こちらの投稿に関連しての考え事です。
こちらを読んでぼーっと考えている時にふと思い至りましたが、そういえば少し前まで「チェックボックスを用意して、チェックしていく」ということに妙に囚われていたような気がします。
一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。当時からそのように言語化できていたわけではありませんが、今思うとそんな感じです。
仕事ではないことにまで点検項目を用意して、それに「よし」「よし」「よーし」とやっていかないと自分の一日に納得できないという心境です。そして、「よし」「よし」「よーし」とはいかないので、いつも納得できていませんでした。しかし納得しようがしまいが日々は過ぎていき、納得できない日々が延々と続いても私は今日も生きています。
(正確な文脈をわかっておらず)「get it done」と聞いて私はGTDをパッと連想しました。GTDという概念を認識したのは結構後のことで、Evernoteを知ったよりも後なくらいなのですが(ビジネス書の類を読むのは好きな方なのに、全然接触しなかったのです)、そんな私でもGet Things Done的な感覚はいつの間にやら刻み込まれていたようです。
多分私の場合は、バレットジャーナルの影響が大きかったのだと思います。バレットジャーナルという手法が私にそういう価値観を植え付けようとしてきたわけではないのですが、単純にあの「バレット」感に憧れを覚えて、イケてる感じの手帳像を思い描いた時に、そういう生活が手帳に綴られていくのがきっと良いのだろうと思ったところはあると思います。
あるいは「タスク管理ツールが流行っている」という状況もその傾向を後押ししたでしょう。チェックマークをモチーフにしたアイコンのアプリがたくさん並んでいたりするわけです。チェックを見ると何かをチェックしたくなります(私だけかもしれません)。
まあおそらく、倉下さんがご指摘になっている「get it done」というパラダイムの力で、どこを向いてもそういう気分を惹起させられる世界になっているのだと思います。
そういう仕事術的なものに関心を持つ前の若かりし頃、精神的によろしくない状態が続いていたのですが、今思い返してみると、チェックボックスを使うことがなくとも「その日必要なことはやったはず」と頭の中で思えていれば、一応その日の自分の生活に対して不満を抱くことはありませんでした。自分のメンタルのよろしくなさはそこじゃないところに起因していたからです。
しかし、精神的に不調であったせいでやるべきことができなくなってきた時に、私は仕事能力のなさを解決する術を探すことに道を見出してしまいました。仕事術の本や雑誌を色々読んで、色々なことを知りました。それらは私に希望を与えてくれましたし、何より楽しかったのですが、気づかぬ間にちょっとした洗脳を自分に施してしまったような気もします。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。
もちろんちゃんと生きていくために、やるべきことをリストアップしてそれを遂行していくというのは当たり前に必要ですが、自分は駄目じゃないと思いたいがためにリストを膨らませてもしょうがないのであって、目的の曖昧な「やり終えた」の数稼ぎは自分の人生に何も貢献しないように思います。
人生および生活(仕事のプロジェクトも含む)は有機的で流動的で、その「状態」を可視化するのが難しいので、成果を人に具体的に報告できるようにしたいのもあって自分のアクションがわかりやすくなるような形式を認識の形として採用したくなる気がします。特に、脳内の主語が「わたし」になっているとそうです。しかし世の中の素敵なことは、主語を己以外の何かにして全力を注ぐ中に生まれているのではないか。
私は子育ての経験がないので想像になりますが、もし子どもが生まれて必死に育児に励まなければならなくなったとしたら、今日子どもに対して何をしたかのリストを自分が作りたがるとは思えません。自分が何をやったかより、今日子どもが無事に生きられたかが重要で、それが達成されればそれで良いからです。主語は「わが子」です。忙しすぎて大事なことを忘れる可能性があるからという切実さによってリストは正しく活躍すると思いますが、それはもう自分の精神の傷に当てる絆創膏ではないはずです。
自分語りが長くなりました。
何かをやり終えたとしても、それが望ましい結果につながっていないということはぜんぜんあるわけです。
要は、結果が伴わないにもかかわらず「やり終えたがる」ということの原因を、自分の中に探してみたということになると思います。
日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。
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