一般的に陥りがちな傾向の話。
自分自身の傾向に限っているものは己と折り合いをつけるタグをつけている。
「陥りがちなこと」タグの記事一覧
デジタルツールは自分の記述にデータ感をもたらしてしまう
こちらの記事を拝読しました。
「重複しなければしないほどよい」というような思い込みについての話と解釈しました。
その思い込みに対し、同じことを繰り返したっていいじゃないかということをお二方とも力説されていて、その通りと頷きました。
以前私もどこかで書いたようなと思って、探したら昔の記事をひとつ見つけました。アウトライナーの使い方の話からは大きく外れますが、「繰り返してもいいよね」ということを書いています。
自分のための記述も、他人のための記述も、繰り返すことは避けるべきものであるどころかむしろ重要なことと思います。
と言いながらも、アウトライナーに何かを書き出していく時に重複が気になるという気持ちも実はわかります。アウトライナーに限定されたものというより、デジタルツール全般でそれが気になるように思います。
他の人は果たしてどうなのかわかりませんが、紙に手で書く時には、私はそんなに重複が気になりません。同じページに何度も書いていたらそれはオイオイと思いますが、違うページ、違うノートに同じことを書いていることはよくあります。機械的に検索ができないので、前に書いた気もすると思いながらも、とりあえず書いてしまうということになります。
ですが、デジタルツールだとなんとなく重複が気になります。十分に月日が経っていれば、私の場合使っているツールが違っているので検索も内容確認も面倒になり、新たに書き直すことが自然にできます。しかしそれほど経っていないと書く前に「前に書いたもの」を探しに行ってしまいます。そしてやっぱり前に書いたなと思って新たに書くことなく終わってしまうのです。アウトラインのシェイクならば前に書いたものがすぐ上や下にあったりするでしょうから、尚更重複を気にすることになるだろうと想像がつきます。
根拠なしの仮説ですが、デジタルツールというのは自分の記述について「データ」という感触をもたらしてしまうのではと思いました。で、それでもその記述というのは自分の意思で書いているわけなので、自分が自分の記述をデータっぽく見ているということに気づかないかもしれません。
見た目からしても、どんなにラフに打ったメモでも「テキトーに書いた走り書き」にはならず「きちんとした活字」的になってしまいます。デジタルツール上に書くということは強制的に見た目を整えられてしまうことでもあります。
デジタルデータであるということ、フォントが整ってしまっていること、デジタルツールに頁や冊子のイメージが乏しいこと、あるいはそもそも重複を嫌う文化に触れてしまっていること、何がどう影響しての結果かはわかりませんが(人それぞれかもしれません)、それらの一つ以上の要素によって「一手毎にデータとして正しく整っていく」ことを目指す気持ちが知らぬ間に膨張し、私たちから自由を奪っているように思います。
仮に重複が気になったとして、「でも書く」か「だから書かない」かは大きな分かれ道になるでしょう。「気にしなくて良い」と言われてすんなり「じゃあ気にしない」と切り替えることは難しくとも、「でも書く」を選択することはできます。前に書いた! 気持ち悪い! 私の脳は貧困! と思ってしまいながら、でも書く。
そして自分では重複だと思ったものの中に実は差異があったりして、それを見逃さずに取り出してみる。全くおんなじことを書いたとしても、そこには「すごくそう思っている」という情報が加わるので、そうなったら「何度も書きたくなるほどそう思っている」とか書き足せばいい。
そもそも別に「一手毎に」理想に向かっていく必要はないわけで、自分の動きに「でもこれじゃ意味がない」とか勝手に評価を下さないことが大事ですよね。
あと、重複がどうというより単に「新たなことが全然浮かばない」ならば、それは文章を書かんとして前のめりになり過ぎている気がするので、他のことをやったり何か読んだり、なんでそれを書きたいのか自問したりしたらいいんじゃないかと素朴に思います。
×後で書こう‡‡‡○今書くけど後で投稿しよう
諸般の事情により「後で書こう」と判断した題材があり、数週間経っていざ書こうとしたら全然筆が進まなくなってしまった。
そうやって途中でやめてしまうと「流れで書く」タイプ[1]は駄目なんだということを前に自分でも書いた気がするが(少なくともそのような話に同意を表明したはず)、それにもかかわらず「後で書こう」と言って放置して案の定書けなくなっている。なんと愚かな。
後回しにしても大丈夫だと思う程度に存在感の大きい題材だったので、まあいつでも流れに乗れるだろうと判断したのだが、そんなことはなかった。
存在感が大きいことは変わっていないが、書きだす取っ掛かりがもうわからない。最初にもやもやとあったイメージはどこかに飛んでいき、その時点で残したメモを見て今想像できる世界というのは最初のイメージよりずっと小さい。今書こうとするとそのメモに依存しすぎてしまう。当時は全体の中の部分でしかなかったメモが、時が経った今では残されているものの全体になってしまっている。
そして、うちあわせCast第百三十六回でTak.さんが語っておられたが[2]、「メモの断片」ではいまいち矢印が発生しない。「書きかけの記事」になるまで表現を進めるか、あるいは「ツイート」にしてしまわないと、当時の気分を再現することが難しくなってしまう。
日頃の投稿までの流れがこの誤った判断を誘発している。というのは、私は普段記事のストックを作らない。これは適当にマイペースにやることが許される(そして自分に許している)個人ブログだからの話だが、書けそうな話があると、大体その場で書いてしまって、書き終わったらもう投稿してしまう[3]。「書く」と「投稿する」が直に繋がっている(投稿せずに没にすることはあるが)。
そうすると、複数書けそうなものが溜まっている時や、時期的にちょっと後にした方がよさそうと判断した時などに、「投稿する」が先になった分同時に「書く」も先送りしてしまう。他のものを書いてから着手しよう、になってしまう。
挟まるのが一本二本ならどうにかなるのだが、それ以上になってくるとどんどん厳しくなってくる。だんだんその題材の光が失われていくので、嬉々として着手するという感じにならなくなる。そうして更に後回しになり、ついにその題材は息絶えて書けなくなってしまう。勿体ない!
ということで、「後で書こう」はやめて「今書くけど後で投稿しよう」を心がけたい。
時間には限りがあるのでそう思えば書けるという話ではないのだが、せめて着手しておけば、書き終えた部分が持つ矢印の力によって、未来の自分がそれをいくらかでも引き継げる可能性が高まる。流れで書くタイプゆえ最初の段階で思い描いたものを保持し続けることは無理だが、着手しないとすっかり全部消えてしまって未来の自分がどうにもできなくなる。新たな芽が出る可能性も薄れてしまうのである。
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
当該部分→Podcast感想 #43 のらてつの雑記帳 - zawazawa ↩︎書き終わったらとは言っても、推敲や様子見に一日以上かけることはある。書いた時のテンションが後から見ると変だったりするからである。 ↩︎
チェックボックス依存症だった私
こちらの投稿に関連しての考え事です。
こちらを読んでぼーっと考えている時にふと思い至りましたが、そういえば少し前まで「チェックボックスを用意して、チェックしていく」ということに妙に囚われていたような気がします。
一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。当時からそのように言語化できていたわけではありませんが、今思うとそんな感じです。
仕事ではないことにまで点検項目を用意して、それに「よし」「よし」「よーし」とやっていかないと自分の一日に納得できないという心境です。そして、「よし」「よし」「よーし」とはいかないので、いつも納得できていませんでした。しかし納得しようがしまいが日々は過ぎていき、納得できない日々が延々と続いても私は今日も生きています。
(正確な文脈をわかっておらず)「get it done」と聞いて私はGTDをパッと連想しました。GTDという概念を認識したのは結構後のことで、Evernoteを知ったよりも後なくらいなのですが(ビジネス書の類を読むのは好きな方なのに、全然接触しなかったのです)、そんな私でもGet Things Done的な感覚はいつの間にやら刻み込まれていたようです。
多分私の場合は、バレットジャーナルの影響が大きかったのだと思います。バレットジャーナルという手法が私にそういう価値観を植え付けようとしてきたわけではないのですが、単純にあの「バレット」感に憧れを覚えて、イケてる感じの手帳像を思い描いた時に、そういう生活が手帳に綴られていくのがきっと良いのだろうと思ったところはあると思います。
あるいは「タスク管理ツールが流行っている」という状況もその傾向を後押ししたでしょう。チェックマークをモチーフにしたアイコンのアプリがたくさん並んでいたりするわけです。チェックを見ると何かをチェックしたくなります(私だけかもしれません)。
まあおそらく、倉下さんがご指摘になっている「get it done」というパラダイムの力で、どこを向いてもそういう気分を惹起させられる世界になっているのだと思います。
そういう仕事術的なものに関心を持つ前の若かりし頃、精神的によろしくない状態が続いていたのですが、今思い返してみると、チェックボックスを使うことがなくとも「その日必要なことはやったはず」と頭の中で思えていれば、一応その日の自分の生活に対して不満を抱くことはありませんでした。自分のメンタルのよろしくなさはそこじゃないところに起因していたからです。
しかし、精神的に不調であったせいでやるべきことができなくなってきた時に、私は仕事能力のなさを解決する術を探すことに道を見出してしまいました。仕事術の本や雑誌を色々読んで、色々なことを知りました。それらは私に希望を与えてくれましたし、何より楽しかったのですが、気づかぬ間にちょっとした洗脳を自分に施してしまったような気もします。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。
もちろんちゃんと生きていくために、やるべきことをリストアップしてそれを遂行していくというのは当たり前に必要ですが、自分は駄目じゃないと思いたいがためにリストを膨らませてもしょうがないのであって、目的の曖昧な「やり終えた」の数稼ぎは自分の人生に何も貢献しないように思います。
人生および生活(仕事のプロジェクトも含む)は有機的で流動的で、その「状態」を可視化するのが難しいので、成果を人に具体的に報告できるようにしたいのもあって自分のアクションがわかりやすくなるような形式を認識の形として採用したくなる気がします。特に、脳内の主語が「わたし」になっているとそうです。しかし世の中の素敵なことは、主語を己以外の何かにして全力を注ぐ中に生まれているのではないか。
私は子育ての経験がないので想像になりますが、もし子どもが生まれて必死に育児に励まなければならなくなったとしたら、今日子どもに対して何をしたかのリストを自分が作りたがるとは思えません。自分が何をやったかより、今日子どもが無事に生きられたかが重要で、それが達成されればそれで良いからです。主語は「わが子」です。忙しすぎて大事なことを忘れる可能性があるからという切実さによってリストは正しく活躍すると思いますが、それはもう自分の精神の傷に当てる絆創膏ではないはずです。
自分語りが長くなりました。
何かをやり終えたとしても、それが望ましい結果につながっていないということはぜんぜんあるわけです。
要は、結果が伴わないにもかかわらず「やり終えたがる」ということの原因を、自分の中に探してみたということになると思います。
日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。
ツールを「使いこなす」という余計な構え
一ヶ月ほど前に、最近Scrapboxを自然に使えるようになったという記事を書いた。(「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox)
今回は、要するに何が私を邪魔していたのか、ということについて考えようと思う。
Scrapboxに限らず、色々と魅力的な機能を持つ「良さげな」ツールを目の前にした時に私の中で発生するのが、「このツールをどう活かそうか」という気持ちである。
そのツールならではの特徴を掴み、今までは実現できなかったけどこのツールならできそうなことをあれこれ想像し、生活が一新されることを願っている。そうしている時というのはわくわくと胸躍り、まだ何もしていないし何も得ていないしその後も何も欲を満たすものを得られるでもないのに、なんだかすごく色鮮やかな時間を過ごしているような気分になる。それは悪いことではないと思う。
そう期待を抱くことは悪いことではないが、しかし「それならでは」にこだわるというのは、つまりそのツールを「それならでは」縛りで使うということでもある。「他のツールでできるならこれでやる必要ないのだし」などと言って、なんとしても「他のツールではできないこと・やりにくいこと」をやろうとする。もちろんその気持ちにはっきりした自覚はなく、後からそうだったとわかるのが常である。
多機能で何にでも対応しうるツールとなれば、それを活かして何にでも対応させようとしてしまう。「こうすればあれにも使える」「ああすればこれにも使える」と考えて、全部ひとつに放り込もうとする。「このツールでもやれる」という可能性を「しかしやらない」と切り捨てるのはなかなか難しかったりする。
そもそもは、自分の中に何らかの必要があって、それを実現するためにツールを欲していたはずである。ならば、その必要を満たしさえすれば、本当はもうそれでいいはずなのだ。他にどれだけ機能を搭載していようが、それをうまく使いこなさなければならない義務はない。せっかくの優秀さを活かしてやれなくても、別に全然構わないのである。自分には必要ないのだから。
これがツールではなく人間なら話は別である。使っている人間を十分に活かしてやらないのは、その相手も人生のある主体であるがゆえに問題が生じうる。でもツールは主体ではない。使いこなそうがこなすまいが、ツールは何も損をしないし(主体ではないのだから)、製作者も別に困らない。製作者は私がそのツールをどう使っているかなど知る由もないのだ。
以前、手帳の使用例を特集した雑誌を読んでいて、誰の手帳だったかはもうわからないが、わざわざ日付の入った手帳を選んでおきながらそれを一切無視して使っている例を見た。まずその紙面に書き込んだタイミングというのがその日付の範囲と全く合っていなかったし、一応スケジュールの類を書くことが想定された横罫のページだったかと思うが、そこに縦線をフリーハンドで書き足して日付とは全然関係のない何かの表にして使っていた。
何かが印刷されていればそれをどう活かそうか考えてしまう私にとっては衝撃も衝撃の使い方だったのだが、まあ確かに、そう「しなければならない」というルールなどどこにもない。印刷があろうがなかろうが関係ないのである。他に気に入った要素があって(あるいは誰かに貰うなどして)その手帳を選択し、そしてその手帳の紙面にはたまたま自分には不要な印刷が施されており、だからそれは無視する、それでいいのだ。
一時期、紙のノートの罫線を憎らしく感じて、敢えて無視して(というか、敢えて「反して」)使っていたことがある。別にノートが「私のガイドに沿いなさい」などと命令してくるわけではないのだが、私の中の規範意識が私より罫線を優先するので、それが心底気に入らなかったのである。
自分自身に腹を立てた結果、私の中にある「こう罫線があったら普通こう使う」という「常識」を破り捨てるべく、しばらく目茶苦茶に書いていた。それでもおそらく然程の奇抜さではなかっただろうが、紙のノートについてはその時点で割と心理的解決を見た。今は、そもそもノートをあまり使っていないこともあるが、ちゃんと使おうとかいう意識とは距離を置いている。
しかしである。そういう格闘を経たにもかかわらず、デジタルツールではまーた同じことを繰り返したわけだ。
デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。
つまり、検索のしやすさやリンクの張り方にこだわったり、表記揺れを撲滅したくなったり、データベースとして相応しいデータの在り方に近づけようとしたり、そういった意識が恰も当たり前のこととしてツールの使い方に入り込んでくるのだ。
その意識は、自覚して制御できていればこそ快適なデジタルライフに貢献するが、無意識下で乗っ取られてしまっているとひとりの人間が現実的にやっていける範囲を超えて「きちんとデータを整える」ことを自分に求めることにもなり、便利なツールのはずが「理想の形で運用できていない」として苦しめられることになる。
一体私は何をしたくてそのツールを使い始めたのだったか?
さて、ツールを自作することを勧めたくて書くのではないが、デジタルノートツールを色々作ってみて変わったことというのは書き留めておきたい。
冒頭に示した過去記事(「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox)でも書いたが、私はデジタルノートツールとして、用途に合わせて複数のツールを作っている。現在アクティブに使っているものだけでも8つあるだろうか。それぞれ特定の用途に特化しているので、汎用性は無い。つまり「うまく使う」という尺度は存在しない。できることは限られており、それしかできないのだから、「使う」か「使わない」かの二択しかないのである。
「うまく使う」という概念が無い代わりに、「うまく作る」ということは必要になる。そして「うまく作る」というのは、自分のために作るものである限り、「仔細に亘り自分の要求にフィットしたもの」を作るということになる。実現したい動きというのがまずあり、それを再現するのである。
そうして作った時、その事前の想像を超えた活用法というのは基本的には生まれない。「このツールで何ができるかな」とわくわくと空想することはないわけである。
つまり何が起きたかというと、使いこなすものというのが「ツール」から「プログラミング言語」にスライドすることで、ツールを使いこなさねばという気持ちは自然と消滅した、ということになる。
その後Scrapboxに戻ってきた時、以前はあれほど「Scrapboxらしさを活かしてやろう」などと考えていたのが(そうだったというのは後から気づいたことである)、全然そういった熱意が湧かなくなっていた。まあとりあえずここに書いとくか、という感じである。リンクも張ったり張らなかったり。UserCSSにも前ほどは執着していない。
内容面でも、「分類の力によってワンアクションで的確に取り出したい」と感じるような情報は全部自作のデジタルノートツールに移ったことで、Scrapboxは「探そうと思えば探し出せるもの」、つまり「一瞬で取り出せることを保証しなくていいもの」の置き場所へと変化した。
一瞬で確実に取り出せるということを保証しなくていいなら、細かくルールを決めてタグを用意するというようなことはしなくていい。何も覚えておく必要はなく、その時の気分で使っていいことになる。つまりテキトーである。そもそもそういうふうに使って成立することがScrapboxの売りだったような気がするし、最初からそのように使っている人からすれば「どうしてそうおかしな回り道を…?」と首を傾げてしまうところかもしれない。
まあ具体的にScrapboxというツールをどう捉えているかはここではどうでもいいことである。どのツールに対しても「そのツールならでは」を掴んで活かそうと考える癖が自分にはあり、しばしばそれによって自分を迷走させているという構図が問題だ。
そこから抜け出すには、意思の力に頼るのではなく根本的に違う構造に沿うことが必要だったのだろうし、それがデジタルノートツールの自作を通して知らず知らずのうちに達成されていたのだ。紙のノートの時は意識的に荒療治を施したわけだが、デジタルツールに関して自分を縛っていたのは「罫線」のような単純明快な規範とは違ってもっとメタなレベルのものであったことから、仮に自覚があっても紙のノートでやったようにはできなかっただろうと思う。
それでは新たなツールに夢見る気持ちもなくなってしまったのだろうか?
半分はそうで、半分はそうではない。「私の生活を変えてくれるかもしれない」というような期待を抱くことはなくなった。このツールをこう使えばこんな理想の形になるかもと夢想しても、そしてそれが正しい想像だとしても、「こう使えば」の部分に無理があるのはもう解っている。自分の期待に、(ツールではなく)自分が応えられないのである。
代わりに、新しく登場したツールを見た時、既に自覚している自分の要求に照らして「あ、この発想をこう借りればあれが実現できるかもしれない」ということを考えるようになった。ツール全体に何かを期待するのではなく、新たなツールが新たに示した機能の核にあるアイデアを取り出して転用することを検討するようになったのである。それはそれでわくわくした気持ちになる。
しかし転用とは言っても、自分のツールに取り入れるならその機能は自分で一からコードを書いて作らなくてはならないので(何しろ新しいツールが具体的にどういうプログラムで動いているかは全然わからないのである)、かつてEvernoteを使うにあたり失敗したような「安易に真似をする」ということはできない。既に作った機能との兼ね合いも踏まえて、よくよく考えて組み込まなくてはならない。実装のためには勉強も要る。そうなると、必然的に「その場の思いつきで自分が振り回される」ということもなくなっていく。思いついてから実現するまでにそれなりの時間と労力が必要になるからだ。
一連の変化を一言でいうと、「落ち着いた」ということなのかもしれない。自分の閃きや期待が自分をブンブン振り回すことが随分減った。中心にあるのはツールではなく自分自身であり、ツールは道具としての相応のサイズ感になって自分の周りに存在している。必要な時に必要なだけ使えばいい。
なんとも当たり前の話だが、ここに来るまでに呆れるほどの年月を費やしてしまった。まあ、それでも落ち着きを得るということができたのだから御の字というものだろう(本来の意味での「御の字」である)。