「記憶は薄れてしまう」ということを私はかなり恐ろしく思っている。
それは「全てのものを全て覚えておきたい」ということとはちょっと違っている。自分が例えば砂粒の集合のようにできていたとして、自分でも気づかぬ間にさらさらと砂粒が流れ出し、いつの間にか自分の一部が欠けている――そういうことに恐怖を感じているのだ。
その感覚には少なくとも二つのことが関係している。
まず「忘却への備えが下手」ということがある。恐れている割に、この半生のかなりの部分でうまく記録をつけられなかった。若い頃はそもそも記録をつけていなかったし、大人になってからは飽きとか際限のない「よりよい形式探し」によって記録が分散して、結局振り返りができないということになっていた。
今起きたこと、今感じたことを、今大切にする。その習慣がなかなか身につかなかった。見たり聞いたり、そしてそれに何かを感じたりしただけで恒久的に自分の一部になった気がして、それをちょっと立ち止まって愛でるということをしないで次に行ってしまうから、気づいた時にはせっかく自分の一部になったものが失われているということになる。
あるいは、記録をつけ始めても、将来振り返りやすい形式みたいなことを小賢しく考えてしまって、結局今今それを大切にするための記録にはなっていないということが続いていた。だから平気で形式を二転三転させ、「より劣った形式」でつけた記録は蔑ろにしてしまう。
そうなると、記録をつけてはいても結局自分の頭頼みになり、忘却が恐ろしいという状態を全然解決できない。
忘却への備えの問題の他にもうひとつ、「何かを感じたということが自分にとってものすごく重要である」ということがある。
何かを感じて、それによって自分が出来ていると思っているから、後から忘却に気づいた時に巨大な喪失感に襲われることになる。「感じ直す」ことはもうできないわけだから、二度と取り戻せないのは確実であり、その取り返しのつかなさに絶望的な気分になるのである。
で、その「感じた」というのは言葉にするのが難しい。記録の時点で正確に書き表すことは到底できないことが明らかだ。あまりにも大変な感じがしてしまうので記録を諦めてしまうということが子どもの頃に起きていたのだが、そうして何も残さないと綺麗さっぱり丸ごとなくなってしまうおそれがある。100%再現できる記録はできなくとも、1%でも書いておけばそこまでの喪失にはならなかったはずだが、そういうことは若い頃にはわからなかった。
なにしろ、「何かを感じる」ということはひっきりなしに起こるのだ。ひとつひとつはそこまで特別なものには感じない。立ち止まって格闘している暇があったら次の「感じる」に移った方がいい。そもそも上述したように「感じたものはちゃんと自分に刻まれる」と思い込んでいた。そうやってパックマンのごとく動き回って「感じる」を続け、そうしてそれらがさらさらと呆気なく零れ落ちていることに後から気づいて困ったことになっているのである。
もちろん、忘却によって失われたものがあるとしても、過去に発生した「感じる」は確実に今に繋がっている。具体的に何を感じたのかは忘れても、何かを感じるということを重要なものに位置づけ続けてきたということは確かに自分を形作っていて、だから今こうして「自分が感じたこと」を仔細に書き表すことで文章をつくることができている。
とはいえ、やはり忘れるに任せていては不安だし、自分の一部が失われていくのはあまりにももったいない。
今世の中には忘却に備えるためのツールやメソッドというのがたくさんある。「第二の脳」というフレーズもしばしば聞く。その場合の「脳」にどういう「脳らしさ」を期待するかというのは自明ではないと思うけれども、今私が欲しているのは「忘却によって自分が欠けていくことを防ぐもの」なので、忘却する自分の脳をサポートして一緒に記憶してくれるものとしての「第二の脳」を考えたいと思う。
情報を無限に入れられて、そしてそれが勝手に消えないというツールはたくさん生まれている。紙のノートも、捨てたり焼失したりしない限りはずっと残しておけるものだし、日記をつけるのがうまい人はもうそれで私が抱えているような問題はほとんど解決していると思う。
昨今は言うまでもなくデジタルノートツールの隆盛が目立つ。紙のノートは「記録」に特化しているが、デジタルツールだと「ある括りによってまとめて取り出す」というようなことが可能になる。より「脳」的であると言える。何かを思い出す時、脳は関連したものを一緒にイメージすることができるわけで、それとある程度似たことを再現してくれることになる。もちろんキーワードによって捜索するということ自体、紙のノートにはない「脳」っぽさがある。
一口にデジタルノートツールと言っても、情報をどう保管しそれぞれにどういうフックを付けるかというのはそれぞれ異なっている。どれかの場所に必ず属すフォルダ(あるいはツリー)形式、キーワードを好きなだけくっつけて串刺し検索を可能にするタグ形式、情報と情報をリンクで繋ぐネットワーク形式、平面上の位置に意味を持たせる付箋・マインドマップ・カンバン系の形式。他にもあるかもしれないし、ひとつのツールがそれらの形式を複数カバーしていることも多い。
これらの形式というのは、後から情報にアクセスする時の辿りやすさを左右する。
種別が明らかで混在の可能性がないものならば、フォルダ形式が直感的かつ「必ず辿り着ける」ものだろう。どこかには属しているわけだから、フォルダを開けていけばどこかでは見つかるはずである。一発で見つけられないとしても入っている候補のフォルダというのはある程度絞られるのだし、フォルダの粒度が大きすぎない限りは力技でどうにかできるという利点がある。この形式は「脳」らしくはない。いや、脳内でも情報をカテゴライズして認識している部分はあるので全く違うわけではないが、少なくとも脳内では「必ずここらへんに入っているから、探せば出てくる」ということにはならない。
何かに属しているとは限らない形、つまりネットワーク型ツールの多くは、情報の在り方がより実際の脳に近いように思える。キーワードが含まれさえすれば絶対取り出せるという意味では脳より強力だが、情報が大量になってくるとキーワードがわからなくなった時に取り出せる可能性がかなり薄くなる。タグ機能があるとしても、タグ付けが必須でない場合には自分の几帳面さにかかっていて、「ここさえ探せばいい」という安心感はやや得にくい。探すとなればフォルダ形式と違って捜索範囲が全体になってしまい、虱潰しに探すことは現実的でなくなる。脳のようにすっかり失われるということはないが、実質的に辿り着きにくくなるので忘却と似たことが起こる。実際の脳と似たライフサイクルになるわけで、それはとても自然な感じがすると同時に、脳と同じ欠点を一部引き継いでしまうということでもある。
こう書くとフォルダ形式の方が良いと言いたいのか、と思われそうだが、もしそうなら今ネットワーク形式がこんなに流行ってはいない。今話しているのはあくまで「忘却によって自分が欠けていく」という事態を防げるかどうかの観点で、日々の情報の取り扱いでのフォルダ形式の欠点とネットワーク形式の利点はよく指摘されている通りである。
さて抽象的に「情報」と言っているけれども、そもそもどんな情報を忘れたくないという話だったか。それは「何かを感じたということ」だ。それは自分の記憶が薄れて失われたらもう二度と取り戻せず、そして私にとってはそれが失われることが自分自身の一部を失うことと同じように思われるので、なんとか失わないようにしたいのだという話を前半でした。
そういう情報は、「まあなくなったらなくなったでいいや」式の管理とは相性が悪いであろうということがわかった。ガラクタ箱のように、何が入っているか忘れてしまっても箱を開けて漁れば「こんなのあったなあ」と言って全てを確認できる、そういう保管方法が良い。しかしモノではなく情報を扱い始めると、ガラクタ箱に溜めていたのとは比べ物にならない規模の内容量になってしまって、情報同士が埋もれさせあって振り返りが難しいということになりかねない。大きい箱ひとつではなく、何かしらの基準で分別した箱をいくつも用意した方がいい。そのような用途なら、フォルダ形式またはツリー形式のイメージの方がネットワーク形式より合っている。
自分以外のことはわからないので想像だが、多分「何かを感じたということ」を普通そんなには重要視しないのだと思う。今日明日の仕事には全然関係しないのだから当たり前のことだろう。「情報管理」の四文字で思い描く対象にそういうものは普通含まれない気がする。日記の話ではよく出てくる話であっても、それについて「情報」という言い方はしない。
しかしながら、私はそういったものを「自分の人生上に生じたもの」としてある種「モノ」的に扱いたいという思いがあり、そうなると情報管理の手法を使って記録・保管したい。そういう発想で情報管理を考えると、それはタスク管理とも個人情報管理とも知識管理ともアイデア管理とも違った領域の話になるような気がする。
ここ数ヶ月ずっとCapacitiesの話をしているが、私の中にある「オブジェクト感」というのは、こういった前提があってのものだ(ということにここまで書いてきて気がついた)。この感覚にぴたりと填まるツールがそれ以前になかった。Capacitiesと出合ったことで、Capacitiesになぜ納得できるのか、他のツールのどこが引っ掛かっていたのかを考えられるようになった。
自分の脳だけでは情報を扱いきれないというのは現代人共通の悩みで、それに対処するために「第二の脳」となってくれるツールを皆欲している。しかしその理想の形というのは各々でおそらく驚くほどバラバラなのだと思う。TPO次第でその時必要な形が違ってくるということもあるだろう。私自身Capacitiesで全てをカバーしているわけではない。
だから、「第二の脳」として相応しいツールは何か、というより、「私が欲しい第二の脳」とはどういう形をしているのか、ということを真剣に考えることが情報管理に於いては重要だろうと思う。
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