ある対象を指し示すために自分の感性に合った表現を探すこと。
翻訳的象徴探し
- 他の人の表現を自分なりに言い換えるパターン
- ○○ワールド間の翻訳作業ということ。
- のらてつ語(のらてつワールド)への翻訳例
- 翻訳済み:日々・地図・内政・外交、ふくろ
- 試みている途中:階層型メモ
動じないために。
ある対象を指し示すために自分の感性に合った表現を探すこと。
翻訳的象徴探し
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個人的なデジタルノートツールの使い方の話の続き。
※2024/03/16 最終的にできた構造はこちら→三つの箱(領域)の整理
前回、「がらくた箱」「知の箱」「濃いタイムライン」の三つについて対比しつつ考えたけれど、さすがに「濃いタイムライン」のままだと自分でも「何が濃いんじゃい」という話なので、ちょっと言い換えることにする。言い換えの過程はそれなりに苦労があるので、どうせだからブログ記事として残しておく。
そもそも「濃いタイムライン」というのはどちらかというと総称になるものだろう。時間順に並んでいるものについて、特定の条件で抽出した状態。今はその特定の条件というのが「豆エッセイ」ということになる。
なので直球だと「豆エッセイタイムライン」になるけれど、これだとなんだかすごくダサい。「豆エッセイ」自体が字面的にはダサいので、「豆論文」と対比させるなら「豆随想」とかの方がいいかもしれない。その対応関係にこだわらないなら「ミニマムエッセイ」とかでもいい。そもそも「エッセイ」にこだわる必要もそんなにない。「論文仕立てにはなっていない」くらいの意味しかないからだ。この部分はまた後で考える。
あと「タイムライン」という言い方も微妙と言えば微妙。ただし「タイムライン」については日本語への変換が非常に難しいので(なんで日本語にないのかわからないが)、時間順(発生順)に並んでいることを強調したいなら「タイムライン」と言うほかなさそうだ。timelineの訳を調べると「年表」「時刻表」「予定表」「時間割」「行動計画」といった語が出てくるが、どれもニュアンスが違っている。
時間順ということの強調にこだわらないなら「ログ」でも良いかもしれない。順々に記録を取っていくということをすれば必然的に時間順だ、というイメージも「ログ」に伴っている。「ライフログ」が時間順なのは言うまでもないことだ。これを「記録」としてしまうと、「淡々と時間順に記述している」という印象がやや弱まり適切に編集されているものという空気が漂い始めるので、訳さずに「ログ」のままが良いだろう。
「がらくた箱」「知の箱」と音数的に釣り合うように「ログ」の方を採用してみることにしよう。何のログということにするか。例えば「豆随想ログ」とすると、ちょっと変な感じがする。多分「ログ」に付けるものは、「ライフ」のような大きな領域か具体的行動を示す単語が良い。ここでは行動の方を考えてみる。
エッセイと表現しているが結局何をしていることなのかというと、「頭の中のイメージを人が読めるレベルの言葉にする」ということで、これを端的に言うなら私の中では「表現」または「描写」が合う。「表現」と言ってしまうと世間に発表できるレベルまで整えるイメージがあるので、「描写」にしておこうか。描写した結果として書かれたものを指すなら「描写」というより「随想」なのだが、動詞としては「描写する」が合っている。「ログ」と合わせて「描写ログ」。まあ悪くない。頭の中のことであるということを強調して「思考の描写ログ」としたらどうか。自分でわかれば良い時は単に「描写ログ」でいい。他の用途でこの言い回しを使うことは今のところなさそうだ。
「描写ログ」を専用の場所に書いていれば必然的に濃度100%である。しかし他の種類の記述に混ぜて書いている場合は、その全体が「薄いタイムライン」であり、そこから「描写」を抽出して「濃いタイムライン」にしたものが「描写ログ」となる。(そのように各語の意味を定義することにする。)
がらくた箱(6音)、知の箱(4音)、描写ログ(5音)。並べて違和感のない音数だ。豆エッセイタイムライン(12音)じゃああまりに浮いている。なお「箱」で揃えない理由は前回(自分の「知」に必要な三つの箱)の最後で書いた。
とりあえずこの名称で言い表すことにしてみよう。
先日、3記事にわたって「名づけ」について考えた。
書きながら、倉下忠憲著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』にて、本の中で提案されている技法のうちいくつかに「自分で名前をつけてみてください」とあったのを思い出した。
前回までの記事はこちら。
自分らしく生きている感じの人々の語りの中で、自分が使っているものに愛称をつけているという話が時々出てきます。それは朴訥な言葉のこともあればへんてこな表現のこともあり、時には本当の名前のような愛称が付けられます(例えば自分の靴に「チャーリー」と名づける、みたいなこと)。
私はそういう名づけをしようと思うことはないので、そのような話を見る度に圧倒されるような気持ちになってしまいます。名づけること自体思いつかないし、名づけようと思ってもなんだか難しい。無理に愛称を捻り出しても、その物の名前がその愛称であることに本心では納得できないのです。
名づけと言えば、他にはペットの名前を決めるとか、親しい友人とニックネームをつけ合うとか、自分のハンドルネームを考えるとか、機会は色々とあります。もちろん子どもが生まれれば我が子に名前を授けることになります。モノに名づけるというのはかなり非日常的なものに思われますが、自分や他の人間、あるいはいきものに名づけることは珍しいことではありません。人生のうちに何十回何百回とあるようなことではないにしても、全く無縁に生きる方が稀でしょう。
ところで、これまで考えてきたような、メソッドなどの用語や概念を言い換えるという行為も「名づけ」と表現してきましたが、上述のような名づけとは少し違いがあるように思われます。
「名前」には基本的に必然性というものがありません。そう呼びたいからそう呼ぶと決めた、というだけのことです。由来はあったとしても別にそれでなくてもよいのです。
しかしながら何かしらの用語というものについては、原則としてその語が意味内容と十分関連している必要があるだろうと思います。自分だけが使うのであれば「呼びたさ」の割合を増やしても全然構わないのですが、そうは言っても、例えばカレンダーに「エリザベス」と名づけるみたいなことはあまり一般的ではなさそうです(自分にとってそれがすごくしっくりくるならそれで良いわけですが)。
また、「名前」の場合は基本的に重複は避けるものでしょう。「他ならぬそれ」を指すための言葉なのであって、あれもこれも同じ名前にするとあまり名前の意味がありません。一方で、用語としての名称は、同じ種類のものをゆるく括ることも普通にあり得ます。例えばタスクを記述するとして、紙に書いたリストもアウトライナーに入力したリストも音声で順番に録ったものも、同じ用途なら全部まとめて「やることリスト」で差し支えないという人は少なくないでしょう。
そういうわけで、意味内容を示すことを目指すタイプの「名づけ」をそれ以外の名づけと区別する形で言い換えてみようと思います。
と言っても、他の人とコミュニケーションを取る上ではおそらく「名づけ」と言った方が伝わりやすいでしょうし、あくまで自分の中でどう呼ぶかの話です。言葉も余所行きと部屋着を分けて考えれば自分の世界を表現しやすいだろうと思います。
先程「メソッドなどの用語や概念を言い換える」と表現しましたが、ちょっと抽象度を上げると「情報(または情報の集合)に言葉を関連づける」ということになるでしょう。
そこで行われることは、自分が知っている語彙の中で、その情報(または情報の集合)が持つ意味合いと共通点が多いものを探し出すこと、あるいはその特徴を他と区別しながら指し示せるものを探し出すことです。
例えばデジタルツールについて何か考えたり情報を得たりしたとして、それら全部に「デジタルツールの話」と題をつけても、情報間の差別化がないので指し示せている感は薄いです。関連づけが緩すぎるということです。(ビシッと指し示す必要がなければ別にそれ以上詰める必要はありません。厳密さは目的に依存します。)
ただし「言葉を関連づける」ということは「要約する」ということと同一ではありません。自分の中でその内容とその言葉に関連があると感じられればよいのであって、言葉自体が内容を表現している必要はないわけです。
この試みを何と呼ぶか。自分がその言葉によって特定の領域を想起できる状態を目指しているのだから、「象徴探し」なんかがいいかもしれません。
前回は「翻訳」と表現しましたが、それは自分以外の人間による「名づけ」を自分の世界の言語に言い換える(またはその逆)というケースに限られている感があります。そしてもちろん「翻訳」には本来の意味が別にあるので、このパターンの試みは「翻訳的象徴探し」とでも呼ぶことにしましょう。他にも種類があれば「○○的象徴探し」の形で派生させれば良さそうです(今のところ思いついてはいません)。
自分なりのそれらしい表現が見つかったところで今回は終わりです。あなたは「名づけ」をどう表現しますか?
前回の記事はこちら。
前回の最後に以下のように書きました。(なお「ワールド」と書いたのは「○○ワールド」的な用法を念頭に置いていたためです。例えば私の世界は「のらてつワールド」です。)
あるメソッドで使われている語彙が「その人のワールド」のものに過ぎないことを踏まえれば、それをなぞらなくてもいいこと、自分の世界の言葉に翻訳した方が馴染むであろうことがなんとなくイメージできるのではと思います。表現を変えてもそのメソッドの有効性がただちに崩壊することはないということです。
こう書いておいて「とはいえ」と言って終わりにしたわけですが、やはり言い換えをするにも留意すべきことはあると考えています。
もしメソッドを忠実に実践しようとするならば、重要なのは「自分の世界の言葉に翻訳する」ということです。つまり翻訳として妥当であることを目指す必要があります。(そもそも忠実になぞろうと思っていないというパターンもあると思います。今回はあくまで「忠実に実践する」場合を考えます。)
私はTak.さんのライフ・アウトラインを以下のように言い換えました。
イコールで繋いでいる通り、これは私の中でほぼイコールになっているわけです。アレンジしているのではないということです。
というのは、例えばTak.さんが「LIFE-BE」という言葉によって指し示している内容を、私は「LIFE-BE」という表現では直感的にイメージできません。「LIFE-BE」のままだとTak.さんのイメージとは異なるものが頭に浮かんでしまうことになります。つまり、そのままだとかえってメソッドを忠実になぞれないということです。
馴れ馴れしい言い方になりますが(すみません)、Tak.語とのらてつ語は傾向としてちょっと遠い位置にあるので、翻訳しないと自分の世界の概念に繋げられないわけです(逆にTak.さんから見てものらてつ語は翻訳の必要が生じると思います)。つまり私の言い換えというのは「Tak.さんのメソッドを忠実になぞるために、忠実に翻訳する作業」ということになります。
もちろん、言葉を変えてしまっているので別なニュアンスが新たに生まれたり元あったニュアンスが削られたりということは発生し得ます。それは英語の本を日本語訳する時に発生することと同じです。必ずしも良いことではないでしょうが、Tak.さんはライフ・アウトラインの実践においてそれを積極的に歓迎していらっしゃるということだと思います。
結果的にどういう表現になっても構わないという意味で「名づけ」は自由なものだと思います。ただしそれは「どうであってもいい」ということではなく、「名づけられる対象」が自分の目で見て如何なるものであるのかを見つめ続けることが重要だと私は考えています。
倉下さんがうちあわせCast第百四十六回にて仰っていた通り、「自分の感覚・知覚にできるだけ沿うような形で言葉選びする」ことが非常に大事だと私も思います。良くも悪くも言葉があるとそれに引っ張られてしまいます。連想ゲームは意図せず進行してしまうものです。なので、対象がどんなものであり、それが自分の感覚・知覚においてどう表現されるべきか、じっと観察する必要があるでしょう。どちらかと言うと、「名前をつける」のではなく「名前が見出される」感覚になろうかと思います。
トレーニングが必要だと語られていましたが、やはり格闘は避けられないことです。でも、「こうか?」「いやこうかも?」と答えをころころ変えても構わず、それをジャッジしてくる他者もおらず、遊びのように楽しんでよいことであり、「うまくなるにはトレーニングが必要だ」ということは「大変な苦痛を伴う」ということを意味するわけではないので、気軽に取り組むのがよいと思います。別に元々の名づけに従ってもいいわけで、表現とイメージの間のズレを補正する必要があるのかどうかは人それぞれかつ言葉次第ですね。
まだ続きます(多分)。
こちらを拝聴しました。
RPG的ライフ・アウトラインを取り上げていただきました。ありがとうございます!
この回では、「ノウハウの真似は自分なりに表現を言い換えることから始めるのがきっと良いが、自分なりに言い換えるのはなぜだかなかなか難しい」ということが語られていました。
倉下さんがご指摘になっているように、内面化された規範性が邪魔しているようには思います。「与えられたものはそのまま受け取りなさい」という従順さが魂レベルで植え付けられている感は拭えません。そしてこの恭順の強制がいくつかの傾向を生み出しているように思います。思いつく範囲で書いてみます。
自分なりに変えてもいいんだよと繰り返し説かれても動けないのは、三つ目の要素が結構大きいのではないか、と私は想像しています。
そもそも「従え」というのが通用するのは「従うことが正解だから」という建前があるからですよね。与えられるものは正解であることが保証されている、という構図に慣れすぎているように思います。もちろんそんなものは幻想なのですが、既に正解であるはずのものに自分が手を加える余地などないという体験が続くと、それがそもそもどういうもので成り立っているものなのかを考えること自体がなくなってしまう気がしています。
私個人の経験からしても、私は元々自由奔放的性質が無いタイプだったので、積極的に「これが正解なんだ!」と信じる心があったわけではなくとも、敢えて疑ってかかるとか「これはそもそも何なのか」と問うとかいう習慣は身につきませんでした。まあ、自分に活力がなくてそういうのは面倒くさかったんですね。
メソッドに対して「自分なり」を考えることができないのは、まず「自分自身がわからないから」、そして「そのメソッドの成分がわかっていないから」ではないかと思います。(今回は後者に焦点を当てています。)
例えば料理をする時、何をどうすればどうなるのかがわかっていれば、冷蔵庫の中にあるもので適当に作るということが普通にできるでしょう。でもそれがわからなければレシピをどういじっていいのか皆目見当がつかないということになってしまいます。
しかも、自分が余計なことをしなければ完璧であったものを勝手に自己判断で動いたせいで台無しになる、というようなことを恐れていれば試すこともできません。「台無し」のイメージの程度が問題で、実際にはせいぜい「ちょっといまいちになる」程度のマイナスしかないようなことにも、まるですっかりゼロになるかのように恐怖しているようなことがあり得ます。
社会と自己の境界が曖昧だと「勝手なことをしない」を自分の個人的な領域にまで侵食させてしまいますが、自分しか見ないもの、誰にも迷惑などかからないものは自分の領域として線を引いて守る必要があるでしょう。
また、情報に関するメソッドとなると、どういう単語を使うかということ自体が重要な情報であり、それがそのメソッドの根幹のように感じられるようにも思います。
例えばスポーツのトレーニング方法に何かの名前がついていたとしても、重要なのはトレーニングの方法そのものなので、それをなんと呼ぶかは(生み出した人に敬意を表するということを抜きにすれば)どうでもいいことだと思います。しかし情報を扱うものではそうはいきません。
うちあわせCast内でTak.さんが自省的に語っておられましたが、ある語彙を使うことには根拠があり、多くのメソッドはその根拠を説明している気がします。根拠として示されている条件をクリアする語彙は他にもあるかもしれませんが、提唱者が色々思いつくとは限らないので、とりあえず採用された語彙が「必然的にそうなった」かのように表現されることになるでしょう。そうなると、その情報をその尺度で認識して取り扱うためにはその語彙を使わなければならない、という感覚が生まれても不思議ではありません。
ただ、ひとつ重要なのは、語彙に対して持ちうるイメージはそもそも人それぞれ違っているということです。その提唱者にとってはその語彙がそのイメージをバシッと示しているのだとしても、他の人にとってはそうではないわけです。RPG的ライフ・アウトラインで私は以下のように表現しました。
ところでいずれの言葉も、それに伴うイメージのうち余計な部分はしれっと無視して、またその言葉では補いきれないイメージもしれっと補完して考えている。(中略)この無視と補完は、人それぞれの歴史が反映されるものだと思うので、ただ人の語彙を真似してもうまくいかないのだ。
あるメソッドで使われている語彙が「その人のワールド」のものに過ぎないことを踏まえれば、それをなぞらなくてもいいこと、自分の世界の言葉に翻訳した方が馴染むであろうことがなんとなくイメージできるのではと思います。表現を変えてもそのメソッドの有効性がただちに崩壊することはないということです。
とはいえ――とまだ語りたいことがあるので、名づけ問題についてはもう少し記事を書くと思います。