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動じないために。

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情報カード性

「情報カード」が持つ性質。

情報カードとは

  • Wikipediaの記述
    • 継続的な蓄積を目的として情報を記録する、一定寸法に裁断された厚手の紙片のこと。

  • (Wikipediaに誰かが書いた以上の説明は思い浮かばない)

性質

  • 操作面
    • 並べられる
    • 重ねられる
    • 入れ替えられる
    • 「繰る」ことができる
    • 後から追加できる
    • 後から除去できる
    • (厚さと大きさから)紛失しにくい
  • 内容面
    • 短文にまとめる必要がある
      • 一枚につきひとつの話題
    • 周辺情報が本文と同一紙面に記録される
      • 情報全体がひと目でわかる

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2024/05/07

カードとは何かを考えてみる

 うちあわせCastの第百五十回を拝聴しました。


 直接の感想というのではないけれど、カードというものについて自分なりに改めて考えておこうと思ったので、これを機に書いてみることにする。
 なお、前に情報カード性とは何かということについて一度書いたことがある。

情報カードが持つ要素

 まず情報カードが持つ要素とその利点として自分が思いつくものを列挙してみる。

  • 個々の境界が明確である
    • 「これ」と指して扱うことができる
  • 紙面を有限化する
    • 取り扱い可能な粒度に収めることを促す
  • 二次元に敷き詰められる
    • 視界に入る情報を多くすることができる
  • 二次元に自由配置できる
    • 位置によって情報にイメージを与えられる
  • 重ねて束ねられる
    • まとまりを認識しやすくなる
  • 順番を自由に変更できる
    • 文脈を整理することができる
  • 構造から自由である
    • 他の任意の情報と同時に扱える
  • 複数種類の情報をひとつの単位にまとめられる
    • タイトル、本文、区分、日時等

 また、ノートツールとして一般的なものについて、独断と偏見に基づき各要素の得意不得意を整理してみる。新興ツールはあまり使っていないので定番のもののみ。

画像

 異論はあるかもしれないが厳密にどうであるかは重要でないので、あまり気にしないでほしい。
 情報カードはもちろん全て満たしているとして、他の道具あるいはデジタルツールは全部を備えることはなかなかない。全てクリアしなければならないわけでもないと思うので別に「欠いている」ということではないのだが、何かしらの要素の不足により情報カードと同じようには使えないかもしれないということは気に留める必要があるだろう。
 また、そもそもこれらの要素を備えたデジタルツールがあってもそれを情報カードと同じように操作できるとは限らない(後述する)

なぜカードがほしいのか

 で、カードであることの何が嬉しいかというと、情報をオブジェクトとして扱えること、そしてそのオブジェクトに任意の文脈を持たせられることだろうと思う。
 他の情報と組み合わせたり、他の情報との並びによって意味を生み出したりする場合には、自由に移動できるカードが都合が良い。ただしカードでなければできないことではないし、別に全てを外に書き出してやらずに自分の脳みその中で完結する部分があってもよいのだから、カードの活用が必須というわけではない。
 そしてカードが良いと感じたとしても、それをどう扱うかはまたそれぞれだろう。平面に並べたい人もいれば、順番を替えられればいい人もいる。それはおそらく個々人の性質(例えば認知特性など)によるほか、カードを使って何を達成しようとしているかという目的の違いが大きく関わっていると思う。
 カードに書き溜めたもののゴールはどこにあるのか。文章を書くことなのか、何かを理解したり見出したりすることなのか、書き溜めること自体が目的なのか。もちろん正解はない。ただし、うちあわせCastで梅棹忠夫のカードとニクラス・ルーマンのZettelkastenの違いが語られていたように、カードを活用している先達がそれぞれ異なる目的でカードを扱っている可能性があることを踏まえておく必要はあるのだろう。
 カードを使うこととネットワーク型の情報管理をすることは別に全然イコールではないということも大事なポイントかもしれない。これはデジタル世代ゆえに発生する混乱に思える。

個人的な使い分け

 ちなみに、私はScrapboxのホーム画面のように二次元にカードを敷き詰めるタイル状のビューを前までよく使っていた。それは以下の二点を満たすためだ。

  • どこからどこまでがひとかたまりの情報かの判断に認知資源を消費しないためにカード状に切り分けたい
  • より多くの情報を一度に視界に入れたい

 一つ目はどういうことかというと、例えばアウトライナーに何か書いていったとすると情報の区切りは一目瞭然とはいかない。親項目を閉じれば良いかもしれないが、私はあまり几帳面に開閉しないタイプなので、情報のまとまりを意識したい場合にはツールの方でそれを表現してくれるものの方が助かる。
 これはデータの形式の問題なので、そうやって切り分けた情報を一覧する方法としては縦一列に並べたリストもあり得るが、二つ目を満たすためにカードを敷き詰める形を選択した。規格化された見た目であることも認知資源の空費を防いでくれる。
 逆に、カードにするといちいちオブジェクトとして存在感を持ってしまうことになるから、はっきり区切りを意識する必要がない場合は、普通のノートやアウトライナー、プレーンテキストのようなツールで扱った方が自然に感じる。
 また、自動整列のタイル状ビューではなく付箋ツール的なものを使うという選択肢もあるが、配置があまりに自由過ぎてしまうと、「位置に意味を持たせられる」という利点と引き換えに「位置に意識を向けなければならない」という欠点も発生するため、明確に位置に意味を持たせたい場合以外は自由配置のツールは使わないようにしている。

デジタルでは失われること

 ところで、デジタルでカード的なものを扱う意義というのが今回のうちあわせCastのテーマだったと思うけれども、無限に増え続ける情報を扱うにあたってはデジタルツールを使うのが現実的だが、やはりデジタルではどうしても失われる要素がある。

  • アナログなら自分の視野の広さの分だけ視界に入るが、デジタルでは画面サイズに限られる
  • アナログなら広げたカードを簡単に集めたりまとめたりできるが、デジタルでは移動が不自由である
  • アナログなら任意の範囲のカードを自由な速さで繰って確認できるが、デジタルではアナログほど直感的にはできない

 二番目は要するに、机上にある任意のカードを手でガッと集めるというようなことを、デジタルでは再現しにくいということだ。「表示しているカードを全部回収する」みたいなコマンドを作ることは可能だが、その都度自由な尺度で任意のカードを集めるということを再現するのは容易でない。そのように「手でやった方が速い」という操作が様々ある。
 三番目も「手でやった方が速い」という話で、特定の範囲のカード群をちょっと見返したいというような時に、紙なら適当に掴み取れば済むものを、デジタルだと適切に範囲を指定するなどの手間が必要になる。

 デジタルツールに於いて或る見た目を実現可能だとしても、その見た目と別の見た目との行き来にどうしても不自由する。例えば刑事ドラマでよく見るホワイトボードのように情報を「ひとつずつ足したり引いたり」で更新するものならデジタルで代替して良いのだが、頻繁に全体のレイアウトを変えるような使い方は現状デジタルツールはあまり向いていない気がする。(誤解のないように補足すると、複数のレイアウトを保存してその間で「切り替える」のならデジタルツールは非常に力を発揮するが、今言いたいのはそういう意味での見た目の行き来ではなく、机の上でああでもないこうでもないとカードをダイナミックに動かすような操作のことである。)
 なので、それをデジタルで叶えようと奮闘してもなかなか答えは見つからない。付箋ツールの類は操作性の面で色々と工夫されているが、各カードが持つ情報量で考えるとそれはカードというよりあくまで付箋だろうと思う。
 逆に、言わずもがなのことだが、デジタルでは「全データから条件に合うものを抽出する」ということが可能になるわけで、デジタルのカード型ツールというのはそれを如何に活かせるかがポイントになりそうだ。うちあわせCast内でも話の結論としてScrapboxの関連ページ欄について言及されていたが、そのような仕組みによって、能動的に探さなくても「パラパラ繰って見返す」と似た効果を得られるようにするのがやはり重要なのだろうと思う。

まとめ?

 デジタルだと必ず失われてしまう自由というのがおそらくあって、もしそこに「自分がカードを使いたい理由」が関わっているならば、無理してデジタルでやらないで紙のカードを活用することを考えた方がいいということかもしれない。
 とはいえ情報管理の全てを紙でまかなうのはもはや現実的ではないだろうし、アナログ感が必須なわけではない情報についてはデジタルツールを使った方が後々自分が助かる。しかし漠然と「カードっぽいのがいいな」と思っても、そのうちのどの要素を満たされたいのかがわからないとツール選びに迷走すると思うので、最初に整理したように要素をピックアップして照らし合わせると良いかもしれない。
 デジタルツールの最大のメリットは「無限に追加できる」ことと「全データから条件を満たすものを抽出できる」ことにある。それと「カード」という形式を掛け合わせた時、アナログな存在である自分を補助する仕組みとしては、「パラパラ繰って見返す候補」を自動で抽出して表示してくれるのが理想なのではないかと思う。「カードを並べる」感じや「パラパラ繰る」感じをどれほど紙のカードの感覚に寄せるかは好みの問題だろう。
 

2022/09/09

デジタルツールでの情報カード性および文脈との結びつきの在り方

 「カード式アウトライナー」の話を何度か書いたが、デジタルツールについて「カード的である」というのは私の中でどういうことをイメージしたものなのか一度整理したいと思う。


 カードと呼ばれるものには様々な種類があると思うが、ツールの話をするにあたっては私は基本的に「情報カード」を指してカードと呼んでいる。梅棹忠夫『知的生産の技術』の京大式カードや、川喜田二郎『発想法』に登場するタイプのパンチカードなど、手に持って扱える大きさだが名刺などよりはずっと大きく、ある程度丈夫で一枚ずつ分離しており、更に日付や分類、出典などのメタデータが上や端に記録されるものだ。カードと言った場合に単に「紙片」のイメージだと「こざね」や「付箋」的なものも含む可能性があるが、ここではそういったものは除いて考える。
 また前提として、カードに書かれる本文というのはある程度細かい粒度のものになる。紙面に実際に書いた時に、上述のサイズの中に収まる程度の情報量ということだ。デジタルツールで再現する場合にはそのサイズに囚われる必要はないし、もう少し大きい規模になってもいいが、とはいえ何万字もの情報を一単位に詰め込むことは想定しない。一枚のカードにはひとつの話題、というやり方を継承するものとする。

 ところで、パソコン上にある「ファイル」にはコンピューターが自動で生成した多様なメタデータが付与されているが、ユーザーにとってはファイルは必ずしも情報カード的であるとは限らない。例えばtxtファイルを開いたとき、その中身にはファイルに付与されているメタデータは存在しないわけで、自分で記入しない限り人間が認識できるメタデータが画面内に表示されないのだ。情報カードで言うならそれはカードの裏面にメタデータが書いてある状態のようなものかもしれない。
 ということで、見た目の形状が紙片状であり、本文は比較的小さなサイズに収まっており、本文以外に何らかの情報を持ち、且つ目線をついと動かすだけで本文以外の情報を直ちに確認できる状態をここでの「カード」とする。そして「カード的」とか「カード風」とか言った場合にもこの性質を満たしている状態を指しているものとする。

 カード法は本文を小さい単位で作ることで「操作」ができるようになることが大きなメリットになる。ただ、情報カードの強みはそれだけではなく、カードそれぞれに本文の文面そのもの以外の情報を付与することが、カードを何かしらの文脈に位置づけることを助けているように思われる。
 カード単位に分けてしまうということは元あった文脈から切り離せるということだが、「元々はどこにあったか」に戻ることができなければそのカードの持つ意味合いは大きく減じてしまうようにも思う。
 文章そのものに込められる意味の規模や正確さというのはたかが知れており、「どういうつもりで書いたのか」を文脈が支えることで短い文章が無限の広がりを持てるのだと思う。何の文脈も添えられていなければ、解釈が定まらないので如何様にもその文を使うことができてしまうが、そうなるともはやその文章でなくても良くなってしまうだろう。
 もちろん「文脈の付けかえ」が大きな威力を発揮することは多々ある。そもそも、メタファーというのはそういうものであろう。全く異なる文脈に置いてもなお意味が通じるところがあるということが、物事の理解を劇的に深める魔力の源だろうと思う。それと同様に、異なる文脈にあった言葉が別の文脈に進入した瞬間には強力な化学反応が起こることがある。しかしそれは、メタファーというものが「本来の意味」を保持しているがゆえに生きてくるように、進入させた言葉の「本来の文脈」をいつでも呼び出せるからこそではなかろうか。

 文脈というのはそれ自体は全てを言語化することが不可能なもので、いくつもの言葉や体験からイメージとして自分の中に生まれてくるものであると思う。作者が長文を通して読者の中に再現しようとした文脈は、読者がそれをほぼそのまま取り込めたとしても、読者の中ではそれだけが文脈になるわけではない。
 よって、後から文脈を取り戻したい時、文脈そのものを予め書き添えておこうというのは無謀である。少なくともカードの本文に伴う文脈というのはカードの端にはおよそ書ききれない規模のものだ。しかし、文脈のイメージそのものではなく文脈のイメージを復元するトリガーならば、ある程度短い言葉で書き留めることができる。
 例えば出典と章タイトル、書き留めた日付、自分の中でのカテゴライズ、他のカードとの関連性。それらがカードの端に記録され、且つ「一度に目に入る」ことによって、文脈のイメージの緒(いとぐち)が、カードの中心にある本文の周りに保持されることになる。しかしそのイメージの緒は文脈そのものではなく、鎖のように本文を縛ることはない。くっついているのは「いつでも引っ張れば文脈を呼び出してくれる紐」であり、それらは本文と一緒に動くことができる。

 これまで、文を部分的に取り出す時には「文脈を記録しなければ」という気持ちが強くあった。そのために文脈を要約するにはどうしたらいいかと考え、それがうまくできないことをもどかしく思っていた。それもそのはず、文脈というのはそもそも要約できないものであろう。要約するために「言い換え」をしてしまうと、かえって元のイメージに戻りにくくなることもある。
 しかし文脈を切り離してはいけない。よって、現実的に書き留められるようにコンパクトにする必要がある。その時、「圧縮」しようとするから駄目だったのだと思う。やるべきは「圧縮」ではなく「トリガー化」だ。その文脈を呼び起こせるならば、文脈そのもののあらましを言語化していなくとも構わないのである。
 前々から情報カード的な役割のものには日付や出典などを書き添えてはいたが、ただ「書くべきだと聞いたから書いた」という域を出ず、その情報に意味を乗せられていなかった。その日がどういう文脈の中にある一日なのか、その本はどういう文脈の中で読んだのか、更にその記述はその本の中のどういう文脈の部分だったのか、それを復元する術がなかったからである。
 複雑であることが必然的な文脈というものは、トリガー化の繰り返しによって、文脈そのものの複雑性はある程度保ったまま「扱える形」にまとめていくことができそうだ。単純に言えば、言語化できる範囲で言語化したものに名前をつけ、それを集めたものにまた名前をつけ、そしてそれを集めたものに名前をつけ…ということである。
 やるべきは「要約」ではなく「名前をつける」というのがポイントである。それも「うまい命名」の必要はなく、単にまとめた中身を取り出せればいい。プログラミングに於いて関数につける名前が下手でもプログラムの動き自体には何の支障もないのと同じだ。まとめた中身を自分でイメージできないのはよろしくないが、中身がある程度イメージできるならその命名が他人の目から見て巧みである必要はない。

 そうしてトリガー化した短い文言をカードの端に書いておけば、そこから復元し得る大きな文脈と繋がりを持ちながら(出自の曖昧さに不安を募らせることもなく)、しかしその文脈を出てどこへでも旅をすることができる。
 この「トリガー化の繰り返し」が自然と行われるのがScrapboxなのだろうし、意識的にやりやすいのがObsidianのようなツールなのだと思う。
 それらのツールを上手く使えばそれで十分だと思うが、私自身は、自分の癖に合わせて、文脈をトリガー化しやすく且つトリガー化の結果が確認しやすいようなツールを作ろうと試みている。(そうしようとしていたのだとこれを書きながら気づいた。)
 つまり、単に文の断片化ではなく、この全体を指して私は「カード的にする」ということをイメージしている。これは「リンク」や「ネットワーク」の概念を必然的に含むが、「繋がりを持たせる」というだけでは今考えている「カード化」の営みの全体像はイメージできなかった。誰が見ても明らかな表現というのは思いつかないが、とりあえず、自分の中ではこれが「カード的」の意味だと定義しておこうと思う。
 

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