Noratetsu Lab

動じないために。

写経の効用

今年に入ってから般若心経を三回写経した。

そんなに習慣になっているわけではないし、その前に書いたのは何ヶ月も(もしかしたら一年以上)前のことだ。偶に書こうと思った時だけ書いている。

一回目は、三日に「国家安泰」を祈願文として書いた。日本という国が終わってしまうかのような気分になったからだ。

写経は修行であり、願いを書きはするが仏様に叶えてもらうことを「期待する」ものではない。書けば叶うというわけではないのだ(そりゃそう)

 

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何か大きな出来事があって心を乱された時、無防備でいて且つ発信する手段を持っている場合(つまりSNSなんかをやっている場合)、自分のショックにけりが付くまで誰のためにもならないような言葉を綴って発信してしまうおそれがある。そのように言葉を綴っている時、その言葉の真っ当さばかりが気にかかり、落ち着いて現実を見通すというようなことはできない。責めてもよさそうな誰かがいれば、如何にその人が責められるべきかを考え出して発信することになる。被災者・被害者に思いを馳せている体で際限なく放言する。逆にそうしている人を見れば諌めて回りたくなったりする。要は誰も彼も騒々しい。言動が適当でないっぽい人間は無限に目に入り、胸中の嵐が収まるべくもない。

写経にはそれなりに時間がかかる。266文字+αを筆で丁寧に書くとなると二時間近くかかってしまう。その合間にスマホを見たりなんかしたらお行儀が悪い。つまり「見る」も「言う」も封じられることになる。ありがたいお経を書いているから心が落ち着くというよりは、騒がしいものとの接続を遮断されることに直接的な効能がある。

二時間前に何か言ってやろうと思っていたことがあったとして、二時間経ってもまだ言ってやりたいと思い続けていることはそんなにない(直接的に恨みがある場合は別だが)。わざわざ言うのが馬鹿馬鹿しくなってくる。誰に向けて言っているのかわからないなと気づく。二時間の間燃料を取り込み続けていたらそうはならない。

情報をシャットアウトするだけで、そうしないよりは心が穏やかになる。加えて写経は、書くことに注意を向ける必要が生まれる。だからといってぐるぐる考えてしまうことをやめられるわけではないが、「文字を書く」ということが何割かは意識を奪ってくれる。

何か楽しいことで相殺するという手もあるにはあるが、そうするとその楽しい何かとネガティブな状況がリンクしてしまう可能性がある(関連:私自身に気づかれたくないこと。楽しい何かの純度が下がるというか。なので何とも結びつかない、そして何と結びついても支障がないような非日常の選択肢があると、こういう時には助けになる。その一つとして写経がある。

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