本にしろ投稿にしろ、誰かが書いたものを読むと「面白い!」と感じることがある。その気持ちはとても鮮やかな感じがするので、こんなにも感動するなら自分の心に刻まれたに違いないと思う。ところがどっこい、一週間もすればその煌めきは嘘のように消え失せ、何かに感動したはずだが何だったか思い出せないなんてことになる。

 もちろん自分の世界が変わるほどの凄まじい衝撃を受けたなら別だ。問題はそこまでいかない程度の「面白い!」で、それでもそう感じた時には自分の考え方が変わったはずだと錯覚する。実際には何もしなければあっさり忘れ去る。なので何かしら手を打つ必要がある。

 

 このような場合、自分の言葉で言い換える、ということが重要だとされる。それはそうだと思う。自分にとって自然な言葉で表現することが、それを自分の世界に存在するものとして取り込むためにまず必要な手続きである。

 ただしその手続きは自分の世界に入れるためのことであって、そうやって入れたものが定着するかはまた別の話に思える。そこに感動があったことは、言葉の変換だけでは必ずしも保存されない。感動を思い起こせるものならそれで済むが、そうではなかった場合には時が経つにつれ印象は薄れていく。

 自分の世界に元々あったものとの結びつきの強さにもよるだろう。そうなると初めてやって来たものほど――その瞬間の感動は鮮やかであるにもかかわらず――その後はいつの間にか存在感を失ってぼんやりしていたりする。定着させるためにはもう一歩何かをした方が良い気がする。

 

 言い換えにプラスアルファで何かをする必要があるとすると、やはり何が前提でどの部分を面白く思ったのかという、感動そのものの情報化だろう。

 その時点ではその対象を見ればまた同じように感動すると思ってしまうのだが、案外そんなことはなく、頭の中で何が活発になっているかによって感動は大きく左右されてしまう。同じ本を時間を置いて読むと毎度新たな発見と感動がある、というのはよく言われることだ。

 日記を書く習慣がある人は日記に書くのと同じようにすればいいし、SNSに感想付きでシェアする習慣があるならそれでも良いだろう。個人的にはそういう手段だとサボってしまうので感動の情報化自体にもう少しうまみがあった方がいい。

 いずれにしても未来の自分が読めるもの、イコール自分以外の人間が読んでわかるものにしないと後から困る。となると、もう記事にしてしまって自分のサイトで公開するのが良い。当然手間はかかる。しかしどうせ手間をかけなければ定着しない。一方で手間をかけすぎるのも現実的ではない。肝心なのは「忘れ去らない」ことで、記事の完成度にこだわるのは目的を逸脱している。その点、自分のサイトなら記事として中途半端でもまあ構わない。むしろ頑張りすぎずに書く訓練としてちょうどいいかもしれない。

 

 記事を書いたからといって、それだけで感動が永久に鮮やかなままというわけではない。しかし「その時点の自分」を感動の対象とともに保存することによって、読み返す度に感動を追体験できる可能性が高まる。「その時点の自分」の保存が重要である。

 自分自身が変化してしまうと、一度感動を覚えたものでも同じ感動を蘇らせることはできない場合がある。当時何が刺さったのか、不思議なほど思い出せなかったりする。だから自分自身のスクリーンショットが必要で、それは文章で書き表すことによって残すしかない。全ての瞬間のスクリーンショットを残すことは無理でも(そもそもそんな必要はない)、「面白い!」の瞬間くらいは残しておいた方がきっといい。 

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