Noratetsu Lab

動じないために。

タグの定義・詳細

日付をタイトルにした記事

内容ではなく日付でひとまとまりにしたライトな記事。
通常の記事との違い

  • 通常の記事
    • 他に向けた[表現]
    • ひとつの記事でひとつのテーマを書く
    • 論じている感がある
  • 日付をタイトルにした記事
    • 自己の内面の[描写]
    • ひとつの記事で複数の話題を書く
    • 論じている感は減る(複数の話題をパッケージにすることにより)

ブログに書けばいいのにTwitterに書いて流してしまう、という問題意識がまずある。
しかしブログには書きにくい理由もある。Twitterに比べて「ブログの記事」は存在感が大きすぎる。(論文の読解のように形式的に読まれた経験から。)
表現スタイルを変えることで投稿のハードルを下げられないかというのがこの試み。

※2023/11時点ではNoratetsu House内ののらてつの茶の間がこの役目を担っているので日付をタイトルにした記事を書く必要は薄れている。

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「日付をタイトルにした記事」タグの記事一覧

2023/12/17

2023/12/17――AmazonからScrapboxにクリップするブックマークレットを改良した

 ブログ記事にするほどでもないか…と思ったものの、「ブログ記事にするほどでもない」とはなんぞやと思い直してちゃちゃっと書くことにした。こんな時こそ「日付をタイトルにした記事」の出番。


 結構前にAmazonの書籍ページの情報を取得してScrapboxにクリップするブックマークレットを作っていたけれど、プログラミングを始めて最初の最初のあたりに練習として作ったものだったので、スマートな感じが全然ないコードだった。
 なので、今更ながらもう少しシュッとした感じに改良。

 ポイントは、実際に使う時に編集すべき要素を冒頭にまとめて、コード全体を読まなくても良いようにしたところ。(Scrapboxへのクリップ以外の用途に転用しようと思ったら読む必要が出てくるけれど。)
 あとMapを使ってみた。そうする前はObjectで書いていたけど、なんかごちゃごちゃして気に入らなかった。Mapだとスッキリする感じがある。
 Amazonのページは構造が変わる可能性があるので情報の取得はOpenBDのAPIを使った方が良いかなとも思うけれど(特に難しくはない[^1])、Amazon上だと書影のURLを取得できるので捨てがたい。
 いずれにしてもこのブックマークレットは一応「プログラミングの練習」の副産物なので、プログラムとしての出来はまあ二の次。


 このコードを置いているScrapboxプロジェクトは前は「のらてつコーディング」という名前にしていて、自分がプログラミングをする中で知ったことをメモしたりしていた。しかしあまり運用に納得感がなかったので、この際そういうメモ類はなくしてしまおうと思ってほとんど削除した。
 代わりに、メモの類はDynalistの公開プロジェクトにまとめ直した。

 この方が自分も見やすい! まだ当時「のらてつコーディング」に書いていた内容しか書いていないので充実度はいまひとつだけど、割と良い方式かも知れないと思っている。

 ちょっとしたコードを書いた時に、それを出し惜しみしているわけではないけれど、良い公開方法がいまいち思い浮かばなくて「~~を作った」という話をするだけで終わっていた。
 GitHub Gistを使えばいいかなと思ったものの、なんかこう、なんかちょっと違うというか、「プログラマーの一員」然とした感じがしてまだ居場所にするには自分が未熟過ぎるなと思ってやめた。
 やっぱりScrapboxかなあという結論に行き着き、邪魔な記述は一掃して仕切り直すことにした。現時点で置いてあるいくつかのページも、今となっては記述がかなり拙いので削除するか書き直すかするだろう。

サイトの作り方②APIを利用してみる

2023/01/08

2023/01/08 ―― アイコンと生まれる表現/ドット絵を描くツール

 アイコンを替えることにした。
After(四代目)

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Before(三代目)
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 前回(三代目)が去年の八月末からだったので、四ヶ月ちょっとでの変更ということになる。初代と二代目はもう少し長く使っていたから最短の交替。イラストとしては気に入っていたのだが、ちょっと理由があってずっと変更を考えながら使っていた。

 いずれにしても蟹であることには変わりないけれども(蟹である理由などはこちら→泡を吐く蟹)、印象はまあ全然違ったものになったと思われる。一番違うのは「目」の存在感だろうなと思う。
 ブログだとブログを書いている間も読む間もアイコンなんてのは気にしないので、どんなアイコンでも大した差はないし、そもそもアイコンはなくてもいい。多分アイコンの存在を私自身が気にしていないから今まさに書いているような文体で書いていられているのだと思う。
 一方、短文投稿サイトの類は話が違ってくる。TwitterやMastodonの投稿には常にアイコンが伴い、自分がそのアイコンの顔で喋っているということを強く意識している。そういう意識があるからなるべく滑稽なアイコンにしようと思って作ったのが二代目や三代目のアイコンだった。いちおう自分なりに面白い存在でいようと思ってのことだ。

 で、攻撃性の低いとぼけたような感じにしようと思ってそうしたのだが、特に三代目に替えてからひとつの問題を感じていた。なんとなく、丁寧語で喋りづらいのである。丁寧に書こうと意識した時は丁寧語で投稿したが、丁寧に書こうというくらいの改まった意識を持たないと丁寧語にならない。雑に喋るほうが自然な感じがしてしまう。
 初代のアイコンの時は多分そうではなかった。その変化は「『のらてつ』でいることに慣れてしまった」ということかとも思っていたのだが、しかしどちらかというと、「顔が変わった」ことの影響の方が大きいような感じがする。
 具体的には、とぼけた感じの顔であることにより、丁寧に書こうとすると逆に圧があるような気がしてしまったということがある。これは他の世界で感じていたことを引きずっているせいもあるのかもしれない。
 普段攻撃性も隠さずにおちゃらけている如何にもツイッタラーらしいツイッタラーが、「ちゃんとするとこはちゃんとしますからね」という感じで人一倍きっちりとした口調で何かを発信した時の、あの感じ。ものすごい圧である(と私は感じていた)。本当はちゃんと考えて動いていますから変な絡みはしてこないでくださいね、みたいなメッセージが実際に込められていただろうと思う。圧!!!!
 ということで、「ふざけた顔」で「丁寧なことを言う」というのが自分の中にどうも抵抗を生じていて、結果として「ふざけた顔で雑なことを言う(もしくは雑になりそうだから黙る)」というのが自然になってきてしまった。それは良くない! 私がやりたかったのは「面白く在る」ことであって、「雑に在る」ことではない。雑というのは必然的に攻撃性の高まりも伴ってしまう。

 そんな感じで問題意識は以前からあったのでアイコンの変更は割と前から検討していたものの、じゃあどう替えるのかということをしばらく考えあぐねていた。可能な限り単純化したいという気持ちは前々からあって、実際代を重ねるごとに単純にしていったが、もっと抽象的な感じにならないだろうかと悩んでいた。
 泡とハサミだけで蟹を表現してはどうか、と思ったりもしたが、肝心なのは「泡を吐いている」ところであって、泡そのものではないし、蟹そのものでもない。しかし「泡を吐いている」という要素を不可欠としたらこれ以上抽象的にならない気がする……。
 答えが出ないので「如何にせむ」とTwitterにつぶやいたら、ツイートボタンを押した瞬間にハッと思いついた(自分でびっくりした)。頭に浮かんだのは、以前いくつかのスマホゲームで見かけたドット絵風の3DCGだ。ボクセルアートというのだろうか。あんな感じにできたらいいのでは……いっそ頑張ってモデリングの勉強もするとか……とも思ったが、さすがに大変なので、ボクセルアート風にわざわざ描くか、2Dのドット絵にしてみるかと考えて、ひとまずはドット絵に落ち着いた。
 ドット絵にしてみると、一言で言えばゲームっぽくなった。ゲームをイメージしてたどり着いたのだから当たり前だけども、やはりドット絵と言えばゲームである。では「どうではなくなったのか」と考えると、多分「キャラクター的でなくなった」と言えるだろうと思う。
 キャラクターからゲームのユニットへ。それらは何が違うのか? 大袈裟に表現すれば、「叙情」から「叙事」への変化みたいなものがあるのではないかと感じている。叙情的表現が相応しい見た目か、それとも叙事的表現が相応しい見た目か。自分自身がその境界上にいるようなところがあり、恐らく見た目でどちらに流れるかが大きく左右される。
 初代のアイコンはキャラクター的でなく、描き方もどちらかというと絵画的だった。ゲームとは逆方向の若干(本当に若干)リアル寄りの雰囲気だったけれども、いずれにしろ表情という要素がなく「キャラクター」からの遠さという意味ではドット絵と同程度に思える。叙事的表現が合う見た目だったのだろう。
 新しいアイコンが自分にどういう影響を及ぼすのかは長い期間の観察が必要になるだろうけれど、そういう自己観察もある種の楽しさがある。(ただし不本意な自分を直視することもセットである。)


 ちなみに、新しいアイコンは自分で描いたドット絵なのだが、ドット絵を描くツールを自分で作ったりした。HTML+CSS+JavaScript(+Node.js+Electron)製。

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 こんな感じ。マスの数を指定してtable要素を作り、使う色をinput要素で用意して、td要素の数字を書き換えることで番号に対応した色が適用される。input要素で色のコードを変えれば、対応するマスの色が全部変わるようになっている。
 保存すると、色データ(カラーコードを並べた配列)と配置データ(数字の二次元配列)が入ったJSONファイル、マスごとに要素を作って描画したSVGファイル、SVGを変換したPNGファイルが出力される。
 難易度の高いプログラムなわけではないものの、結構色々な処理をしているので、説明はちょっと難しいかもしれない。設計に関して参考にしたものとかは特にない。そのうち試用できるように公開する予定(いつになるかはわからないよ)

 必要かつ十分な機能があればいい、自分で作れば習熟に労力を費やす必要がない、あとコーディングの経験値を得たい、という理由で自分でツールを作ったわけだが、ドット絵を描くというだけならPCでもスマホでも専用ツールがたくさんあるので、自分もドット絵を描いてみたくなったという人はそちらをお使いになられますよう。

2022/12/11

2022/12/11 ―― 「アウトライン」問題/TypeScriptを使い始めた

 前回から少し間が空いたが、日付をタイトルにしている時は「記事」というより「長いつぶやき」というつもりのものである(経緯:2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ
 複数の話題をパッケージにすることで「論じている感」を下げている、ということでもある。

 デジタルノートツールの文脈で「アウトライン」と言うと単に「階層構造を示すように並べたリスト」ということになると思うのだが(表現はWikipediaより)、「アウトラインを考える」とか言った時にはもうその「形」ではなく「あらまし」「輪郭」といったイメージで語ることになると思う。その当たり前に行われる越境がずっと気になっている――というか、そもそも「形」だけを指して「アウトライン」と呼ぶことに無理があるよなと思っている。
 「アウトライン」と聞いてoutなline(つまり外側の線、輪郭のイメージ)を思い浮かべないはずはないし、outなlineのイメージは階層構造のイメージにはふつう直結しないのではないか。日本語にすると尚の事で、「輪郭」とか「概要」とかいう単語だけ聞いて「階層」を思い浮かべる人はほとんどいないと思う。outlineを辞書で引けば、手元の辞書(ジーニアス英和大辞典)では「(箇条書きに整理された)概略、概説」という意味が二番目に載っているが、それだけではそれ以上の構造的なニュアンスは想起しない。ちなみにリーダーズ英和辞典では「高機能ワードプロセッサーで、章・節などの見出しのみを表示したもの」と書いてある。これまた微妙である。辞書が古いせいもあるかもしれない。
 そのイメージの乖離ゆえに、「アウトライナー」という名称を聞いた状態であのツールの様子を見た時、単にその形をアウトラインと呼ぶのには個人的に抵抗がある。しかも、そこに何らかの動詞を伴わせた時点で、直ちに旧来の意味でのアウトラインの意味が混ざってきてしまう。アウトライン(=形)があの階層構造のリストの形をしているのは、本来アウトライン(=概略)のためだからであろうし(そうでなければ「アウトライン」という名前が付けられることはないだろう)、アウトライン(=形)を操作するというのはアウトライン(=概略)を作ろうとすることを意味しだす。アウトラインと呼ばれている形とアウトラインという語が含みうる概念とは違うもののはずだが、話の中で線引きがどこにあるのかは明らかでない。各々がどういう意味でアウトラインと言っているのか、アウトラインという語が曖昧すぎて全く自明ではないと感じる。
 単に形を操作することだけを示したい時に、「アウトライン操作」と言ってしまっていいのかどうか。いいのかというのは「良いか悪いか」という意味ではなく、「形の操作に過ぎない」ことが伝わるのかどうか、という意味である。しかし一方で、それが形の操作に過ぎないとしたならば、アウトライン(=概略)を組み立てる意味を込めたい時に逆に困るような気もする。
 形式と目的が同じ語で語られてしまうと、形式に常に目的が伴っているかのように感じる。でも、アウトライン形式で何かを書いた時、それは必ず目的的なアウトラインなのかは疑問である。少なくとも、積極的にアウトラインを作る時と、アウトラインと言えなくもないくらいの記述をする時とのグラデーションがある。そのグラデーション全てをカバーできるのが所謂アウトライナーの強みだと思う。しかしアウトライナーと言ってしまうと積極的で目的的なアウトラインに持っていくことをイメージしてしまうところがあるのが、私の中では引っかかるポイントになっている。


 ここ数日、TypeScriptの環境構築を勉強して実際にtsファイルでコーディングできるようにした。npmでインストールとかjsonで設定とかコマンドで実行とかいうことには相変わらずおっかなびっくりだが、あれこれ検索してどうにかちゃんとコンパイルされるようにできた。
 プログラミング言語としてずっとJavaScriptを書いてきたが、関数やメソッドが複雑化してくると型付けができないのが不便に感じるようになった。複雑と言ってもプログラミング一年生の素人がひとりで作っているものなので全然大したものではないのだが、VSCodeの入力補助やエラーがもっとうまく働いてくれたら楽なのにと感じる場面が増えてきた。
 私はJavaScriptの勉強を始める最初の一歩を敢えてTypeScriptからスタートしたので、TypeScriptがどんなものでどう書けばいいのかはある程度知っていた。結局メソッドなどを調べる時にはJavaScriptを調べることになるのでツールづくりは完全にJavaScriptで書いていたのだが、最近になってじわじわとTypeScriptのありがたさがわかってきた。あれはこういう時にありがたいのだ、というのが実感としてわかるようになった。
 あとはコーディング技術が上がってきて文字数が増えることを厭わなくなり、型をその都度書いても別に面倒ではないなという気持ちになってきたこともある。不慣れなうちは型をちゃんと書けというのは面倒臭さばかりが目立ってしまうが、今は「ヒントになる情報をここに書き足せたらいいのに!」とか思っているわけなので、書けるなら書きたいくらいである。

 そんなわけで「実感を得てステップアップ」という感じで階段をひとつ上った。前に新たなメソッドを覚えた時なんかもそうだったが、低次元の技術でなんとかしていて「ここがこうできたらいいのに!」と思ったところで「こうすればできるんじゃん!」を発見した際の嬉しさは、プログラミングならではのものかもしれない。次に進めと急かされて学ばされるのは辛いが、自分で欲してから次に行くならこんなにも楽しい。
 そういえば、HTML要素をもっと直感的に書けたらいいのにと思っていて、そういやよく聞くReact(JavaScriptのライブラリ)ってどんなのなんだろうと思って調べたら、まさに自分の望みを叶えてくれそうなものだと知った。これも習得できたらきっともっと楽しくなるだろう。そこまでしなくても書ける程度のものしか作ってはいないが、わくわくを追ってReactにも手を出してみようかと思う。
 

2022/11/18

2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン

 MastodonのインスタンスはFedibirdというところにしているが、今日はTwitterからの大量流入で調子が悪いようだ。こんな時はブログをちゃちゃっと書いていくことにしよう。


 Twitterのような場所があるからブログというのが「よりちゃんとした文章」という位置づけになってしまうのであって、この機会にブログももう少し軽く考えていこうと思っている。
 そういう位置づけというのは自分が勝手に決め込んでいるだけで、誰にも「ブログとは……」などと諭されたことはないのである。


 Twitterの雲行きの怪しさからユーザーはあちこちに移動し始めているようだが、最も多く選択されているのがMastodonだろうか。私も5年半ぶりだかでアカウントを作ってちょこちょこトゥートしている。
 使用感としてはまあほとんど同じようなもので、字数制限に140字と500字という違いはあるが、日本語の言葉の密度で500字というのは結構な規模になるし、長くてもせいぜい200字くらいで呟いている。基本的には140字を超えたら内容が複雑になり始めていると考えてその辺で切ることにしている。(とか語るほどたくさん発信しているわけではないが。現在120トゥートくらいだ。)

 要はサービスの名前が変わっただけで自分がやっていることはほとんど変わらない、ということだ。まあまだMastodonでは他のアカウントをほとんどフォローしていないし、大量に移動しているとは言っても周囲の人々がそっくり移ったわけではなく(というかほとんど移っていないだろう)、「読む」体験の方はだいぶ違ったものになってはいる。それもそのうちTwitterと変わらなくなるのかもしれない。
 こんな感じでTwitterからMastodonというのはほとんど水平的な移動だろうと思う。同じものを求めて移動する先としてMastodonが選ばれている。InstagramやFacebookは毛色が違いすぎるのだろうし、その他のものは明らかに方向性が違うか知名度が乏しいかで、候補としてはあまり上がってこない。
 大事なのは単に人がたくさんいるかどうかではない。Twitterでの体験が他に代えがたいことから、できるならまた同じものを得たい、という気持ちが働いている。まあTwitterそのものにもTwitterで起こる諸々にも文句は無限に湧いてくるが、それでもTwitterは唯一無二なのである。

 しかし、Twitterが登場してからもう結構な年月が経つ。私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。
 水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。
 あるいは敢えて後退するのもありだろう。典型がブログだろうが、バズることが繋がりを生むのではなく、個人間の共鳴から「一緒にやりましょう」という出会いが発生するような、そういう牧歌的な世界に行きたい思いもある。
 いずれの道にしろ、惰性で漫然と続けるという態度からはいい加減抜け出る必要があるのかもしれない。


 自分でデジタルノートツールを作ることが既に習慣になっているが、その一方で最近は紙に手で書いて考え事をすることが増えた。
 その契機となったのは、ある時ふと「自分にとってしっくりする紙面のサイズは何か」と思ったことだ。前々から使いやすいとかなんか嫌とか感じてはいたが、きっちり明らかにしたことはなかったので、自分と対話してみたのである。
 そうしたところ、明らかにこれとこれだ、というのがわかった。十年前とかに整理しておけばよかったものを、なんとなく曖昧にしていたために今更はっきりしたのだが、自分の馴染むサイズに納得するとなんだかすごくそのサイズの紙面に手で何かを書きたくなった。

 紙に書く上ではもうひとつ好みが左右する要素がある。筆記具の具合である。
 私はメモ書きにはペンを使わずずっと鉛筆(2BかB)なのだが、鉛筆の「感じ」は良いものの、色が銀色気味なことと材質上どうしても筆跡が光ってしまうのが気になっていた。より黒く、よりマットにするには、何Bかの柔らかい芯である必要があるが、そうすると字を書くのにはいまいちな感じがしてくる。
 はっきり書けるようにとボールペンなどを使うと、強弱のつかなさが個人的にはなんだか微妙で、更に言うと本当に一瞬だけ必要なメモ書きにインクを消費してしまうのはなんとなーく気が進まない。それならば気に入ったペンをここぞという時にだけ使って普段はそうでもないものを、などと思うと、そうでもないものの気に入らなさがストレスになる。貧乏性なのに変に神経質のようだ。

 長らくそのもやもやと共に生きてきたが、つい最近解決案として辿り着いたのが、筆ペンを普段遣いする、ということだ。使っているのはぺんてる筆(天然毛ではないものの穂先はほぼ筆そのもの)の中字と極細。筆だから強弱は当然つくし、墨(あるいは墨風の染料インク)だから色は黒くて光を反射しない。
 しかしそう軽々しく書きまくっているとあっという間にカートリッジを消費してしまうので、私はカートリッジのインクを使わずに普通に筆を使うように墨汁に先を浸して書いている。そんなにはっきりと濃い必要がないならちょっと水を混ぜて薄めたりしており、まあ墨汁のボトル一本使い切るのは相当かかるだろう。メモ書きには使っていなかったものの時々そうやって筆ペンに墨汁をつけて書くということをしていたが、それでも中学だったか高校だったかで買った「ぼくてき」をまだ使っているくらいである。

 例えば「Scrapbox風のツールを作るには」とかいうことを、普通に横書きで、鉛筆を持つような普通の持ち方で、ほぼ普通の速度で筆ペンで書いていく。一応下手の横好きでそれなりに使ってきたから書けているというのもあるだろう。図とかも筆ペンで書く。ぺんてる筆でスケッチする人はたくさんいるし、これで絵を描いても全然おかしくはない。
 鉛筆やボールペンで適当に書いた自分の字に「おっ」と思う可能性は皆無だが、筆ペンだと偶に「あっ今の払い良いぞ!」みたいなことがある。自在にコントロールできるほど上手くないからこそ「おおっ」が発生するのだろうと思うし、美しくは書けないなりに楽しい要素はある。

 パソコンに向かってプログラミングをしながら、傍らには紙と墨汁と筆がある。私にとって自分らしさとはそういうところにあるのだろうと思う。
 

2022/11/14

2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ

 日付をタイトルにしているが、今日という日は特別な日になりました――的な話ではなく、単に、今日考えたことを無題で書き連ねてみようという試みである。(後日追記:さすがに中身がわからなすぎるのでサブタイトルを添えることにした。)

Mastodonでの今日のトゥートをベースに文章化)

 Twitterにツイートしようかと思ったがなんとなく気乗りせずにMastodonに書き込むということをした。自分の感覚として、Twitterだと本当に誰の需要も満たしそうにないものはツイートしづらい。今更ながら。
 おそらく過去にツイ廃期間が長くあったせいで、Twitterというのは自分の中で「居る」場所として捉えるものになっており、「ツイートする」イコール「自分がいる(=オンラインである)」という意味合いがあるように感じてしまっている。その感覚が自分の中でものすごく邪魔になっている。
 外界に対して閉ざしたいとか自分に都合の良いものだけ見たいとかいうつもりはないのだが、しかし自分が意識を向けられる範囲は量的に言ってごく僅かであるという認識があり、それを拡張することを求められるとしんどくなってくる。つまり、オンラインなら(今そこにいるなら)対応できるだろうとか、フォローしているなら見ているんだろうとか、そういう。誰かに何か言われたわけでもないが、そう要求したりされたりする様子を目撃したことはあるわけで、開き直りきれないでいる。
 これはしかし、ツイ廃でなければ(=絶えずツイートするとかいうことをしなければ)回避できることであり、「読者の存在を利用した言語化」の魔力に依存しなければいいだけのことではある。Twitterだと捗るからつい居座って書いてしまうのだというようなことはどこかしらで何度か書いたが、そうやって「自分の中身が言葉になっていく気持ちよさ」を欲して言語化をTwitterでやるから葛藤が生じる。要するに欲である。

 自分で自分を制御できていない感じというのはそれだけではない。TwitterにしろMastodonにしろ、言語化した内容そのものを世に放ちたいということもさることながら、空虚な自分を少しでも世界に根付かせたいという願望があってやってしまっており、その願望に対する自己嫌悪によって「つい呟いてしまう」と「つい呟いてしまうことを反省する(良くないことだと考える)」を無限に反復横跳びしている。それはきっと良くない。
 発信者としての側面だけ見ればそういう人間こそTwitterがぴったり、ということになるが、Twitterは単に発信の場ではない。受信の場でもある。自分の中でそのバランスが崩れていることがいつも気になっている。別に他の人がみんなバランスを取ってやっているわけではないにしても。昔から、常々「自分はTwitterには向いていない」と思いながら、しかしずるずると続けている。
 要するに、「気にしい」な性格でいながら一方的に喋っていられる場が必要で、それを求めてSNSを彷徨っても駄目なんだろう。そう考えると、つまるところ自分には「ブログしかない」のだと思う。じゃあ大人しくブログで書いてればいいじゃないかという話だが……点、点、点。

 Twitterとブログは何が違うか。どちらも人が読むことを前提にして文を書いていくという点では同じだ。しかし思考のタイムラインを作っていくことと記事を書くことは根本的に違う営為のようにも思う。なぜなら前者は自己の内面の描写、後者は他に向けた表現だからだ。
 そう思ったところで気づいたが、(例えばScrapboxの使い方としては失敗談として目にしがちな)「日付をタイトルにしたページ」というのはブログにこそ必要なのかもしれない。(そう思って、今この記事が作られている。)


 Tak.さんの[アウトライナーライフ(noteの有料マガジン)](アウトライナーライフ|Tak. (Word Piece)|note https://note.com/takwordpiece/m/md373ba7a0d43)の記事を読んでいると(あるいはTak.さんの著作を拝読していると)、なんだか「シンプルにこれを真似たら結局全部うまくいくのでは?」という気分になってくる。読んでいてとても楽しい。実例があるとメソッドが実際的であることを感じるし、事実、Tak.さんはそうして日々をスムーズに送っていらっしゃるのだから、机上の空論ではないことは絶対確かなことである。想定は細やかで、スーパーマンがスーパーなところでしれっと補っているというようなところもない。
 一方自分自身の問題として、誰かの方法を「そのまま真似したい(そうしたら万事がうまくいきそう)」と感じる時というのは、自分固有の癖を忘れている時でもあるという実感がある。もし自分自身のことを仔細に思い出せているならば、そのまま乗り換えるのではなく、それを取り入れた自分仕様の何かを具体的に考えるはずである。
 そもそもTak.さんが「自分のやり方をそのままやってみてほしい、全部うまくいくから!」とお考えになっているはずもなく、むしろおそらくは全く逆で、人のやり方をそのままコピーしてしまわずに自分自身との対話でやり方を考えていく、その工程自体の例を示してくださっているのだと思う。なれば、こうしたら良さそうという気持ちを持ちながら、どうして「良さそう」なのか、どうしたらその「良さそう」を自分が殺さずに済むのかを、じっくり考える必要がある。
 やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。


 ところで、このようにごちゃごちゃ詰めたような発信というのは前にScrapboxでも試したが、その時はまあ、さっぱり続かなかった。読み手の存在を考え、読み手にとっての無益さを意識しすぎたのだと思う。実際に無益で、変に自分の印象を和らげようとしたところもあったのか、他ならぬ自分自身にとってすら無益なものになっていた。何か自分にとって必要を感じたからやったはずだが、自分でそこから外れてしまったようだ。
 

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