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重要視と重要性2026/05/28

自分が重要視しているものは重要だが、自分が重要視していないものは重要でない、ということはよくある。私も多かれ少なかれそうなのだろうし、これから逃れることはできないのかもしれない。

自分が重要視していることは厳密に理解してもらわねば困るが、自分が特に重要視していないものは別にどこにどういう違いがあろうがどうでもいい、ということ。
自分を世界の基準と一体化させていると、自分にとってそうなら世界にとってもそうと思ってしまう。
万人に共通であろう重要性というのはもちろんある。人として真っ当に生きるとか社会を存続させるとか地球を持続可能にするとか、……いや、これもどうでもいい人はどうでもいいらしいし例として相応しくないな。「自分が明日も生きていること」くらいにしないと万人共通にはならないかもしれない。
要するに、自分の重要視と他者の重要視は全く違っているということ。自分が重要に思っていることも他の人からしたらどうでもいいし、自分がてんで重要視していないことが他の人にとっては何より重要であるということが当たり前にある。

問題は、このことが知性の評価と結びつきやすいということだ。つまり極端に言うと、自分が重要視しているものを厳密に理解できないやつは馬鹿で、自分が重要視していないものに真剣になっているやつも馬鹿ということになる。
恐ろしい話ですね。

茶の間茶の間茶の間~2026/05/27

「おさかな天国」という曲がある。日本に住んでいて知らない人はいないんじゃないかと思う恐るべき大衆ソングである。
全国漁業協同組合連合会のキャンペーンソングとして作られたものということで、全国のスーパーでかかっていたしテレビでも魚の話をする時にかけられることが多かったのでまあ誰でも聞いたことはあるに違いない。
でもただ聞いたことがあるだけでは誰もが知る歌ということにはならない。メロディー、歌詞、歌声のインパクトで一回聞いただけでもう覚えてしまうような曲なのがすごい。そしてそれをあっちこっちで繰り返し繰り返し聞くものだからもう頭から離れない。魚を買おうと思ったというだけで反射的に口から「さかなさかなさかな~」と出てくる始末である。

で、それとは全く関係ない話だけども、私はSNSとの付き合い方がうまくないので前から困っている。というのは、「短文をすぐさまポストできる」という形式により、自分が考えたことをしばしば垂れ流しにしてしまう悪癖がある。
このことについては言葉の経済効率でも書いたばかりだし、私という不思議な生き物を観察することについての諸々など何度も書いている。
考えの垂れ流しというのはシンプルに迷惑になり得る(知り合いが何か書いていたら読んでしまうものであって、すなわち時間泥棒になる)し、短文ゆえに自分がフォーカスしているもののエッセンスだけを喋ることになるから、どういう文脈で、何"ではない"話なのかというのが読み手に見えにくく、不親切な表現になってしまう。その結果誤解が生まれることもあるし、考えの垂れ流しはコミュニケーションではないから、他の人の考えと相乗効果を生めないこともある。
SNSでも投稿は投稿なのだから、「この文章を人のいるところに投稿するぞ」という意識を持ち、そして他の人の投稿と反応を起こし合うことを楽しむ態度を作った方がいい。

一人で考えたい時は一人で考えられる場所で考えるべきで、そしてまとまってから公開するという流れを守る必要がある。
で、私はこのサイト、こののらてつの茶の間という場所をわざわざ作っているのであり、何ポストにもわたって連投するような規模なら本体の記事か茶の間記事かにきちんとまとめて投稿すべきなのだ。
そうわかっていてそのように出来ていないのは、思考垂れ流しモードになっている時にそのことを思い出せないか、思い出しても脇に置かれているから。

ということで「おさかな天国」の出番である。Blueskyを開いて何かを言いたくなったら、「茶の間茶の間茶の間~茶の間~が~ある~でしょ~」と頭の中で口ずさむことにする。つまり、望ましくない行為を引き止めるトリガーを、「軽率に投稿しない」という心がけから、「歌を歌う」という行動に変えるということだ。
もちろんそうすることを忘れてしまうだろうけども、100%「意志の力」の問題であったのが単純に「歌うということを覚えているかどうか」の問題になれば心持ちが随分変わると思う。

「のらてつワールド」のある種の効用2026/05/27

自分の認識の空間については「のらてつワールド」という表現をしている。
これは「個人的な話ですよ」「独自の定義で話していることがありますよ」ということを示す意味があるけれど、他にも効果がある。
自分が何か個性的なことを考える時に、それが自分以外の存在に通用すると思わないようにする、ということだ。

自分独自の視点というのは大抵が「自分にしかわからないもの」であって、他人にとって有効なものにするためには相当な洗練の努力が要る。
その努力なしに提示したって「なんか言ってるな」程度にしか思われない。自分が余程の大人物――偉大な哲学者のような――でない限り、「これは何を示しているのだろう?」と真剣に考えてもらえることはない。
実際、全然有効ではない発想であることが多い。発見をしたつもりが、単に有効でないから世の中で言われていないだけというパターン。

自分のワールドを区切って、そこから外に出す時には「おうちから出てやっていける?」と問うことが、自分の勘違いを抑止するひとつの策になっている。

言葉の経済効率2026/05/24

例えばBlueskyにポストしたようなものを紙に書き直そうかと一瞬思ったものの、300字みっちり書いていた場合「般若心経が260字ちょっと」ということを考えるとちょっと無理かもしれないという感じがしてくる。
そして「じゃあ印刷するか?」とこれまた一瞬思ったものの、多分1頁に3~4ポストくらいしか入らないのでえらい枚数になってしまう。印刷代も馬鹿にならないし、単純に紙が増えすぎる問題もある。
デジタルのメモをわざわざ紙化しようとしているのには理由があるけれど、実際やるのは無謀かもしれない。

ところで夏井いつき先生は俳句に関して「言葉の経済効率」という言い方をする。それで言うと般若心経はあまりにも言葉の経済効率がよすぎる(漢文なのだからそれはそうということはある)。
そして自分の言葉の無駄を反省している。放流すれば読んでくれる人がいて、自分の言葉に無駄があるならば、その人の時間をただ奪ったということになる。読むかどうかは読み手の責任と言ったって、関係性の都合上、読まないことを選択するのが現実的でないということは普通にある。それをわかっているならば、必要な分だけ差し出すようにした方が誰にとってもいい。

今日は無駄な言葉をたくさん放ってしまった。反省。

支持の種類についてのつぶやき2026/05/24

アメリカのトランプがさすがに支持率を落としている。
高市政権について、小沢一郎は「浮ついた人気は何かの拍子に落ちる。きっと夏ごろまでに、この人気はなくなるだろう」と語った。

トランプを「推し」としているアメリカ人のうちかなりの数はあくまで自分の暮らしの改善や自分の価値観の正当化を願ってのことであるから、それが叶わないとなれば支持が離れる。
一方で高市を「推し」としている日本人のおそらくほとんどは具体的な期待というより漠然と好感を抱いてのことで、それゆえにかえって幻滅の契機もないから、高市人気は一時的だ限定的だという予測はあまり当たらないんじゃないだろうか。
よっっっっっっっっっっっっっぽどとんでもないことにならない限り、現状ほかにカリスマ性を感じさせる議員なんかいないのだから、大衆の気持ちはそう簡単には変わらないだろう。高市政権の実情がどうであれ。

日本国民の生活は極めて苦しくなっているのではないかと思う。そして国民の生活が苦しいということは為政者の責任である。しかし、日本人の理屈というのは気分で簡単に変わるもので、為政者の責任を問おうとするのは為政者の責任にしたいという気分の時だけだ。為政者の責任にしたいとそれほど思わなければ厳しく問うことはしない。
石破茂に対しても最後は同情的な人が多かっただろうし、「これは一人の責任じゃないよね」「この環境ならよくやったよ」と感じれば大目に見たくなるものだ。
思想的なバックグラウンドがあんなにも怪しいのに、それでも初の女性首相が、にこにこと柔和に微笑み、そして落ち着いた毅然とした態度でいるというだけで、多くの国民を安心させてしまえる。
日本人の気質と歴史が高市政権の支持を意味不明なほど高く維持しているのだと思う。支持の理由が曖昧であるがゆえに、いつ転落するかと誰もが思いながら、逆にわけもわからず高止まりし続けるのではなかろうか。

「プライドが高い」2026/05/16

遠い昔にディベートがうまくできなくて発狂した黒歴史がある。その時自他が感じたことは共に「なんてプライドが高いことか」ということだったろう。
でも今考えると、そこにあったのは「プライドの高さ」ではないんですよね。ただひとつ、「自分の無さ」があった(謎の日本語)。

強権的な、他罰的な、「批判的」で「知的」な親というものの下で育った場合、その物言いをコピーしてけば、他の同年代より遥かに速いスピードで「それらしいこと」をインストールできる。受け取らされた既成の「知」によって自分が知的になったと錯覚し、その「飲み込み」によって評価を得ることになる。
そうなると自分が知的に無能であるということは全く思いもよらないということになるわけですが、実際のところ自分で物を考えるということをほとんどショートカットして生きているので、誰も気づかないけど結局のところおそろしく無能のままになっている。インストールの能力だけが高まっていく。

ここで自分の知が揺らいだ時、何にも対処ができない。対処法に皆目見当がつかない。頭の中に警報が鳴り響き、この異常事態を一刻も早く終わらせてしまわなければならないと焦燥に駆られる。それが発狂である。
別にちょっと落ち着いて考えればいいようなことでも、それは実のところ「ちょっと」という時間や「落ち着き」という精神の安定の問題ではなく、その時点でそうすることは一切不可能なのである。

真に知的な人というのは知の得難さを思い知っており、よくよく備えて生きていかねばならないということを肝に銘じているので、そのように子どもにも伝えるだろう。そうではなく、「知」そのものを押し付けて「知を持つ人間」を作り上げようとするのはおよそ知的な育て方とは思われない。
その結果、「プライドが高い」という永久に的外れな評価で刺され続け気が狂って暴れ散らかすモンスターが誕生するわけですが、運が良くないとそこから脱して「物を考える人」に生まれ変わることはできないだろう。
運が悪いとどうなるかというと、真実を暴かれることを漠然と恐れながら虚勢を張り続け人から呆れられる人間としてそのまま寿命を迎えるか、実は無能であるという真実に自分が耐えられなくなりそこで生涯を終えてしまうか、そのどちらかになるんじゃないでしょうか。

義憤と知性2026/05/10

道徳的な怒りと距離を置いていて且つ自分の知性に自負のある人の中には、道徳的怒りに駆られている様子それ自体を頭悪く思っている人がいるように感じることがたまにある。
しかし道徳的怒りが自分の中心に居場所を得ることがあるかどうか、知性があるかどうかはそれぞれ別の話だと思うし、道徳的な怒りは必ずしも制御不能になっているとも限らない。

もちろん、制御不能の狂戦士状態で思考力が麻痺しているということは実際ある。自分の半生の経緯によって脳がスイッチを入れてしまうという人もいるだろうし、単に知的訓練が不足しているせいで「怒っていいタイミング」に飛びついてしまう人というのもいるだろう。

とはいえ、道徳的に腹を立てている様子を見ただけで反射的に「またこのパターンか、やれやれ」というふうに解釈するのは早計にも程があるだろう。

宇宙2026/05/09

地球ドラマチックでアルテミス計画のことをやっていた。

私は地球科学が好きで、その延長として宇宙がどうなっているかということにも人並みの興味はある。
宇宙とは何であり、何でできていて、これからどうなっていくのか。ハッブル宇宙望遠鏡による幻想的な画像にもしばしば感嘆する。

その一方で、「宇宙に行く」ことには僅かにも関心がない。宇宙飛行士が熱弁を振るっているのを見ても、地球を飛び出してまで発展しようとするホモ・サピエンスの強欲に気持ちが冷める。人類の未来のためねえ。ふーん。
宇宙に行くというのは、もはや「宇宙とは何かを知る」というためではない。資源のためであり、何かに利用するためにやることだ。それがとても大事だと思う人にとってはそれは大事なのだろう。私は人間の欲望にうんざりしているので、そんなのやめたらいいのにと思っている。

絶対に淘汰されない唯一の場2026/04/22

テレビ、SNS、生成AI、と人間を自身の思考力の不足に気づかなくさせる仕組みがエンタメやビジネスの中心に巣食い続けている。
思考力がなくなることの恐ろしさというのはつまるところ、政治判断の失敗で「国」や「人類」という単位で滅ぶことに直結するところにあるだろう。
それが何をもたらすかは、ドイツでもアメリカでも既に示されていることだ。

逆にその他のことは、思考力の低下はいっときの衰退をもたらしはしても直ちに致命的なことにはならず、どうにか盛り返すに至る可能性を残しているように思う。

思考力がどれほど不足しようと絶対に淘汰されないおそらく唯一の場が投票だ。他の場なら何かしらの手段で追放される可能性がある。
何者にも権利を奪われないことが仇となる日が来ないことを祈っているが、直近の二回の国内選挙を見ても、まあ時間の問題だなと思う。

松岡朱里さんと三山賀子さん2026/04/19

松岡朱里(まつおかじゅり)さん、三山賀子(みやまよしこ)さんはともに2001年生まれ2024年入社のテレビ朝日アナウンサー。
新人の頃から肝が据わったしっかりした印象で非常に好感を持てる。

松岡アナは入社初日から羽鳥慎一モーニングショーのMCを務めていて、とてもきちんとした受け答えをして貫禄がある。癖のあるコメンテーターたちを前にしてもおどおどすることもなく立派だ。
三山アナも入社当初からグッド!モーニングに出演している。柔和でふんわりした雰囲気だがインタビューなどには聡明さがうかがえる。何事にも心から関心を持っていることが伝わってくるし、言葉選びはいつも的確な感じがある。
アナウンサーの入社試験の狭き門を突破しているのだからそのくらい当たり前かというと、先輩・後輩を見てもまあそうでもないなという感じで、彼女たちが特別優秀なのではないかと思う。
私には到底彼女たちのような仕事はできないし、いつも尊敬の気持ちでもって見ている。

そしてお二人は仲が良いということで、それもたいへん好ましいしとても納得感がある。
若手で一番好きなアナウンサーたちである。

個人的禁止ワード2026/04/14

口で何か喋る時に使ったら負けだと思っているもの。
「なんか」「すごい」「~かなあと」「~だったり、~だったり」「<感謝など>しかない」「うん」「ほぼほぼ」「めっちゃ」「めちゃくちゃ」(以下適宜追加)

なお一部を除いて、書く時は逆に気にならない。
というか、自分がいま公と私の数直線上のどこにいるものとして言葉を使っているのかの問題なのだろう。公寄り、私寄りという概念がない感じのトークは苦手。

やられている2026/04/13

テレビでもラジオでも頻繁に耳にするが、「やる」の尊敬語として「やられている」と表現するのはどうも馴染まない。
「されている」「なさる」「おやりになる」ではいかんのか?
というか、「やる」を日常的に使いすぎでつい「や」で始めてしまうからもう「やられている」と繋げるしかなくなってしまうのではないか。

ギャラをもらった仕事でやっているにもかかわらず話し方が軽率過ぎる。考える間もなく発話してしまうから後手後手で帳尻を合わせる羽目になっているように思う。そしてそんな調子で帳尻が合うわけがない。
仕事として人と話をする場なら発話にあたって表現を適切に整えるくらいの思考時間はあって然るべきだし、相手がそれすら待てないようならばそちらの方が公の場で話す態度としてどうかしている。

心はかたく、頭はやわらかく。2026/04/12

心はかたく、頭はやわらかく。それがダンディってもんだぜ。

「おしりたんてい」に登場の、おしりたんていの父親おしりダンディの若かりし日の台詞。
なんだか妙に納得してしまって印象に残った。

クイズ番組2026/03/26

クイズ番組が近年大流行りしていた。
それは基本的には好ましいことだったと思う。何かを知るということに興味を持ち、それを勉強然とした形ではなく笑いながら楽しんでやることができるのは良いことだ。
「クイズ」という括り方をすることで森羅万象あらゆることを扱えるのも、いわゆる勉強にはない良さだと思う。

続き(ネガティブな所感)

けれども、「知」をクイズ的に解釈することは正直に言って少々浅薄な態度だと思うし、「クイズができる」というのはそれだけでは「クイズができる」以上の意味を持たない。「知性がある」と「クイズができる」をイコールで結んではならない。
クイズ番組には様々な経歴の人が出演するが、知的に物を考えることに於いて実績があったはずの人がある種の無知を暴かれて恥をかくことが度々あったことには、実際幻滅する気持ちと、逆にクイズごときの失敗でクイズ的でない知性を侮られるのはどうなんだという気持ちもあり、色々と複雑な思いを抱かざるを得ない。
クイズができるということで出てくる人が時々自分の立ち位置をなんか変なところに置いているようなのも気になるところだ。

クイズ番組というのは多種多様な「侮り」を目にする機会でもあったなと思う。
クイズ番組を侮って何の準備もせず出演して大恥をかく人。
クイズが得意という自負から万物に精通しているつもりで大言壮語して失敗する人。
クイズに対応できなかった知識人に対しその業績も無価値だったかのように笑う人。
学生時代の成績なんかを持ち出してきて自らハードルを上げながら何も成果を出せない人。
バラエティ番組としての「テレビ的な」振る舞いというのを差し引いても、ああ、高を括っているな、と感じることが毎度あった。要らんことを敢えて言って「痛い目に遭ってみせる」という芸をしようとしていた、とは思えないことが多かったし、仮にその意図でやっていたとしても「そういう芸人」でない限りは別に面白くない。

何かが存在するかしないかを考える時に、その道の大家でもないのに根拠として「自分は聞いたことがない」を出してくる人が時々いる。しかしそんなものを持ち出して何の意味があるのかと思ってしまう。その人なら聞いたことがあるはずだとは他の誰も期待していないだろうに。
クイズのスターという感じで言われている人がこの間それで盛大に失敗していたが、まあ、あくまで「クイズの人」だし、視聴者も必ず正解するはずだとはそんなに思っていなかったのではないかと想像する。そんなものだ。

いろいろ書いてきたが、そんなクイズの流行もテレビでは終焉が見えつつある。
クイズ作家たちはもうあまりテレビに協力していないのか(過労で疲弊したのかもしれない)、ここ数年は単なる雑学クイズばかりだし、長年やっていた某番組も終わりを迎えた。(後継番組はあるが、リニューアル後は別の方向を向いたものになっている。)
少し寂しいなと思う。

きかんしゃトーマス2026/03/25

NHKのEテレでアニメが放送されている。現在のシリーズは日本では2022年からのようだ。
昔の実写版とは違って、今のアニメ版は嫌な人、嫌な態度というのが全然出てこない。いわゆる「やさしいせかい」になっている。トップハム・ハット卿は機関車たちを心から大事にしているし、ゴードンもトーマスにいじわるを言ったりしない。パーシーは出てくるたびにトーマスに親しみを表現するし、みんな信頼し合う友だちだ。メインメンバー以外ではちょっとした文句を言ってくるキャラも出てこなくはないが、そのキャラなりの信条があってのことで、不快な感じはしない。
基本的には教育番組らしいオーソドックスな展開で、加えて毎回歌のシーンがあってその部分はちょっとミュージカル調になっている。そして使われている色味は優しく明るいもので、全体的に能天気で牧歌的な空気である。

で、如何にも子ども向けのアニメではあるのだが、見ていると時折身につまされることがあって侮れない。毎回何かしらのトラブルが起きてはそれをみんなで協力して解決することになるというThe教育番組だが、さすがに今の時代になるとなかなか巧みにできている。
嫌なやつは一人も出てこないのに毎度トラブルが起きるのはつまるところ「きちんと人の話を聞かない」「曖昧に指示する」「うっかりする」「甘く見て油断する」という「社会人あるある」である。誰も馬鹿ではないし愚かでもないし悪いやつでもないのに問題は起こる。それが私には逆にリアルに感じられる。
顔がついていて喋ったり歩いたり手っぽいパーツを伸ばしたりする機関車はどう見てもファンタジーなのだが、彼ら彼女らは「仕事をしている」存在なので、展開を追っているとところどころちょっと胃が痛くなってくる感じがある。自分自身の失敗も呼び起こされるし、こういうことの積み重ねであの会社はあんな不祥事を引き起こしたんだろうなとかそういうことを考えてしまう。
毎度人の話を聞かずに失敗する機関車たちに、子どもは「また同じことやってるー!ばかだー!」と思って笑ったりするかもしれないが、大人はこのアニメが如何に教育的かを人生経験からしみじみ感じ入ってしまうだろう。

トーマスたちは必ずリカバリーできるし、失敗した子が厳しく怒られることはなく(代わりに自分で気づいて自分で深く反省する)、それは現実にはない優しさだろう。実社会もこうだったらいいのになという思いを抱きつつ、笑って楽しめるよくできたアニメである。

自分を「普通」と信じて疑わないということ2026/03/24

自分は絶対に「普通」である、「普通」でないはずはない、と固く信じている人というのがいるが、その頑なさが既に「普通」ではないように思える。
逆に「普通でない」方が都合がよい人は、自分は絶対に「普通」でない、「普通」であるはずはない、と固く信じていたりする。「普通でない」というのはそうやって信じることによって生まれるものではない。

どちらも似たりよったりというか、多分同じことなのだが、つまるところ自分と他人のずれを当たり前のこととして許容できていないということなのだろう。そのずれは他人の異常性によると思えば自分の方が普通だと主張するし、自分の異常性による(=ずれが生じないように自分が努力することは不可能である)と思えば自分は普通でないと主張する。
はっきり言ってほぼ全ての人間が何かしらおかしいし、何かしらおかしいのが普通だと思う。まあ一切なんにもおかしいところなどないという人もいくらかはいるだろうが、それ自体が極端な偏りを示していて、ある種のおかしさがある。
当たり前におかしい者同士の間で、どうにかずれを減らして円滑に過ごしていく、そのために各々が努力していく必要があるのが社会というものだろう。

「普通」に対する感覚は大抵親などからそのまま引き継いで引きずっているのだと思うが、親が己を普通だと信じていても、まあ当たり前に何らかの異常性はあるし(それが普通)、自分の親がまずおかしかったということを認めることが第一歩だろう。

私という不思議な生き物を観察することについての諸々2026/03/23

私は「自分自身を不思議な生き物と思い観察している人」に親しみを覚える。
不思議というのは「特別」でも「優れている」のでも「劣っている」のでもなく、ただ不思議ということだ。他に同じ要素を持つ人がいようと、あるいは全ての人が同じ要素を持とうと、他人がどうかは関係なく自分自身がただ不思議なのである。
そして観察とは文字通りの観察であり、私とはこうであると結論づけるための試みではない。ましてや自分を機械のように解釈して全体を説明できると思うものではない。
他人のことも不思議には不思議だが、自分自身の不思議を相手にすることに忙しいので、私は他人のことは割とどうでもいい。他人に興味がないわけではない。解き明かしていく対象として他人を設定しないということ。よって詮索する趣味はない。

観察対象が自分自身であっても、何か発見があれば嬉しくなり、しばしば何かしらの形で発表したくなるものである。それが平易な文章で行われれば「自分語り」の一種として見られるが、あくまで観察結果の発表であって、自分を何かに見せかけようとする意図は基本的には伴わない。
自慢は自己の観察結果とは根本的に違うものだ。というのは、自慢は他者と比べて己が優れていると評価しているから行われるのであって、他者の存在など関係なくただ己を不思議に思って観察するものとはまるっきり性質が違っている。
そもそも、発表したいというのはこれまた文字通り発表したいということであって、それを他者がどう思うかはほとんど考えていない。他者が読めるように整える気遣いはするが、それを他者が読んで褒めてくれたらいいなどとは露ほども思っていないのである。共感する人がいたら嬉しいとは思うし、自分と向き合うことについて誰かのヒントになったら喜ばしくはあるが、そのように言われたいとは思わない。

「発見を発表したくなる」というこの癖は時に悪癖となる。
この発見というのは、自分自身の不思議について、時に半生をかけて考え続けてきた結果のものであり、だからこそ発見が嬉しいのだが、それを読んだ側にとってはそれほどの重要性を感じられないものだろう。よって、「半生をかけてきた観察結果の発表」に対して、何分もかけずにさらっと斜め読みして「あはは、それってこういうことなんでしょうね」などと軽い反応をされるということが時折発生する。(私がのらてつとして書いていてそういうことがあったという話ではなく、一般論としてこの構図ならどこにいってもそれは起こり得るのだという話。)
この熱量のギャップ、すなわち真剣味のギャップは、話の内容の素朴さとは裏腹にかなり深刻に不和を生みかねない。そして有名な作家などでも時々見られるように、柔軟なようでいて気難しいとか、冷静なようでいて感情的とか、はたから見たら奇妙な矛盾が生まれることになる。

先に「悪癖」と書いたように、これは軽い反応をした読み手が悪くて起こることではない。読み手が十分に慎重なら避けられた摩擦であるにしても、そのような繊細さをいちいち他人に求める方がどうかしている。(私自身それを幾度も反省する羽目になっている。)
要は発表が軽率過ぎるのである。
もしも明確に研究の形をなしているなら、考えなしに勢いで発表してしまうということはないはずだ。入念に準備をして、受け手の反応を想定し、想像しうる限りのことに備えた上でいざ発表となる。一方で、自分自身の観察というのは極めて個人的なものであるがゆえに、実際そこにある真剣さを自分でも忘れて、世間話のようにして軽々しく発表してしまうことがある。自分から発表しておきながら、それに対する反応に対してまるで無防備なことがあるのである。

とはいえ、軽率に発表してしまうからこそ言えること、知れるものはたくさんある。自分自身を観察している人々から軽率さが一切取り除かれたなら、みんな口を噤んで自分のことを発表などしないだろう。ものすごく親しくなって初めてそっと打ち明けられるというほどに秘められたものになってしまうかもしれない。
しかし別に自分のことは秘密ではない。そうやって秘めてしまうのはどこかまずいことではないかと思う。本来軽率に発表してしまえるほどあっけらかんとしたものだったはずなのに、熱量のギャップに気分を台無しにされることを避けて閉じてしまうのは、他の同類との出会いを難しくするし、早い話が「面白い話」が世の中から失われすぎる。
軽率さを敢えて残しながら、最低限のコントロールをしていく、そのことに尽きるだろう。

いずれにしても、このようなタイプというのは稀にいて、知り合えばおそらく互いに親近感を抱く。しかし意気投合して盛り上がるということには必ずしもならない。そもそも自分の観察の方に一生懸命であるし、相手の観察結果も慎重に注意深く扱うから、同じ空気を吸ってちょっと微笑む以上のことは起こらない場合もある。SNSで言えば「いいね」をつけるだけになることもあるだろう。
「ワタシトアナタ、ニテル!」と勝手に思ってそう伝えたいというようなことは時々あって、しかし実際にそう言うわけにはいかずにただ念を送っているみたいなことになるのだが、それ以上距離を詰めることなく見守っている時間というのが案外豊かなのじゃないかと思っている。

阿呆2026/03/22

判断ミスを取り上げた番組などを見ていて「馬鹿だね~」という感想を持つ人。

「自分のことが見えていない」2026/03/21

他人から見た像と本人の像が一致していない時、他人からは「自分自身のことが見えていない」というふうに思われる。
それは間違いとは言わないけども、本人の中には他人に見える形になっていないものが果てしなくあり、それを前提にすれば現状というものは必然的にそうなるという状態になっているはずなわけで、情報が「ない」のではなく「ありすぎる」ことによって起きているズレなんじゃないかと思う。
だから自分自身の情報を見せることで他人から見た像の方を変えて整合性が取れるようになる人が(特に近年では)たくさんいる。

まあもちろん、「自分自身のことが見えていない」と指摘したくなる状況というのは色々あって、明らかに自分の能力を高く見積もっているとか、抱えている怒りの正体を本人がわかっていなくて変なところに向けて暴発しているとか、そういうシンプルに困った迷走もある。
今回言いたかったのは、他人を単純に見て話を片付けようとしてはいけないのではということ。