Noratetsu Lab

動じないために。

タグの定義・詳細

流し切るように書くタイプ

文章は流れに乗ることで書き、文単位で細かい編集を加えることを不得手とする傾向。
alias:「流れで書くタイプ」「流れ型」「リニア型」「流れ派」

できること

  • 一度に数千字の文章を書ける
  • 脱線した場合も本筋に戻って繋げられる

できないこと

  • ひとつの文章を数日以上かけて書く
    • ※数日以上に亘る場合、その都度考え直すので話の筋が変化する可能性や続きを書けなくなる可能性が高まる
  • 一度書いたものを並べ替えるなどして編集する
  • 飛躍を感じる文を組み合わせて文章を作る
  • 今気が乗らない話でもシステマチックな工夫などによって書いてしまう

必要な努力

  • 乗りうる流れをいくつも持っておく
  • 自分の流れを止める要因を把握する

関連記事

  • アウトラインではなくキューを作る
    • 抽象的な話になってしまうが、どういう流れで書くかはほとんど「イメージ」で決めている気がする。読み手の気分の流れのイメージや登場人物の心情の流れのイメージ、その他諸々の「読み手」ないしは「作中に生きている存在」の何かしらの流れに沿って書こうとしている。そしてそれらは、「その場に至って初めてその先がわかる」ということが発生するものでもある。

  • 脱「運頼み」の道のり - by のらてつ @Foam_Crab - トンネルChannel
    • 一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。

  • Podcast感想[15]のらてつの雑記帳 - zawazawa(うちあわせCast第百三十三回感想)
  • 飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ
    • 「リニアに書く」「流れで書く」というような表現がされていますが、その調子で文章ひとつを単位として一本の流れを作ってしまうタイプの書き方があって、私もそのタイプです。もちろん、そのタイプではない人も部分部分はリニアなはずで、そうでなければそもそも文が生まれていかないと思いますが、ひとまとまりの文章になるくらいひとつの流れが長くなるのがデフォルトなのか、そこまで長くなることはないのが普通なのかという違いがあるのだと思います。

  • 流れで書けない時
    • ある文を書くということを、双六のように駒を進めていくイメージと仮定しよう。流れで書くモードになっている場合、ある文を書いて駒を進めた時には次のマスというのはほぼ自明のものと感じている。目の前にもう次のマスがあるのである。

  • ×後で書こう‡‡‡○今書くけど後で投稿しよう

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「流し切るように書くタイプ」タグの記事一覧

2023/09/21

流れで書けない時

 自分は流れで書くタイプだ、ということを何度か書いている。

 しかしある話題についていつものように書こうとした時に、全然流れで書けない、流れが発生しない、ということに直面した。

2023/09/15

どうやって文章を書いているのか

今月のお題、「どうやって文章を書いているのか」について私も改めて書いてみたいと思います。


文章を書くという工程を以下の三段階に分解して考えてみます。

  1. 対象の決定
  2. 本文の構築
  3. 推敲と投稿

対象の決定

何を書くかということはいつどうやって決めるのか。
私の場合、最初の一歩は大きく分けて二通り、「人の投稿を見る」と「ふと思って呟こうとする」のどちらかです。
誰かがSNSかブログに何かを書いているのを読んで、それに対して自分の反応を書こうと思うというのがひとつのパターンです。その場合、書く対象というのは他の誰かが生み出してくれているということになります。連想によって少しジャンプすることはありますが、大まかな方向性は見かけた話題によって決定づけられます。例えばこの記事は提示されたお題によって決まったものということになります。
自分で対象を生み出すこともあります。ふと頭に浮かんだことを、大抵はTwitterその他に投稿しようとして言葉にして、それが文章の元になるパターンです。厳密には他の人の何かに影響を受けているかもしれませんが、そういう自覚が薄いか、直接的な関係性を感じないほど飛躍しているかすれば、自分の感覚としては自分がふと思ったことということになります。
Twitterに実際に投稿したのを後から文章にすることもありますし、投稿せずに取っておいて文章化することもあります。かなり前に呟いたことをサルベージするということもあり得ます。

なお、何かがふと浮かぶ頻度というのはムラがあります。いくらでも湧いてくるような時期もあれば、探したって見つからないという時期もあります。
その差が何によって生じているのかは正直よくわからないので、自分をアクティブにする手立てみたいなものは残念ながら書くことができません。強いて言えば楽しい気分でいることだろうかと思っています。

本文の構築

本文の種類には、私の中ではこれまた大きく分けて二つのものがあります。先日書きましたが脱「運頼み」の道のり、「自分の言語化のための文章」と「人への伝達のための文章」です。なお自分のために書いたことが結果的に人に伝えるべきことになったという場合、それらは分かち難いものになりますが、その場合は書く過程としては前者にカテゴライズされます。
どう違うかと言えば、書き表すことが次の書き表すものを生むか、書き表すべきことをピックアップして整理しておいて書き表すか、ということになるでしょう。
これは個人差が大きく出そうなところだと想像しますが、自分が自分を知るという点に於いて有効な言語化というのは、私の場合文の形になっているものです。単語やフレーズを並べていくのではなく、きちんと句点が付くような文を綴っていく形です。そうやって書いた文は、次の言語化を生みます。それが繋がってひとまとまりの文章になっていきます。
一方で、既に知っているものを並べることで人に伝達するものを作る場合には、文の形にしておかなくても構想を練ることができます。キーワードを並べて構成するということが可能です。アウトライナーが活躍するケースです。ただしこのパターンの場合も、実際に文章化していくと、書いていく中で自分が自分を知る瞬間というのがあちこちに発生するので、必ずしも事前の想定通りの構成にはなりません。それは倉下さんやTak.さんが繰り返し書いたり述べたりしておられることでもあります。

全体の流れとしてはこのどちらかということになりますが、どちらの場合にしても文章化が常にすいすい進んでいくわけではありません。次が浮かばずに手が止まるということが当然あります。
この場合、次を捻り出そうと頑張りがちですが、しかし実のところ、「次に繋がらない道に一歩進んでしまった」ということがかなり多いです。なまじ文を作れてしまったのでもったいないのですが、それはあってはいけない文だったということがあるのです。そういう時はその文を削除します。
と言ってもバックスペースでばっさり消すというのではなく、没の欄に移動する(没とわかるようにする)という処理をします。今使っているツール(TextManagerと名付けた自作ツール)では、プログラミングのようにコメントアウトできるようにしていて、「// 」を頭に付けて「そこにあるけど(本文としては)ない」という状態にします。本文をコピーした時にコメントアウト部分は自動的に取り除かれるようになっています。

推敲と投稿

ここまでは基本的に、書くために使っている何かしらのツール上でやります。
一通り書き終えたら投稿先のエディタにコピペします。そのまま投稿ボタンを押せるつもりで文章をペーストしますが、実際にはそのエディタ上であちこち推敲することになります。
最初から最後まで何度か読み返し、リズムが悪いところや意味の通りにくいところを修正していきます。投稿先のレイアウトでプレビューするとそれまで気づかなかったことが見えてきたりします。
この段階で内容が大きく変わったということは今のところありませんが、表現は結構変わることがあります。

推敲は念入りにやる場合もありますし、簡単に済ませてしまうこともあります。
ざっとやるだけで終えてしまったものは後から読んだ時に読みにくいことがよくあります。なのでやはり入念にやるのが理想ですが、当然手間がかかることなので、実際どの程度労力を割くかは内容次第です。絶対に伝えたいようなことなら読みにくさがなくなるまで自分なりに頑張り、そこまででもない時は他のことに時間を費やすことを優先してさっと済ませています。
同じ時間推敲したとしても、推敲の出来自体もまたムラがあります。推敲力が下がっているタイミングだと、何度読んでもわかりにくさを自分では認識できなかったりします。日を置いて読み返して「何言ってるんだこいつは」と自分で思うことになります。
また、初稿を書いた時点の自分の状態がいまいちだと、推敲に苦労するような変な文章を自分で生み出してしまっていて、頑張ってもうまく推敲が進まないということにもなります。
推敲力の上下をコントロールすることは多分無理なので、無難な対処法は「必ず日を置く」ということだと思います。が、それより投稿したい気持ちが勝っていれば投稿してしまいます。

大した文章を書いているわけでもありませんが、自分の書き物について整理するならばこんな感じになります。

2023/09/10

飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ

 うちあわせCast第百三十三回を拝聴しました。(私の感想メモはこちら

 興味深いテーマはたくさんありましたが、今回最も印象的だったのが、「文章に飛躍を作る」というお話の箇所でした。

2023/09/09

脱「運頼み」の道のり

こちらを読みました。


自分の文章の書き方の話は後で何か書こうかと思いますが、その前にコウさんのお話についてちょっと考えたことを書いてみたいと思います。
共感するところが色々ありました。

おまおれ

僕は割と文章を書くのは苦にしないほうだが、すらすら書けるときとまったく書き進められないときのムラがありすぎるのがとてもつらい。
これは私もそうです。月単位で手が止まることもしょっちゅうでした。
書けなさを主観で測るとすれば、継続的に書いている人でも結構そういうことは多いのではないかと想像します。しかし書き進められなかったものは世に出ないので(そして世に出た時点で書き進み終えているので)、人の文章を読んでいるとみんなすらすら書けているような気がしてくるというのは一つの罠だなと思ったりします。
例えば月に一本しか書かない人がいたとして、読み手の方は「この人は仕事が忙しいのだろうからそういう頻度でしか時間が取れないのだろう」というふうに考えると思います。その限られた時間でさっと書いて投稿しているのだろうと。でも本当はたっぷり時間を取った上で「どうして自分はこれしか書けないんだ」と苦悩しているかもしれないなと思いました。

たとえば、今書いているこの文章を書き始めようとしたとき、僕の頭の中にあったのは、まぁ一回自分の文章の書き方を考えてみるか、ということだけだ。
つまり書き始めてから、何を書くか考えながら書いている。だから、このあとこの文章がどう展開するのか、どういうオチがつくのか、自分自身でわかっていないのである。
私は大体いつもそうです! なので私も基本的にはアウトラインを必要としません。後から「この話もするんだった」という後悔がなるべく生じないように「触れておきたいこと」をアウトライナー上に並べることはありますが、それで文章を構成しているかというと、特にしていません。
Dynalistで文章を書くことはあります。しかし、それはもっぱらアウトラインのためではなく、文の子項目にその文の補足情報をぶら下げたりするためです。前にDynalistの話をどこかに書いた時に、アウトラインを組み立てるならこう書く、というようなことを確か書いたことがあるのですが、そうする時はそういう形式でやるようにしたということで、実際に個々の記事でアウトラインを組むことはあんまりありません(その時点ではアウトラインを作って書くことを基本にするつもりでしたが、早々に諦めました)。長期連載を試みるなど大きなフレームが必要となる時にアウトライナーとしての力を発揮することはあるのですが、それは私の書く活動の中ではごく限られた機会です。
また、トンネルChannelやブログに投稿した時に見出しを付けることが時々あるものの、それは一通り書いてから「ここで話変わってるし見出しにしておこう」と思って区切っているもので、事前にはそういう構造は決まっていません。

そして、いま3時の休憩にまた続きを書こうとしてるのだけど、もう手が動かない。昼休みにすらすら書いていた僕が何を考え、どう書き連ねようとしていたのか、もうわからないからだ。
一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。
どうしても書きたいことがあればメモしておいて未来の私に託しますが、そういう熱意に燃えているわけではない記事は、単に「記事の体を成すまで足す」ということで文章の形になっているに過ぎません。

コウさんがお書きになった内容だけ見たところではこのように私と同じだなと感じるわけですが、一昨日のうちあわせCastでTak.さんが仰っていたように、だからといって本当に同じかはわかりません。「そうは言うけど結構書いてるじゃないか!」という声が聞こえてきそうな気もします。
なので、私が勝手に似ていると思った自分の性質について書いてみることしかできませんが、それでも無意味ではないと思ってまず書いてみたいと思います。(無意味ではないだろう、というのは尻込みする自分に対してよく使うおまじないです。)

ずっとムラに苦しんでいた

私もずっとムラに苦しんでいて、比較的継続して書けるようになったのは「のらてつ」という名前を用意してからのことなのですが、つまりここ二、三年くらいの話です。具体的には、(自分の話になりすぎてすみませんが、)ブログで「ブログの書き方ド下手問題」というシリーズを書き始めてからです。
それ以前のことは誰も知らないわけなので、恰も昔から「このくらいなら書ける人間」であったかのようになってしまうかもしれませんが、実態は全然違います。

コウさんと(多分)同じように、私も「文章を書くのは苦にしないほう」です。書く流れに乗れる何かがあれば、乗っていれば書けるタイプです。
問題は「書く流れに乗れる何か」との出会いが運頼みだったことです。人が読むことが前提の投稿記事を作って公開するとなると、公開するに十分な記事を作れる確率というのが大変に低くなってしまって、そのことにずっと苦しんでいました。続けられなくて潰したブログがいくつもあります。今更新しているブログはかつてからすると奇跡的な継続具合です。

変わったことは今思いつく限り二点あります。ひとつは「まだ解決していない自分の問題について書き始めることを自分に許したこと」です。もうひとつは「自分のためと人のためを分離して考えるようにしたこと」です。

まだ解決していない自分の問題について書き始めた

私の転機というのは、Tak.さんと倉下さんに認知いただくきっかけになった「アウトライナーの使い方ド下手問題」という記事群もそうですが、書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。普通は例えばエリアを三分割した方眼ノートに現状と分析と解決策を整理して自己解決して済ませるものなのでしょうが、その過程を恥ずかしげもなく文章にして公開しています。自分の解像度を上げて問題を発見すれば記事が増えるので、自分に下手なことがあるということに喜んでいる節すらあります。
解決していない時点で書き始めてしまうので、書いた結果解決するかどうかは全然わかりません。ちょっと考えたくらいですんなり解決されても、じゃあこれまでのウン年の悩みはなんだったんじゃいという話なので、解決を試みはしますが解決が記事のゴールというわけではありません。今思いつくのはこれくらいだ、というのを言葉にできたらそれでいいと思っています。
人に見せられるような文章を書こうと思いながら書いているうちになんとなく良いアイデア・良い解釈を思いついて解決してしまった、ということはあるので、それは書くということがなせる業だと思っています。一応「現状の描写」だけではなく「解決を試みる」ということを念じてやっているので、思いのほか脳みそが頑張ってくれるのかもしれません。

自分のためと人のためを分離した

とはいえ、自分の問題だけをテーマにし続けられるわけではありません。他にも「書けそうなこと」はあるわけです。何かを見れば何かを思うので、それについて書けそうな感じがしてきます。できれば書きたいと思います。
そうなるとまた運頼みになってきてしまうのですが、それでは困るので、「書ける」「書けない」の境界はどこにあるのかというのを考えました。そして、ひとつの線を見つけました。それが「自分のため」と「人のため」のラインです。

これは事前にアウトラインを組めるかどうかとも関わるのですが、「自分のため」と「人のため」では「書く」という行為が持つ意味がおそらく全く異なります。
「自分のため」に書くという時は、大体「言語化されるべきものが言語化されていないこと」に自分の苦しみがあって、それを解消するために言語化を試みる、という動機になると思います。自分は何を感じているのかを解き明かしていかなければならないということです。
何かを理解するための文章もそうです。材料を集めて、そこから何が言えるのかを必死に言語化していく過程で、やっと自分自身がそれを解る、そのためにやるわけです。そこに何があるのかが事前にはわからないので、前もってアウトラインを作ることはできないでしょう。
箇条書きで言語化していくならアウトラインの見た目にはなりますし、それを操作すれば実際にアウトラインになるでしょうが、文章の形で吐き出した方がスムーズな人間にはその過程は要らなくなってしまいます。

一方、「人のため」の文章はそうではありません。「人のため」に書くという時は、他の人が知っていたら良いであろうことを既に自分は知っていて、それを伝達しようとして書きます。伝わるように逆算して文章を構成するのでアウトラインを作れるということになります。
「本を書く」ということも基本的には既に自分の中にある「伝えたいこと」を形にするためにやることのはずなので、構成するということが可能であり、必要なのだと思います。

となると、もしも「アウトラインを作ってそれに沿って書く」ということを「書く」ということの理想形とするならば(もしもの話です)、それはつまり「人に伝えるための文章を書く人間」になる必要があるような気がします。伝道師になるということです。
でも、アート的な、「自分の中にあるものを取り出して形にする」ことを「書く」ことの目的だとするならば、それはアウトラインの出る幕ではないかもと思います。文章を整える作業場としてアウトライナーの機能は十分役立つと思いますが、アウトラインを作るという工程はそもそも存在しないかもしれません。
こういう区別をするようになって、「文章を書く」と「アウトラインを作る」の結びつきは私の中で密接なものではなくなりました。
事前にアウトラインを作るという工程がほとんど関わらない領域というのがあって、しかも自分はそれをやりたい人間で、そうなるとアウトラインがどうこうとは全然別のもので自分を牽引する必要が生まれるように思います。例えば、どんな脱線をしてもひとつの記事としてまとめられるはずだと信じてフリーライティングをしてみる、というように。何かを自分の中から取り出すことにもエンジンが必要だからです。

こんなことを考えました。
ちなみにこの記事もアウトラインは作っていません。なので話のゴールは事前には全然わかっていません。書いてみたらこうなった次第です。
コウさんの記事を読まなければ明快に整理されてはいなかったことなので、ご投稿に感謝しています。

2022/10/19

アウトラインではなくキューを作る

 うちあわせCast第百十五回を拝聴した。メモ術・ノート術・執筆術の違いが語られており、うんうんそうだよねと思いながら聴いていたが、それはそうと自分の「文章を書き上げるために書くもの」はどんなものかを考えると、なんだかよくわからないなという気がしてきた。


 ブログ記事を書く時にエディタとして使っている画面は、上半分がアウトライナーで下半分が本文を書く欄になっている。アウトライナー部分には書くために必要な文字情報が並んでいて、それを見ながら本文を作っているということだ。
 一応話の流れを整理することを念頭に置いて上半分にアウトライナーを配置しているのだが、しかし文章のアウトラインをアウトライナーに書くことはあまりない。全くないわけではないが、アウトライナーを使っている割にはアウトラインの整理が習慣になっていない。アウトラインを作らないアウトライナーとはこれいかに。
 じゃあ何を書いているのかと言えば、まず正確に書かなくてはならない単語や貼る必要のあるURL、内容に関連して調べたものの類がある。資料としての「メモ」および「ノート」だ。その他は、だいたい「書こうとしているものに関連して思いついたもの」が書き留められている。これも「メモ」の範疇だろう。
 あとは本文を書いている途中で没にした部分を「没」という項目の下に並べている。どの箇所から切り落としたのか、なぜ没にしたのかをメモすることも偶にある。
 こんな感じでいつも何かはアウトライナーに書いているのだが、考えてみるとこれらはいずれも文章の道順を整理するものではない。

 アウトラインを整理することを試みたことがないわけではない。でもあまりプラスに働いたことがない。
 もちろん、アウトラインの整理が必要なほどの長さ、あるいはそれだけ体系的な内容のものを書いていないから、ということは理由のひとつではある。そういうものを書こうとしたらやはりアウトラインは整理しておかないといけないと思う。
 ただ――これは比較的長い小説を書こうとした時のプロットなどもそうなのだが――「この内容をこの順で書いたら良いだろう」ということを予め並べておいた時、びっくりするほど書き進められないということが多々ある。書きながら思いついた時の「ピタリとハマる」感じがとても鮮烈なので、それが運任せにならないように前もって用意したいと思ったりするのだが、そうやって予め溜めた「使えそうなアイデア」は、書いている最中に降臨したアイデアとはどうも様子が違っている。(ここでは「展開」についてのアイデアをイメージしているが、その他のネタ全般もそうである。)
 自分が書きたいメッセージや展開からしても、この内容はこのあたりに書いておく必要がある――そのような必然性をある程度の強さで感じて配置しているにもかかわらず、むしろそう配置したことによって、その場所にそれが書けなくなっているようにすら思える。実際その位置が適切かどうかに関わらず、「前もってその位置に置く」ということ自体が自分を邪魔している気がする。仮置きであっても、「置く」という行為が私にとっては既に枷になっているのかもしれない。(一応念を押しておくとこれはあくまで私個人の話であって、他の人もそうだとは全く思っていない。)

 それでは私が書く時というのは何がどうなっているのか。
 抽象的な話になってしまうが、どういう流れで書くかはほとんど「イメージ」で決めている気がする。読み手の気分の流れのイメージや登場人物の心情の流れのイメージ、その他諸々の「読み手」ないしは「作中に生きている存在」の何かしらの流れに沿って書こうとしている。そしてそれらは、「その場に至って初めてその先がわかる」ということが発生するものでもある。
 このことは、Twitterで無限に連投できるタイプであることとも関係するだろう。普段は思うがままにはツイートしないようにしているので実際に表でバカスカ連投しているわけではないが、非公開のアカウントでは、非公開であるにもかかわらず、「読んだ人はこう思うはずだから続けてこう書く」ということを踏まえて果てしなく続いていくのである。
 こういう「イメージ」に沿うという場合に、具体的に何に焦点を合わせているかは自分でも定かではないが、少なくとも理屈で決めているのではないことは確かだ。(ちなみに理屈でやろうとすると書き続けられなくなるということを前に書いた。(ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~
 ほとんど自分語りなのだから自分自身の気分の流れでやっているんじゃないのか、と言うと、それは案外そうでもない――というか、自分の気分はリニアにならないので、自分の気分に沿おうとしてもひと続きの文章にはなっていかない。これも一般的にそうと言いたいのではなく、私の頭の中がめちゃくちゃだという話である。ただしド下手問題シリーズ(アウトライナーの使い方ド下手問題/ブログの書き方ド下手問題)は少し例外的で、あれは書きながら自分が変身しているので「自分の変化」という流れに沿っているが、そうやって自分自身を変える心づもりでいるのでない限りは、自分というより他の存在の流れを思い浮かべている。それにド下手問題シリーズにしても、変身の過程そのもの以外の要素は大方読み手の状況に沿おうとすることで成り立っている。
 こう考えると、何らかの「沿うべき流れ」をイメージしているからには、それがアウトラインになるのではないかという気もしてくる。実際、多分頭の中で「もやもやとしたアウトライン」ができているのだとは思う。前に「アウトライナー的な文章」の印象を感じると言っていただいたことがあるのだが、それは恐らくそういうことなのだろう。
 しかし、それを言語化して並べておくことができるかというと、これが全然そうはならない。自分の頭の中にあるイメージが失われるのが怖いので私としては書き留めておきたいのだが、そうやって書いておくことが功を奏したことはほとんどないのである。先述したように「その場に至って初めてその先がわかる」という事態が発生するせいもあるが、それ以上に言語化するということ自体に困難を感じている。私が何かを書く時にメインとなっているのは、情報として単語を並べて示せる部分ではなく、「繋ぎ」「文と文のあいだ」のところにあるような気さえする。
 結局、いつも即興演奏のように文章を書いている。そして即興演奏を録音したものを後からいじって加工することで、聞くに堪える音源として完成させるというようなことをやっている。もちろん、文章を書くということは多かれ少なかれそういうものであって、予定通りになどいかないのが常であろう。しかしそれにしたって、自分はアウトラインを作るのが下手すぎるし、即興に頼り過ぎている。

 アウトラインらしいメモをまともに作っていない状態でなんとなく何千字かの文章を書けてはいるわけだが、即興演奏的なやり方では流れを掴めない時に全く進まないのではという恐怖があり、アウトラインをうまく作って自分の波に左右されずにコンスタントに書けるようになりたいと常々思っている。もっと長い文章に対応できないのではないかという不安もある(対応する必要に迫られることがあるかどうかは別として)。どうにかして、博打的な要素をなくしたい。
 しかしながら、どうもアウトラインの言語化がしづらい。その上、最初の方で書いたが、「位置づける」ということをした瞬間にその部分がむしろ死ぬような感覚もある。何が起きているのかを言語化するのは現状難しいのだが、とにかくそういうことがある。おそらくは、前もってやったがために実際に生じる流れというものを実質無視することになり、逆に位置づけの根拠が失われているのだろう。

 と、ここまで書いてきて今ふと思ったのだが、もしかすると、アウトラインを「予定」として考えているから駄目なのではないか。それは「固定してしまっているから」という意味ではなく――つまりこれは「いつでも組み直していいのだ」という気づきではない――「ルート」として考えること自体が私と相性が悪い気がする。
 そうではなく、「取り込むものの候補」を「より取り込めそうな順番」に並べただけのもの、として考える方が良いのではないだろうか。候補と候補の間には空間があるイメージで、そこは詰まるかもしれないし、他のものが入るかもしれない。そもそも取り込まないかもしれない。没にしたというより、候補でしかないのだから入らないこともある、という感覚だ。候補と候補の間にその二つが連続する必然性を予め見出そうとしないというのが肝心で、空間があるとはそういう意味である。
 予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。
 これは今までやっていなかったことなのかというと、いや実際には普通にやっていたことなのだが、自分の中ではこの状態は中途半端だという認識があり、そこから更に「アウトラインらしく」整えていこうと一歩踏み出していたのが余計だった(その際の的を射ない感触から、反動で逆に無理して頭の中でなんとかすることが増えていたところに問題がある)。私の中ではアウトラインはもやもやしたもの以外のものにはならないのだ、とある種割り切り、書き進めているその最中で感じ取る流れに「じゃあこれ」と合わせられるように候補を漂わせること、そのうまいやり方を模索していく方が正解のような気がする。流れへの適応によって博打性をなくしていく感じだろうか。
 ただまあ、頭の中のイメージや感覚的なものに頼っていることには違いなく、それが止まったら結局は……。しかしそもそも、その部分が死んだ状態で書いた文章には、最初から存在意義などない気もする。
 

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