Noratetsu Lab

動じないために。

2021年6月

2021/06/30

発想を文脈から解放するには④~余談~

 ④の「よん」と余談の「よ」がちょっと掛かっているかな、と思ったけどそうでもなかった。
 さて、「発想を文脈から解放するには」という一連の話としてはとりあえず①の「元の文脈を保存する」、②③の「転用し得るフレーズを作る」というふたつの結論で完結しているのだが、余談があるのでついでに書いておきたい。


 そもそもこの話を書こうと思ったのは「文章からできる連想ゲーム」と「アウトラインからできる連想ゲーム」の質の違いを考えようとしたからであった。それらのことはなぜか本文から跡形もなく消し去られてしまったのだが、文脈が根本から異なってしまったので仕方がない。
 その話を余談として書こうかとも思ったが、それはそれとして別のタイトルをつけて書いたほうが良いような気もするのでとりあえず置いておく。
 ということで今ここで余談として書きたいのは、今回の記事三本を書くにあたりアウトライナー上で起こったことについてである。アウトライナーで本文を書くこと、そして上述の文脈の変化(あるいは文脈からの離脱)をどう考えるかということについてメモ代わりに記していきたい。

 私にとっての「文章を書く」とは、今のところ数千字のブログとせいぜい数万字の小説しかなく、更に書くたびに環境を変えてしまっているので一向に「これを使ってこういう手順で書く」ということが定まらない。もしも締め切りを設けて本を書いたり、毎週決まった曜日などに必ず更新したりということをするならばそう呑気なことは言っていられないと思うが、現時点では誰にもお尻を叩かれる状態に身を置いていないし自分でもお尻を叩かないので、未だモラトリアムのごとくあちこちふらふらしている。
 今回はどうしたかというと、最近Dynalistの活用度を高めており、その延長として着想から本文執筆まで全てDynalistで完結させてみた。字数がよくわからないのが難点で、実際今回の記事三本で何字になったのか把握していなかったのだが、まあ普通に読んだときにこれ以上の長さは辛いかなと思うところで切っていけばそれなりのものになるだろうと思うので字数カウントは気にしないことにした。ちなみに今数えたら全部で約8200字で、記事一本あたり2500~3000字程度なので、まあ丁度いいところであろう。ストーリー仕立てにするならもう少し長くても良いが、そうではないのでこれ以上は長くならないほうが読む方も書く方も楽だと思われる。
 話を戻すが、Dynalist(つまりアウトライナー)で本文まで書いたのは初めてのことである。以前「アウトライナーの使い方ド下手問題アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~」にてアウトライナーの持つ雰囲気というものに如何に縛られるかを長々と書いたのだが、普通の文章というのも長らくアウトライナーで書きたい気持ちにはならないでいた。しかし今回、行頭に全角スペースを打つことを自分に許したことによって普通に文章を書けるようになった。(それ以前にアウトライナーの持つ雰囲気との戦いは既にほとんど終わりを迎えているのだが、そのことについては別に書くかもしれない。)
 Dynalistで本文を書いてみてどうだったかと言うと、今のところ「とても良い」という感じがしている。アウトライナーらしさを存分に発揮しているわけではないが、下位にその文に対する補足を書いたり文章を並べ替えたりという操作がごく簡単にできる点は、普通のテキストエディタより大変便利に感じる。補足とは例えば「数字確認」とか「投稿時にこの記事のリンクを貼る」とかそういうメモである。Dynalistの場合、本文をコピペする際に補足の部分を閉じておけば本文部分だけを綺麗にコピーできる。(Transnoは閉じていても全部コピーしてしまう。その方がありがたい場合もあり、使い分けたいところ。)
 文章の並べ替えをしようとしたとき、一般的なテキストエディタでは選択して切り取って貼り付け、という作業になるかと思うが、アウトライナーではもちろんCtrl+↑/↓などでスイスイ動かすことができる。このことの何が良いかというと、喩えるならコーディネートを考えるために鏡の前で服やアクセサリーをあれこれあてがってみるのと同じ感覚で「こうするとどうかな? いやこっちかな?」というふうに見ることができることだ。アウトラインを作る時点でその作業はある程度やるのだが、実際に書いてみるとアウトライン通りには書かないし、事前には思いついていなかった文章が生まれたりするし、やはり本文を書いてからも並べ替えが必要になる。
 いや、今までは「並べ替え」という感覚でその推敲作業をしてはいなかった。Dynalistで書いてみたことで、本文を「並べ替える」という発想を得たのである。
 ちなみに、アウトライナー上での文章の単位は一項目一段落である。よって一項目が六行ぐらいになることもあり、もはや「箇条」感はないが、アウトライナーらしさに囚われずに自分がひとかたまりと思うサイズで一項目にするということに慣れれば問題はない。
 実際の作業画面は例えばこんな感じである。

画像

 なんということはなく、ただDynalistで本文を書いているというだけである。そこにアウトライナーならではの発想が加わると、少し面白いことになるかもしれない、ということは言える。

 さて、次に文脈の変化に対してどうしたかの話をしたいと思う。
 今回、最初に考えていたことが別にあったが、ある時点で切り口をがらっと変えてしまい、その結果元々の思索に含まれていた論の展開もキーワードもすっかり消え失せてしまった。
 問題提起に対する解答として相応しいものを考えたときに、「こっちじゃなくてそっちだな」ということになったわけである。根本から違ってしまったと言ってもよい状況であり、もしアウトラインや本文を一通りしか書けない(もしくは一通りしか書きたくない)ような場所に書き込んでいたとすれば、ファイルを分けて然るべきである。
 しかし、アウトライナーは「邪魔なら閉じておく」ということが可能であり、不要な部分の存在感を限りなく薄くすることができる。実際に閉じておかなくても「閉じたくなったら閉じられる」と思えばそれだけで邪魔さはぐっと抑えられる。ということで、今回は根本で分岐してしまったそれ以前の部分をずっと上部に開いたまま別な展開の文章を書いていた。邪魔になったら閉じようと思っていたが結局閉じなかった。
 分岐以前と以後は、分かれてはいるがそこに断絶があるわけではない。遡れば繋がっている。今文章をひとつ書くにあたって分岐してしまったかもしれないが、そういう縛りがなければもやもやと一緒に漂っていたような思考なのである。その思考は今文章を書くためだけにあるのではなく、もっと根源的な「解明したいこと」のためにあるわけで、関係する全てがなるべくアクセスの良い近い場所にあってほしいものなのだ。
 よって今回、分岐以前の最初の思いつきは、今考えていることの近縁のものとして視界に入れられるようにしていた。元のルートが見えるところに保存されていることにより、そちらの文脈で書けばいいことを無理して今のルートに組み込もうとする気持ちも全く湧かせずに済んだ。
 つまり、他の文脈がきちんと見えるということが結局今の文脈を明らかにし、また幾筋もある文脈が整理されてその一帯の思考を明瞭にすることになるのだと実感した。

 また、そもそもそういう分岐が生じたこと、もっと言えば分岐を"生じさせることができた"ことは、これもまたアウトライナーの効用である。「そういえば」とか、「ちなみに」とか、「話は変わるが」とか、そういった前置きで並べておきたくなるような情報を、正しい配置は後で整理すればいいということにしてとりあえず書いておく。横道に逸れることはどのツールでもできるしアウトライナーでなければならないというものではないが、後に整理する作業のイメージがあることによって、比較的気楽に別ルートを開拓することができた。
 脱線が甚だしくなったとしても畳んで閉じてしまえばスッキリするし、まあ今回使わないとしてもそのうち使えるだろうと踏んで思う存分脱線するということができたのである。そして結局、脱線していったほうを本題にしたのが今回の三本ということになる。脱線を禁じて元の文脈でなんとかしようとしていたら、ただただ苦しむばかりでいつまで経っても記事は完成しなかったかもしれない。

 まとめると、アウトライナーで本文を書くというのも良いかもしれないということ、そしてアウトライナーは発想の分岐に対して何も違和感なく対応できるかもしれないということを今回実感した。
 後者に関してはやや当たり前の感があるが、しかしもしアウトライナーに対して先んじて「こう使いたい」「こう使わねば気が済まない」というような意識がある場合は無理して整理しようとしてしまいがちで、アウトライナーそのものの性質としてはそういう整理を私に強いてくるわけではないのだとしみじみ感じられたのが今回の収穫である。
 

2021/06/27

発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~

 今回は、アイデアを元の文脈から切り離して別の文脈で活用するために必要な具体的な手順を考えてみる。
 やることとしては、前回まとめたように「条件」+「現象または結論」という形にすることを目指していく。

 叩き台は、この一連の記事冒頭で作った「始まった状態で始める」というフレーズである。


 本来の文脈に立ち返ると、これは「ブログの導入部分を書きたいが、書けないでいたところ、そもそも導入部分をなくしてもいいという結論に至った」ということから生じたものである。「導入部分をなくしてもいい」というポイントにフォーカスした結果「始まった状態で始める」というフレーズに辿り着いた。
 これを活用可能性の高い形に変えるとするならば、トリガーが必要になる。この場合の具体例は「ブログ」だが、そのままでは他の文脈で活用できないので一般化していくとすると、「伝達」や「記述」といった方向性が考えられる。ブログは伝えるために書くものであるので、どちらか一方に限られるのではなく両方の性質を持っている。同様のものとして書籍との比較が有効であろう。

 導入部分というものについて考えてみよう。なぜブログに導入なるものが必要となるのか。それは、読み手の関心を自分の話に接続するにあたって、助走や暖機運転のような時間が要ると感じるからである。世の中の書籍はいずれもそのように話に導くための記述を冒頭に伴っている。
 ここでひとつ生じるのは、「導入はブログでも必要なのか」という疑問である。これは導入を書きにくいということそのものとも関わり、よく考えておかなくてはならない。
 導入を書きにくい最大の原因は、どんな相手に語りかけたいのかがはっきりしないことであろう。もちろんそこで何を語るべきか自体がわからなくて書きにくいということもあり得るが、それはどちらかというと、書籍のように内容の規模が大きくそのうち何を入り口に設置すべきかが判断しにくいという場合に起こることであって、ブログのようなサイズではほとんど生じない問題と思える。
 書籍の場合は、導入というのは基本的には前情報なしにいきなり手に取った人を想定して書かれるように思われる。話をわかっている人は自分の状態に合わせてさっさと本題に入れば良いのであって、初見の読者に向けた導入に対して「前置きが長い」という批判をすることは現実的ではない。
 一方でブログはどうであろうか。ブログにはどのようにして辿り着くものなのかを考えれば、書籍とは根本的に性質が異なるかもしれないと気がつく。まず書店に並ばない。書店的な存在が他にあるわけでもない(少なくともメジャーな手段ではない)。よって、全くの偶然で遭遇するという確率はかなり低いことになる。誰かにシェアされたか、自分で関連するワードで検索して行き当たったかが主な経路で、つまりその時点で既に何らかの文脈ができているのである。
 ここが微妙なところで、読み手は自分が書こうとしている内容に全く縁がなかった相手ではない一方で、筆者である自分の文脈や主義主張を知っているわけではないことを想定する必要はある、という中途半端な状態がブログなのである。つまり、自己紹介をどこまでやるべきかという話になる。

 結論としては、私は「いちいち自己紹介的な経緯説明はしない」ということを選択して、それが「始まった状態で始める」という意味だが、そう選択した理由も明らかにしておきたい。
 まず、誤解なくちゃんと伝わるようにきっちり書いておきたい、というのは言い換えれば親切心でもあるわけだが(同時に自分自身を余計な批判から守る意味もあるが)、読み手としての自分を振り返ってみるに、読もうとしている文章に自分が知りたいことについて書かれているならば、文章が親切だろうがそうでなかろうがわかるまで読もうとするものである。肝心なのは情報の質であって、そこにそういう情報がありますよと伝わりさえすれば最低限の親切さはクリアできているとも言えるだろう。
 つまり、読み手の関心や共通認識と繋がりうることを示しさえすればよい。最善を尽くすのは善だが、現実問題としてそこにどれだけ注力できるかというのはコストと天秤にかける必要がある。最高のおもてなしをしたいがためにサービス自体が縮小しては、ブログとしては本末転倒の感がある。
 また、書籍は一度出版してしまうと後から内容を修正することがほとんど不可能だが(改訂版を出すことはできても、既に前の版を買った人に対して内容の変更を周知することはできない)、ブログの場合は簡単に補足情報を足していくことができる。記事自体の修正が可能という意味もあるが、それ以上に「新しい記事をすぐ発表できる」というところがポイントである。記事一本で全てを伝える必要はなく、改築を重ねるがごとく補い続けることができる。
 そうやってできたものが果たして読みやすくわかりやすいものであるかは置いておくとして、とりあえず「一発でちゃんと伝えなければ」というプレッシャーは不要である。効率的にPVを伸ばすという目的があるなら話は別だが、単に考えを書いて発表する場として捉えるならば、わかりやすさに固執することはないのだ。関心と結びつきさえすれば、後はわからないところを埋めようとして読み手は自然と前後を追っていくものであろう。
 これらのことをまとめて「よって導入は要らない」という結論に繋げると、「既に僅かにも共通認識がある相手ならば、勝手にわかろうとすることを期待できるので、経緯説明の導入は要らない」ということになる。
 更に一般化していくとすれば、「共通認識がある相手」は大雑把に言って「仲間」や「同志」と表現すればよさそうである。使い回すためのフレーズとしては「勝手にわかろうとすることを期待できるので」という理由部分は余計なので省略する。「導入は要らない」は否定形であるために若干アクションに繋げにくいので、「いきなり語る」と言い換えることにする。するとここにひとつのフレーズが誕生する。

 同志にはいきなり語れ!

 こうすると、ブログ以外の場面でも使うことができるフレーズになったと言えるのではないだろうか。適用し得る典型例はブログだが、「既に共通認識がある相手に語る場」という属性に広く適用できるようになる。
 なお、自分のアクションではなく巷にある現象を言い表すものとしては、「同志はいきなり語る」、更に文言を少し変えて「身内は本題から入る」といった形にしてもいい。こうすると自分自身に実践の意志がない場合でも世の中の分析の結果として使うことができる。

 ここまで考えて感じることとしては、活用可能な形に洗練させることは端的に言って大変だということである。
 たまたま最初から活用可能なフレーズを思いつくこともあるし、そうなったならばラッキーだが、多くの場合は「状態を言い表してはいるが活用しにくいフレーズ」を核として取り出してしまう。それをそのままにしていては、いい感じのことを言えたはずなのに風化したという悲劇が待っているかもしれない。本当に風化させたくない大事な閃きならば、自由に使えるように形を整えておくべきなのである。
 そして、これぞという発想の洗練に注力できるように、それほどでもない発想に無理して手を付けないということが必要だということもわかってくる。しかし「それほどでもない発想」が本当に「それほどでもない」ものなのかどうかはその場で判断できることではないので、①で書いたように常に文脈を保存しておく努力はしたいところである。
 

2021/06/24

発想を文脈から解放するには②~トリガーとアクション~

 アイデアを元の文脈から切り離して別の文脈で活用するために必要な条件とは何か。
 前回、そのひとつとして「元の文脈をきちんと保存すること」について書き、そのふたつめは「転用し得るフレーズを作ること」であるというところまで書いた。


 アイデアの核らしきものを短いフレーズにする、というのは昔から私もしばしばやっていたことである。メタファーを使ったり、格言めいた鋭い言い回しにまとめたり、逆に様々なものを包括するように抽象化したり、いろいろとフレーズを作ってきた。
 さて、それらは今でも私の中で力を持っているだろうか。そう自分に問うと、ほとんどが思い出すことすらできないほどに風化していることに気がつく。フレーズ自体を忘れているし、メモを見直しても一体何がそんなに感動的だったのかもはやわからない。そのように風化してしまったものについては、もうその発想の煌めきは一生取り戻すことができないであろう。
 どうして風化してしまったのだろうか。閃き自体が結局大したことのないものだったのだろうか?
 いや、そうではないだろう。まず「大したことのない閃き」という判定の有効性自体が疑わしく思えるし(年月が経ってから意外な形で掘り返されることはいくらでもある)、「そもそも大したことがなかった」というより、「有効に使うことがついぞできなかった」のほうがあり得るように感じられる。せっかく生まれた発想を自分で死なせただけのことかもしれない。
 私自身の経験上、風化に繋がりやすいのは形容型・説明型のフレーズである。○○とは△△ということだったのだー的なものは、余程それが自分の核に近いものでない限りは意外なほどあっさりと意識から失われていく。「□□的××」というような言い回しも同様である。それを言い表した当時は「□□的」と表現することで他との明確な差別化がなされていたはずだが、それが絶対的な形容でない場合、何と比べてどういう相対的特徴があったのかは忘れてしまうし、そのような相対的なフレーズは当然ながら永遠に残せるものではない。気に入ってしつこく使うのならば別だが、そうできるのはアイデア全体に対してごく少数に留まるだろう。

 では、有効に使うことができないとはつまりどういうことか。思いついたときは何らかの意味で真理に近づいた気がしたのに、それをその後使えなかったのはなぜだろうか。
 正確に言うならば、「使おうとしなければ使えない発想に留まったのはなぜか」と考えるべきかもしれない。実際にとても良い閃きだったのに、繰り返し使う機会を設けられなかったためにいつしかその感触を永久に失ってしまった、ということが多々発生しているように思えてならない。よって、できる限り自然に、そして自動的に「つまりあれだよ」と引っ張り出して使える状態であってほしい。
 すなわち、使うためには、使えるフレーズでなければならない。当たり前のことを言っているようだが、私はそのことに長らく思い至らなかった。うまく言い表せたような気分で満足してしまって、それを用いるということを考えていなかったのである。
 何かの言い回しを使いたくなるとき、それは何かトリガーがあって、「ああ、これはあれだ」と思い出す、というパターンが多いように思う。「あれ」を思い出すことによって、その場のわからなさを解消して既知のものにするのである。
 簡略化すると、「AのときB」「AならばB」といったことである。Aという条件のとき、Bという現象がある或いはBという結論を出す、という形のフレーズであると言える。
 好例として、「違和感駆動」という言葉が思い浮かぶ(私は倉下忠憲さんがお書きになっていて知ったが、ネット上で見つけられる初出はこちらだろうか)。大本のイメージはイベント駆動型プログラミングなどだろうかと思うが、敢えて文章として読めば「違和感があるとき、駆動する」「違和感によって、駆動する」というふうに補って読めそうである。プログラム的には「違和感をトリガーとして、駆動が起こるor起こす」ということであろう。これは「駆動に繋がる違和感」を感じ取るたびに使い回すことができるフレーズである。自分の次のアクションを示すものであるということが、活用可能性を高めるポイントと言える。
 また、巷でしばしば使われるフレーズとして「○○アレルギー」「○○恐怖症」といったものがある。これは個人の内面を示すという用途に限られているが、「○○が自分の生活に接触した時、自分にネガティブな反射が起こる」ということを端的に表現していて、幾度も使い回されることになる。使っているうちにより限定的で正確な範囲を掴んで「○○」の部分が変化していくかもしれないし、もしそのような変化が起きたとすれば、それはその発想をよく活用できていることのしるしであるように思う。(一方で範囲が拡大していくのは思考停止の現れかもしれないが、その話はここでは置いておく。)
 これらは名詞のフレーズだが、動詞で終わる短文でもよい。「犯人は現場に戻る」とか「善は急げ」とか、よく使われるフレーズのうち具体的なアクションを導くタイプの言い回しはこういった形が多くある。ある程度一般化し得るトリガーと、それによって生じること、またはそれをきっかけにすること、をセットにするのが肝である。

 ちなみに、前回「始まった状態で始める」というフレーズを考えた。これはこれで転用可能性はゼロではないが、なんとなく今ひとつな気配が漂っている。自分のアクションを示しているので「用いる」ということは可能だが、トリガーが示されていないため然るべきタイミングで思い出さない可能性が高い。
 それではこのフレーズはどうすれば繰り返し使えるものになるだろうか、という検討を次の記事で試みたいと思う。
 

2021/06/10

発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~

 ブログを書く上での地味な悩みとして、「導入をどうするか」というものがあり、ぬるっと入っていくうまい書き出しが思いつかなくてしばしばエンジンがかからず仕舞いになる。一ヶ月半ほどの空白ができた理由のひとつでもあるのだが、しばらく考えて今しがた出した結論は、「導入などない」である。
 ということで、今回は「発想を、元の文脈から離れて使う」はどのような条件で可能になりそうかということを考えていく。より抽象的に言えば、文脈と連想についての思惟である。


 何かについて思索を深めていったときに、その状態を成り立たせている核らしきものを思いつく、ということがある。例えばこの記事の冒頭で書いた話について、「始め方で悩まずに始まった状態で始める」といったことを仮に思いついたとすれば、それがこの思索の核(らしきもの)と言える。よりスパッと書くならば、前半を削って「始まった状態で始める」になるだろう。
 この「始まった状態で始める」ということの真意を思い出すには、そこにあった文脈をなぞる必要がある。一段階遡れば、「始め方で悩まないために」。もう一段遡れば、「ブログの書き出しについて」。そうすると、私はブログの書き出しに悩んでいて、始め方がわからないせいで始められないのなら、既に始まっている状態を最初からえいやと書いてしまえばいいと思ったのだ、と思い出すことができる。
 ところで、メモに「ブログは始まった状態で始める」とだけ書き残した状態で月日が経ってしまったとする。そうすると、思索の核であった「始まった状態で始める」と「ブログ」が結びついていることはわかるが、文脈を失っているせいでそれが何を意味するのかわからなくなる可能性がある。「始まった状態って何?」とか、「なんでこんなことを書いたんだっけ?」とかいう混乱である。そのメモを書き込んだ時には、真理を見出したかのごとく確信を持って書いているので、月日が経ったときにまさかその意味を全く思い出せなくなるとは想定しにくい。
 この経験を何度か繰り返してしまうと、文脈を失うことが恐ろしくなってくる。良いことを思いついたはずなのに、それがまるっきり無価値になってしまう恐怖である。よって、どういう状況でどういう意図があってその結論に至ったのか、きっちり書き残しておこうとするし、結論だけぽつんと置いておくことを避けようとするかもしれない。文脈と核をがっちり結びつけてしまうのである。
 その状態が続くと、やがて「核を取り出す」「別の文脈で活用する」ということのやり方がわからなくなってくる恐れがある。一般的にどうであるかはわからないが、私の身にはそれが起こった。「文脈が失われたら意味がわからなくなってしまうのに、文脈を切り離すというのはどうしたら実現できるのか?」という不安が生じたのである。

 一方、自分の発想についてはそういった不安が生じるものの、実は他人の発想については日常的に文脈を切り離して活用するということをしている。
 例えばTwitterである。RTなどで自分の目の前に現れた文章は、本当はその前後に何かしらの文脈があったり、その発言者の普段のツイートに文脈が支えられていたりするのだが、そんなことはほとんどお構いなしに連想ゲームの題材にしてしまっている。ツイートの中にあった核らしきものを勝手に解釈して、「これってあれと同じかな?」とか「元ツイートとはもう関係ないけどこういうことを連想した」とかいう形で思考が進展していくのである。
 本の中の記述も自然とそのように活用している場合が多い。本の文脈ではこうだが、それとは異なるこの文脈に当てはめたらこう考えられるのではないか、といったことがあちらこちらで行われているし、自分もそのように読書ノートを作っていることがある。本の場合には、そこでの文脈は本の中に保存されており失われることはなく、忘れたとしても読み直せばわかる。その安心によって、じゃあ違う文脈に置いてみよう、ということを果敢に試行できるのだろうと思う。
 もっと身近な例を挙げれば、ことわざや故事成語は文脈を切り離して活用しているものの代表と言えるだろう。由来となった事物の文脈はあるのだが、それはすっかり切り離されて、そのフレーズから取り出せるイメージに共通認識を抱いておくことによって多様な文脈で転用するということが可能になっている。
 つまり、アイデアから文脈を切り離してそれを別の文脈で活用するというのは、ほとんど誰にだって普通にできるようなことなのである。そのこと自体に難しさや精神的なハードルを感じる必要はない。

 さて、それならば別の文脈に用いることができるようにするために必要な条件はなんだろうか。
 まずひとつは、元の文脈を保存することであろう。他人の発想については、本や記事があればそれを参照できるようにしておけばいいし、Twitterなら一連のツイートをまとめておけばよい。話題性があるならば誰かが全体をTogetterでまとめてくれることもあるし、自分でトゥギャるなりコピペするなりして「元々はこの話」ということが後から取り出せる状態になっていればいい。
 問題は自分の発想だが、これは少し手間をかけて書き残しておかなければならない。思考の展開を書き出すまでもなく「こうすればいいか!」と自己解決してしまったときがクセモノで、もう解決したことをわざわざ言語化していくのは気分的にも認知資源の消費的にもかなり億劫なのだが、ここをサボると忘却が死神のごとく迫ってくるし、別の文脈に乗せるということがやりにくくなる。文脈が自分の頭の中に保存された状態であるために、自分の環境が変わった拍子にうっかり失ってしまいかねない。
 条件のふたつめは、転用し得るフレーズを作ることと言えるだろう。先の例では「始まった状態で始める」がそれである。こう言い表しておくと、ブログの書き出しの話に限らず様々な文脈で使うことが可能になると思われる。
 これは必ずしも洗練されたシャープな言い回しであることを意味してはいない。実際のところどうであれば活用可能になるのかはなかなかわからなかったのだが、それらしき条件は見えてきた。
 ということで、次回は転用し得るフレーズについての自分なりの考えを書いていきたい。
 

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