ノートを取ることについての話。
他のタグとの境界が曖昧なので組み換えを検討中。
タグの定義・詳細
ノートテイキング
Backlinks
- かつて一冊にまとめようとしたノートを反省する
- 五年後楽しくなっているように記録をつける
- メモではないマイクロノートの扱い
- 「へえ~」なメモと記事データを一体で扱う
- カードとは何かを考えてみる
- 土であって種ではない
- メモとノートと書き物と文脈
- 雑なメモは雑に書かれなければならない
- メモを取ろうとすると文にできなくなる件
- アウトライナーと手帳と表紙
- タイムライン型・カード型・デスクトップ型②~デスクトップ型~
- タイムライン型・カード型・デスクトップ型①~タイムライン型とカード型を使い分ける~
- Git日誌:テキストファイルをホワイトボードのように使う
他の「内容タグ」カテゴリの語句
「ノートテイキング」タグの記事一覧
かつて一冊にまとめようとしたノートを反省する
ノートは分けないで一冊にまとめよう、という話が流行った時期があった。
その種の話は色々あったと思うが、私が影響を受けたのは以下の本だった気がする。
- 中公竹義『100円ノート「超」メモ術』
- 奥野宣之『情報は1冊のノートにまとめなさい』
- 樋口健夫『図解 仕事ができる人のノート術』
十数年前に書いていた大学ノートを読み返すと、これらの本から受け取ったメッセージを忠実に実行していたのがよくわかる。それ以前の私は無意味にノートを使い分けようとして失敗していたから、一続きの大学ノート群にどんどん書いていくというのは当時の私にとって画期的なことだった。
書くことが楽になったから、当時は猛然とノートを消費していた。なんでも書いていたし、一冊終わるごとに振り返って書き方の改善点を考え次のノートをバージョンアップさせるというサイクルが気持ち良くて、ノートを埋められるものを探していたふしもある。
読書メモも自分にしてはたくさん取っていた。数えてみたら、三ヶ月ほどで計120頁超の読書ノートを作っていた。その中に例えば梅棹忠夫の『知的生産の技術』の読書メモも含まれている。
しかしである。書くにはよかったが、後年読み返してみて、このノートは残しておきたくないなと思った。
その原因は「情報を一冊にまとめよう」という発想そのものにあったわけではない。なので例えば冒頭に紹介したような本のメッセージが誤っていたとかいうことではない。個々人の相性はあるにしても、これらはノート術として有効であると今でも言える。
情報の混在でカオスになっているとかいうことが問題なのではなく――混沌への対応策はそれぞれのメソッドに含まれている――自分個人の話として、そもそも同居させてはならない情報があったことに問題がある。
私が書き留めていた情報には、私の中で以下の種類があった(ということを今なら指摘できる)。 - 事実
- 思い(気持ち、自己分析、仮説)=文脈に依存
- アイデア(具体的なひらめき、案)=文脈に依存
一冊にまとめようということをしたとき、それらを構成するのが全て「事実」なら、どれだけ混在していてもおそらく嫌な感じはなかった。いずれも情報として価値があり、それが散逸の可能性なく一箇所にまとまっているならありがたいことだ。
しかし「思い」とか「アイデア」がその合間にごちゃごちゃと混ざっているとかなり雑然とした感じになる。反省の弁などが混ざっていようものなら、もはやそのノートは丸ごと捨ててしまいたい。
自罰性のある記述や嫌なことを思い出す記述はそもそも残さない方がいいとして、ポジティブな内容であったとしても「思い」や「アイデア」はノイズに感じる。その理由は、その記述単体で見ても何の話をしているのか明瞭ではないというところにある。文脈に依存しているのである。そして全てを一冊にまとめていると、複数の文脈が入り乱れている状態なので、特定の文脈に基づいた記述を拾っていくというのがかなり難しい。ノートを一から全部読んで当時の自分の文脈を全て把握して辿っていくとかしないと記述の意味がわからない。
もちろん後からそのように困ることのないように文脈自体を整理しつつ書くという工夫はあり得る。今ならそうする(例えばその工夫のひとつとして「あらすじノート」を先日紹介した)。しかし当時はやらなかったので、過去のノートに文脈を把握しやすくする仕組みはない。苦労して辿ってまで当時の記述の意味を蘇らせたいとは思わないので、ほとんどが今の自分に役立たない無駄な記録になってしまっている。
ちなみにSNSに投稿したポストが後から読んでも概ね生きているのは、他の人にわかるように心がけて書いていることや、その時点の話題がリツイートなどによって自然と記録されていることによって、文脈を辿ることが容易だからであろう。
文脈依存の情報がその後も生きるようにするには、とりあえず二つの工夫があり得ると思う。 - 一冊にまとめるが、文脈を明示するタイミングを作る
- 文脈に応じてノートを分ける
文脈をその都度言葉にするのはかなり大変なので、「一冊にまとめる」ことの楽さがそれを上回るかどうかは微妙なところだ。
文脈に応じてノート自体を分ければ、思いやアイデア自体が文脈を示すものになるので、わざわざ文脈を書き残そうとする必要はなくなる。ただし、自分はどういう文脈で考えているのかというのは自明のことではないし、どういう切り分け方でノートを分ければいいかを見極めることに苦労する可能性はある。
とりあえず「事実」「思い」「アイデア」の三つのノートを作っていれば、それだけでもかなり整理されていたと思う。「思い」には常に複数の文脈があるが、それ以上は細かく分けなくてもいいかもしれない。
最初に取り上げた本たちの中で、「事実」「アイデア」はいいとして「思い」をどう扱うよう書いていたか覚えていない。もしかしたら何か工夫について書いていたのかもしれない(書いていないかもしれない)。そもそもそういうのは想定していなかったかもしれない。
私は日記を日記らしくつけることがないので、自分の思いというのはこのようなノートに書くことになる。しかし日記を別に用意するなら、思いは事実やアイデアから自然と切り離された状態で扱うことになったのだろうと思う。
ここまでは「文脈がわからないから記録として意味をなさない」という問題の話だが、そのほかに、そもそも「思い」を物理的に残しておきたくないということがある。
これは五年後楽しくなっているように記録をつけるで書いたことと重なるが、「思い」を後年振り返って読みたいかというと、私の場合はそのようには思わない。きちんと整えた文章は自分なりの作品であるから残したいが、メモとして書き留めただけのものは残っている必要がない。そして人に読まれる可能性が僅かにでもあることはかなり嫌な感じがする。なので書くならデジタルツールの方が良い。
最近はそもそも紙に書くことが減ったのでこの点では当時のような問題は発生していない。
紙のノートに書き残すという時、何が残っていてほしいかは人それぞれだろう。自分の思いこそモノとしてはっきり残しておきたいという人ももちろんいると思う。私はそうではなかったので、それが混じっていることがノート全体の価値を損なってしまった。
とはいえ、当時のノートが無駄だったかというとそんなことはない。とにかく書きまくるということはある種セラピーとして働いて当時の私を救った。後先考えずに書いていったのも悪いことではない。
残っていてほしいノートはどんなものかを考えた時にそれがマッチしなかったということは不幸だが、何もかも未熟で不安定だった時点で何十年も先に残しておきたいようなものを残せることを期待するほうがどうかとも思う。当時と比べて精神状態が比較的健康で人格的にも多少成長し、情報の扱いについても知見や経験を得た今だからこそ、将来残すものについてまともに考えられるようになったのだろう。
過去に既に失敗していることを今になって繰り返すのはつまらないので反省はするとして、当時の自分を責めるつもりはない。
ちなみに、昔のノートはスキャンしたり写真を撮ったりしてデジタル化した上で、特別残したい部分を除いて処分している。
五年後楽しくなっているように記録をつける
最近「記録のつけ方」全般についていろいろ考え直している。
今までというのは、記録をつけようとして記録をつけていた。それはそうだろう、と思われるかもしれないがちょっと待ってほしい。
記録をつけようとして記録をつけるというのはつまり、記録をつけられたらそれで万事オーケーかのような態度ということを指している。これで情報の散逸は免れ、後から確認しようと思えばできる、よかったよかった、という状態だ。
で、どうも「記録をつけようとしてつける私」の感性は、「記録を見たい私」の感性とは随分ずれているらしい。
何が言いたいかというと、要は記録されたものが総じて面白くないのだ。
これは別に「漫然と記録をつけていても駄目なんですよ、ちゃんと考えて設計しなきゃいけませんよ」みたいなことを言いたいのではないし、ただの個人的な日記なので真剣に読んでほしい話ではない。
あと、これは正確な記録をつけることがそもそも目的であるもの(業務記録や研究記録など)の話ではなく、いわゆるライフログを含む「後から読み返した時に自分が助かりたい個人的な記録」について書いている。
記録をつける時は、記録をつけやすいか、検索で取り出しやすいか、必要な項目があるか、みたいなことを考える。それはまあ大事ではある。しかしながら、それらの条件を満たした、記録として完璧っぽいものを溜めていったとしても、その後それが特に喜びをもたらさないことが割とよくある。
そうなる理由はいろいろある。ビューが気に入らないとか、無機質過ぎるとか、ごちゃごちゃしているとか、アプリケーションが重いとか、「だから何」感があるとか。記録としての完成度と、自分にとっての感触の良さというのは一致していないので、記録をつけてもそれを利用する気が起きなくて持ち腐れになってしまう場合がある。
だからといって、記録をつける時に「感覚」でやってしまうと後から困ったりもする。「記録をつけようとしてつける私」の立場のままどう考えても「記録を見たい私」の意には沿わないのだ。いずれにしろ合ってないなら適当にやるよりかは頭でっかちなほうがマシだ。これを忘れて「使えない記録」を生み出してしまったようなことは実際ある。
記録をあまり見たくならないので、記録に対して意識を向けるのは「記録をつける時」ばかりになりがちだ。それゆえに「記録をつける私」のああしたらいいんじゃないかこうしたらいいんじゃないかが常に先走っていて、肝心の「記録を見たい私」は閉口している。
記録を見る時にはどうにか探したい情報を探し出し、やれやれどうにか取り出せたと溜め息を吐いて、そしてその記録についてはおしまいになる。前後に目をやってへーとかふーんとか多少は思うが、折を見て読み返したいみたいな気持ちにはそうそうならない。
なんだかすごくおかしいのだが、「駄目じゃない?」とはっきり思ったのは、自分が年老いた後にどういう記録がどういう形で残ってほしいかを考えてみた時だ。今の時点で納得いっていないような(しかも多くがデジタルの)記録がこの先どんな意味を持てるか考えると、いやシンプルにゴミだなと思った。愛着を持って嬉しさを感じながら(あるいはかつての苦悩をまざまざと思い出しながら)読み返せるようなものでないと、個人の記録としては存在意義が薄い。
もちろん、今つけている記録がそもそも年寄りになった時にまで必要かというと、全部が全部そうではない。要らないもののほうが多いだろう。しかしこの調子だと将来にわたって残したい記録が納得できる形で残せるとは思えない。
年寄り視点で考えると、今デジタルが合理的と信じているものも、紙で残したほうが価値があるんじゃないかと思えてくる。で、それは今の時点でも本当はそうだったりする。便利なデジタルツールがあるんだからデジタルがいいに決まっていると思ったりする一方で、例えば大学ノートに膨大な記録を残しているような様子を見るとそちらのほうに強く憧れを感じる。今更大学ノートじゃ捗らないのかと言えば、別にそうでもないような気がする。機械的な「処理」をしないなら人間にとってはどっちも大して変わらないかもしれない。
便利かどうかで考えるのは、便利でなくてはならないものに限ったほうがいいのかもしれない。便利なほうが良さそうな気がしても実際大して便利でなくてもいいようなものは、むしろ便利でないほうに正解があることもある。
さすがに年寄り視点で全てを考えるのは現実的ではないが、せめて五年後くらいの自分の視点で考えてみる。そうするととりあえず五年後に続いていないかもしれないツールや、到底五年も継続できそうにないやり方というのはやめたほうがいいとわかる。そして今やっている形で蓄積していった五年分の記録がどうありがたいかを想像する。あんまりありがたくなさそうならやり方を変えたほうがいいかもしれない。
そんな感じで、五年後の自分がグチグチ文句を言うことにならないようにもうちょっとハッピーな感じでやっていきたいと考えている。
そのわかりやすい例として、デジタルでつけていた一部の記録を紙に(具体的にはB5のルーズリーフなどに)つけることにする、というのもあるが、別に「アナログの方が良い」という話をしているわけではない。便利っぽさに引きずられているだけのようなものを再考して大胆に(しかし慎重に)改めたいということである。
メモではないマイクロノートの扱い
Twitterのような短文投稿サービスは二つの意味で書きやすい。
ひとつは「140字未満でオッケー」というケリのつけ易さ。もうひとつは「人に見られていると思うときちんと書きたくなる」という気持ちの面でのドライブ。これらによって、一定以上文章化が得意な人は果てしなく書き続けられるだろう。
そしてTwitter系のサービスの良いところは、検索というフィルタリングをすると条件を満たすツイートがそのままの見た目で並んでくれること。内容を確認するためにクリックする必要はない。検索画面然としていないというのはそう当たり前のことではないと思う。
そういったことが便利なので個人用のメモとして使うという人もいる。わざわざSNS風にデザインしたメモアプリもたくさんある。
とはいえ、短文投稿サービスそのものは編集もできないし並べ替えもできないし分類もできないしで、ノートツールとして利用するのは心もとない。
といって、Twitterに書いたことをTwitter以外で管理しようとすると、これが途端に難しくなる。Twitterに「意味のあること」を書き散らしてしまうタイプの場合、その後の扱いに困っているという人が少なくないと想像する。
デジタルノートツールは数あれど、SNS的な短さの記述を大量に扱うに向いているツールというのが案外ないのだ。
ひとつひとつにそれなりの意味が含まれているならばカード的なツールがいいんじゃないかと思うかもしれない。しかし短文投稿というのは何年か続けると万単位の件数になる。それら全てが意味のあるポストではないとしても、何百とかで収まるものではないのは明らかだ。
何千件何万件のカードを、タイムライン的なビューなしに扱うのはちょっと厳しい。現状のカードっぽいツールだとTwitterのような一覧性はあまり伴わない感じがする。
ひとつあたりの短さだけに注目して付箋ツールを使いたくなったりもするのだが、繰り返すが何千件何万件の世界である。付箋ツールでは一瞬で限界が来る。
短文投稿サービスの良いところはもうひとつある。それは全てのポストに固有のアドレスがあることだ。URLを記述すればリンクが形成される。このことによって、ひとつの話題を一度に言えなくても後から結びつけて続きを書けるようになるので、「今言えることをとりあえず言う」ということがしやすくなる。また、ひとつのポストのURLを複数に貼れば、話題を枝分かれさせることもできる。
ツイートを全部コピペしてテキストエディタに貼るとしよう。そうすると個々の記述はアドレスを失う。記述と記述の間に結びつきを作るのが難しくなる。そうなると話の流れというのは直接の並びによって認識するしかなくなって、SNS上にあるより不自由を感じることになる。
よって、記述を個別に扱えて、他の場所から「あれ」と指し示せることは重要だ。
ところで、この記述というのはなんなのだろうか。Twitterなんかに投稿する内容は人それぞれだろうから「SNSに書くもの」を定義することには意味がない。ここでは、あることについての説明や主張など、長期的に意味をなす短文について考える。
これは「メモ」というよりは「ノート」だろう。後々より完成度の高いノートを作る過程で消費されていくかもしれないが、その作業をするかどうかはその人の志次第で、そこまでしなくても既にノートとして成立していると思う。
しかしながら、その粒度の小ささと数の多さ、内容の種類の雑多さによって、いわゆるノート術がそのまま適用はしづらい感じがある。メモとも性質が違うのでメモ術も当てはまらない。
日記をマメに書く人は、日記の中にこの種の記述が溜まっていくことになるかもしれない。日記に書いたという時点でそれは目的を達成している、と考えればそれ以上何もしなくてもいいが、もしもそれを「発展させていくもの」として考えるならば急に扱いが難しくなる気がしている。まず続きはそこに書くのか、それとも「続きを書いている日」の日記に書くのか。何の続きなのかをどうやって表記するのか。やりようは色々あるにしても、ちょっと頑張った工夫が必要な感じがある。
この手の記述を、ひとまず「マイクロノート」と呼ぶことにしておこう。マイクロノートはそれひとつでもう完結しているかもしれないし、何十も連なるかもしれないし、何重にも枝分かれしていくかもしれない。SNSでは当たり前に見られる風景である。
このマイクロノートを、SNSではない個人的なノートツールでうまく扱うにはどうしたらいいか。ひとつひとつにアドレスがあってほしいとなると、行単位でリンクを持つようなツール、つまりプロセス型アウトライナーのようなものか、ブロック単位でリンクできるNotionのようなものということになる。
他にあるだろうかと考えてみるが、どうだろう、私も詳しいわけではないので断言することはできないが、いまいちこれというものは思いつかない。カード風のツールならある。しかしビューはTwitterのようには見やすくない。
現時点ではプロセス型アウトライナー(私の場合はDynalist)が現実的かなとは思うものの、それは単に「行単位で扱える」という点に照らしただけで、構造化されていくとは限らない数千ノードを扱うのにアウトライナーが向いているとも思えない。無理ではないが、ドンピシャではない。
Notionだと、ブロック単位でアドレスを持つものの検索結果がページ単位だから、やはりTwitterのようにはいかない。いっそデータベースで1レコード1マイクロノートの形にした方が検索という意味では良いが、コピペで一気に移すということが全然できなくなるので、テキストデータとして硬直的になり過ぎる感がある。
どれも一長一短で、それよりSNSに分類機能と編集機能、まとめ機能があったらな、と思ってしまう。実際にそれらを実装してほしいかというとそういうことではないのだが、要するにTwitterがすごく画期的だったのだ。
外山滋比古が『思考の整理学』で「手帖」「ノート」「メタ・ノート」の三段階のノートについて書いている。マイクロノートはそのうち「手帖」に書かれるものとおそらく近いと思う。「要点のみ簡潔に書く」とあるので、他人が読める程度に整えたツイートとはちょっと文の質は違うだろうが、例えば「明日不燃ゴミ出さなきゃ」的なメモとは別という意味ではだいたい一緒のものである。
まず手帖に着想をどんどん書いていく。それには日付と通し番号を添える。通し番号があるので「このアイデア」と指し示すことができる。そして書いたらしばらく寝させて、後から読み返してまだ面白いものはちゃんとしたノートに植え替える。(つまり後日読んで意味を把握できるような文ということだ。)
これと同じ手順をデジタルのマイクロノートでもなぞった方がいいような気はする。問題は、タイムライン状にただただ並んでいても手帖のようにはパラパラ見れない(気まぐれに適当なところを開くというようなことがしにくい)ことかもしれない。冊子をパラパラ見るというのは大量の記述を高速に捌けるし、アナログの記述ならおおよそどこに書いたかという記憶もしばしば残っているので、検索機能がなくても割とどうにかなる。しかしデジタルデータは「位置」の情報を使いにくいし、スクロールでの確認はパラパラ見るより遅い上に目が非常に疲れる。
その不便さも相まってSNSに置いたままじゃなくてより扱いやすそうなどこかに移したいという気持ちにもなるのだが、しかし他のデジタルノートでもそれはなかなか解決できない。年ごとや月ごとに区切るくらいか。
外山滋比古の手帖のように通し番号を振るならば、マイクロノートがそれぞれURLを持つ必要はなくなる。ただ、通し番号というのは書き換えができないアナログだからこそ几帳面にやっていられるとも思う。ツールを替えてノートの形が変わっても維持できるかというと微妙だ。できる人はいるだろうが、私は難しそうだ。
結局未だ解決していない。理想の光景は紙の手帖にきっちり書いてそれが何十冊もバーンと並んでいるみたいなものだが、Twitterに書き込んだものをわざわざ手で書き写すのは馬鹿げている。
いっそのこと、Wordか何かにマイクロノートを並べて自動でナンバリングした上で印刷してしまったらどうか、なんてことも考える。せっかくデジタルデータになっているのをわざわざアナログにするのかという感じだが、実際やってみれば悪くないような気がする。ただ個人的に、それをやる気にはなれないでいる。
ちなみに自分でアプリケーションを設計することも考えてはいるが、メタデータが必要になる都合上、データの形式がどうしてもJSONなどの機械用のものになってしまって、普通にテキストエディタで外から編集できるような形にしづらい。もしスマートフォンから閲覧・編集したいとなったらスマートフォン用アプリも作らなきゃいけなくなってくる。現時点では厳しい。
理想のデジタルノートはどんなものか。今日も悩んでいる。
2025/04/24 9:15 一部加筆しました
「へえ~」なメモと記事データを一体で扱う
何かを見たり読んだりすると「へえ~」と思うものにしばしば出合う。その分野に特別な関心はなくとも物珍しさや何か仕組みめいたものなんかがあれば「へえ~」と思う。その感動はなんだかとてもいい感じなものな気がするので、メモしておこうかとなる。
この場合のメモにもそれなりに苦労してきた。専用のノートを作ったりやめたりを繰り返してふらふらしているし、デジタルだったりアナログだったりもあやふやだ。なんでもいいからどれか一ヶ所に決めれば多分それだけで万事解決なのだが、そうできない理由があるから長いことふらふらし続けている。
場所を決めがたい最大の理由は、この「へえ~」に「その後」がないことだ。メモするはいいが、その先がない。せいぜい眺めてにこにこするくらいのものだ。よって形式に必然性がなく、あっちにふらふらこっちにふらふらすることになってしまう。
ところで、私は近年「のらてつの茶の間」と名付けた場所を用意して、そこにちょっとしたことを書いている。URLと形式を変えつつ現在ver.3で、今はこのサイト内に設置してある。上のメニューにも置いてある「茶の間」である。
毎日更新している時期もあれば月単位で更新が途絶えていることもあるが、とりあえず内容としては、見聞きしたものや思い出の何かについてちょっと書く日記のようなものだ。思想的なものや有用性のあるものは基本的に含まないのでこのサイトのメインの記事群とは分けて扱っている。
で、以前は「へえ~」にその後の行き先は何もなかったのだが、「茶の間」を作ったことにより、「へえ~」の一部には「茶の間に書く」というゴールができた。
この「茶の間」のデータというのは(メインの記事もだが)、Dynalist上に自分で決めた書式に従って書いておき、それをDynalistのAPIを通じてプログラムで取得して生成している(サイトの作り方④取得したデータを加工するに解説あり)。「茶の間」用のファイルがあって、その中で橙色に設定したノードをタイトル行と判定し、その下位項目を本文と解釈している。祖先項目に橙色のノードが存在しなければ、その枝はまるごとスルーされるようになっている。
最近のことだが、Dynalistで作業中に、テレビでちらっとやっていたことを「あっ」と思って咄嗟に「茶の間」のアウトライン内に書き留めた。普段は他のツールかノートに記述しているけれど、それを開くのが面倒だったのでDynalist上に書いてしまおうと思い、現状そういうものっぽい内容が多い場が「茶の間」用ファイルだったのでそれを開いて入力した。
そうやってみて気がついたのだが、この種のメモというのは、「ゴールがあるとすれば茶の間」であり、結局「茶の間」にも書かないかもしれないが、少なくとも他にゴールはないわけで、それならば最初から全部「茶の間」用アウトラインに書いてしまえばいいのではないか。
メモがずらっと並ぶ中で、公開できるくらいに書いたものは橙色に設定しておく。そうすると、メモの中に「公開もしているメモ」が混ざるような感じになる。管理上は何の支障もない。これまでは別の場所に書いてあるメモを見てこれ書くかとなったら「茶の間」に持ってくるという流れがあったが、最初から「茶の間」のファイルに書いてしまえばそうする必要はなくなる。
これには場所を分散させずに済むというメリットがまずあるが、それ以上に大きい恩恵があって、それは「可能なら公開したい」という欲によって記述を充実させようというインセンティブが働くことだ。説明のあるサイトを見てこよう、正確な情報を整理しておこう、ついでに疑問も解消しておこう、といったふうに。
今までの単に「へえ~」をメモしておくだけの形では、その後に何か書き足すということはまずなかった。「へえ~」とは思いつつも、それ以上労力を割くほど強い関心はないことが大半だからだ。調べてみれば面白いのはわかっていても「まあそのうち気が向いたら」になってしまう。なのでメモがノートとして充実していかない。
一方で「あわよくば記事にしてしまおう」というある種の下心があると「気が向く」のでちょっと労力を割いて調べ物を進められる。結果として、メモはノートになり、「へえ~」の感動はより深いものになり、自分の心はアウトラインの規模とともに豊かになっていく。
「茶の間」は古のブログのような感じを目指し、他の人にとってはどうでもいいかもしれないがただ書きたいから書く、ということをする場が欲しくて作ったものだ。なので自分にとって意味があればそれでいい。とはいえ場所を作ったからには、誰かが見に来るかもしれないことを念頭に、記事を増やせるなら増やそうという気になる。
この「自分にとって意味があればいい」と「増やせるなら増やしたい」の掛け合わせによって、今まで宙ぶらりんになっていた「へえ~」にフローが生まれ、最終的に公開するにせよしないにせよ、記述を豊かにする動線ができるようになった。メモに根拠のある居場所ができたことにはかなりのスッキリ感がある。
このことは自分が良い気分になる以外の意味は持たない(これで稼ぎが増えるとかいうことはない)わけだが、自分が良い気分になれたらそれで十分だろう。
カードとは何かを考えてみる
うちあわせCastの第百五十回を拝聴しました。
直接の感想というのではないけれど、カードというものについて自分なりに改めて考えておこうと思ったので、これを機に書いてみることにする。
なお、前に情報カード性とは何かということについて一度書いたことがある。
情報カードが持つ要素
まず情報カードが持つ要素とその利点として自分が思いつくものを列挙してみる。
- 個々の境界が明確である
- 「これ」と指して扱うことができる
- 紙面を有限化する
- 取り扱い可能な粒度に収めることを促す
- 二次元に敷き詰められる
- 視界に入る情報を多くすることができる
- 二次元に自由配置できる
- 位置によって情報にイメージを与えられる
- 重ねて束ねられる
- まとまりを認識しやすくなる
- 順番を自由に変更できる
- 文脈を整理することができる
- 構造から自由である
- 他の任意の情報と同時に扱える
- 複数種類の情報をひとつの単位にまとめられる
- タイトル、本文、区分、日時等
また、ノートツールとして一般的なものについて、独断と偏見に基づき各要素の得意不得意を整理してみる。新興ツールはあまり使っていないので定番のもののみ。
異論はあるかもしれないが厳密にどうであるかは重要でないので、あまり気にしないでほしい。
情報カードはもちろん全て満たしているとして、他の道具あるいはデジタルツールは全部を備えることはなかなかない。全てクリアしなければならないわけでもないと思うので別に「欠いている」ということではないのだが、何かしらの要素の不足により情報カードと同じようには使えないかもしれないということは気に留める必要があるだろう。
また、そもそもこれらの要素を備えたデジタルツールがあってもそれを情報カードと同じように操作できるとは限らない(後述する)。
- タイトル、本文、区分、日時等
なぜカードがほしいのか
で、カードであることの何が嬉しいかというと、情報をオブジェクトとして扱えること、そしてそのオブジェクトに任意の文脈を持たせられることだろうと思う。
他の情報と組み合わせたり、他の情報との並びによって意味を生み出したりする場合には、自由に移動できるカードが都合が良い。ただしカードでなければできないことではないし、別に全てを外に書き出してやらずに自分の脳みその中で完結する部分があってもよいのだから、カードの活用が必須というわけではない。
そしてカードが良いと感じたとしても、それをどう扱うかはまたそれぞれだろう。平面に並べたい人もいれば、順番を替えられればいい人もいる。それはおそらく個々人の性質(例えば認知特性など)によるほか、カードを使って何を達成しようとしているかという目的の違いが大きく関わっていると思う。
カードに書き溜めたもののゴールはどこにあるのか。文章を書くことなのか、何かを理解したり見出したりすることなのか、書き溜めること自体が目的なのか。もちろん正解はない。ただし、うちあわせCastで梅棹忠夫のカードとニクラス・ルーマンのZettelkastenの違いが語られていたように、カードを活用している先達がそれぞれ異なる目的でカードを扱っている可能性があることを踏まえておく必要はあるのだろう。
カードを使うこととネットワーク型の情報管理をすることは別に全然イコールではないということも大事なポイントかもしれない。これはデジタル世代ゆえに発生する混乱に思える。
個人的な使い分け
ちなみに、私はScrapboxのホーム画面のように二次元にカードを敷き詰めるタイル状のビューを前までよく使っていた。それは以下の二点を満たすためだ。
- どこからどこまでがひとかたまりの情報かの判断に認知資源を消費しないためにカード状に切り分けたい
- より多くの情報を一度に視界に入れたい
一つ目はどういうことかというと、例えばアウトライナーに何か書いていったとすると情報の区切りは一目瞭然とはいかない。親項目を閉じれば良いかもしれないが、私はあまり几帳面に開閉しないタイプなので、情報のまとまりを意識したい場合にはツールの方でそれを表現してくれるものの方が助かる。
これはデータの形式の問題なので、そうやって切り分けた情報を一覧する方法としては縦一列に並べたリストもあり得るが、二つ目を満たすためにカードを敷き詰める形を選択した。規格化された見た目であることも認知資源の空費を防いでくれる。
逆に、カードにするといちいちオブジェクトとして存在感を持ってしまうことになるから、はっきり区切りを意識する必要がない場合は、普通のノートやアウトライナー、プレーンテキストのようなツールで扱った方が自然に感じる。
また、自動整列のタイル状ビューではなく付箋ツール的なものを使うという選択肢もあるが、配置があまりに自由過ぎてしまうと、「位置に意味を持たせられる」という利点と引き換えに「位置に意識を向けなければならない」という欠点も発生するため、明確に位置に意味を持たせたい場合以外は自由配置のツールは使わないようにしている。
デジタルでは失われること
ところで、デジタルでカード的なものを扱う意義というのが今回のうちあわせCastのテーマだったと思うけれども、無限に増え続ける情報を扱うにあたってはデジタルツールを使うのが現実的だが、やはりデジタルではどうしても失われる要素がある。
- アナログなら自分の視野の広さの分だけ視界に入るが、デジタルでは画面サイズに限られる
- アナログなら広げたカードを簡単に集めたりまとめたりできるが、デジタルでは移動が不自由である
- アナログなら任意の範囲のカードを自由な速さで繰って確認できるが、デジタルではアナログほど直感的にはできない
二番目は要するに、机上にある任意のカードを手でガッと集めるというようなことを、デジタルでは再現しにくいということだ。「表示しているカードを全部回収する」みたいなコマンドを作ることは可能だが、その都度自由な尺度で任意のカードを集めるということを再現するのは容易でない。そのように「手でやった方が速い」という操作が様々ある。
三番目も「手でやった方が速い」という話で、特定の範囲のカード群をちょっと見返したいというような時に、紙なら適当に掴み取れば済むものを、デジタルだと適切に範囲を指定するなどの手間が必要になる。
デジタルツールに於いて或る見た目を実現可能だとしても、その見た目と別の見た目との行き来にどうしても不自由する。例えば刑事ドラマでよく見るホワイトボードのように情報を「ひとつずつ足したり引いたり」で更新するものならデジタルで代替して良いのだが、頻繁に全体のレイアウトを変えるような使い方は現状デジタルツールはあまり向いていない気がする。(誤解のないように補足すると、複数のレイアウトを保存してその間で「切り替える」のならデジタルツールは非常に力を発揮するが、今言いたいのはそういう意味での見た目の行き来ではなく、机の上でああでもないこうでもないとカードをダイナミックに動かすような操作のことである。)
なので、それをデジタルで叶えようと奮闘してもなかなか答えは見つからない。付箋ツールの類は操作性の面で色々と工夫されているが、各カードが持つ情報量で考えるとそれはカードというよりあくまで付箋だろうと思う。
逆に、言わずもがなのことだが、デジタルでは「全データから条件に合うものを抽出する」ということが可能になるわけで、デジタルのカード型ツールというのはそれを如何に活かせるかがポイントになりそうだ。うちあわせCast内でも話の結論としてScrapboxの関連ページ欄について言及されていたが、そのような仕組みによって、能動的に探さなくても「パラパラ繰って見返す」と似た効果を得られるようにするのがやはり重要なのだろうと思う。
まとめ?
デジタルだと必ず失われてしまう自由というのがおそらくあって、もしそこに「自分がカードを使いたい理由」が関わっているならば、無理してデジタルでやらないで紙のカードを活用することを考えた方がいいということかもしれない。
とはいえ情報管理の全てを紙でまかなうのはもはや現実的ではないだろうし、アナログ感が必須なわけではない情報についてはデジタルツールを使った方が後々自分が助かる。しかし漠然と「カードっぽいのがいいな」と思っても、そのうちのどの要素を満たされたいのかがわからないとツール選びに迷走すると思うので、最初に整理したように要素をピックアップして照らし合わせると良いかもしれない。
デジタルツールの最大のメリットは「無限に追加できる」ことと「全データから条件を満たすものを抽出できる」ことにある。それと「カード」という形式を掛け合わせた時、アナログな存在である自分を補助する仕組みとしては、「パラパラ繰って見返す候補」を自動で抽出して表示してくれるのが理想なのではないかと思う。「カードを並べる」感じや「パラパラ繰る」感じをどれほど紙のカードの感覚に寄せるかは好みの問題だろう。
土であって種ではない
これまた年単位で前のものですが、こちらを聞き返しました。
- 第百十回:Tak.さんとアトミックとは何かについて - うちあわせCast - LISTEN
話の趣旨に沿っていたり沿っていなかったりな感想的メモを残しておこうと思う。
この中で、ざっくり要約すると「アトミックなノートを増やしていくことは、文脈の産物である『コンテンツ』を育てることとは直接は関係していない」というようなことが語られていた。アトミックなノートを集めればそれがそのまま意味のある文章になるわけではない。
このことは自分の体感としても全くもってその通りだなと思う。
アトミックなノートを直接文章にしようとすると迷走する可能性があるが(自分なりのメッセージがないからだろう)、しかしそのまま文章にできないからといってそういうノートを作ることをしないでいると文章も生み出せない。最近私が考えていた区切りで言うと「知の箱」に入るべきもので、これは自分の土台を作るものだ。最終的に豊かな表現をするためには、それができるような豊かな人間になる必要があり、それを支えてくれるものだろう。
アトミックなノートとして書かれるものはおそらく論理的なものが多いし、「後で使えるようにする」という意識が働くものでもあるので、「豊か」という形容詞とは結びつきにくいかもしれないが、つまるところより広くより深く物事を考えられる人間になるために作るものであろうし、やはりそれは「豊か」になることを目指しているものと言っていいと思う。五藤隆介さんも『アトミック・シンキング』にてその目的を「考える能力を拡張すること」とお書きになっている。
で、これはつまり「土壌」なのだと思う。あくまで「土」であり、じつは「種」ではないのだ。「種」だと思って膨らませようとしても、「芽」が出るのではなくて「良い土」になっていくのであり、表現としての文章にはなっていかない。考え事は進むのになぜか文章に繋がらないということが時々あるのだが、それはこういうことなのだと思う。
良い土になっても「種」がなければ一向に芽は出ない。「種」というのは自分なりの文脈であり、自分の価値観に基づいて自分や他者をどこかに連れて行くための根源である。良い土に種を蒔けば、それは芽を出し大きく育つ可能性が高くなる。
「土」と「種」という比喩には目新しいものはないだろうが、「アトミックなノートはあくまで土である」という認識を持ったことで、それがなぜコンテンツづくりと混同されてはならないかが自分の中で明確になった。非文脈的というのは、要は自分の価値観を軸にしないということだ。自分が何を理解したいのか、何を伝達したいのか、ということを踏まえて有機的にノートを作ると、それは自分が持つ文脈に沿ったものになり、アトミックにはなっていかないだろう。
ただし、アトミックなノート(=非文脈的ノート)は「土」だが、「土」は必ず非文脈的というわけではないと思う。ある概念を文脈から解放しておくことはその概念を生かすことを楽にするとは思うが、文脈と結びついたまま扱うことの方が自然な人間にとっては、むしろ文脈と切り離すことに無理して労力を費やすより、文脈とセットにしたまま保存しておいて「使う時に切り離す」方が良いのかもしれない。例えば「要するに」と言いたい人間かそうじゃないかという違いは事実あって、その性質的な違いが存在するのなら情報の扱い方もその間で違っているのではないかと感じる。
アウトライナーに何かを書いていく時、「これはつまりこういうことだ」と思ったら、多くの場合「これ」を示す項目の子項目に「つまりこういうこと」の内容を書くことになるだろう。その部分だけ取り出してカード化すればアトミックなノートになると思うが、取り出してカードにした方が嬉しいかというのは人によるかもしれないと思っている。せっかくカード化しても、その内容を思い出そうとした時にはその文脈(例えば読書メモなど)の記述を探した方が遥かに速いということもあり得る。
というか、見た目にアトミックっぽいカード的なノートを作らなくても、頭の中で文脈とともにアトミックな理解が保存されている場合もあるだろう。アトミックに書くのが難しいと感じていても、何かを咀嚼した上で自分の言葉で何かを語ることに不自由していないのならば、それは実際は文脈から切り離して考えることに苦労するタイプではないようにも思う。つまり、「文脈A→文脈無し→文脈B」の工程を経るのは難しいが「文脈A→文脈B」の変換に苦労はないということだ。アトミックなノーティングは苦手でもアトミックなシンキングはむしろ無意識レベルで当たり前にやっている可能性もある。
今ふと思ったが、もしかするとAnkiを活かせる人とそうでもない人との差もそういうところにあるかもしれない(実際そうかは全然わからない)。ちなみに私はAnkiに挫折している。
そういえば、うちあわせCastのこの回でTak.さんが「カードに書いていくと一枚で完結できずスレッドになってしまう」という旨のお話をしていて、これは自分にとってはツイートについて抱えていた悩みと同じだなと思った(考え事をTwitterでやった後にその一連のつぶやきをどうするかに迷う)。このことについてはまた別に考えようと思う。
メモとノートと書き物と文脈
結構前のものですがうちあわせCastを聞いていて考えたこと。
メモ術・ノート術・執筆術の三つがあるよね、というお話をされていた。そのお話でのメインテーマからはちょっと外れるが、メモ・ノート・執筆の三つの場はツールを混在させると混乱するポイントだろうと思ったので、それらの境界がどこにあってツールは何を選択すべきなのか自分なりに考えてみようと思う。うちあわせCastその他で語られていることと多分同じことを自分の表現で言っているだけになるだろう。
メモ、ノート、書き物と文脈
さて、メモ・ノート・執筆のままだとちょっと話が曖昧になるというか、例えば執筆のためには当然メモもノートも作るわけなので、まず「メモが生まれる時」「ノートを作る時」「書き物をする時」という観点で考えてみる。これらはいずれも自分の頭の中で起きた知的反応を文字にして書き残すということをしている状態だが、その知的反応にまつわる文脈の状態は全て違っている。(「書き物」はつまり人が読む文章のことだが、単に文章と書くとニュアンスが曖昧になる気がしたため書き物とした。)
-
メモが生まれる時:文脈はその瞬間の環境にある
-
ノートを作る時:文脈は既に記述されているか、ほぼ自明のこととして自分の中にある
-
書き物をする時:文脈は自分の中にメッセージとして存在している
生まれたメモがすぐ死んでしまうのは文脈が「その瞬間の頭の中」にしかないからであろう。その瞬間に自分がどういう状況にあり、何を考えていたのか、きちんと書き留めておかなければ後から確かめる術がない。
ノートを作る場合は、ノートを作ろうとしている時点で文脈が既にはっきりしている。そしてノートを作っている途中で起こる知的反応は既に記述されているものとの繋がりがおおよそ明らかであり、ある程度の言語化を心がければそれがすっかり死んでしまうことはない。前回書いたように(「文脈エディタ」としてのアウトライナー)、アウトライナーを使ってアウトラインとして書き残しておけば鮮度はかなり保存される。ただし、その時点で自明だと思っている文脈も時が経てば次第にその力が弱まっていく可能性が大いにあるので、あまりにも記述を横着してしまうとやはりそのうち死んでしまう。単語だけで済ませないことはどの形態でも必要な心がけだろう。
書き物をする時は当然ながら文脈が既に存在している。文脈がないならばそもそも書き物をしようということにならない。書き物とは文脈を人が読める形に整えていく仕事であり、新たに文字にしたものはその前に書いたことと当たり前に関連している。
何が言いたいかというと、自分の頭の中に何かが生まれた時に、それについての文脈を明らかにするために新たに費やす必要のある労力が違っているということだ。既に文脈が書かれていれば文脈を明らかにするコストはあまりかからない。何の脈絡もない思いつきはどこにも文脈が書かれていないせいで文脈の明示には大きなコストがかかる。
可能ならば、メモが生まれた時にそれが繋がるべき文脈が既に言葉になって存在していてほしい。それができるならそれはもうメモではなくノートだろう、と言われそうだが、その通りで、つまりメモがスムーズにノートになってほしい。(これは「最終的にノートになってほしいメモ」に限っての話で、すぐに用が済むようなものは別だ。)
逆に言えば、何か思いついたものが既存の文脈とどのように繋がっているかが、それが「メモ」「ノート」「書き物」のいずれであるかを決めているようにも思う。 -
メモの一文:言語化された文脈と十分に接続していない
-
ノート内の一文:自分が理解可能な形で言語化された文脈と十分に接続している
-
書き物内の一文:他者が理解可能な形で言語化された文脈と十分に接続している
言語化という言葉はあまり好きでないが、こだわって意味が不明瞭になっても困るので、「読んで理解できる文にしてある」という意味で「言語化された」と書いている。また「十分に接続している」とは、その一文の意味を時間が経っても解凍可能な程度にその文脈に支えられていることを意味している。
同じ一文を書いたとしても、単独でインボックスに入っていればメモだし、ノートの中に位置づけられていればノートの要素だし、他者ないしは未来の自分が読むための文章に組み込まれれば書き物の要素になる。
もうちょっと言い換えてみよう。 -
メモ=各文が文脈を形成するとは限らず、かつ既に言語化された文脈と十分に接続していない
-
ノート=各文が自分に理解可能な形で文脈を形成し、互いに十分に接続している
-
書き物=各文が他者に理解可能な形で文脈を形成し、互いに十分に接続している
執筆には、書き物そのもの(=本文)と、取材や構想などのノート、そして書き物に関わるアイデアなどのメモとが必要になる。文脈がない状態から自分がわかる状態に変え、そして他者がわかる状態に変えていくことになるだろう。
メモを死なせないために
メモを長い間生かすためには、その一文が既に言語化されている文脈と十分に接続することが重要ということになる。つまり小さいノートに変身させるということだ。なお速やかに消費する種のメモはいちいちその労を払う必要はない。
例えば「メモとノートと書き物は分けて考える」という閃きが生まれたとして、そのままでは「なんで?」というのがわからない。そのうち何がしたかったのか忘れてしまうだろう。そしてメモは死んでしまう。でも、仮に「デジタルノートツールを適切に使い分けたい」という言語化された文脈と接続すれば、なぜごっちゃにしちゃまずいのかがわかる。縦しんばその時点にあった「どう分けるべきか」のイメージを忘れたとしても、そのメモはHPを半分くらい保った状態で生き残るように思われる。
辛いのは、メモが生まれた時にその文脈を全く言葉にしたことがなかったパターンだ。しかし、なぜ文脈が言葉になっていないのだろうか。自分の生活とは全く関係ない思いつきが急に降ってきたというのなら仕方がない。実際にそれまでその文脈が自分の中に存在していなかったのだから先んじて言葉にしているはずもない。しかしそうでなければ、文脈自体は既にあるにもかかわらず、それが言葉になっていないということになる。
といって、今自分はどんな文脈の中にいるのか、と問うてもなかなか言葉は出てこないだろう。ここで有効なのがフリーライティングではないかと思う。で、フリーライティングした後に自分のいる文脈を整理しておく。そしてメモが生まれた時に自分の文脈のどれと関わっているのかを照らし、関連があれば結びつける。タグにすると管理が大変なので(というか管理しようとし始めてしまうので)コピペで構わないだろう。別に全く同じフレーズを貼る必要もない。肝心なのは個々のメモの文脈をなるべく簡単に保存することであって、その文脈にまつわるメモを一度に取り出しやすくすることではない。
そうは言っても文脈を網羅することなど土台無理な話であり、また文脈というのは「前提」だけではないから、これでメモのゾンビ化が万事解決ということにはならない。ならないが、とにかくメモが生まれた時点でその文脈を言葉にしようとするのが辛いわけなので、ある程度予め文脈の言語化を心がけることは多少その苦しみを和らげてくれるのではないかと思う。
ツールを考える
さて、結局どんなツールを使うべきかという問題が残っている。
アウトライナーは文脈保存のツールだと書いたように、実際ノートと書き物(の準備段階)はアウトライナーが良さそうに思える。ただし全てをアウトライナーでやるワンアウトライン形式より、テーマごとのファイル内でアウトライン操作ができるような形が良いかもしれない。そしてファイル間はリンクで繋げられるネットワーク型にすると後々活かしやすいだろう。具体的にはScrapbox、Obsidian、Notion、Logseqあたりが候補になるか。異なるテーマ間には通底する文脈がないことが多いからノート全体の管理をアウトライナーでやる必然性はないと感じる(アウトライナーでやってもいいけれども)。
メモはなかなか難しいところだ。頭に浮かんだ時点ですぐ書き留められることが最優先だから、メモの入口としてはとにかく素早くスムーズに書き込めるツールが必須だが、それをそのままにしていてはメモが死んでしまうので、書き込んだ後のことも考えなくてはならない。場所を移すなら移しやすいものを使うのが良いし、場所を移さないなら分類ができて編集がしやすいものが良い。あるいは書いたものは基本的にそのままにしてレビューの機会を作って植え替えするのもありだ。
行動を伴うもののメモがアイデアメモによって埋もれるとよろしくないのでそれらは分けて考えた方がよいだろう。そしてアイデアメモは間違いなく溜まる一方なので、無限の増殖を覚悟する必要がある。「すぐ書き込める」「行動のメモとアイデアメモを分けられる」「アイデアが無限に溜まってもいい」を満たすシステムはどんなものになるか。メモを小さいノートにするまでの流れを整理したい。
パターンを考えてみよう。
①内容を簡単にコピーできるものに書き込み、無限に蓄積可能なツールにこまめに移す
②分類可能かつ無限に蓄積可能なツールに書き込み続ける
③無限に蓄積可能なツールに書き込み、別の無限に蓄積可能なツールに植え替える
①は、例えばアウトライナーにまず書いてScrapboxに移すという形態があり得るだろう。インボックスやデイリーのページを入口として、文脈が失われないうちにアイデア類はカード式っぽいツールに移動する格好だ。機械的にコピペしても駄目で、移動する際に文脈を補完するのが重要だ。
②はイメージとしてはごくシンプルな形式なのだが、適切なデジタルツールは思い浮かばない。Evernoteの超簡易版みたいなのがあると良い気がする。私が過去に触った中ではCliptoというクリップボード監視ツールが一番イメージに近いかも知れない。理想を言えば、編集可能、タグ付け可能、インクリメンタルサーチ可能なTwitter風メモ帳みたいなのが良い気もするが、そういうコンセプトで過去に作ったツールがいまいちうまくいっていないので、おそらく納得できるUIの条件はシビアである。あと自作ツールだと現状「すぐ書き込める」を満たさない(スマホに対応していない)というのがネックになっている。なおアナログならPoIC[1]がこのタイプだろう。
③は外山滋比古が『思考の整理学』で書いていたメモ、ノート、メタ・ノート[2]のようなタイプだ。育ちそうなものはそのまま育てないで別の場所に移動する。デジタルツールでは植え替えをする必要に迫られないが、デジタルでも敢えて植え替えする方が結果的にメモの生存率は上がるかも知れない。急がば回れというやつだ。
これらのどのパターンを選ぶかでずっと迷走している感がある。どれを選んでも、その後別のパターンが魅力的に見えてくるのである。どれについてもそれがベストだと言っている人がいるのだから、優劣を比較して結論を出すことは多分できない。結局頭で考えないで感覚的に気に入ったものを選ぶということになると思う。そう思いつつ、まだ悩んでいるところである。
雑なメモは雑に書かれなければならない
副題:最強のデジタルノートツールを作ったらむしろ紙のメモが増えた件。
昨年末から開発に取り組んできた自分用デジタルノートツールがあり、まだ実装したい機能全体の七割くらいの段階ではあるが、実用に足るところまで出来上がっている。詳しくは別に書くが、一言で言うとアウトライナーとホワイトボードとScrapbox風カード型管理を一体化したツールである。アウトライナー部分のスクリーンショットはこんな感じ。
中央上部にデイリーアウトライン、中央下部に今アクティブなテーマのアウトライン(複数並んだ状態)、左にどこにも属していない思いつき用のアウトライン、右は全アウトラインの中にあるToDo等の項目のピックアップ欄(全てのアウトライン項目に任意の属性を付与することができる)になっている。
一番上の「Outline」「Board」「Database」のラジオボタンで機能を切り替えて使う。一応あらゆる粒度のメモを違和感なく収めることができて、今のところとても便利である。
そんな感じで理想的なツールができつつあるのだが、その一方で、紙に書くメモ(notノート)というのがむしろ前より増えている。
具体的にはB5またはA5の紙(向きは横長)に主にぺんてる筆で書いている。筆だが横書きだし、JavaScriptのコードなどを書くこともある。なおぺんてる筆をメモに使うようになった経緯は前にちょっと書いた(ぺんてる筆)。
メモの内容や形態は様々である。絵や図を含むような、デジタルでは難しかったり面倒くさかったりするメモもあるし、デジタルでも構わないはずのほぼ文章に近いメモもある。一時的なメモもあれば当分参照し続けるメモもある。参照し続けるメモというのは、大抵メモのつもりで書いたのがノート的性格のものになったという形だ。
これまで自分に馴染むデジタルノートツールを追求してきて、自作できる範囲で叶えられるものの上限にそろそろ近づいてきた。これ以上直感的にはならない、という限界のようなものが見えてきたという感じである。Obsidianに最近追加されたCanvasやHeptabaseなどのような平面配置系の機能の強化はまだ多少進む余地はあるが、なんというか、根本的に「これ以上有機的にはならない」というようなラインが恐らくあり、それを悟ってしまったようなところがある。(VR技術が身近になればまた話は変わってくるだろう。)
どんなに直感的にしていっても、まず書き込む場を選択して、そして書き込み方を選択する、という手順のデジタル感は消えないような感じがする。たとえタブレットに手書きすることが可能としても、手元の紙と画面の中の手書きアプリは同じにはならない。そのデジタル感に自分が適応するという手はあるが、私にはどうもそれは難しく、手書きアプリでも「専用のアプリケーションを選択して、手書きという記録方法を選んでデータを入力する」という感覚が残ってしまう。他の種類のアプリケーションは尚の事である。
一方紙に書くということは、手段を選択する前の時点で既にある手段という感覚がある。紙に書くのが単語か文か、絵か図形か、といったことは個々人で分かれるにしろ、「とりあえず書き留める」ということを考えた時にパッとやれるのが「紙に書く」だろうと思う。
書き留めたいものが頭に浮かんだとして、その瞬間に如何なる記録方法が適切かが判断できればそのツールに直行できるが、そうでない場合というのが必ず出てくる。自分の考え事というのを特定の種類の仕事に限るなどすれば然るべき記録方法は絞られるにしても、自分の頭を制約なしに自由にしていると、書き留めること自体が無謀な抽象加減で何かが浮かんでくる。それをどうにか少しでも書き留めるとするならば「紙に書く」以上に適切な手段がないということがままある。
少し前までは、うまく設計すれば「手段の選択」という感覚なしにサッと書き込めるツールを作れるかもしれないと考えていたが、そんなものはない、というのがここまで自分でデジタルノートツールを作ってきての感想である。
つまり「作ろうと思えば何でも作れるはず」という前提の元にデジタルノートツールと向き合ってきた結果、かえって紙というものの普遍性と唯一無二性を感じることになったわけである。
全く別の観点からも、紙にメモを書くという動機づけが強化されている。
紙にメモを書く時(notノートを取る時)、私は意識的に筆跡を雑にして書くことにしている。自分で読むには一応支障はないが、他の人が読むとなると判別が怪しくなってくるというくらいの雑さで書いている。元々は、人の目に入った時にさらっと読まれるとなんか嫌だということから努めて(?)判読が難しくなるようにしていたのだが、最近は自分のために汚く書いている。
雑に書くために紙は必ず罫線やドットのない無地を選ぶ。要らなくなった紙の裏なんかは一層雑に書きやすい。自分が書いたものを大事にするという意味では何かの裏面の再利用というのは相応しくないのだが、自分にメモを雑に書かせるにはその方が都合が良い。
そこまで積極的に雑に書いているのは、雑な方がその記述に対して次なる思考が働きやすいという実感があるからだ。
それは「きっちり書くと加筆しづらい」ということとイコールではない。全く無関係というわけではないが、後から書き添えやすいかどうかとは別の話で、あくまで「思考が動く」ということがポイントである。
雑に書かれたものは見た目に安定感がない。完成されているという感じもないし、どうにかしたほうがいいんじゃないかという気持ちを湧かせる。書かれた内容が何らかの意味で揺るぎないものだとしても、筆跡が雑だと「もうちょっとどうにかしたほうが」という感が漂う。単に綺麗に清書するなりPCかスマホに打ち込むなりして済むこともあるが、内容自体を考え直すこともある。内容が割合しっかりしていてもそうなるのであって、内容自体が中途半端なら尚更「どうにかしたほうが」感は強まる。
言い換えると、「整ったと錯覚する」ということを防いでいるわけである。美しく記述してしまうと、もうこれでいいのかもしれないという感じがしてしまうところがある。びしっと書けてしまったことには手を入れにくい。
その点、デジタルな入力というのは綺麗過ぎるところがある。「文章」と「文章未満」の間には「どうにかしたほうが」感の差が生まれはするが、筆跡には差がなくいずれも綺麗となれば「文章未満」のものにもある程度の「整った感」は伴う感じがする。
これはフォントに工夫の余地はあるかもしれない。私は試していないが、メモ書きの領域をゆるい手書き文字フォントにするというアイデアはあり得る。ただそこまでしてデジタルで完結させたいと私は感じていないし、前述の「手段の選択」問題もあるので、今のところ紙に自分の手で書くことを選択している。
そして雑に書かれたものは、「項目」として認識しにくくなる。丸や四角ではっきり囲めば別だが、デジタルツールにおける「行」「ノード」のような「単位」を意識することは少ない。よって「項目単位で扱えてしまう」ということが減る。
デジタルツールに書いた雑なメモの扱いで困ることのひとつに、それをそのまま活かそうとしすぎてしまうことがあると感じている。メモを「最小単位にしてしまう」のである。そうできることがプラスに働くことはもちろん多いのだが、項目として存在することで個別の対象として考えすぎてしまうことがある。
これと指し示すのが難しいようなごちゃごちゃした雑なメモの集合体を、それ以上細かく整理しようとせずにぼんやり全体を眺めた時、ふと新たなアイデアが生まれる、という体験をしばしばしている。
アウトライナーに雑多に列挙した時に生まれる効果もそれと似たものだと思うし、どの程度の雑さが必要になるのかは人それぞれだろう。何も筆跡まで汚さなくとも、と感じる人も多かろうと思う。肝心なのは「意識的に雑にしてみる」という発想であり、どういう形で雑にするかはここでは些末な話である。
記事のタイトルはちょっと強気に出ているが、メモを綺麗にしようなどと考えてはいけないぞという自分への警鐘として「雑なメモは雑に書かれなければならない」としてみた。
メモを取ろうとすると文にできなくなる件
前回に引き続き、うちあわせCast第百十五回に関連して。今回はアイデアメモの取り方がうまくないということについて。
誰しももはや耳にタコができるほど聞いていることだろうが、思いついたことというのは、その場で書き留めないとたちまち霧散してしまうものだ。思いついた時は「こんなに印象的な閃きを忘れるわけがない」と思ったりするわけだが、多くは一時間も経たない内に「印象的な何かを閃いたはず」という気配だけを残してすっかり消え去ってしまう。閃いた瞬間は何度でも「閃き直す」ことができそうに思えても、結局は一度逃したら永久に戻ってきてはくれないことばかりだ。本当に重要なことは閃き直すことができるにしても、それはごく限られた発想だけだろうと思う。
この通り思いつきというのは「書き留めないと失われる」ものだが、じゃあ書き留めさえすれば失われないのかと言うと決してそうではない。自分で書いたメモなのに、何日か経つと意味の再現にもたつくようになり、何ヶ月や何年とかいう単位で時間が経過してしまうともはやただの文字列に過ぎなくなる。その文字列を見てその場で新たに何かを閃くことはあっても、メモを取った時の自分の心境やそこにあった文脈を再現することは叶わない。
なぜ再現できなくなるのか。それは「読める」ように書いていないからだろう。思いつきの前提にある環境・心情・文脈というのは、情報量としてなかなか膨大で言語化は容易でないものなので、メモにいちいち書き添えてはいられない感じがする。しかし多くの場合、それらの周辺情報がなければメモというのは意味を成さない。よって、もし未来の自分に活用してもらいたいのならば、何らかの形で周辺情報は添えておかなければならないだろうと思う。
例えば日記の中にメモを書いたとして、それを後から読み返すとする。その場合は、他に日記として書いている内容も再読して前提を自分にインストールしたならば、ある程度周辺情報を再現できるのでメモの意味がわかる可能性も高まる。ただその場合、まず「日記を読む」という行為が先にある必要がある。基本的には、日記を読みたいから読み、その副産物として偶然メモを発見できた、という流れになるだろう。
そうではなく、日記の中に埋もれさせずに「メモを書き溜めておいて、それを活用する」という格好にしたいのならば、「たまたま日記に周辺情報を書いていた」という偶然任せにせずに、他の積極的工夫をした方が良いのだろうと思う。(とはいえそこまでする必要があるのかどうかは人それぞれだろうし、無意味にメモの活用に囚われて「メモのためのメモ」になってもしょうがない。)
私の中でうまくいっているやり方がひとつあって、それはTwitterを利用することだ。(うまくいっていると言っても、狙ってやって成功したのではなく、考えてみるにこれがうまく働いているじゃないか、と後になって思ったものである。)
アカウントは公開でも非公開でもいいのだが、何かメモしたいことがあったら、それについて「他人が読める文章で」「可能な限り140字埋める」ということを心がける、これだけである。これだけだが、簡単だと言いたいわけではない。みんなもTwitterにメモするといいよ、という話をしたいのでもない。
ツイ廃としての長年の鍛錬(?)の甲斐もあって、140字単位の文章にすることにはそこまで苦労はない(ただしたった140字とは言っても何秒かあれば書けるというものではないので、時間はあっという間に溶けてしまうという難点はある)。前回の記事(アウトラインではなくキューを作る)で書いたように、読み手の存在を意識することでずっと書き続けていられるタイプでもある。前提を共有していない他の誰かが読めるような文章で書こうとするわけだから、自然と未来の自分が読み返した時にその話の前提を取り戻しやすいものになる。
つまり――思いつきをその場で文脈とともに文章化すること自体は、できなくはないはずなのである。
ところが。
もしTwitterの画面を開いていたならばそこに文章化できたメモでも、他の「メモのための場」に書き留めようとするとそれがなぜか全然そうはならない。如何にも「メモっぽく」メモを取ってしまうのである。
より短く簡潔に書き留めた方が勝ちかのように、ササッと書いて済ませようとしてしまう。つまり「敢えて読み物にしないようにしている」という状態になっている。本当はちゃんと文章化した方がいいとわかっているのに、「メモなんだし」という意識がそれを邪魔している。一秒でも早く「メモを取る」という行為を終わらせたいという気持ちになっている。元の作業に戻りたいという意識がなくとも(つまり暇でも)、メモ書きは可及的速やかに終わらせたい。
変だよなあと思いながらも、この気分のコントロールは失敗しっぱなしで現在も解決できていない。代わりに少しでも見返したくなる環境にして書き加える機会を増やそうとはしていて、それはある程度は有効に働いているが、結局ツイート下書き画面なら数分かけただけで書けたはずのことを、あの手この手を尽くしてもそのレベルのメモにならないという状態になっている。もちろん腰を据えてノートを作る気になれば充実させることもできるが、それはもう「メモ」から離れた別の領域のものになっている。
じゃあ全部ツイートにすればいいのではというと、そういう話にもならないのが困りどころで(何しろ整理・管理がしづらい)、できればツイート画面だろうがメモ用ツールだろうが変わらず淡々と書けるようになりたいのだが……どうすべきかは未だわからない。(書いているうちに何か思いつくかと思ったが、残念ながら今回はそうならなかった。)
アウトライナーと手帳と表紙
うちあわせCast第百六回を聴いた(2周した)。「アウトライナー」という概念に対するLogseq(あるいはRoam Research)の位置づけについて議論されていて興味深く思った。自分なりに考えたことを書いておきたいと思う。
まず「アウトライナー」とは何か。Tak.氏がわかりやすく定義しておられるので、その定義を私の定義としても活用したいと思う。引用すると、以下の3点を満たすものである(参照:【基礎講座1】アウトライナーを定義する|Tak. (Word Piece)|note)。
- アウトラインを表示する機能
- アウトラインを折りたたむ機能
- アウトラインを組み替える機能
Logseqはこれらを備えているので、この定義に従えばこれはアウトライナーである。体感的にも、普通にアウトライナーだと思う。
ただ、「アウトライナーとはLogseqである」という命題は当然「偽」である。うちあわせCastで語られていた懸念は「Logseqをアウトライナーだと思われると…」ということであろうし、他の場でも「Workflowyをそれがイコールアウトライナーであると見なされると…」ということが語られていたかと思うが、つまり概念の親子関係が一般的に広く認識されていない気がするのがアウトライナーというツールを語る上での障害になっているのだろうと思う。
しかし逆に、Logseqのようなツールが存在することによって、「アウトライナーとはWorkflowyのようなものである」という認識の仕方からは一歩離れられるようにも思う。上記の定義を満たしながら複雑に多様で個性的なアウトライナーが様々生まれたほうがかえって「核にあるアウトライナー性」が浮かび上がってくるのではないかと個人的には感じている。帰納的推論が働くためには数が必要である。
Logseqとアウトライナーの関係についての議論を聴いていて素朴に浮かんだ感想があるのだが、「これは紙の手帳と紙のノートの関係と似たようなものなんじゃないかなあ」ということだ。
デジタルツールを語る上で安易にアナログのものをメタファーとして使うと、デジタルにしか存在し得ない特徴を認識しにくくなるおそれがあると思うので、「手帳対ノートと同じじゃん」と簡単に言ってしまってはいけないだろうとは思うが、とはいえ類似性を整理することには多少の意味があるだろう。
なお、「ノート」という言葉は色々なイメージを含みうるので、ここでは「紙のノート」を「内容となる部分が未記入の、同じサイズの紙を重ねて一辺で綴じたもの」ということにする。綴じ方は問わない。
紙の手帳、特に左ページに一週間分の日付が入っており、右ページが罫線のみ(あるいは白紙)のものを考えてみよう。これは「内容となる部分が未記入の、同じサイズの紙を束ねて一辺で綴じたもの」であるので、もちろん「紙のノート」の一種である。
左ページが日付と紐付いているわけだから、それと同時に視界に入っている右ページも、基本的にはその期間に書くノートということになる。そうしろという命令は誰にも出されていないのでそうしなければならないという縛りは一切ないが、敢えてそれを無視するという意識がない限りは、そうなるのが「自然」であろう。Logseqが(Journal機能をオンにしている限り)時系列を前提とする思考を惹起するであろうことと同じく、手帳の右ページは左ページの影響を受けて時系列に絡んだ記述がメインになりがちである。
そうすると、右ページは紙面としてはプレーンな「紙のノート」と全く変わりがないにもかかわらず、使う人間が同じ感覚でその紙面を認識するわけではないということになる。同じように認識している人がいないではないと思うが、多数派ではないように思う。
「紙の手帳の右ページの使い方の難しさ」は、「紙のノートの使い方の難しさ」と重なりはするが、イコールではない。「紙のノートの使い方の難しさ」に「紙の手帳の右ページゆえの使い方の難しさ」が加わったものが「紙の手帳の右ページの使い方の難しさ」ということになる。つまり、「紙の手帳の右ページって難しいよね」という話が、「日付が入っていないページ(=罫線のみまたは白紙のページ)って難しいよね」という話とそのまま同一視されては困るわけである。
しかしアウトライナーの話と違って、この同一視はあまり起こりそうには思えない。正確に言うと、同一視して語ったものであっても、それを読んだ側が同一視して認識する可能性は高くないという気がする。なぜなら、学校生活を送ったすべての人がプレーンな紙のノートを知っているからである。手帳の話は手帳の話であって、紙のノート全般についての話だとは思わないだろう。
また、具体的な商品名で「○○手帳の使い方」として語ったとしても、手帳売り場にいけばちょっと数えられない種類の手帳がずらりと並んでいることを多くの人が知っているし、「他の手帳でも同じことや似たことはできるだろう」という推測が自然に働くように思う。この手帳でしか実現できないメソッドとは思われないのではないか。
紙の手帳は紙のノートの一種だが、紙の手帳と紙のノートは半ば別のものとして捉えて使い分けるのが当たり前になっていると思う。よって紙の手帳の話を紙のノート一般の話とはそうそう混同しない。しかし同じように手帳っぽいLogseqとノートっぽい他のツールを使い分けるのが当たり前に思えるかというと、それは微妙なところである。
システム手帳はリフィルの自由性によって手帳とノートを同居させているわけで、いわんや多機能デジタルツールとなれば、同居させてしまおうという方がずっと当たり前かもしれない。
アウトライナーの話に戻ると、ひとつの問題として、教育を受けたすべての人がプレーンな紙のノートを知っているようには、プレーンなアウトライナーというのが知れ渡っているわけではないということがあるのだろう。
そもそもプレーンなアウトライナーとして万人が認められるものが具体的にどこかにあるわけでもない。Workflowyは「プレーン」に比較的近いかもしれないが、しかしもはやプレーンではないとも思う。冒頭で挙げた3点を満たしただけのアウトライナーというのが今の時代どこかにあるかというと、とりあえず私はその存在を知らない。
紙のノートなら何の予備知識も持たなくとも線を引いただけで使用者が新しい機能を付与できる一方で、デジタルツールはそう簡単にはいかないし、ツール側が種々の機能を予め備えておかないとユーザーとしては困る。プレーンなアウトライナーが単体で存在することはかなり難しいのだろう。Tak.氏が何度か語っておられるが、そもそもアウトライナー機能というのはテキストエディタの中に含まれる基本的な機能として位置づけられるべきものと思う。
そうなると、アウトライナーの性質を感得するには、種々のアウトライナーがいずれも備えている共通の機能を、これがアウトライナーをアウトライナーたらしめているものなのだなと感じ取るしかないかもしれない。最初にも書いたが帰納的推論をするのである。例えばテキストエディタとは何たるか、メタな視点で説明されて知った記憶はない。性質を知ってからメタ視点の解説を見てやっと「そうか、本質はそこにあったのだ」と理解するに至ることはあるが、その前にやはり帰納的推論の力が必要と感じる。
この時、例えばLogseqに触れたら当たり前のように他のWorkflowyやDynalistやその他諸々のアウトライナーの情報が目に入るなら、「ずらりと並んだ手帳売り場」と同様に「数多あるアウトライナーのひとつなのだ」と思えるだろう。これが手帳なら「○○手帳」という名称で統一して売り出してくれるのに、デジタルツールはてんでばらばらな名前で出してくるのがそのことを難しくしているように思うが、そこはもうツール好きな人々が複数のツールをセットで語ることで「AとBとCはどうやら同じカテゴリに入る名詞らしい」といったことを浸透させていくほかない気がしている。
あらゆるアウトライナーについて、それぞれで「このツールの話」として語られていることが結局全部ほぼ同じと判った時、「ああ、この特徴は『特殊』ではなく『一般』だったのか」と腑に落ちるのだろう。
ここまでの話とは別の話になるが、上述のうちあわせCastで、Logseqでは「日付」が最上位項目であるかのように見えてしまい、日々のページの記述に対して自分で判断するための価値基準などを書くことが意識されない可能性があるというような趣旨の話をされていた(理解が正しいか怪しいので正確なところは是非Podcastを聴いて確認いただきたい)。
このことについてはその通りだなと思うし、これもまた紙の手帳が抱えていた問題でもあったと思う。ただ、近年の紙の手帳はそこに注力しているものが非常に多く、ユーザーが個々に手帳術で対処するだけでなく、手帳自体にそれを解決する手助けの機能が搭載されている。
では手帳のどこにその機能が搭載されているのか。各ページに工夫がある手帳もあるが、よくあるパターンとしては、本来の手帳機能の手前、つまり巻頭に追加されていることが多いだろう。紙のノートに於ける順番というのは手前か後ろかなので、デジタルツールで言う「上の階層」は「より手前」に位置づけられるのが感覚としては自然に思える。(ただし「より後ろ」にあるものが「下の階層」とは限らない。あくまで「全体に対する一段階メタな記述」はその全体の手前にあるとわかりやすいということだ。)
更に、最も印象づけたい記述はどこに書くかといえば、手帳術としてしばしば見るのが「表紙をめくった最初の紙面」、つまりちょっと厚い紙になっていたり手帳のタイトルか何かがちょこんと書いてあったり逆になんにも書いてなかったりの、手帳の使用にあたっては意味をなさない感じで顔を出すあの部分である。何を書くべきか全く自明ではない(というかほとんどの人がそこに何かを書く選択肢を思い描きもしない)あの場所に、自分が常々意識していたいことをばっちり書いてしまう。あるいは理想を具現化した写真を貼っておく。(年間カレンダーなどがぴしっと印刷されている場合もある。その場合はポストイットなどでその上に貼ってしまう手もあるだろう。)
表紙に何かを書いても差し支えないなら、もうめくるまでもないように表紙に書いてしまうということもありうる。もしくは表紙裏を使ってもいい。紙のノート、紙の手帳ならそういう場所が存在している。
一方でデジタルツールはどうか。Logseqに限らず、「表紙」にあたる部分はほとんどない。アプリケーションの起動時にはロゴが表示され、それがツールとしての表紙であろうが、そこには紙の表紙が担えた機能を一切付与させられない。デジタルツールはどれもリーガルパッドのように「いきなり紙面」のような形である。と言ってもいちいち表紙にあたるページをめくらされるのも煩わしいので、「いきなり紙面」であることが悪いというのではなく、デジタルツールの良いところでもある。ただ、「手前」にあたる場所がない、ということは、メタな記述をする場所として自然なスペースがないということでもある。
Logseqを手帳的に使った場合にひとつ注意すべきことがあるとするなら、「表紙」「巻頭ページ」がないということなのではないか、と思った次第である。
これはデジタルツール全般が抱える課題でもあり、そして「重要な記述を一望できるダッシュボード」を用意すればよいというものでもないように思う。「状態を示した計器群」と「本体の記述が始まる前に必ず目に入る紙面」とでは意味もイメージするものも違っているだろう。ダッシュボードはダッシュボードでそれも存在してほしいし、またそれとは別の視点として、アナログでは普通に存在していた「表紙」および「巻頭ページ」の概念をデジタルツールにインストールする術を考えたいと個人的には思っている。