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絶対に淘汰されない唯一の場2026/04/22

テレビ、SNS、生成AI、と人間が自身の思考力の不足に気づかなくさせる仕組みがエンタメやビジネスの中心に巣食い続けている。
思考力がなくなることの恐ろしさというのはつまるところ政治判断の失敗で「国」や「人類」という単位で滅ぶことに直結するところにあるだろう。
それが何をもたらすかは、ドイツでもアメリカでも既に示されていることだ。
逆にその他のことはいっときの衰退をもたらしはしても直ちに致命的なことにはならず、どうにか盛り返すに至る可能性を残しているように思う。

思考力がどれほど不足しようと絶対に淘汰されないおそらく唯一の場が投票だ。他の場なら何かしらの手段で追放される可能性がある。
何者にも権利を奪われないことが仇となる日が来ないことを祈っているが、直近の二回の国内選挙を見ても、まあ時間の問題だなと思う。

松岡朱里さんと三山賀子さん2026/04/19

松岡朱里(まつおかじゅり)さん、三山賀子(みやまよしこ)さんはともに2001年生まれ2024年入社のテレビ朝日アナウンサー。
新人の頃から肝が据わったしっかりした印象で非常に好感を持てる。

松岡アナは入社初日から羽鳥慎一モーニングショーのMCを務めていて、とてもきちんとした受け答えをして貫禄がある。癖のあるコメンテーターたちを前にしてもおどおどすることもなく立派だ。
三山アナも入社当初からグッド!モーニングに出演している。柔和でふんわりした雰囲気だがインタビューなどには聡明さがうかがえる。何事にも心から関心を持っていることが伝わってくるし、言葉選びはいつも的確な感じがある。
アナウンサーの入社試験の狭き門を突破しているのだからそのくらい当たり前かというと、先輩・後輩を見てもまあそうでもないなという感じで、彼女たちが特別優秀なのではないかと思う。
私には到底彼女たちのような仕事はできないし、いつも尊敬の気持ちでもって見ている。

そしてお二人は仲が良いということで、それもたいへん好ましいしとても納得感がある。
若手で一番好きなアナウンサーたちである。

個人的禁止ワード2026/04/14

口で何か喋る時に使ったら負けだと思っているもの。
「なんか」「すごい」「~かなあと」「~だったり、~だったり」「<感謝など>しかない」「うん」「ほぼほぼ」「めっちゃ」「めちゃくちゃ」(以下適宜追加)

なお一部を除いて、書く時は逆に気にならない。
というか、自分がいま公と私の数直線上のどこにいるものとして言葉を使っているのかの問題なのだろう。公寄り、私寄りという概念がない感じのトークは苦手。

やられている2026/04/13

テレビでもラジオでも頻繁に耳にするが、「やる」の尊敬語として「やられている」と表現するのはどうも馴染まない。
「されている」「なさる」「おやりになる」ではいかんのか?
というか、「やる」を日常的に使いすぎでつい「や」で始めてしまうからもう「やられている」と繋げるしかなくなってしまうのではないか。

ギャラをもらった仕事でやっているにもかかわらず話し方が軽率過ぎる。考える間もなく発話してしまうから後手後手で帳尻を合わせる羽目になっているように思う。そしてそんな調子で帳尻が合うわけがない。
仕事として人と話をする場なら発話にあたって表現を適切に整えるくらいの思考時間はあって然るべきだし、相手がそれすら待てないようならばそちらの方が公の場で話す態度としてどうかしている。

心はかたく、頭はやわらかく。2026/04/12

心はかたく、頭はやわらかく。それがダンディってもんだぜ。

「おしりたんてい」に登場の、おしりたんていの父親おしりダンディの若かりし日の台詞。
なんだか妙に納得してしまって印象に残った。

クイズ番組2026/03/26

クイズ番組が近年大流行りしていた。
それは基本的には好ましいことだったと思う。何かを知るということに興味を持ち、それを勉強然とした形ではなく笑いながら楽しんでやることができるのは良いことだ。
「クイズ」という括り方をすることで森羅万象あらゆることを扱えるのも、いわゆる勉強にはない良さだと思う。

続き(ネガティブな所感)

けれども、「知」をクイズ的に解釈することは正直に言って少々浅薄な態度だと思うし、「クイズができる」というのはそれだけでは「クイズができる」以上の意味を持たない。「知性がある」と「クイズができる」をイコールで結んではならない。
クイズ番組には様々な経歴の人が出演するが、知的に物を考えることに於いて実績があったはずの人がある種の無知を暴かれて恥をかくことが度々あったことには、実際幻滅する気持ちと、逆にクイズごときの失敗でクイズ的でない知性を侮られるのはどうなんだという気持ちもあり、色々と複雑な思いを抱かざるを得ない。
クイズができるということで出てくる人が時々自分の立ち位置をなんか変なところに置いているようなのも気になるところだ。

クイズ番組というのは多種多様な「侮り」を目にする機会でもあったなと思う。
クイズ番組を侮って何の準備もせず出演して大恥をかく人。
クイズが得意という自負から万物に精通しているつもりで大言壮語して失敗する人。
クイズに対応できなかった知識人に対しその業績も無価値だったかのように笑う人。
学生時代の成績なんかを持ち出してきて自らハードルを上げながら何も成果を出せない人。
バラエティ番組としての「テレビ的な」振る舞いというのを差し引いても、ああ、高を括っているな、と感じることが毎度あった。要らんことを敢えて言って「痛い目に遭ってみせる」という芸をしようとしていた、とは思えないことが多かったし、仮にその意図でやっていたとしても「そういう芸人」でない限りは別に面白くない。

何かが存在するかしないかを考える時に、その道の大家でもないのに根拠として「自分は聞いたことがない」を出してくる人が時々いる。しかしそんなものを持ち出して何の意味があるのかと思ってしまう。その人なら聞いたことがあるはずだとは他の誰も期待していないだろうに。
クイズのスターという感じで言われている人がこの間それで盛大に失敗していたが、まあ、あくまで「クイズの人」だし、視聴者も必ず正解するはずだとはそんなに思っていなかったのではないかと想像する。そんなものだ。

いろいろ書いてきたが、そんなクイズの流行もテレビでは終焉が見えつつある。
クイズ作家たちはもうあまりテレビに協力していないのか(過労で疲弊したのかもしれない)、ここ数年は単なる雑学クイズばかりだし、長年やっていた某番組も終わりを迎えた。(後継番組はあるが、リニューアル後は別の方向を向いたものになっている。)
少し寂しいなと思う。

きかんしゃトーマス2026/03/25

NHKのEテレでアニメが放送されている。現在のシリーズは日本では2022年からのようだ。
昔の実写版とは違って、今のアニメ版は嫌な人、嫌な態度というのが全然出てこない。いわゆる「やさしいせかい」になっている。トップハム・ハット卿は機関車たちを心から大事にしているし、ゴードンもトーマスにいじわるを言ったりしない。パーシーは出てくるたびにトーマスに親しみを表現するし、みんな信頼し合う友だちだ。メインメンバー以外ではちょっとした文句を言ってくるキャラも出てこなくはないが、そのキャラなりの信条があってのことで、不快な感じはしない。
基本的には教育番組らしいオーソドックスな展開で、加えて毎回歌のシーンがあってその部分はちょっとミュージカル調になっている。そして使われている色味は優しく明るいもので、全体的に能天気で牧歌的な空気である。

で、如何にも子ども向けのアニメではあるのだが、見ていると時折身につまされることがあって侮れない。毎回何かしらのトラブルが起きてはそれをみんなで協力して解決することになるというThe教育番組だが、さすがに今の時代になるとなかなか巧みにできている。
嫌なやつは一人も出てこないのに毎度トラブルが起きるのはつまるところ「きちんと人の話を聞かない」「曖昧に指示する」「うっかりする」「甘く見て油断する」という「社会人あるある」である。誰も馬鹿ではないし愚かでもないし悪いやつでもないのに問題は起こる。それが私には逆にリアルに感じられる。
顔がついていて喋ったり歩いたり手っぽいパーツを伸ばしたりする機関車はどう見てもファンタジーなのだが、彼ら彼女らは「仕事をしている」存在なので、展開を追っているとところどころちょっと胃が痛くなってくる感じがある。自分自身の失敗も呼び起こされるし、こういうことの積み重ねであの会社はあんな不祥事を引き起こしたんだろうなとかそういうことを考えてしまう。
毎度人の話を聞かずに失敗する機関車たちに、子どもは「また同じことやってるー!ばかだー!」と思って笑ったりするかもしれないが、大人はこのアニメが如何に教育的かを人生経験からしみじみ感じ入ってしまうだろう。

トーマスたちは必ずリカバリーできるし、失敗した子が厳しく怒られることはなく(代わりに自分で気づいて自分で深く反省する)、それは現実にはない優しさだろう。実社会もこうだったらいいのになという思いを抱きつつ、笑って楽しめるよくできたアニメである。

自分を「普通」と信じて疑わないということ2026/03/24

自分は絶対に「普通」である、「普通」でないはずはない、と固く信じている人というのがいるが、その頑なさが既に「普通」ではないように思える。
逆に「普通でない」方が都合がよい人は、自分は絶対に「普通」でない、「普通」であるはずはない、と固く信じていたりする。「普通でない」というのはそうやって信じることによって生まれるものではない。

どちらも似たりよったりというか、多分同じことなのだが、つまるところ自分と他人のずれを当たり前のこととして許容できていないということなのだろう。そのずれは他人の異常性によると思えば自分の方が普通だと主張するし、自分の異常性による(=ずれが生じないように自分が努力することは不可能である)と思えば自分は普通でないと主張する。
はっきり言ってほぼ全ての人間が何かしらおかしいし、何かしらおかしいのが普通だと思う。まあ一切なんにもおかしいところなどないという人もいくらかはいるだろうが、それ自体が極端な偏りを示していて、ある種のおかしさがある。
当たり前におかしい者同士の間で、どうにかずれを減らして円滑に過ごしていく、そのために各々が努力していく必要があるのが社会というものだろう。

「普通」に対する感覚は大抵親などからそのまま引き継いで引きずっているのだと思うが、親が己を普通だと信じていても、まあ当たり前に何らかの異常性はあるし(それが普通)、自分の親がまずおかしかったということを認めることが第一歩だろう。

私という不思議な生き物を観察することについての諸々2026/03/23

私は「自分自身を不思議な生き物と思い観察している人」に親しみを覚える。
不思議というのは「特別」でも「優れている」のでも「劣っている」のでもなく、ただ不思議ということだ。他に同じ要素を持つ人がいようと、あるいは全ての人が同じ要素を持とうと、他人がどうかは関係なく自分自身がただ不思議なのである。
そして観察とは文字通りの観察であり、私とはこうであると結論づけるための試みではない。ましてや自分を機械のように解釈して全体を説明できると思うものではない。
他人のことも不思議には不思議だが、自分自身の不思議を相手にすることに忙しいので、私は他人のことは割とどうでもいい。他人に興味がないわけではない。解き明かしていく対象として他人を設定しないということ。よって詮索する趣味はない。

観察対象が自分自身であっても、何か発見があれば嬉しくなり、しばしば何かしらの形で発表したくなるものである。それが平易な文章で行われれば「自分語り」の一種として見られるが、あくまで観察結果の発表であって、自分を何かに見せかけようとする意図は基本的には伴わない。
自慢は自己の観察結果とは根本的に違うものだ。というのは、自慢は他者と比べて己が優れていると評価しているから行われるのであって、他者の存在など関係なくただ己を不思議に思って観察するものとはまるっきり性質が違っている。
そもそも、発表したいというのはこれまた文字通り発表したいということであって、それを他者がどう思うかはほとんど考えていない。他者が読めるように整える気遣いはするが、それを他者が読んで褒めてくれたらいいなどとは露ほども思っていないのである。共感する人がいたら嬉しいとは思うし、自分と向き合うことについて誰かのヒントになったら喜ばしくはあるが、そのように言われたいとは思わない。

「発見を発表したくなる」というこの癖は時に悪癖となる。
この発見というのは、自分自身の不思議について、時に半生をかけて考え続けてきた結果のものであり、だからこそ発見が嬉しいのだが、それを読んだ側にとってはそれほどの重要性を感じられないものだろう。よって、「半生をかけてきた観察結果の発表」に対して、何分もかけずにさらっと斜め読みして「あはは、それってこういうことなんでしょうね」などと軽い反応をされるということが時折発生する。(私がのらてつとして書いていてそういうことがあったという話ではなく、一般論としてこの構図ならどこにいってもそれは起こり得るのだという話。)
この熱量のギャップ、すなわち真剣味のギャップは、話の内容の素朴さとは裏腹にかなり深刻に不和を生みかねない。そして有名な作家などでも時々見られるように、柔軟なようでいて気難しいとか、冷静なようでいて感情的とか、はたから見たら奇妙な矛盾が生まれることになる。

先に「悪癖」と書いたように、これは軽い反応をした読み手が悪くて起こることではない。読み手が十分に慎重なら避けられた摩擦であるにしても、そのような繊細さをいちいち他人に求める方がどうかしている。(私自身それを幾度も反省する羽目になっている。)
要は発表が軽率過ぎるのである。
もしも明確に研究の形をなしているなら、考えなしに勢いで発表してしまうということはないはずだ。入念に準備をして、受け手の反応を想定し、想像しうる限りのことに備えた上でいざ発表となる。一方で、自分自身の観察というのは極めて個人的なものであるがゆえに、実際そこにある真剣さを自分でも忘れて、世間話のようにして軽々しく発表してしまうことがある。自分から発表しておきながら、それに対する反応に対してまるで無防備なことがあるのである。

とはいえ、軽率に発表してしまうからこそ言えること、知れるものはたくさんある。自分自身を観察している人々から軽率さが一切取り除かれたなら、みんな口を噤んで自分のことを発表などしないだろう。ものすごく親しくなって初めてそっと打ち明けられるというほどに秘められたものになってしまうかもしれない。
しかし別に自分のことは秘密ではない。そうやって秘めてしまうのはどこかまずいことではないかと思う。本来軽率に発表してしまえるほどあっけらかんとしたものだったはずなのに、熱量のギャップに気分を台無しにされることを避けて閉じてしまうのは、他の同類との出会いを難しくするし、早い話が「面白い話」が世の中から失われすぎる。
軽率さを敢えて残しながら、最低限のコントロールをしていく、そのことに尽きるだろう。

いずれにしても、このようなタイプというのは稀にいて、知り合えばおそらく互いに親近感を抱く。しかし意気投合して盛り上がるということには必ずしもならない。そもそも自分の観察の方に一生懸命であるし、相手の観察結果も慎重に注意深く扱うから、同じ空気を吸ってちょっと微笑む以上のことは起こらない場合もある。SNSで言えば「いいね」をつけるだけになることもあるだろう。
「ワタシトアナタ、ニテル!」と勝手に思ってそう伝えたいというようなことは時々あって、しかし実際にそう言うわけにはいかずにただ念を送っているみたいなことになるのだが、それ以上距離を詰めることなく見守っている時間というのが案外豊かなのじゃないかと思っている。

阿呆2026/03/22

判断ミスを取り上げた番組などを見ていて「馬鹿だね~」という感想を持つ人。

「自分のことが見えていない」2026/03/21

他人から見た像と本人の像が一致していない時、他人からは「自分自身のことが見えていない」というふうに思われる。
それは間違いとは言わないけども、本人の中には他人に見える形になっていないものが果てしなくあり、それを前提にすれば現状というものは必然的にそうなるという状態になっているはずなわけで、情報が「ない」のではなく「ありすぎる」ことによって起きているズレなんじゃないかと思う。
だから自分自身の情報を見せることで他人から見た像の方を変えて整合性が取れるようになる人が(特に近年では)たくさんいる。

まあもちろん、「自分自身のことが見えていない」と指摘したくなる状況というのは色々あって、明らかに自分の能力を高く見積もっているとか、抱えている怒りの正体を本人がわかっていなくて変なところに向けて暴発しているとか、そういうシンプルに困った迷走もある。
今回言いたかったのは、他人を単純に見て話を片付けようとしてはいけないのではということ。

若者2026/03/20

親が国政に対して何らの意見も持たず、あるいは子に説くことをせずにここまで済ませてきたのだとすれば、一定以上の強さの主体性を持たない多くの子は国政について全く真剣にならずとも一向に不自由しないというふうに学習するのが当然だと思うけれども、なぜか「若者」という切り取られ方をして、ほぼ全ての若者に直接繋がりのある上の世代が存在しているはずであることは無視されているように思える。
ついでに言うと「若者」が何らかの傾向を持つという時、その傾向は大抵「既に若者ではない世代」からもう生じている。
「若者」の二文字が使われる時の「自分をもう若者とは思っていない人々」の無責任さに辟易している。

一見偉そうな昔の若者の言葉遣いに思うこと2026/03/19

昭和初期の若者(学生)は話し方や書き方が今から見ると偉そうだなと感じられる。単に文体の流行りというのもあると思うが、少なくとも「偉ぶっている」結果なのではなく、「自分なりに毅然とする」という意識があったと感じる。
その意識がないといつまでも幼稚な物言いで、例えば人と話をした時に一文一文を完結できずに単語だけ投げて雰囲気を察してもらおうとするようなことが生じるのではないか。その意味で発話にだらしがない人は老若男女問わずそこここにいる。
書いていることは話すことができる――というのは言い過ぎだとしても、文字で表現し、それを見える形で残す習慣のない人は、その分だけ話す能力の成長が遅れやすいと個人的には思います。

現実は厳しいのか2026/03/18

「現実は厳しい」と特別思わずに済んでいる(脅されるほどは厳しいと感じずに済んでいる)人というのも世の中には結構いっぱいいると思うのですが、その現実は現実じゃないのかなと時々思う。
もちろん、「現実は厳しい」と言うことによって教えたいものはわかるし、生きていくために必要な教えだろう。しかし言葉として正確じゃないことを伝えてしまう以上は、そこから何か困った歪みは生まれるでしょうねという。
そもそも、夢見がちになるのは実際にある厳しくない現実を知ったからが多いんじゃないか。

2026/03/17

私に恥をかかせるなと人に要求する人間が自ら恥をかかない努力を誠実にしているためしがない。
私に恥をかかせるなという発想自体が恥。

おんぼろ車を自分で直す暮らし2026/03/17

「世界まる見え!テレビ特捜部」なんかで時々紹介されるアフリカの人の生活を見ると、色々と大雑把過ぎて笑ってしまう。しかし、ぼろぼろのスカスカになっている自動車を自分で直して使っているのを見るたびすごいなと感心する。車とはなんなのかを分かっているからできることだ。
日本人は自分以外の誰かが用意してくれた便利さによって、多くが今や米を鍋で炊くことすらできない。生身の生活ということに於いて無力極まっている。当然、壊れた車を前にしても専門業者でなければそれを直しては使えない。もちろん勇気ある人が試行錯誤すればそのうち直せるだろうが、そのスキルは今実際に直して使っているアフリカの人に及ばないと思う。

生成AIとコーディングについて似たようなことを考える。もはや自力で機械語であるコードを書く必要はないのかもしれない。自分でテレビを作ることもパソコンを作ることもないように、自分でプログラムを作ることもなくなり、それを自力でやれる人が何かすごい技術を継承しているかのようになる日も遠くないのだろう。
近未来を描いたフィクションでは、しばしば文明にヒビが入り旧時代の技術を扱える人に頼ることになったりする。そういう未来が現実世界でもあり得るかはわからないが、古の技術の方が或る面では優れていたというようなことは実際あって、一見既に必要のなくなったものを努めて継承したり復活を試みたりということがそこここでなされている。
今から頑張ってプログラミングを覚える「必要」はもうないのかもしれない。しかし、今プログラミングができる人のその技術や、今からでも自分でやってみようと思う人のその心がけはきっと無意味なものではない。人間の世界は「食えるか否か」だけでできてはいないし、今誰かの手仕事や「自力でやる」ということを見て感慨を抱くのは、そこに間違いなく豊かさがあるからだろう。

アンチ無個性2026/03/15

自分は「面白いかどうか」をかなり重要視しているという自覚がある。
しかしそれは文字通りに「面白いかどうか」を重要視しているということではなかったのかもしれない。

人間の無個性な言動が嫌いで、アンチ無個性としての個性を求めている。「独特であればあるほどよい」とは思わない。「無個性でない」ことが肝で、あとはこっちで勝手に面白さを見出す。
「無個性な言動」というのは「その人に個性がない」ということではない。万人に個性があるにもかかわらず、無個性化して自分の個性がもたらす責任を回避しているような態度を指している。
無個性な選択というのは結局、自分ではない何かを判断の根拠にしているということだ。もちろんそれが常に悪いわけではない。問題は無個性であることの方を賢明かのように言うことや、個性の発露を押し流さんばかりに無個性のものが膨張していくことである。
流行に乗ることが正義というのもその点で総じて不快だ。しかしながら流行っているものそのものを忌まわしく思うことは案外ない。流行っているものそのものは個性的なのだ。

フィギュアスケートについての妄言2026/02/15

村主章枝さんの今で書いたように、十数年前までフィギュアスケート競技をテレビでよく見ていた。

続き

会場に足を運ぶほどの熱意ではなかったが、毎年グランプリシリーズなど主要大会の成績をノートに書き取ってまとめたりする程度には熱心にチェックしていたし、フィギュアスケート競技の季節になるのを楽しみにしていた。(以下、敬称略)
好きだったのは、安藤美姫、鈴木明子、本郷理華、宮原知子、エレーナ・ラジオノワ、エリザベータ・トゥクタミシェワ、高橋大輔、ステファン・ランビエール、エヴァン・ライサチェク、ジェフリー・バトル。

当時はストレートラインステップというのがあり、端っこからさあ行くぞという感じで滑り出す瞬間にはワクワクした。安藤美姫のシェヘラザードと高橋大輔のオペラ座の怪人が特に印象に残っている。
あと当時ならではなのは長いスパイラル。村主章枝と浅田真央のスパイラルが目立っていたと思う。
イリーナ・スルツカヤのビールマンスピンや中野友加里のドーナツスピンも印象深い。当時は全員が何でもできるわけではなかったし、代名詞となる必殺技みたいなのを持っている選手が多くて面白かった。
あと20年前くらいは男子は大柄な選手が多くて迫力があった。ブライアン・ジュベールは179cmだしエヴァン・ライサチェクは188cmもある。明らかに細身という印象なのはジョニー・ウィアーくらいだった気がする。
比較的近年の話で言えば、紀平梨花のA Beautiful StormやInternational Angel of Peaceはテーマが壮大で良かった。男子ではミーシャ・ジーや町田樹もそうだが、音楽的に独特の世界観を持っている人のプログラムは見ごたえがある。

最近のフィギュアスケートは一昔前と比べたら曲芸のようだ。すごいことをできるすごい選手がたくさんいる。レベルがもはや全然違っている。
その流れでは必然的なことかもしれないが、素人目には多様性はやや失われた感がある。もちろんそれぞれ違った雰囲気を持ち違ったプログラムをやっているが、「フィギュアスケートってこういうものだよね」というのが固まってきている感じがある。
まあそもそも「競技としての演技」が多様だったのがおかしかったのかもしれないし、スポーツとして発展途上だったということなのかもしれない。高度に成熟した今のフィギュアスケートに於いては、個性の発揮はアイスショーでということなのだろう。

エテリ・トゥトベリーゼコーチの台頭以前はロシアの選手やコーチも結構好きだった。彼女のやり方が通用してしまったこととその後の情勢とは、正直無縁ではないように思えてしまう。こうなるような国になった(戻った)から、こういう指導が通るようになったんだろうなと。

村主章枝さんの今2026/02/14

十数年前まではフィギュアスケート競技を好んでテレビで見ていた。
私がリアルタイムで知っている女子選手の最初が村主章枝さんだ。苗字も名前も珍しく、顔の雰囲気もあまり似たタイプを見たことがないというので覚えた。
細身で優雅な身のこなしが印象的で、トリノオリンピックのシーズンのプログラムはよく覚えている。金メダルを取った荒川静香さんの話題性に隠れがちだが、高難度ジャンプ時代になる前の優美なフィギュアスケートを体現した演技だったと思う。
昨日(2026/02/13)、テレビでものすごく久々に見た。億単位で稼いだのに使い切っちゃった人たちというテーマでの登場だったが、村主さんの場合は現役を長く続けた分の出費で消えてしまったということで、(他の人のような阿呆な散財ではなく)限界まで挑み続けたからこそのちょっと悲しい経済事情。フィギュアスケートはとにかく金がかかるのだ。
で、そんな村主さんは今何をしているのか。現在はアメリカにいて、若い子たちにスケートを教えているとのこと。現役時代の演技に感動して是非村主さんにとコーチを頼む人が少なくないようだ。当時フィギュアスケートを見ていた人ならそりゃあ頼みたくなるというもの。

……というだけならフツーじゃんという話だが、これだけではなかった。

なんと、映画プロデューサーをやっているとのこと。映画!?
元々はアイスショーのためにスタッフを集めてチームを作ったのだが、コロナ禍でショーを開催できなくなり、どうしようかとなった時にスタッフに「映画を作りたい」と言われてじゃあやるかとなったらしい。
それからは映画を作り続け、賞を取ったこともあるらしく、今は良い映画を撮ることに力を尽くしていらっしゃるようだ。

現役時代の印象ではどちらかというと気難しくて何を考えているのかわかりにくいタイプのように勝手に思っていたのだが(ごめんなさい)、今回見た限りでは朗らかに仕事に邁進する素敵なお姉さんだった。元々本当はそうだったのかもしれないし、引退後の体当たりの仕事でちょっと変わったのかもしれないし、それはわからないが、いずれにせよ今の村主さんはとてもいい感じがする。
引退後何してるんだろうと思っていたので、たまたま見たテレビで知れてよかった。