Noratetsu Lab

動じないために。

広義の「仲間」との距離感についてなど

 こちらの記事を読みました。

 全体を興味深く拝読しました。そして最後の方で次のようなお話がありました。

だから、私たちのやりとり(ルビ:コミュニケーション)においても、日記に相当する何かが必要なのではないかと思います。それは別に交換日記しようぜということではなく(それはそれで面白いですが)、日常的なやりとりにおいて、おだやかにかたりあえる「形式」を発明する必要があるのではないか、ということです。

 この必要性を私も感じます。そして難しさも感じています。
 対話は個人と個人の間の差異でギクシャクしかねず、自分語りはコミュニケーションとして成り立ちにくく、SNSは同時性やトレンドによって穏やかさが損なわれる。
 参加者同士が正面から向き合うのではなく、何かの対象を共に向いて、穏やかに語り合う、ということが自然にできるにはどうしたらいいか。
 まず気心知れた友人を作ることが正攻法とは言えるでしょう。単に仲が良いというのではなく、「語り合う」ということの温度が一致していることが必要です。ですがそういう友人が簡単に作れるなら苦労はしねえという話ですね。(でも努力は必要だと思います。)
 用いるものだけで言えば、SNSでゆるく話題を共有して空リプで話をするという方法、あとはCosenseで個人的に書いたものについてゆるく反応し合うという方法は、ある程度理想に近い感じはあります。しかし作法というのが重要です。それは明文化されておらず、空気を読みながら「今のコミュニケーションは多分うまくいってる」という感覚を研ぎ澄まして探り探りやることになるでしょう。更に、客観的に見て「興味深い話」に発展した時には、どこの誰にどう言及されるかわからないというリスクはあります。その場合穏やかに語り合うというコミュニケーションからは逸脱します(それが健全な発展となる場合はもちろんあります)。
 つまり「形式」が曖昧ゆえにコミュニケーションの型を保てないおそれがあるということになります。しかし発明されるべき「形式」がどのようなものであるのか、私もまだわからないでいます。

 さて、関係あるようなないような話に飛んでしまうのですが、この記事を読んでトンネルChannelについてなんとなく思い巡らしました。
 トンネルChannelのコンセプトに賛同し、書けそうなことがあったら書きたいという思いは今に至るまでずっと持ったまま、しかし情けなくもフェードアウトしてしまっています。私は私の理由(書くべき話題の選定に悩むなど)で書けずにいましたが、他の人も各々に何らかの理由があって書かれなくなってしまったのでしょう。
 トンネルChannelへの投稿に関して、一つの個人的な反省と、一つの構造的な困難さへの気づきがあります。私ごときが何かを語るのはおこがましいと重々承知しておりますが、お許し願いたく思います。

 まず反省の方から先に書いてしまいましょう。これは完全に私一人の問題であり、他の人に共有する意味もないようなことですが、次に触れる気づきにも若干の関係があるので手短に記します。
 トンネルChannelで想定されていた話題というのは、個人的な生活上のハックや試行錯誤、悩み、経験談といったものだったかと思います。巷ではあまりクローズアップされない、あるいは繊細に取り扱われない、ごくごく属人的な話題です。個人的な話なので、読み手の側の個人的な体験とも響き合います。そしてそれぞれが私はこうだった、こう思う、これをやっている、ということを投稿しあっていければハッピーだよねという感じです。
 普通にやっていれば何も問題はないわけですが、普通じゃない馬鹿者が交じることがあったりするわけです(私です)。何がどうということは詳しく書く必要もないと思うので割愛しますが、私が反省しなければならないのは、このように属人的な話をし合っている時に、個人的なことをうっかり深いレベルで吐露しすぎるということです。軽率に自分を語ることがどのような問題を引き起こすのかは少し前に私という不思議な生き物を観察することについての諸々に書きましたが、要するに自分にとっての重要さと読み手にとっての重要さが盛大にズレてしまうために、呑気なコミュニケーションでなくなってしまうのです。これは本当に良くないことで、たびたび反省の念に駆られています。

 構造的な困難さとは何か。それは参加者同士の距離感の問題です。
 こういう場に参加するという場合、主催者または参加者の誰かと面識があるか、たまたま見つけて場のコンセプトに賛同するかということになります。ある程度は似たような価値観を共有していて、目的もある程度は一致しているとは言えますが、そのくらいのごくゆるい繋がりでの仲間です。
 どんな集まりでも最初はだいたいそんなもんなわけですが、一般的な集まりは大抵明確な話題があります。或る趣味のグループ、何とかというゲームが好きな集まり、何々の勉強会、といった形です。個人の考えや生活などはほとんど話題に出す必要なくコミュニケーションが成り立ちます。
 しかしむしろ個人の話をするための場となると、話の仕方は途端に難しくなるように思えます。それぞれの関心はバラバラで、気の利いた反応をすることも共感を示すことも必ずできるわけではありません。相手のことを知らないとなんとも言えないということもあり、かつ互いのことを知れるほど各々自分について語るわけではないということがあります。滑らかに繋がる話題は「他の人にも共通する可能性が高い、個人的なこと」に限られ、そのような「ちょうどよい」話題を出し続けるのはかなり大変です。大変であるということをトンネルChannelへの参加によって知りました。
 そしてこういう場に投稿することが「友人関係」を生み出すことは多分あんまりないように思われます。他人行儀が変わることはおそらくなく、参加者同士の距離はほとんど変化しないままになります。あの人とはちょっと共通点があるらしい、と知るくらいのものです。逆に、仮に友人関係が密になってしまうと「わかっている者同士」のノリが生まれる難しさもあります。それがプラスに働くこともあれば、そうでないこともあります。

 こう考えてみると、コミュニケーションそのものの形もさることながら、それによって関係性はどうなっていくのが望ましいのかというのを考えてみる必要も感じます。ウェーイというノリでもサロン的なノリでもない、節度を弁え適切に距離を取った穏やかな場となると、それゆえに「個人的に親しくなる」のは難しくなってきます。
 場の外でたまたま交流を深められる場合はあろうかと思いますが、とりあえずコミュニケーションの場で親密になってはいかないかもしれないとなると、さして親しくはない、ある範囲の価値観だけ共有している状態の広義の「仲間」との語り合いの続け方を考えることになります。それは会社や地域などではありふれたことでしょうし別に特殊な状態ではありませんが、先にも述べたように、話題に属人性がある場合には話は変わってきます。
 属人的な話をする場合には参加者同士である程度個人的な親しさが増していったほうがいいのでしょうか。その方がいい面はあると思います。最初に書いたように気心知れた友人ができるならそれに越したことはありません。一方で、親しさの度合いが上がるということは「たくさん経験値を積めばレベルアップ」みたいな風にはできていません。相性やタイミングが肝心であって、何も進展しない方が普通でしょう。

 関係性に変化がない状態で、個人的な話を穏やかに交わし合い続けられる場、あるいは形式とはどんなものなのか、まだ私には答えが出せません。関係性に自然な進展がもたらされ得る場の形もわかりません。
 でも考え続ける必要があることだと思っています。

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