NHKの「美の壺」の蝶の回を見た。
デザイナーの森英恵さんは、蝶が己の美意識をそのまま表している、ということを仰っていた。
自分のことを考えてみるに、私は蝶ではなく甲虫にそれを見出しているような気がする。
甲虫にものすごく詳しいのかというとそういうわけでもないが、自分が好きなものの多くはつまるところ甲虫的なところがある。ずんぐりして丈夫な生きものが好きとか、大鎧が好きとか、メタリックカラーが好きとか。アイコンに蟹を使っているのもその一環。各種の「好き」を繋ぐハブとして甲虫があるかもしれない。
ただし文明的過ぎるものは私の「好き」の領域には含まれないので、一際類似性を感じる「自動車」は琴線に触れない。私の「好き」には自然的・有機的な部分が必要なのだと思う。日本の大鎧は好きだが西洋の甲冑は好きではない。鉱石は好きだが宝石は好きではない。
一方で好きな甲虫は何か、と考えるとなかなか難しい。具体的にこれというより「甲虫という概念」が好きという感がある。
自分に衝撃をもたらした甲虫ならいくらか挙げることができる。クヌギシギゾウムシ(クリシギかもしれない)、ウバタマムシ、シロスジコガネ、ヤンバルテナガコガネ、ゴライアスオオツノハナムグリ、アトラスオオカブト、ニジイロクワガタ、キイロテントウ、ハッカハムシ、イモサルハムシあたり。大体知った順。
これらにあまり共通点はないような気がする。大小さまざま、形もさまざま、色もさまざま、光沢もさまざま、生態もさまざま、生息地もさまざま(上記の内自分が住む地域に生息するものは実際に見た)。
逆に、自分が捉えた甲虫の概念をいつも打破するものが現れ、そのたびに衝撃を受けたということかもしれない。なのでカブトムシやオオクワガタやその他ごくふつうに知られている種は上記の並びに含まれていない。
甲虫は好きだが、甲虫の専門家になりたいというふうにはそれほど思わない。そのような熱意とともに好きでいるわけではない。森英恵さんのように(と言ってしまうのは烏滸がましいが)、自分の中にそもそもある美意識の象徴として甲虫のすがたに惹かれるものがあるということではないかと思う。
甲虫というカテゴリを自分のフィールドとしているわけではない。甲虫的なものに通底している何かを好んでいるのであり、自分の関心はしばしば越境する。
私の「好き」というのは私の美意識にのみ依存するものであり、何か特定の領域に対してオタク的・マニア的に好きになるということはあまりないのかもしれない。甲虫を含めてこれまで何かに対し自分としては強い関心を抱きながら、しかし知識を際限なく吸収するほど熱中するということがいつもできなかった。それがある種のコンプレックスになっていて、○○博士のようになっている人に憧憬を抱いてきた。
そのことを自分の「浅さ」だと思ってきたし、そうではないと否定するのも難しいが、自分を知るという努力をずっと続けてきて、単に浅いだけとは言えないのではという感じがしてきている。領域を限定している人が気にしていないようなところに私は関心を持っている。本当はそのところに私はもっと注意を向けるべきだったのだが、自分の「浅さ」にばかり囚われていたから、自分が何を見ているのかを分かっていなかったと思う。
「浅い」というのはつまるところ、何かに対して真摯になれないという感触である。自分は事物に対して――好きだと感じるものにさえ――真摯でないという感じがしていた。そこに人間的な欠陥を感じ、自分を本質的に「足りていない」存在だと認識していた。しかしどちらかというと、そのように決め込んで自分自身に対して真摯にならないというところにより深刻な問題があったと思う。