子どもの頃、12月25日はケーキを食べる日だったと思う。
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クリスマスプレゼントをもらう日ではなかった。いや、何も買ってもらえなかったというのではない。我が家のクリスマスプレゼントは「事前にお願いしたものを24日の夜にサンタさんが届けてくれる」形式ではなく、おもちゃ屋の広告が頑張りだす頃に両親に連れて行ってもらい、欲しい物があれば「じゃあこれ」と言って買ってもらう形式だった。なので、サプライズとか「願いが叶った」とかいうのはなく、普通に「なんかでかいの買ってもらっちゃったぞ」とビビるイベントだった。ちなみに買ってもらったのは確かレゴのセットとか。
サンタクロースなるものを信じていた期間は1秒もない。サンタさんがいるとかいないとかいう話が同級生の口から出てくるのは割と意味が分からなかった。「いつまで信じていたか」って、いつまでも何も、そもそもなぜいると思うのか不思議でならなかった。
うちの親は「サンタクロースの正体が実は親だって子どもにいつ打ち明けよう」などと悩んでいる人々をかなり軽蔑しており、「あんなのは所詮コカ・コーラのキャンペーンだ」「うちはキリスト教徒じゃない」と度々言っていた(言っている)ので、サンタのふりをしてどうこうという謎イベントは発生する余地がなかった。まあ、それでよかったと思う。
一方で、世間一般でクリスマスというのはオードブルやケーキを食べて子どもはプレゼントをもらうものだ、ということは踏まえていて、こちらから食べたいとか欲しいとか言ったことはなかったと思うけど、そういう人並みのクリスマスを過ごしていた。
世の風潮の圧力というのはいつも暴力的だと思うけれども、そういうものがもう生まれてしまっている以上は、親の信条により子が寂しい思いをするとか屈辱な気分を味わうとかいうのはやはり子どもにとってはしんどいことだと思う。親はそのしんどさを絶対に回避しなければならない、と言いたいのではないが、事実として子どもの負担は大きい。何かしら確固たる信念をうちの親が持っていてのことかはともかく(違うと思う)、その辺のバランスを取ってくれたのは私にとっては良かったなと思う。
めたくそにこきおろしながら、それはそれとして、社会のあり方からむやみに逸脱しないという姿勢はあっていい。ある文化の徹底拒否がプラスに働くとは限らない(プラスには働かない方が多いと思う)。迎合しないが排除もしないということ。
そんな感じで、うちのクリスマスでの姿勢は、結果的に「家庭と社会は別」かつ「しかし社会の中に家庭がある」という二つの前提を意識することを私にもたらしたと思っている。