今現在「憮然(ぶぜん)」は「むっとした様子」という意味で使われがちだが、本来「憮」は「心を無くす」と書くように「むなしい」「失望する」という意味合いの字。よって「憮然」は「失望・落胆してどうすることもできないでいるさま」ということになる。
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それなのに「憮然」がしつこく使われるのは、「ぶぜん」という音のイメージが本来の意味と合っていないことと、「むっとした様子」を表す言葉が他に思いつかないことによるのだろう。
日本国語大辞典の用例として松本清張の一文が挙げられているが、松本清張がそのように使っていたということであれば、誤用がこうまで浸透したのも尤もなことだ。
私も「むっとした様子」をずばっと表す言葉になかなか思い至らなかったが、「気色ばむ」という言葉があることを思い出した(たまたま見かけて)。
しかしこっちはこっちで全然「むっとしている」感が想起されない。「けしきばむ」という音や「気色」という字面から何を思い浮かべればいいのかが自明ではない感じがする。そもそも「何かしらの顔色が現れる」的な意味しか示していない言葉だろうし、慣習として意味が狭められているとしても、見た目には怒りや面白くない感じに限定する必然性がない。「色を作す(なす)」も同様だ。
「憮然」については誤用と分かっていて使うのもなんだか嫌なので、辞書が揃って「転じて、~~」などと書くようになるまでは「むっとする」という意味では使わないつもりでいるものの、もはや本来の意味を表そうとして用いてもおそらく通じない。
早いうちに後世まで通じるうまい言葉を作れなかったせいで、後々に他の言葉が意味を乗っ取られアイデンティティを剥奪されている。
言葉は変わり続けるもので仕方のないことだが、その渦中にある言葉を見るとなんだか遣る瀬無いような気持ちになる。一方で私たちは「とうに乗っ取られた言葉」をしばしばさも伝統があるかのように使っている。それが全く「正しい日本語」でなかった時期があることを知りもしない。よって、言葉の軽々しい移り変わりを嘆いてみたところで、昔の人から言わせれば笑止千万もいいところだろう。