仏壇にまつわるライフハック。
①お仏壇ライフハック
- 仏壇に拝むという毎朝の習慣に「具体的に何かに感謝する」ということを付与するライフハック。
- 更に一歩進んで、「明日具体的に感謝するために、今日やることを宣言しておく」という目標設定のライフハック。
- 片付けが大の苦手な私の祖母が、「とりあえず仏壇に」という判断によってある程度書類や物をまとめておけたというライフハック。
動じないために。
仏壇にまつわるライフハック。
①お仏壇ライフハック
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前回(お仏壇ライフハック)は「お仏壇ライフハック」と称して、毎朝拝む時の心持ちを活用してその日を有意義に過ごす方法を書いた。
またしても仏壇に関するライフハック(?)の話をしようと思うのだが、今回は私ではなく祖母のライフハック(仮)である。
このことはすっかり忘れていた――というかライフハックだとは全く思っていなかった――のだが、今日うちあわせCast第百十七回を拝聴して思い出した。
最後の最後あたりでTak.さんのお母様のお話があった。大事な書類を、大事ゆえにしまい込んで行方をわからなくしてしまう。大事なものを大事でないものと一緒くたに置いておくのは抵抗があって、「わかりやすさ」を基準にして一箇所にまとめることができない。そういった感じのお話だったかと思う。
私の祖母も基本的にはそういう価値観だった。祖母の場合は価値観どうこう以前に片付けがあまりにも苦手過ぎて、結局大事なものも今すぐ捨てても良いようなものもごちゃごちゃに混ざっていたのだが、しかし意識的にものを仕分けるとなれば、やはり大事なものは大事にするという気持ちが働いて変なところに置き場所を移してしまうということが起こっていた。周りが「ここにある」と思っていたのが、ちょっとしたらもう全然違うところに移動しているのである。
本人としてはより相応しいところに移そうとしているわけだが、その基準が下の世代とは根本的に違っているので周りには理解し難いし、本人もその都度相対的に場所を選んでしまって基準が曖昧なので自分で思い出せないということになる。齢を重ねるにつれ、移したこと自体覚えていられないということにもなった。
一方で、手紙類は割と一箇所にまとまっていた。どこかと言えば、そう、仏壇である。
インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。結果として、手紙類の七割くらいはそこにまとまっているということになった。本人なりに置き場所をうっかり思いついてしまったものは果てなき放浪の旅に出発してしまうため、100%全部がまとまっていたわけではないが、全てばらばらよりかは大分マシである。
大事なものを大事でないものと一緒に混ぜてしまうことへの抵抗を減らすというのは、ほとんど無理なことだろうと思う。そもそも全く抵抗が無いことが「良いこと」かどうかも正直わからない。そこに抵抗を感じないことには物の管理に於いてメリットがあるが、抵抗をなくすべき、とは言い難い。
祖母のライフハック(仮)を踏まえると、「大事っぽいものはとりあえずここに置く」と本人が納得できる置き場所があれば、ある程度は物の紛失・散逸を防げるのだろうと思う。大事っぽいものを置くわけだから、適当な箱とかではなく、十分に大事っぽい場所である必要がある。その点たまたま仏壇というのはうってつけだったわけである。
置き場所の性質としても割に都合が良かった。なにしろオープンであり、「しまい込む」が発生しない(仏壇の抽斗を活用し始めるとやや怪しくなってくるが、それでも「仏壇のどこか」さえ貫かれれば探すのはそう難しくはないだろう)。取捨選択も無しにごちゃごちゃと置きすぎて家族からすれば「仏壇は物置きじゃない!」と不評だったわけだが、しかし今考えるにそれ以上の適切な(現実的で実行可能な)やり方はなかったと思う。
重要なのは本人が「大事なものを置くに相応しい」と納得できることだろうし、私の祖母の場合は祖母自身の中に「とりあえず仏さんのところに置くべし」という気持ちがあったから成り立っていたことではあるだろう。既に長い歳月を生きてきた人に、別途新たに場所をセッティングさせるのは容易でないような気はする。
あと思うのは、比較的若いうちは合理性で決めていられるわけだが、自分も年を取るとそういう風には判断できなくなってくるかもしれないということだ。「より適切な場所」を考えるのが難しくなる日が来ても混乱しないように、「大事なものはこの入れ物」みたいな反射は予め意識的に構築しておいたほうがいいのかもしれない。
仏様に怒られそうなタイトルである。
我が家には仏壇がある。仏壇があるので毎朝線香をあげて拝んでいる。
仏像とご先祖様の位牌が祀ってあるわけだが、祀られている故人にはそれほど親密な間柄だった親族はいないので、毎朝手を合わせることはほぼ欠かしていないものの、お祈りの内容は非常に漠然としていた。ぼんやりと、今いる家族と自分が健康であることに感謝し、ご先祖様が見守ってくれているかもしれないということを多少思いながら、自分たちが今日も一日元気でいられることを祈っている。仏様は金色にぴかぴかしているので、見上げるとなんとなくありがたい気持ちになってくる。
ところで、今度は別の宗教の話になるけれども。神社に参拝するという時、「~~でありますように」と願い事をしようとしがちだが、本来はありがとうございますと感謝をしに行くものだというのを以前聞いた。
まあ考えてみるに、願掛けに行ってさんざんああしてくれこうしてくれと祈っておきながら、うまくいってしまえば後はすっかり忘れて参拝しないとなると、なんとなく罰が当たりそうである。神様に怒られるというより、そういう態度で生きているとそのうち反感を買う事態を招くような感じがする。
その話を聞いたのは相当に前のことだが、最近に至るまで、仏壇に手を合わせるにあたっては変わらずぼんやりお祈りが続いていた。頭の中で「神社に関する話」の箱に入ってしまっていて、家の仏様とその話が直ちに結びつかなかったからだ。いや、そもそも仏壇に向かって「願い事」はしないし、漠然としてはいたが感謝の祈りではあったので、その点でも「願い事をしがちだが本当は…」という展開の話は全然思い出さなかった。
で、ある時ふと神社の話を思い出して、(いくらかの連想ゲームが脳内で進んだ末、)「拝む時は具体的な感謝もしよう」ということを思った。こういう良いことがあったとかこの仕事が上手くいったとかあの話がまとまったとか、そんな感じのことである。もっとしょうもない(?)感じのことでもよくて、例えば「ブログに記事を投稿できました」も含む。
そうした時、逆向きの発想が生まれて、「次の日の朝に具体的に感謝するために、今日やることを宣言しよう」と考えるようになった。仏壇の前の座布団に正座して、何を宣言するのかをマッチを擦る前に考え、良しとなったら火をつけて線香をあげて手を合わせ、「昨日は~~でした。ありがとうございます。今日は~~をします。」と心の中で呟く(なお実際はそんなにフォーマット固定の言い回しではない)。
この習慣が生まれてから、自分の心持ちに結構変化があった。
私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。
ところが、仏様に「こうします」と宣言すると、それは声に出したわけでもないのだが、なんだか「仏様にそう言っておいてさぼるわけには…」という気持ちになって実現しようとする。そして次の朝に報告のお祈りをし、言った通りにできていればいいし、思うようにできていなくとも、ほんの少しでも何かが進んでいればその分をありがたく思うことにして感謝する。すると「おお、感謝できたぞ」と思う。なお仏様に命令されているのではないのだから、できなかった分を申し訳なく思ったりはしない。できた分を感謝するだけである。
時々「感謝日記」というのを聞くが、それがきっととても良い習慣であるのはわかっていても、全く続いたことがない。三日坊主にすらなれたことがない。多分感謝する先が曖昧過ぎたのだと思う。あと「日記として書く」というのが少しハードルを上げていた。仏様への感謝は仏壇の前で心に思い描くだけである。尤もらしいものを残さなくてはと思う必要もないので、しょぼいことでも感謝できる(そもそも感謝日記が尤もらしい必要は全くないのだが、私個人の問題として、日記に「書く」となると無意識に及第点を上げてしまうのである)。あと単純に、日記を書くには意思が必要だが、仏壇で拝むのは毎朝決まっていることなので「やり忘れる」ということがほぼない。
ここまでの言い方でご推察かとは思うが、私は全然信仰心は篤くない。どうでもいいとは思っていないものの、如何にも日本人的なご都合主義的テキトー信心がいくらかあるだけで、熱心に帰依しているわけではない。しかし「ありがたいもの」という象徴を目の前に置き、それに小さい約束をしていくことは、自分自身が信用ならないタイプの人間からすると「気持ちをうまく回していきやすい」というような効果を感じる。
正直なところ、次の日に感謝の報告をしやすいように宣言のハードルを下げようとする、という気持ちはないではないのだが、まあそれはそれで別にずるいわけでもないかなと思っている。できることしかできないし、やらなきゃいけないことはどうにかやるのだし、ハードルが低くても「これをしよう」「昨日はこれができました」を繰り返していけることの方が大事だと思う。
究極的には「今日も生きよう」「昨日も生き抜きました」が一番重要なのだから、約束の難度にこだわる必要はないだろう。
そういえば、「ありがとうございます」「ありがたく思います」とは唱えるが、「仏様のおかげです」とは唱えない。そういう表現はしないとか決め込んでいるわけではないが、何かのおかげとかではなく、万物の働きの結果のもの(そのうち自分が感謝しうるもの)に感謝しているのであり、私にとって金ぴかの仏様は、あくまでそれを聞いてくれる存在なのだ。(都合良く使ってゴメンナサイ!)