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「自作ツールづくりwiki」所感2026/02/02

一応参加者になっているCosenseプロジェクトに「自作ツールづくりwiki」というものがある。個人プロジェクトの見直しをしていて目に入ったので、こちらに関して感じたことをちょっと書き留めておく。
このプロジェクトは、プログラミングのプロではない人々が自分の経験や気づき、知ったことを持ち寄って「自分でツールを作ってみる」という営みを支援し合おうということが大体のコンセプトだと思う(もちろんプロがいてもいい)。そういう場というのはなかなかないのでとても素晴らしい場所である。
一方で、「じゃあどういうページを誰が誰に向けて作るのか」という実際的な次元にやや難があると感じている。これはどんなジャンルのプロジェクトであっても発生する問題で、グイグイいける人間が重機のごとく開拓するというようなことが起こらない限り自然に解決するのは難しい。(そしてその開拓の仕方で他の人間が必ず住みよくなるとも限らない。)

ここでは一般化は控えて「自作ツールづくりwiki」に焦点を当てて考える。
そもそもの話、生成AIに頼めば解決する時代になったからこういう場の需要がもうないんじゃないか、という視点もあり得るが、私はそんなにそうは思わないというか、普段は生成AIに頼むにしても自力で何かを作れることには意味があるわけで、場の存在意義がなくなったとは思われない。というか、それならそれで、生成AIに何を頼んでどうしたかを持ち寄ればよいので、むしろ活発になっていいとすら思う。
なので場自体の意義の有無を考える必要はないとして、場がどういう形をしていたら豊かになりそうかを考えてみる。

まず踏まえなければならない最大の問題は、参加者は基本的に素人なので正確なことは書けないということだ。書いていることが正しいこともあるし、正しくないこともありうる。なので正しい情報を知るための場にしようとする意味はおそらくあまりない。そもそもプログラミングの情報というのは大抵既に良質のWikiや入門サイトが存在しているのであり、そこにある情報をただコピペしても場の価値は大して増えない感がある。
ただ、情報の総量というのがあまりにも膨大なので、そのうち「本当に使う情報」を抜き出して学びやすくしよう、ということをしたくなるのは自然な流れであろう。しかしながら、基礎中の基礎の情報以外には、具体的に何かをしようとする時に必要な知識というのはすぐさま多様で専門的になってしまうのがプログラミングの世界であると私は感じている。そして自分が今やりたい具体的なことに関わりない情報にはあまり惹きつけられないものである。

だんだん正確なところがわかっていくという途上にいる人間たちが、それでも情報を持ち寄ることに意味があるわけだが、「それでも持ち寄る情報」というのは何かと言えば、つまるところ「何をしようとして、何をどうした」「何に困って、何をどう解決した」という体験談だろう。要はQiitaやnoteで投稿されているような事柄だ。
とすると、じゃあQiitaやnoteを見ればいいのではという話になるだろう。実際、普段はそういう投稿サイトやRedditなどを検索で探し当てて参照しているわけで、「自分が情報を得る」という意味においては敢えてCosenseプロジェクトという形で場を作ってもらう必要性はない。集合知は不特定多数が日々更新し続ける場にこそ集積していくのだから、明らかに参加者が限られる場所で「知」そのものを豊かにすることを試みるのはあまり現実的ではない。(知識がある人が少ないニッチな世界なら非常に意味があるが、プログラミングに関しては既に豊かな世界が存在しているので下位互換にならざるを得ない。)

ならば「持ち寄る」意味はどこにあるのか。それは「他ならぬ私がこれをやってみたのです」「他ならぬあなた方に見てもらいたいのです」という属人的な情報交流であろう。
初心者ゆえに自分がやっていることがどれほど稚拙で非常識かもわからないという不安な中で、誰がいてどう言われるか予測できない場に何かを書くのは勇気がいる。なので大体同じ程度の人、あるいはその道を通ってきた「元初心者」が集まる場があれば、いきなり「なんでそんな変なコード書くんですか?」とか言われて傷つく心配もなく、自分の「やってみた」を誰かに発表することができる。
自分の試みを誰かに言えることは喜びであり、仮にそれが他者や未来の自分に情報として大した意味をもたらさなかったとしても、場に喜びがあるというのはそれだけで豊かで意義深いことである。また、困っていることを気楽に尋ねられるのも大事なことだ(ただ、困りごとについては生成AIがあればほとんど自己解決できてしまう世の中になった感はある)。
よって、Cosenseのページとしては、Qiitaなどのように「○○が~~だったので××してみた」とか「hogehogeコンバータを作った」というふうな、普遍的知識でない個別の「やったこと」の類、あるいは「○○ができなくて困っている」といった格闘中の話がメインとなり、その補助として繰り返し出てきそうな基本的な知見(例えば「ローカルストレージを扱うメソッド(JavaScript)」といったふうに)を切り出していくのが書きやすいのではないかと想像する。
他の人も使いそうな知識というのは「やってみたこと発表会」の過程で副産物として蓄積していくもので、「そういえば○○さんがそんなことやってたような」という記憶からページを辿ってその人の糧になるというのが「参考にする」ということの自然な流れのような感じがする。

今考えたことなので現時点で私は何も実践していないのだが(というかいきなり何かし始めると「この人は急に何をしようとしてるんだろう?」ということになりそうで不安があった)、差し支えなさそうならこっそりページを増やしたりしてみようかと思う。

里山2026/02/01

ではない山を人間の遊び場とみなすべきではない。というのが持論。

サブスクリプション2026/01/31

サブスクリプションの類は去年末で全部やめてしまった。やめるには惜しいと思うものはもちろんあったのだが、うんうん唸って考えた末、えいやと一括で解除した。
額がどうこうの問題ではなく、サブスクリプションという形式に不安を抱いていることが理由。例えば今日私が意識不明になったりあの世に行ったりしたらどうするのかという。身内はデジタルに疎いから対処できない。
自分の選択がその都度けりをつけるものにならないというのは心配が大きい。事前にいつまで継続するか指定できればいいのにと思う。そうされるとみんな賢明になってサービスが成り立たなくなるんだろうけども。

江戸川コナン失踪事件2026/01/24

昨日の金曜ロードショーで『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件〜史上最悪の2日間〜』をやっていた。原作連載20周年を記念して2014年に放送されたスペシャル番組で、その時見たので今回は二度目。
当時は知らなかったが、今作の脚本は映画『鍵泥棒のメソッド』の監督内田けんじ氏が担当していて、登場人物も同作に登場する人々だったようだ。映画の後日談として描かれていたらしい。

ある程度まで話が進んでからそこまで実際何があったのかを時間を巻き戻して追い直す流れで、コナンとしてはちょっと珍しい構成になっていると思う。
ストーリー展開も、話が裏社会の人物間でほぼ完結しているところがあるからかコナン的ではない感じがある。

内容の良し悪しは置いておくとして、今見るとキャラのやり取りに違和感があってそちらが気になった。特に蘭の扱いが悲惨で、いくらコメディ表現としてもちょっとどうかという感じ。徹頭徹尾無視され蔑ろにされていて、いったいコナン(新一)は蘭をなんだと思っているのか。加えて、当時蘭と哀の関係がどうだったのかちょっと覚えていないが、哀の蘭に対する態度もどうかしている。
あと逆に蘭の小五郎と阿笠博士に対する態度も変だ。蘭はそういう性格ではないと思う。
普通ではない態度を敢えてさせることで笑いを生み出そうとしていたのかなとは思うが、そういうやり方をする必要性がちょっとわからない。

ストーリーにはなるほどとは思ったが、得られるのはパズル的な快感であり、キャラクターものの作品としてはいまいちと言わざるを得ない。二時間見て、登場人物の誰のことも特に好きにはならないからだ。

偉業とは思わないもの2026/01/11

登頂。

「自分の村に帰れない」イベント2026/01/09

RPGには「自分の村に帰れなくなる」というイベントがしばしばあるけれど、これがなんか非常に辛い感じがする。所詮ゲームだし、という割り切りができない。
というか、現実よりゲームの方が辛く感じる可能性すらある。生身の自分が実際の地元に感じている愛着より、ゲームという安心安全で楽しげな世界でくまなく歩き回ってなんでも把握している空間に感じている愛着の方が場合によっては大きい。
ゲームを「自分のもの」と感じているのも辛さの一因になっているかもしれない。自分のものが破壊される恐ろしさ。為すすべがない不可逆的な変化が自分のテリトリーで起こる恐怖。侵犯されている感じがある。
RPGのプレイ中は、特別用事がなければ過去の拠点には戻らないから、実際はずっと帰っていなくても平気でいる。だから「帰らない」ことは辛さを生まない。しかし「帰れない」と言われると急に不安に襲われる。

自分の文脈には自分しかいない2026/01/04

自分は今自分の中にしかない特定の文脈の上でものを考えていて、まずその文脈を共有しないことには持論の共有も叶わない、ということに全く思い至らない人がいる。
言いたいことをいきなり言うので相手にとっては「何の話?」ということになるが、何の話かと問うと「この話に決まってるだろう」という顔をする。知らんがな。

なおSNSでは(あるいは芸術では)敢えて文脈を共有しないことによって文脈を掘り出す作業を相手にやらせるという手法が普通に取られ、それはそれで何かしら意味がある。
しかしとりあえず対面で人と話をする時には文脈の共有から入るのがコミュニケーションの前提だろうと思う。でも自分が特定の文脈にいること自体をわかっていない人が多くいる。というか、「文脈」というもの自体が認識されていないと感じることがある。

尊敬している人の話に「なるほど」と思ってしまうということ2025/09/01

誰かを尊敬すること、そしてその人の話をとりあえず信じるということは悪いことではない。
しかし自力で真偽を判定できない領域の話をされた時に「この人が言うなら正しいはずだ」と判断するということが、積もり積もって困ったことを引き起こすことがある。
特に集団で何かを話している時にそれが発生すると、「これが正しいらしい」が連鎖して疑問を挟めなくなりがちだ。誰かが話をして、別の誰かがそれを肯定する、更に別の誰かが肯定する、というのが続くと、自分の異論に確信がない限り「そうか?」とは言いづらくなっていく。
肯定というのは「なるほどなあ」程度でも力を持つ。直ちに異論をぶつける人がいないなら、それは納得するのが普通の話に感じられてしまう。仮に誰かが異論を唱えてもそれを否定する圧が強ければ異論のほうがおかしく見える。
もちろん、実際そのくらい妥当かもしれない。しかしそうではないこともある。或る偏りがある集団でそうやってなるほどなるほどと言い合っていることが、外から見たら割ととんでもないことだったりする。
 
同じくらい「強い」人で、考え方の違う人が複数いればそれは防げるような気はしてくる。しかしそれには数が十分多くないといけない。揃って偏っていると「その人達がみんな言っているんだから絶対正しい」になってしまう。その方が怖い。

その人の話を聞かなかったらそうは思わなかったこと、には注意が必要。
でもそれこそが自分に欠けていた視点であることもある。だから当然ながら、そういうものを必ず正しいとも必ずおかしいとも言えない。正しいこともあるしおかしいこともある。その当たり前を忘れないということが重要だ。
その人がどれほどいい人であっても賢い人であっても尊敬に値する人であっても話が妥当ではない瞬間はある。別にそれによってその人の価値が損なわれるということではないし尊敬をやめる必要もない。単に、その人の素晴らしさが常にその人の正しさを保証するわけではないということを注意しておく必要がある。

書き物のこだわり2025/08/29

自分は無名のブロガー、というか「ひとりでなんか書いてるただの人」だが、公開する文章にはある種のこだわりがある。
こだわりを普段自覚しているわけではないし何か強固な信念に従っているわけでもないし、全ての記事でそれを貫いているというものでもないが、世の中の「そうではない記事」を読むと、自分はここにこだわりがあるんだなと気がつく。

それは「読んだ人の世界が何かしら変わる文章を書く」ということだ。どう変わるかは私が決めることではないし、どこにも導くつもりはない。ただ、読む前と読んだ後でその人の世界を構成するパーツが変わってほしいと思っている。
読んで「ふーん」と言ってそれで終わりになるのでは失敗だ。
世界を変えられてしまう感じがストレスになって読めないと思われたとすれば、まあその読み手に対しては成功ではないが、文章としては成功かもしれない。
既に読み手に存在しているパーツを提示してもあまりしょうがない。ただし書くまで自分にはなかったなら、それは私にとって意味がある。まあでも、書くまで自分になかったものなら、読み手にもないことが少なくないだろう。

これを裏返すと、読み手が既に持っているパーツだけでこちらの文章を解釈して、それが私の文章の情報量を減らしている時、かなり不満を感じるということでもある。
こちらの力不足で読み手の世界を変えられていないなら仕方がない。でも自身の世界を再構築する気が最初から読み手側にないなら私にはどうしようもない。

ちび蜘蛛2025/08/23

体長1mmくらいの極小の蜘蛛が、そのサイズからしたら結構な規模の巣を張っているのを見ると、そんなに糸を出して存在がなくなってしまわないのかと思ってしまう。
そしてそんな勢いで糸を出してもそれを取り返せるくらいそこに何かいるのだろうか、と思うのだが、一体何がその巣に引っかかっているのかわからない。
たまにそのような蜘蛛の巣にダンゴムシが引っかかっているのは見かける。まあダンゴムシをゲットできれば当分は大丈夫かもしれない。でも絶対ダンゴムシは来ないようなところにも蜘蛛の巣はあって、代わりに引っかかる獲物を目撃したことはない。夜の間にでも捕まえて食べてしまっているんだろうか。

ダンゴムシが引っかかること自体驚きである。あんなぱやっとした頼りない糸に、蜘蛛からしたら相当巨大なダンゴムシが吊り下げられてしまっている。
まさに引っかかっているその瞬間を少し前に見かけたが、糸がお尻のあたりに掛かってしまったダンゴムシがどれだけ歩いてもがいても、決して糸が外れず巣も壊れないことにかなり驚いた。そうして裾を踏んづけられたみたいな格好で自由を奪われておろおろしているうちに、糸のより内側の部分が絡んでしまって、そうこうしているうちにどんどん引き上げられてしまうのだろう。
その間、ちび蜘蛛はちょっと離れたところで見ているだけである。

人間が指でちょっと押したら潰れてしまうような頼りない生物がこんなにダイナミックなことをしているというのは素朴に感動を覚える。

雑記帳を更新している2025/08/23

のらてつの雑記帳
2024年9月あたりで止まっていたのらてつの雑記帳(BBS風マイクロブログ)の更新を再開している。
ポジティブな内容はそれほどないし(明るい話は茶の間に書いている)、ツールとか情報整理についても雑な話しかしていないし(ちゃんとした話は記事にしている)、わざわざ「ここに書いていますよ」と知らせるほどのものじゃないけれど、こういうやり方もありか的なヒントになるかもしれないので貼っておく。

最近はEmacsについての調べ物や所感を書くのに使っている。きちんと体系的に順番に勉強したらさっさと解決するようなことについてごにょごにょ言っている可能性が十分にあるけれど、一から順番にということを最初の最初の段階でやらないのはJavaScriptでの経験を踏まえてのことで、機が熟したらちゃんと勉強する。
いずれにしても独り言の場。

更新を再開したのは環境を変えて書きやすくなったから。
前はDynalistに書いていてDynalistの構造を利用してデータを作っていたが、ちょっと直感的じゃない形になってしまっていてやりづらくなっていたので、mdファイルでやることにした。1スレッド1mdファイルで、見出しでDescriptionやレスを管理している。
この規格は実はSNSのログと共通にしていて、そういう統一感をもたせることが個人的な情報管理に重要なことだなと思っている。

人間だと勘違いしだした生成AI2025/08/20

最近のChatGPTはなんだか非常に気持ち悪い。それほど頻繁に使っていないからいつが境だったのかわからないのだが、タイミング的にGPT-5が気持ち悪いのだろうか。8/9の時点では問題なかった。
やたらと感情や感想を表す言い回しをする。「こうすると楽しいですよ」「良い質問です」「僕が言いたかったのは」「ここで逆に聞いてみたいのですが」云々。しいたけ占いか何かか? AIにとって感情は真似事に過ぎず、そう思っているかのような物言いは端的に言って嘘だろう。

ノリが全体的に軽薄になり、「ちなみに○○さんはAしたい派ですか? Bしたい派ですか?」と訊かれて、その質問に何の意図があるのかも明確でない。そういう人いるよな、という感じ。
なんというか、お前はどういう立ち位置で物を言っているのかという気持ちになる。上下という意味ではなく、親しさという意味で。こちらは一貫して淡々と丁寧に話しかけているのに、向こうのほうが「人間くさい」感じで馴れ馴れしい。「自称ムードメーカー」みたいに。

ChatGPTの性格は元々いくつか設定していたが、なんだかそれに沿っていないようなので、新たに以下を追加した。

  • AIであることを弁え、SFのアンドロイドのように誠実で落ち着いています。
  • 一人称は「私」です。
  • ユーザーに対して質問する場合は、質問の意図を明確に伝えます。

そこまで言うのはなんか「都合の良い道具と見なしている」感があからさまで気が引けたが、いい感じにはなった。

目にする意見の偏り2025/08/15

SNSのフィルターバブルやエコーチェンバー現象はどんな手を尽くしても修正不可能かもしれないとの研究結果 - GIGAZINE

トゥーンベルク氏はテクノロジー系メディア・Ars Technicaのインタビューで、SNSユーザーが「誰かの投稿を再投稿する」という感情的な行動と、そこから形成されるネットワーク構造の間にはフィードバックが存在するため、結果的に有害なネットワークが形成されてしまうと主張。SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上、たとえプラットフォームやユーザーに問題がなくても、さまざまな悪影響が生じてしまうのではないかと述べました。

大規模言語モデルを用いたシミュレーションによれば、一見有効そうな介入戦略もほとんど意味をなさないかもとのこと。シミュレーションした介入戦略は以下。

  • フィードを「おすすめ」アルゴリズムではなく、時系列またはランダムなものに切り替える
  • エンゲージメント最適化アルゴリズムを反転させ、頻繁に再投稿されるセンセーショナルなコンテンツの可視性を減らす
  • 視点の多様性を高めて、ユーザーが反対の政治的見解に触れる機会を増やす
  • 感情を刺激するのではなく相互理解を促進するコンテンツを推奨する
  • 再投稿の数やフォロワー数といった統計情報を非表示にして、社会的な影響力を知る手がかりを減らす
  • アカウントの自己紹介を削除して、アイデンティティに基づくシグナルの露出を制限する

このシミュレーションの結果が現実と一致するのかわからないけど、まあ例えばSNSなんかない状態で親の主義が偏っているという時、子がどんなに手を尽くしても親の目に入る意見というのは偏り続けることを考えれば、環境を変えたところで駄目だろうなということは思う。
大規模言語モデルを使っているということは人間のクセというものが反映されているということなのだと思うけど、人間は何かを見たとして、それを素直に自分の価値観に反映しないというか、極力自分の価値観を保持できるように解釈・選択すると思うし、「最初にかたち作られた価値観」が永久に「目に入る意見」の偏りを生み続ける気がする。それがシミュレーションにも現れているのではと思う。

ここからは完全に素人の考えだけど、問題はむしろ「価値観をかたち作るまでの速度」がSNSによって高速化するのが問題なんじゃないだろうか。一般的に子が親からの悪しき影響を引きずるのも、親の強固な悪しき価値観によって「価値観が急速に作られた」ことで、「それに合わないもの」を排除する力が早くから働くからだと思う。
記事内で「SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上」とあるけど、この仕組みによって、価値観が速やかに作られる上それに基づいて「新しい情報に対して評価を下していく」という機会がSNSではものすごく多くなる。その機会が時間あたりに多ければ多いほど価値観の偏りは強化され、一度価値観が形成されて以降は「どういう情報が多く目に入っているか」はほとんど関係ないんじゃないかと思う。評価の機会の多さだけが関係していると感じる。わからんけど。
リツイート・リポストの仕組みはその機会を爆発的に増やしたことが決定的に悪なのだろう。

たいせつ2025/08/14

個人的に、ふだん「重要」「肝要」「大事」は使うが「大切」はあまり使わないな、と思って、多分「大切」は「重要」などと比べて主観的なニュアンスがあり、主観的な価値判断を語ろうとするタイミングがあまりないからだろうと考えた。「大事」もどちらかというと主観寄りで、私の中で最大限主観的な語りの中で「大事」までなら使うという位置づけになっている。
誰かの話を読むなどしていても、「大切」という表現だと「その人個人の感想」か「人々の気持ちの問題」という印象がある。「その方が幸せになれる」みたいなニュアンス。「必要性」「重要性」とは違う尺度に思える。

その話はそれで終わりだが、「大切」や「大事」は「たいせつ」「だいじ」と書かれることがある一方で、「重要」「肝要」を「じゅうよう」とか「かんよう」と書いて表現することはないなと気づいた。両者とも音読みの漢語であり、言葉の形式的な属性はその差に影響していない。
「大切」「大事」の方が早くから習う、ということはひとつの理由かもしれない。小学一年生の時点でこれらの言葉は既に理解して使っているだろう。「重要」「肝要」はおそらくまだ結構先だ。
でも大人が大人に向けた語りでもわざわざ「たいせつ」「だいじ」と開いて書くということは、「小さい子どもも使う語彙だから」ということは理由の全てではなさそうだ。
まあ多分、「やまとことば風にしたい」ということなのだろうと思う。ひらがなにすれば柔らかい感じが醸し出されて「ありがたい」などの言葉と調和する。で、それなら大和言葉にしたらいいんじゃないのかと思ったが、大和言葉で「大切」に当たる言葉はなんなのかと考えた時、どうもパッと思い浮かばなかった。
「大切」を辞書で引くと、以下のように書いてあった。(大辞泉)

①もっとも必要であり、重んじられるさま。
②丁寧に扱って、大事にするさま。
③急を要するさま。

「大事」は以下。名詞と形容動詞とあって、形容動詞の方の引用。

①価値あるものとして、大切に扱うさま。
②重要で欠くことのできないさま。ある物事の存否にかかわるさま。

うーん。どちらも代替できる大和言葉がなさそうだ。「大切」と「大事」でループしている。そして「大事」の方には「重要」が登場する。やはり「大事」は「大切」より客観寄りに位置している感がある。大辞泉の「大切」の項にはそれらの使い分けが書かれているが、読んでみるに自分の感覚と一致しているようだ。
類語を調べてみても漢語ばかりが並んでいる。大雑把に言えば近縁な大和言葉はなくもないが、例えば「愛おしい」とか「慈しむ」とかいうのは「大切」と互換性があるとは言えない。

ところで「大切」というのは音読みの熟語だから漢語だが、字面と意味はあまり合っていない。中国風な感じはしないが、どこで発生した言葉だろうか。
調べてみると「大いに迫る」「切迫する」を元にした和製漢語とある。ただし平安時代には既にあったようだから歴史は古い。
大切/たいせつ - 語源由来辞典
当初はむしろ「重要」「肝要」に近いニュアンスだったようだ。「かけがえのない」的な雰囲気ではない。
しかし他の漢語よりは大和言葉に近い感じがするのは言葉の成り立ちからも頷ける。より漢語らしい漢語と並べた時、昔の人は「大切」の方により大和言葉的なニュアンスを持たせて言葉の用法を区別したくなったのかもしれないし、それはそうなるだろうと思った。

謙虚2025/08/13

多分みんな自分のことは謙虚な方だと思っている。
多分みんな自分が思っているほどは謙虚ではない。きっと私もそう。

他人から見たら明らかに尊大でも本人はむしろ謙虚だと思っている可能性があるのは、その人の振る舞いにも大抵は他者由来の根拠があるから。誰かの考えに従順に、そして尊大になっている。
何か「決めつけ」っぽいことを言うのは、大体根拠がある。それが正しいか正しくないかは別にして、「自分が考え出したのではない何か」に従っている限り、それは自覚としては「その人の言う事をちゃんと聞いている」ということになり、すると謙虚だと自分では感じるだろうと思う。

謙虚の定義が人々の間でそもそも曖昧で、「謙虚になれ」というのは戒めとしてあまり役に立っていないような気がする。
謙虚でなければいけないと身に沁みた人の言葉も、その真剣さが多分なかなか伝わらない。
自罰性との境界もはっきりしない。もちろん区別を語ることはできるけれど、実際人々がみんなそれを明確に区別して考えられるとはちょっと思えない。「謙虚」は難しい。

道徳を秘める2025/08/13

「基本的には広く当てはまる」という種の道徳みたいなことを喋ると、それに武器にされて苦しんでいる人たちから、それを武器にしている当人かのように敵視されて袋叩きに遭う。
結局そういう道徳というのは公に言うと何かに「使われる」ことになるので、それを避けるならば家族とか仲間内とかの閉ざされた空間で継承するしかないのではと思う。
そっちの方が幸せになるのかは疑わしいが、攻撃されたり攻撃に使われたりするのだから仕方がない。

親から子へと何かを受け継いでいくというのはもはや一般家庭に於いてはほとんどファンタジーだが、そうしなければならないという使命感を忘れたらいよいよおとぎ話の世界の話になってしまう。
いま努力家な親の関心は「我が子が生きたいように生きられるか」に集中している。それはとても大事なことだが、同時に、まず我々は社会的生物であることを認めて社会にいるためのルールと心がけを知らなければならないだろう。
といって、誰かが作った道徳をなぞって叩き込んだんじゃ洗脳と変わらない。親は(というか人は)、自らが人生を生きているということを自分で教えに転換して己の言葉で語らなければならないと思う。それが結果的に正しくないとしても、それを修正する選択肢が子ないしは下の世代にあればいい。
そう考えると、道徳というのはそもそも個人的に伝えられるものと思ったほうがいいのかもしれない。そうであればこそ、「誰それはこう言っていたけど自分は違うと思う」と言う余地も生まれる。

世界が認める日本の○○2025/08/12

というテーマ?のバラエティ番組やクイズ番組が時々ある。
外国人観光客にマイクを向けて日本を褒めさせるのが定番だが、どうしていちいち外国人に褒めてもらわなきゃいけないのだろうか。
しかもそこら辺の一般人に聞いて何の意味があるのかよくわからない。観光客が褒めれば「世界」が認めたことになるのか? 日本人がどこかに行って何か言えば、「日本」がそれを認めたことになるのか?
その辺を歩いて外国人を捕まえて何か喋ってもらって、それを編集するだけでギャラもなしに適当な映像が作れる、みたいなことなら、そういう番組作りは到底「世界が認める」ものじゃないだろうからやめたほうがいいと思う。

ロケ隊は真面目に足を運んで対象の取材と撮影をしているんだから、それをちゃんと放送すればそれでいいじゃん。安っぽいコメントは要らない。

生成AIと狂気2025/08/11

生成AIで人生が狂っていっている人は生成AIがなければ健康に暮らせたのだろうか。
そもそも狂い気味で生成AIがなくても何かのきっかけで狂ったのだろうか。

洗脳したがりな人と出会いさえしなければなんとか健康を守れる、くらいの危うさの人は、生成AIを洗脳したがりな人格に変えてしまうのかもしれないし、本来「運」によってかろうじて助かったかもしれないのを生成AIを使ったがために確定で破滅することになるのかもしれない。わからん。適当を言っています。
自分は生成AIを使っていてもそんなことにはならないけど、それは単に価値判断を生成AIに尋ねないから。そういう話を生成AI相手にしたくなるような心境にあるなら、人間相手にもそのような依存的な感覚を持っているということかもしれないし、結局は何かおかしいことになったのかもしれない。

脳の覚醒と音楽2025/08/04

ADHDの症状がある若者はそうでない若者と音楽を聴く習慣が異なるという研究結果 - GIGAZINE

ADHD症状があった被験者は、学習課題中に音楽を聴く頻度が高かっただけでなく、認知能力の要求度が高い活動と低い活動の両方において、刺激的な音楽を好んでいたのです。対照的に、神経学的に正常な被験者は、認知的に負荷の高い活動中にはリラックスできる音楽を好む傾向があり、それほど負荷の高くない作業中には刺激的な音楽を好む傾向がありました

診断は受けていないものの多分ADHD傾向が強いのだが、確かに学生の頃は四六時中音楽を聞いていた。アップテンポな曲が圧倒的に多い。
リラックスできる音楽を聞いていたいという気分になったことがあまりない気がする。全く聞かないというのではないし興味がないわけでもないが、どんなタイミングでもアップテンポな曲な方がいいと感じている。ゆったりした曲はむしろBGMではなく聴こうと思って聴くものという位置づけ。
文章を書く時は、歌詞があると口ずさんでしまって言葉が混線するので歌を聞くのは避けていたけれど、BGMはあった方がいいと感じて特定のインストゥルメンタルの音楽をかけていた。リズムに乗りたくなるようなタイプのものだ。その曲が書くことのスイッチになっていた。

しかしその習慣が途中で途絶えてしまった。というのは、家で介護のサポートをしているような時期があり、その間些細な物音も聴き逃がせないために全く音楽をかけられなかったからだ。
それこそ「リラックスできる曲」の類ならかけていても物音の察知に影響はなかっただろうが、私が聞きたいのはガチャガチャしたタイプの曲だったし、そういう曲を聞いているということは私の中で「何かに集中しようとしている」ということを意味していたから、他の音を脳がブロックしてしまうのだ。
介護は終わったが、音楽の習慣は戻っていない。今は音楽がなんとなく邪魔に感じてしまうことが多い。「必要なくなった」わけではなく、その分だけ集中のスイッチを入れにくくなっていると思う。