく――つまりこれは「いつでも組み直していいのだ」という気づきではない――「ルート」として考えること自体が私と相性が悪い気がする。
 そうではなく、「取り込むものの候補」を「より取り込めそうな順番」に並べただけのもの、として考える方が良いのではないだろうか。候補と候補の間には空間があるイメージで、そこは詰まるかもしれないし、他のものが入るかもしれない。そもそも取り込まないかもしれない。没にしたというより、候補でしかないのだから入らないこともある、という感覚だ。候補と候補の間にその二つが連続する必然性を予め見出そうとしないというのが肝心で、空間があるとはそういう意味である。
 予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。
 これは今までやっていなかったことなのかというと、いや実際には普通にやっていたことなのだが、自分の中ではこの状態は中途半端だという認識があり、そこから更に「アウトラインらしく」整えていこうと一歩踏み出していたのが余計だった(その際の的を射ない感触から、反動で逆に無理して頭の中でなんとかすることが増えていたところに問題がある)。私の中ではアウトラインはもやもやしたもの以外のものにはならないのだ、とある種割り切り、書き進めているその最中で感じ取る流れに「じゃあこれ」と合わせられるように候補を漂わせること、そのうまいやり方を模索していく方が正解のような気がする。流れへの適応によって博打性をなくしていく感じだろうか。
 ただまあ、頭の中のイメージや感覚的なものに頼っていることには違いなく、それが止まったら結局は……。しかしそもそも、その部分が死んだ状態で書いた文章には、最初から存在意義などない気もする。
 

2022/10/10

「何が言いたいのか分からない」ということ

 「何が言いたいのか分からない」と言われることがある、ということを吐露した投稿およびそれに同意するレスポンスを拝読した。(どなたのどの投稿かということは、明らかにした方がいいかどうか判断できなかったので、とりあえず書かないでおくことにする。)


 私も子供の頃言われたことがあったな、ということを思い出した。転校する同級生に気持ちを伝えるために書いたものについてそう言われて、結構悲しかったのでよく覚えている。それでは伝わらないという現実も悲しかったが、自分が迷惑な人間になってしまう可能性に気づいたことの方が恐ろしくて凍りついたように思う。(実際迷惑なのかどうかは別として。大して迷惑ではないような気もする。)
 でも自分自身もその頃何が言いたくて書いたり喋ったりしていたのか正直分かっていなかったので、それはまあそうだよなあとも思った。
 ここから先、私は私自身の体験と反省を言語化すべく書いていくけれども、その性質上、同様の心当たりがある人にぐさぐさ刺さってしまう箇所があるかもしれないので、お読みくださる方はその点ご了解の上この先に進んでいただきたく。(そういうタイプの文章なので、別所ではなく自分のブログに書くことにした。)
 なお、私がそう言われた理由と他の人がそう言われた理由は一致しないかもしれないし、あれこれアイデアはあれど、何らかの正解を提示しようとかいうことを考えてのものではない。

 子供の頃の私がしたその体験の原因はと言えば、大きく分けて次の二つであろうと思う。

  • 抽象的な話をしようとした
  • 自分の中にあるものを厳密に伝えようとした

 どうしてこれがまずいのかと言えば、今考えるに簡単なことで、「普通は抽象的な話を聞く用意などない」かつ「個々人の内面の厳密さなど本人以外には大体どうでもいい」からだ。親なら、教師なら、友達なら、自分のこの「表現したさ」を受け止めて欲しい、と素朴に思うのだが、しかし現実は厳しい。そうしてくれる人もいるけれど、どういう関係性だろうがそういうことはできないという人もたくさんいる。一応は全部聞いてくれるけどこちらが思うほど重要な話とは捉えてくれない、ということもよくある。

 そもそもコミュニケーションとは何なのか、ということの認識に相手と差があると、「何が言いたいのか分からない」という悲劇の発生頻度が高まることは必至だろう。一般的なコミュニケーションがどうなっているかを自分なりに考えてみると、次の要素によって成り立っているように見える(勉強不足で引用してこれないが、ちゃんとした研究は数多なされているはずである)

  • 相手(=仲間)にとって有用な情報を共有する
  • 既に親しい人間同士、または親しくなる気がある者同士の絆を深める、あるいは確認する
  • 相手(=仲間かもしれないし敵かもしれない)との間の線引きを明らかにする
  • 相手または自分たちの生活を決めているメタな概念の軌道修正を試みる

 最後だけ妙に持って回った言い方になってしまったが、要は「政治」とか「ルール」とかについて話すみたいなことだ。社会を維持するための利害の調整が主になるだろうが、もっと広い範囲を含めたいのでこういう言い方になっている。
 何も意味のないような会話でも、それが楽しくてウエーイとかやっているのだとすれば、それは親しい人間同士の絆のためのものである。一方、そんな中にも「集団内の立ち位置を確認させる」というような冷たいやり取りが混ざっており、それは線引きを明らかにすることであると私は認識している。
 敢えて含めなかったのが「相手の内面を理解する」ということだ。なぜかというと、それは自然には行われていないように思えるからである。社会形態上必要が生じてしまうからやる羽目になっているのであって、やらなくていいならやらない、というスタンスの方が現実的には多いように見受けられる。自分語りを聞かされてうんざりするのは、そのタイミングでその相手の内面を理解したいだなんて思っていないからだ。もちろん特別相手のことを好きだとか愛しているだとか推しているだとかなら別だが、それは「一般的なコミュニケーション」からはちょっと外れているように思う。(親が子を愛するのが下手な時、あるいは親同士が愛し合うのが下手な時、ここに子にとっての不幸がある。)
 あくまで一個人の持論に過ぎないが、上に挙げた要素に共通するのは、「何かを変えるためにする」ということだと思う。「認識を変更する」という狭い意味ではなく、「思い出させる」とか「強化する」とかいうことも含めての「変える」である。何がどう変わるためのコミュニケーションなのかが相互に明らかな時、コミュニケーションが自然と成り立っているように思う。逆に、何をどう変えたくて言っているのかが曖昧な時、言われた側は「このコミュニケーションを通して私にどうしてほしいのだろう?」と思って困惑することになるのではないか。よって自分がしたい話の内容が上述の「自然なコミュニケーション」のパターンから逸脱している時、おそらく事前の断りが必要になる。
 私の「抽象的な話をしようとした」「自分の中にあるものを厳密に伝えようとした」という失敗は、そもそも理解が困難な内容だった上に、相手にとって「何が変わって欲しいのか」が不明瞭であり、そのコミュニケーションの意義自体が謎なものになってしまっていた。せめて「今から私の中にある抽象的な概念の話をするからそれをちょっと覚えておいて欲しい」というような要求を予め示していたなら、なるほど覚えておいて欲しいのかと思って聞いて(あるいは読んで)もらえる可能性も生まれたと思う。その時相手がすべきことは「覚えておく」ことだというのが了解されるからだ。(もちろん性格や関係性によっては拒否されることもある。)

 必然的に、相手を変えたくないと思いながら話す人は「何が言いたいのか分からない」の発生率が上がるようにも思う。自分は自分の思いを言葉にしたいだけで、相手に影響を与えたいわけではないのです、となると、相手を変えなさすぎて、「何が言いたいのか分からない」に陥ってしまう。そうなった時、相手を変えたくないという謙虚さが邪魔をして、相手にとっては「この時間を使って自分は何を伝えられたのか?」と戸惑うことになる。誰しも自分の時間や思考を有意義に使いたいだろうし、このズレは対人関係上の負の影響を生じかねない。そう考えると、コミュニケーションとは相手を変えることだ、と割り切ったほうがよさそうな感じがする。
 例えば自己主張が強い人間の「言いたいこと」が明瞭なのは、一言で言えば他者に要求しているからであろう。「お前が、こう変われ」というメッセージがはっきりしている。その言い分が理不尽で目茶苦茶でも、要求は明確だから「何が言いたいのか」ということにはならない。他方、厭味ったらしく婉曲に何かを言う人間がいる時に「何が言いたいんだ!」と腹が立つ場合があるが、それはその人間が自分に何かを要求しているということは明らかに分かるものの「どう変わることを要求しているのか」がぼかされていることへの苛立ちだろう。

 ところで、「何が言いたいのか分からない」と「何を言っているのか分からない」は、似ているが少し違うかもしれない。多分混ざった状態で使われているので、どちらを言われたからどうということではないのだが、「何を言っているのか(=意味)は分からなくはないが、何が言いたいのか(=意図)は分からない」というパターンも存在するであろうことは気に留めておいた方が良さそうだ。
 考えてみるに、「何が言いたいのか分からない」とは言われたことのない人々が、じゃあ「何を言っているのか分かる」ように話すことができているのかというと、それは到底そうだとは思われない。でも、何を言っているのか分からなくても、何がしたくてそう言っているかが分かれば、相手にとっては「何が言いたいのか分からない」ということにはならないのである。
 「何が言いたいのか分からない」と言われた時に「何を言っているのか」の解像度を頑張って上げようとしてしまうケースをたまに見かけるが、相手が分かりたいのは「何を言っているのか(意味)」ではなく「何が言いたいのか(意図)」の方なので、多分「解像度」はいくら上げても功を奏さないだろうと思う。
 逆に自分が頑張るのではなく、「何がしたくてそう言っているのか」を察知するのが得意な人を選んで話せば、誰でも「何が言いたいのか分からない」から脱することができる。あるいは、「何がしたくてそう言っているのか」を分かるまで辛抱してくれる人と話せば、「何が言いたいのか分からない」などと匙を投げられることはなくなる。

 何か記事的なものを書いて発表した時に発生するパターンも考えてみる。
 読み手は書かれたものをいつも理解できるわけではないが、書き手に対して「なんだこりゃ?」と不満を抱く場合と、全然そうはならない場合とがある。つまり「何が書いてあるのか」が分かるかどうかは、「何が言いたいのか分からない」という感想を持つかどうかとは然程関係がないような気がする。
 文章の場合もやはり、それを読む前と読んだ後で読み手に変化があるかどうかにかかっていると思う。話が動くかどうかも大事だが、読み手をどこかに運べるかどうかが重要なのである。本当は何が書いてあったのか分からなくとも、読み手が自分の中に変化を感じれば「何が言いたいのか分からない」という感想にはあまり至らないように思う。
 文章を読んだ読み手が、書き手が自分に何を要求していたのか感じ取れなかった時、その責任が書き手にありそうだと思えば「何が言いたいのか」と責めることになるだろう。一方、「多分書き手はちゃんと書いているけど自分が読めていないから分からないのだ」と思えば、書き手を責めるようなことにはならない。自分が分かるまで読み直そう、となる。
 同じ文章を読んでも読み手の感想に差が出るのはこの線引きが読み手それぞれで違うからだろうと思う。そしてある程度は書き手の側がコントロールすることができる。そう単純なことではないと思うが、例えば自信なさげに書けば書き手のせいになりがちだし、堂々としていればそうなりにくいように思う。
 あと感想を伝えるという時などは、「私はこういうことを考えました」だとそれが相手との意気投合に繋がらなかった時には「はあ、そうですか(それで私はどうすれば?)」になりかねないが、同じことを書いても「こういうことを考えるきっかけをくれてありがとうございました」と結べば相手は「いえいえ、お役に立てたようで良かったです」と返すことができる。考えた内容に対して反応する必要がなくなるからだ。相手と意気投合できる確信がない時、あるいはそうならないことを分かっていつつも感動を伝えたい時などに有効なやり方だと思っている。(なおこれは相手に直接文章を送るような場合の話であって、ブログなどで誰かの投稿を自分の場に引用して自分の話をする場合は「私はこういうことを考えた」だけで構わないと思う。)

 私自身、今現在は「何が言いたいのか」を伝えることにはあまり困っていないが、二十歳過ぎくらいまでは全然駄目だったように思う。相手との自然なコミュニケーションとして相応しくないメタな領域の思考ばかりがぐるぐる回っていて、それを伝える術が分からなかったし、伝えようとして通じなかったということもあった。相手に要求するということ自体が下手過ぎて、自分が他者に対してどうして欲しいのかを自分で認識することも難しかった。それゆえひとつひとつ改善の手を打つということができず、不満が溜まり続けて急に爆発して自分も周りも困り果てるということもあった。(この記事を書き始めるまでその出来事がこの話と関係するとは思っていなかったが、ここまで書いてきて、あれはこのせいだったなと思い至った。)
 その後少しずつトレーニングを積んで今に至るが、それについてはまた機会があれば書きたいと思う。続けて書くかもしれないし、しばらく後になるかもしれない。
 

2022/10/09

ツールを「使いこなす」という余計な構え

 一ヶ月ほど前に、最近Scrapboxを自然に使えるようになったという記事を書いた。「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox
 今回は、要するに何が私を邪魔していたのか、ということについて考えようと思う。


 Scrapboxに限らず、色々と魅力的な機能を持つ「良さげな」ツールを目の前にした時に私の中で発生するのが、「このツールをどう活かそうか」という気持ちである。
 そのツールならではの特徴を掴み、今までは実現できなかったけどこのツールならできそうなことをあれこれ想像し、生活が一新されることを願っている。そうしている時というのはわくわくと胸躍り、まだ何もしていないし何も得ていないしその後も何も欲を満たすものを得られるでもないのに、なんだかすごく色鮮やかな時間を過ごしているような気分になる。それは悪いことではないと思う。
 そう期待を抱くことは悪いことではないが、しかし「それならでは」にこだわるというのは、つまりそのツールを「それならでは」縛りで使うということでもある。「他のツールでできるならこれでやる必要ないのだし」などと言って、なんとしても「他のツールではできないこと・やりにくいこと」をやろうとする。もちろんその気持ちにはっきりした自覚はなく、後からそうだったとわかるのが常である。
 多機能で何にでも対応しうるツールとなれば、それを活かして何にでも対応させようとしてしまう。「こうすればあれにも使える」「ああすればこれにも使える」と考えて、全部ひとつに放り込もうとする。「このツールでもやれる」という可能性を「しかしやらない」と切り捨てるのはなかなか難しかったりする。

 そもそもは、自分の中に何らかの必要があって、それを実現するためにツールを欲していたはずである。ならば、その必要を満たしさえすれば、本当はもうそれでいいはずなのだ。他にどれだけ機能を搭載していようが、それをうまく使いこなさなければならない義務はない。せっかくの優秀さを活かしてやれなくても、別に全然構わないのである。自分には必要ないのだから。
 これがツールではなく人間なら話は別である。使っている人間を十分に活かしてやらないのは、その相手も人生のある主体であるがゆえに問題が生じうる。でもツールは主体ではない。使いこなそうがこなすまいが、ツールは何も損をしないし(主体ではないのだから)、製作者も別に困らない。製作者は私がそのツールをどう使っているかなど知る由もないのだ。

 以前、手帳の使用例を特集した雑誌を読んでいて、誰の手帳だったかはもうわからないが、わざわざ日付の入った手帳を選んでおきながらそれを一切無視して使っている例を見た。まずその紙面に書き込んだタイミングというのがその日付の範囲と全く合っていなかったし、一応スケジュールの類を書くことが想定された横罫のページだったかと思うが、そこに縦線をフリーハンドで書き足して日付とは全然関係のない何かの表にして使っていた。
 何かが印刷されていればそれをどう活かそうか考えてしまう私にとっては衝撃も衝撃の使い方だったのだが、まあ確かに、そう「しなければならない」というルールなどどこにもない。印刷があろうがなかろうが関係ないのである。他に気に入った要素があって(あるいは誰かに貰うなどして)その手帳を選択し、そしてその手帳の紙面にはたまたま自分には不要な印刷が施されており、だからそれは無視する、それでいいのだ。

 一時期、紙のノートの罫線を憎らしく感じて、敢えて無視して(というか、敢えて「反して」)使っていたことがある。別にノートが「私のガイドに沿いなさい」などと命令してくるわけではないのだが、私の中の規範意識が私より罫線を優先するので、それが心底気に入らなかったのである。
 自分自身に腹を立てた結果、私の中にある「こう罫線があったら普通こう使う」という「常識」を破り捨てるべく、しばらく目茶苦茶に書いていた。それでもおそらく然程の奇抜さではなかっただろうが、紙のノートについてはその時点で割と心理的解決を見た。今は、そもそもノートをあまり使っていないこともあるが、ちゃんと使おうとかいう意識とは距離を置いている。

 しかしである。そういう格闘を経たにもかかわらず、デジタルツールではまーた同じことを繰り返したわけだ。
 デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。
 つまり、検索のしやすさやリンクの張り方にこだわったり、表記揺れを撲滅したくなったり、データベースとして相応しいデータの在り方に近づけようとしたり、そういった意識が恰も当たり前のこととしてツールの使い方に入り込んでくるのだ。
 その意識は、自覚して制御できていればこそ快適なデジタルライフに貢献するが、無意識下で乗っ取られてしまっているとひとりの人間が現実的にやっていける範囲を超えて「きちんとデータを整える」ことを自分に求めることにもなり、便利なツールのはずが「理想の形で運用できていない」として苦しめられることになる。
 一体私は何をしたくてそのツールを使い始めたのだったか?

 さて、ツールを自作することを勧めたくて書くのではないが、デジタルノートツールを色々作ってみて変わったことというのは書き留めておきたい。
 冒頭に示した過去記事「いずれでもない」の受け皿としてのScrapboxでも書いたが、私はデジタルノートツールとして、用途に合わせて複数のツールを作っている。現在アクティブに使っているものだけでも8つあるだろうか。それぞれ特定の用途に特化しているので、汎用性は無い。つまり「うまく使う」という尺度は存在しない。できることは限られており、それしかできないのだから、「使う」か「使わない」かの二択しかないのである。
 「うまく使う」という概念が無い代わりに、「うまく作る」ということは必要になる。そして「うまく作る」というのは、自分のために作るものである限り、「仔細に亘り自分の要求にフィットしたもの」を作るということになる。実現したい動きというのがまずあり、それを再現するのである。
 そうして作った時、その事前の想像を超えた活用法というのは基本的には生まれない。「このツールで何ができるかな」とわくわくと空想することはないわけである。
 つまり何が起きたかというと、使いこなすものというのが「ツール」から「プログラミング言語」にスライドすることで、ツールを使いこなさねばという気持ちは自然と消滅した、ということになる。

 その後Scrapboxに戻ってきた時、以前はあれほど「Scrapboxらしさを活かしてやろう」などと考えていたのが(そうだったというのは後から気づいたことである)、全然そういった熱意が湧かなくなっていた。まあとりあえずここに書いとくか、という感じである。リンクも張ったり張らなかったり。UserCSSにも前ほどは執着していない。
 内容面でも、「分類の力によってワンアクションで的確に取り出したい」と感じるような情報は全部自作のデジタルノートツールに移ったことで、Scrapboxは「探そうと思えば探し出せるもの」、つまり「一瞬で取り出せることを保証しなくていいもの」の置き場所へと変化した。
 一瞬で確実に取り出せるということを保証しなくていいなら、細かくルールを決めてタグを用意するというようなことはしなくていい。何も覚えておく必要はなく、その時の気分で使っていいことになる。つまりテキトーである。そもそもそういうふうに使って成立することがScrapboxの売りだったような気がするし、最初からそのように使っている人からすれば「どうしてそうおかしな回り道を…?」と首を傾げてしまうところかもしれない。

 まあ具体的にScrapboxというツールをどう捉えているかはここではどうでもいいことである。どのツールに対しても「そのツールならでは」を掴んで活かそうと考える癖が自分にはあり、しばしばそれによって自分を迷走させているという構図が問題だ。
 そこから抜け出すには、意思の力に頼るのではなく根本的に違う構造に沿うことが必要だったのだろうし、それがデジタルノートツールの自作を通して知らず知らずのうちに達成されていたのだ。紙のノートの時は意識的に荒療治を施したわけだが、デジタルツールに関して自分を縛っていたのは「罫線」のような単純明快な規範とは違ってもっとメタなレベルのものであったことから、仮に自覚があっても紙のノートでやったようにはできなかっただろうと思う。

 それでは新たなツールに夢見る気持ちもなくなってしまったのだろうか?
 半分はそうで、半分はそうではない。「私の生活を変えてくれるかもしれない」というような期待を抱くことはなくなった。このツールをこう使えばこんな理想の形になるかもと夢想しても、そしてそれが正しい想像だとしても、「こう使えば」の部分に無理があるのはもう解っている。自分の期待に、(ツールではなく)自分が応えられないのである。
 代わりに、新しく登場したツールを見た時、既に自覚している自分の要求に照らして「あ、この発想をこう借りればあれが実現できるかもしれない」ということを考えるようになった。ツール全体に何かを期待するのではなく、新たなツールが新たに示した機能の核にあるアイデアを取り出して転用することを検討するようになったのである。それはそれでわくわくした気持ちになる。
 しかし転用とは言っても、自分のツールに取り入れるならその機能は自分で一からコードを書いて作らなくてはならないので(何しろ新しいツールが具体的にどういうプログラムで動いているかは全然わからないのである)、かつてEvernoteを使うにあたり失敗したような「安易に真似をする」ということはできない。既に作った機能との兼ね合いも踏まえて、よくよく考えて組み込まなくてはならない。実装のためには勉強も要る。そうなると、必然的に「その場の思いつきで自分が振り回される」ということもなくなっていく。思いついてから実現するまでにそれなりの時間と労力が必要になるからだ。

 一連の変化を一言でいうと、「落ち着いた」ということなのかもしれない。自分の閃きや期待が自分をブンブン振り回すことが随分減った。中心にあるのはツールではなく自分自身であり、ツールは道具としての相応のサイズ感になって自分の周りに存在している。必要な時に必要なだけ使えばいい。
 なんとも当たり前の話だが、ここに来るまでに呆れるほどの年月を費やしてしまった。まあ、それでも落ち着きを得るということができたのだから御の字というものだろう(本来の意味での「御の字」である)
 

2022/10/07

エッセイ集団という夢想

 うちあわせCast第百十四回を拝聴した。テーマは「面白い記事とは何かについて」。


 主題の「面白い記事とは何か」ということについては、持論はまああるもののあまり語ってもしょうがない感じがするので言及は避けることにして、今回はブログビジネスへの夢想を書くことにする。
 うちあわせCastを聴く限り、Tak.さんも倉下さんもほぼ同じイメージの記事(Tak.さん曰く「個人の総合的な表現」)を「読みたい」と思っていらっしゃるようで、多分私が読みたいのもそういうものだろうと思う。で、わざわざ欲するということは、そういうふうに書いている人がもう少ないし、更に「面白く」書ける人となったらもっと僅かだということだと思う。端的に言って、レアなはずである。(自分にはからきし商才がないのでわからないが、小規模でも確かな需要があってある程度レアなら何かしら商売にならないはずがないのでは、というのが素人の素朴な感想である。)
 多分そういう内容を十分な質で書いている人の数というのは実際にはある程度いると思うが、出会える可能性がなさすぎるのでレアな存在にならざるを得ない。こういう内容に対してジャンル名が存在していればそれで検索して探すということも可能だが、現状そうではないので、どこをどう通ればそういう存在に行き着くのかがわからない。自分の周辺に限って言えばかろうじて「知的生産」が合言葉として働いているが、その四文字では接続し得ない人というのがたくさんいるはずである。
 商売にならないはずはないとは思いつつも、うちあわせCastの中で倉下さんは「個人の総合的なブログでブログビジネスっていうのは多分無理かな」と仰っており、それはまあ、現状そうだろうなと私も思っている。自分の記事を面白いと思ってもらえることはあっても、直接的にビジネスにするのはほぼ無理であることは明らかである。アフィリエイトが無理なのは当然だが、内容に価値を持たせること自体が困難だ。
 なぜか? 私が無名だからである。

 ところで、誰でも知っているレベルで有名なYouTuberとしてQuizKnockというグループがある。
 個人的にYouTube自体にあまり興味がないため動画はほとんど見たことがないが、食事時のテレビ番組に出ているのを見かけただけでも六、七人の顔と名前は覚えてしまった。どの人も感じが良いので、素朴に応援の気持ちを持って見ている。
 QuizKnockが軌道に乗れたのは、(コンセプトの良さや戦略の巧みさが核にあるにせよ)伊沢拓司氏が築き上げた自身のネームバリューによるところが大きいのではないかと思うが、それによって、今ではQuizKnockというグループ名にネームバリューがついている。伊沢拓司氏の存在を借りなくても、「QuizKnockの○○です」と言えば「おお、あのQuizKnockの」となる。
 「QuizKnockの○○です」と言って登場してくる人々をほほうと思って眺めてみると、自然とそれぞれのキャラクターを覚えようとするわけだが、じゃあそれぞれがもし肩書なしにただ「高学歴でクイズが強い人」というだけで出てきたらどうだったかというと、まあ多分ほとんど覚えられなかっただろうと思う。そういう出方の場合、いち視聴者からすると番組が気まぐれに呼んできたぽっと出の「ちょっと賢い若者」でしかないからだ。個性に変わりはないのに、視聴者の中での存在感は多分全く違ったものになる。
 なぜQuizKnockと名乗れば覚えられるかと言えば、QuizKnockという名前に「信頼」があるからだろう。私個人としては別にQuizKnockを殊更素晴らしいと思っているわけではないのだが(素晴らしいものじゃないと思っているという意味ではなく、そう崇めるほどよく知らないのである)、それでも、伊沢拓司という人の人間性は既に知っており、そしてその後QuizKnockの一員として出てきた人たちの雰囲気の傾向から判断するに、「安心して見ていていい人たちだ」と私は学習している。私の中では「安心して見ていられる」という時点で価値があるので(何しろほとんどがそうではない)、QuizKnockは信頼に足る存在である。
 所属しているライターの一覧を見ると、結構な人数が在籍している。誰のことも知らないわけだが、まあ多分、QuizKnockに属しているのだから言葉に神経を使うタイプの信頼できる人だろう、と楽観的に判断している。(実際に記事を読んだりすればその時点で評価し直すことになるが、最初から疑ってかかる態度で見る気はないということだ。)

 さて。ブログの話に戻るが、ブログの面白さはブログ記事の内容で決まる一方、ビジネスとして価値を決めるのはほとんどネームバリューの力だろうと思う。
 面白さというものの質が「誰でも話題にしやすいもの」であるならば、面白さがネームバリューに直結するわけだが、「うまく言えないけど、なんかいいよね…」みたいなものではいくら面白くてもなかなかネームバリューには結びつかない。いっそ「わけがわからないけどなんかウケる」という種類のものなら、その狂気に対する感想が一致するので「あのわけわからなくてウケる人」という共通認識が生まれる。でも、別に狂っているわけではない素朴に良いものとなると、どれだけ良かろうが目立つところがないので駄目だろうと思う。しかも、ネームバリューを得るためにセルフプロデュースを巧みにやってしまうと、その「セルフプロデュースしてる感」によって素朴な良さが消えてしまいかねないという難しさもある。
 つまり、「個人の総合的な表現」はネームバリューには繋がらないのである。「知っている人は知っている例のあの人」くらいにはなれるかもしれないが、全然ビジネスにはならないだろう。面白さを無償でばら撒くだけである。本にまとめるにしたって、たとえ内容が「素直に読めば面白いもの」であっても、「作者は『評価に足る人』だ」という保証がなければそもそも好意的には読まれないと思う。

 そこで考える。もし、「ここに属している人なら面白いぞ」という保証を持たせられる、「個人の総合的な表現」集団があったとしたらどうか。
 面白いライターを呼んで作られたサイト、というのならこれまでも数多存在しているが、サイトが主体というよりは、サイトも作るにせよ帰属意識のある集団というのをイメージしている。積極的に「個人の総合的な表現」について考え、それを突き詰める覚悟を共有している集団である。集団であることによって、それぞれが自分の関心に沿った記事を書くだけでなく、ブログについて考えるとか文章について考えるとか、そういうメタな視点を提供できるというようなイメージだ。
 想像でしかないが、この形式には難しさもあるだろう。面白さを保証しなければならないので、文章の質は集団内で厳しく査定される必要がある。集団のネームバリューを落としたら意味がないのだから、必ずうちあわせCast内で語られていたところの「面白い記事」でなくてはならない。仲良しグループの同人ごっこではやっていけない。そしてウケ狙いでコンセプトが外れてしまってもいけない。逆に内容の自由度を失ってもいけない。あらゆる匙加減を徹底する必要があるだろうと思う。
 あとはQuizKnockにおける伊沢拓司氏的な存在も必要そうだ。「その人が選んだのだから、その人と同じくらいの質の書き手なのだ」という価値を持たせられる大黒柱がどうしても要るだろう。特に文章だと「見りゃわかる」というものではないので、「事前に信頼を置かせる」というのは多分かなり重要だ。それを出版社にやってもらうのでないとすれば、やはり個人のネームバリューが不可欠と感じる。
 集団化を試みなければ「すごいあの人」が単発でちらほら出るだけに終わる界隈でも、QuizKnockが教育的コンセプトを核にした集団化によって「『偶々有名になれたクイズプレーヤー』がバラバラにいたクイズ界」に変革をもたらしたように、それまでと質の違う新たな世界を作れるのではと思う。というか、むしろ今が特別バラバラな時代なだけで、明治・大正の同人もそうだったのかもしれないし、梅棹忠夫らの時代の「当たり前に相互に言及し合う間柄」もある種そういうものだったかもしれない。

 面白い記事が増えるためには、面白い記事を書くことが何かをもたらすことを期待できる必要があると思う。そんなの何もないけど、まあ運が良ければ良い出会いがあるし、とりあえず書いて欲しいよね、と言っても……まあ多分、今より増えることはないのだろうと思う。何も希望が無い中でわざわざ書くような奇特な人間は既に書いている気がする。そして奇特でない人が耐えられるほど今のブログは良い場所ではないし、多分いくらか書いてみてもフェードアウトしてしまうだろう。
(ちなみにトンネルChannelという試みは、小規模ながら読者と出会いを保証しているから書く気を起こせるのだと思う。呼びかけた人や趣旨に賛同した人が、責任を持ってそれを維持できる範囲だから成り立つのではなかろうか。)

 奇人変人だけが残った結果、あるいは文章離れが進み過ぎた結果、「個人の総合的な表現」としての文章表現が逆に面白く思われる世界になる可能性はゼロではないとは思う。そうなれば読まれる機会も出会う機会も認められる機会も増え、書く甲斐のある環境が再興するかもしれない。
 個人的には、それには牽引役となる存在、それも「集団」が必要な気がしている。やりたいのは「"個人の"総合的な表現」であっても、そのコンセプトを共有する集団――早い話が「仲間」という存在――があれば、この剣呑なインターネットで個人が表現していられるための策として打てる手は増えるのではないか、ということも思う。

 イナゴが去り寂寞たる荒野となったブログ界隈に、一周回って春の芽吹きが訪れる日は来るだろうか。
 

2022/10/03

飽き性だから凝ったツールを作る

この記事はこちらの記事へのレスポンスです。


ブログ記事にご感想をくださりありがとうございます。はじめの方では身に余る賛辞をいただき、大変恐縮しております。

自分なら違うデザインにする、とお書きになっている二点についてお返事を書こうと思い、コメントではなく記事の形で書くことにしました。
Goさんと私の感覚の分岐点になっているであろう点として挙げてくださっているのが、次の二点でした。(勝手に換言して書きますがお許しいただきたく)

  • 凝っていて複雑ゆえに飽き性だと続かないかも
  • ログは重視してないから要らないかも

実のところ、「私もそう思う!」という気持ちです。というか、私もそうなので、これまで使ってきた全てのツールが続いていなかったりします。似た複雑性のツールは数多ありますが、それらはその複雑性ゆえ継続は悉く挫折しました。なぜなら、ツールの複雑性がそのまま私にとって複雑だからです。
ところで、「違う考え」を提示していただいたことに対する返答の形なので、変に緊張を呼びそうだなと心配していますが、全然反論や弁明などではなく、Goさんのご意見を元に私自身の解像度を上げることを試みようと思っています。お返事と書きましたが、ほとんどただ自分語りをすることになりそうです。

突然ですが、私は極度の飽き性です。だいたい三週間または三ヶ月サイクルで「形式」に対して飽きてしまい、種々のデータがばらばらの形式であっちこっちにあります。
飽きる理由は多分いくつかあって、「理想の格好良さに沿うべく無理している」ということもありますし「傾けられるエネルギーに波がある」ということもあり、そもそも「ただ飽きて続けられない」ということもあります。経験上、「ただ飽きる」のは「自分以外の人間が作った事物」に対してより高確率で発生します。というか必ず発生しています。偏屈過ぎて、自分以外の存在の感性に合わせ続けていられないのです。
あとは、「より良いものを思いついてしまった」ということも大きな原因になります。そうなると現行のやり方は全く気に入らなくなってしまうからです。「モノ」には愛着もわきますが、私の場合「やり方」には全然そういう愛着・執着を抱くことができないのです。
あまりにも飽きっぽくて生活にある種の支障が出ているので、自分の「飽き」について随分詳しくなってしまいました。すぐ飽きる自分に悩まされているのが嫌で、「じゃあどうしたら飽きないんだよ」と問い続けている状態です。

飽き性である自分に対してできることを考えた時、「飽きないようにする」と「飽きても良いようにする」の二通りのアプローチがあるでしょう。
「飽きないようにする」にはどうしたらいいか? 具体的な方策は人それぞれの性質次第ですが、私の場合は上述したような理由があるので、

  • 格好良くするための無理をしないようにする
  • 熱意の多寡に影響されないようにする
  • (人が作ったものは確定で飽きるので)自分で作る

の三点が対策になります。
一つ目を言い換えると、「無理をしないと格好良くならない仕組みは駄目」ということでもあります。これは特に汎用的なツールを使う時に発生します。紙のノートでもそうです。私は情報のレイアウトを超が付くほど重要視していますが、自分が望む見た目を作らんとして、記入するたび認知資源を使う必要があるのがまずいのです。なので、JavaScriptの力で自動で整えてもらうことにしました。
二つ目の達成には、やる気に満ち満ちている時でなくても維持できるような簡単さであることが必要です。私の記事を読んでくださった方は、多分ツールの見た目が複雑そうなのでここがネックになるとお感じになったのではないかと思いますが、むしろここを確実に解消するためのあの複雑さ(仮)なのでした。
あんまり具体的に書くとさすがに冗長なので割愛しますが、例えば「作成画面を開いてから必要項目をチェック」だと面倒くさくて絶対飽きるので「この項目をチェックした状態で作成画面を開く」というボタンを設置する、というようなことをしています。普通のタスク管理ツールは「作成画面を開いてから情報を編集」にならざるを得ないと思いますが、それだと私の場合100%飽きることを知っています。
なので、裏で動いている処理の複雑さや見た目の「なんか選択肢と記入欄が多い」という印象とは裏腹に、「私の動線」からすると逆にシンプルになっています。これは私が作って私が使っているからのことであり、それぞれがそれぞれの設計をしないと意味がないところだと思います。

ここまでは「飽きないようにする」ための対処法ですが、「飽きても良いようにする」ことも必要になります。自分以外の人が作ったツールには必ず飽きますが、じゃあ自分が作ったツールには飽きないかというとそうとは限りません。最初の方で書きましたが、「より良いものを思いついてしまった」が発生したらもうおしまいです。そしてそれはしばしば発生します。(思いつくこと自体は喜ばしいことです。)
何かのシステムでやっていて飽きた時に困るのは、そこまでの形式で作ったデータが他のツールにそのまま持ち越せないことです。しょうがないので新たに始めることになり、まあ結局はそんなに生活に支障はないのですが、気持ちとしてはかなりの不満を抱える羽目になっています。ツールを替えてしまえばそれまでのデータは参照しづらくなり、バックアップデータを残したとしても、それらはもはや「記録」ではなく「残骸」になっています。
やりようは技術次第で色々あるかと思いますが、私の場合は、JavaScriptで処理をしているのでJSONファイルが救世主になりました。今後も自分でツールを作ることが前提になってしまいますが(それは私の中では先述した通りもう前提なのですが)、見た目や編集の方法に飽きるとしても、必要なデータの種類はあまり変わらないことから、JSONファイルを使い回せばツールを替えてもデータを持ち越すことが可能です。
実際、(タスク管理ではないツールですが、)データはそのままにツールの設計を大きく変えて作り変えたものがあります。新旧ツールの間に一応互換性があるということです。やがて改良の末に旧ツールには戻せない形になることはありますが、大事なのは旧→新の移行なので、逆向きの可否は重要ではありません。(それも旧ツールを弄ればどうにでもなります。)

長くなりましたが、「飽き」についてはこのくらいで、次はログの話です。
一応ずっと何かしらの形でログを取っています。飽き性ゆえにログの形式はバラバラです。というか、どこにいつのログがあるのかももはや定かではありません。どこかにはあるはずですが、取り出してくるのは容易ではない状態です。とても不本意です。
そもそもログが必要かというと、正直なところ、情報としてはあんまり必要性は感じていません。よく自分の傾向を振り返るために記録を見返すというような話を聞きますが、私はそういうことはほとんどしません。あまりにもフォーマットというものに飽きるので飽きる周期はどのくらいかを知るために見返したことはありますが、多分、それだけです。そしてタスクの実行記録に至っては、全く役に立った記憶はありません。記録を活用していないのです。
でも、私はこれからもログを取ります。データがどこにいったのかさえもはや判らないにもかかわらず、これまでログを取っていたことは私には大きな意味があります。
以前、私は精神の健康を損なってほとんど何もできなくなったことがありました。虚無感、無力感、無能感に襲われてまあ大変だったのですが、それ以来、頭の中を「私は何もできていない」という認識が埋め尽くすようになりました。今もそうです。多分一生残る後遺症だと思っています。(回復する人もいると思いますが、私には恐らく死ぬまで残ります。)
仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。
証明書を発行してしまえばあとは安心してその証明書は放置です。ちゃんと生きている感を実感したい時だけ眺めています。

盛大な自分語りになってしまいました。個人的なこと過ぎて自分のブログにすら書く機会を見出だせていなかったことですが、えいやと書いてみました。
もしかすると他の人の目には私が如何にもシステマティックなものが好きそうに映っているのではという可能性を感じなくもないのですが、実情としては、多分全然そうじゃないのだと思います。システマティックに生きなくて済むシステムを作ろうとしているような気もしています。
 

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