ブログを立ち上げるのは一体何年ぶりのことになるだろう。
昔から書き続けてきた人々が皆自分なりの膨大なアーカイブを作り上げている中、私はブログを始めては消し始めては消しの根無し草で、これが私の歴史ですと見せられるものがない。思考は手元のノートと端末の中にだけ蓄積し、日を浴びることなく埃を被っている。
何度試みても一所に定住できなかったのは、自分が書いて投稿したものが、結局のところ好きではなかったからだ。書けば書くほど、自分が嫌いになっていく。無理をして生きているのがわかる。年月を置いて振り返るまでもなく、自分自身が痛々しいとすぐに気づいてしまう。しばらく誤魔化して書き続けてみるも、やがて耐えられなくなり全てを消し去ることになる。それは人に何かを言われるまでもないことで、第一誰かに「痛い」と思われるほど読まれてもいなかっただろう。他者の目など関係なく、自分が自分の存在を許せないのだから、自分の痕跡を残すという行為に耐えられるはずもない。
ブログというものは、自分自身をきちんと好きか、自分の痛々しさに見ないふりをし続けるか、全く別の存在を演じるか、金のためと割り切って一切の自我を消すか、そのいずれかでなくては継続できない気がしている。どの道も選べなかった私は、「考えたい」「そして書きたい」という欲求を燻ぶらせながら、どこにも行けずに長いこと膝を抱えていた。
少しでもまともに見せたい――今の自分はきっとまともの域に達していないから――と背伸びをすることは、自分自身を否定し侮辱することに他ならない。我が子を人に紹介するときにわざわざ「豚児」だの「愚息」だのと言えば、その度にかすかな復讐心が子の胸中に居場所を得るだろう。己への侮蔑も、己からの復讐として返ってくることになる。己を受け入れている人々が人生を謳歌する間にも、私は己の復讐心に脅され正体の判らない焦燥に追い立てられ、ひたすら己が「未完成である」ということに怯えて生きていた。自分はどこかおかしい、自分には何かが欠けている、自分は恥ずかしい存在に違いない。己の意識と本性の隔たりが己の存在を許さなかった。きっと私は何者かにならなければならず、しかし何者になればいいかはついぞ解らない。解るはずもない。自分は自分になる他なく、また始めから自分そのものであり、「未完成」などそもそもあり得ないのだから。
自分という存在は、恰も雪玉を転がしていくように、少しずつ大きくしていくものだ。生まれた時から私たちは雪玉として己の形を持ち、知識を獲得し感性を育て、日々サイズアップして生きている。何者でもない瞬間などなく、何者かになる瞬間もない。雪玉は玉になった時点で既に雪玉であるように、私も人の形を成した時点で既にひとりの人間である。雪玉はいくら大きくしても雪玉であり、クリスタルの巨像に変わったりはしない。より大きくなる過程は無限に続いていても、完成した人間になる過程など最初から存在しない。
私は「何者かになりたかった己」と訣別し、そして今、己に足跡がないことが途方もない虚無感として私に襲いかかってきている。別に何もしなかったわけではない。"人並み"には至らずとも、生きるために必要なことはやってきた。しかし、己の存在を否定しながらの日々は、自分の中に何らの輝きも生み出さなかった。振り返って「よく生きたなあ」と噛み締められるほど、自分自身に責任を取って生きられた瞬間がない。嫌いな存在に責任など持てないし、死ぬのは嫌でも究極のところ己がどうなってもいいかのように生きていたのだ。
ブログを書けば解決するというわけでもない。しかし、書かないことには始まらない。私が私となるために、私は多くの人の「私とはこのような私である」という表明を見て読んで聴いてきた。或いは、「私が私となるには、私とはこのような私であると知る他ない」と説く本を読み、話を聴いた。そうする以外に私は私となる手がかりを掴むことができなかった。自分自身を語ることは、己の話しかしないようでありながら、実際には他の誰かが自分自身になるための力強い手助けになる。そう信じているから、私もそうしようと思って、今になってこのブログを開設しようと決意した。
今度はきっと、痕跡を消し去ることはないだろう。
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