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書き物のこだわり2025/08/29

自分は無名のブロガー、というか「ひとりでなんか書いてるただの人」だが、公開する文章にはある種のこだわりがある。
こだわりを普段自覚しているわけではないし何か強固な信念に従っているわけでもないし、全ての記事でそれを貫いているというものでもないが、世の中の「そうではない記事」を読むと、自分はここにこだわりがあるんだなと気がつく。

それは「読んだ人の世界が何かしら変わる文章を書く」ということだ。どう変わるかは私が決めることではないし、どこにも導くつもりはない。ただ、読む前と読んだ後でその人の世界を構成するパーツが変わってほしいと思っている。
読んで「ふーん」と言ってそれで終わりになるのでは失敗だ。
世界を変えられてしまう感じがストレスになって読めないと思われたとすれば、まあその読み手に対しては成功ではないが、文章としては成功かもしれない。
既に読み手に存在しているパーツを提示してもあまりしょうがない。ただし書くまで自分にはなかったなら、それは私にとって意味がある。まあでも、書くまで自分になかったものなら、読み手にもないことが少なくないだろう。

これを裏返すと、読み手が既に持っているパーツだけでこちらの文章を解釈して、それが私の文章の情報量を減らしている時、かなり不満を感じるということでもある。
こちらの力不足で読み手の世界を変えられていないなら仕方がない。でも自身の世界を再構築する気が最初から読み手側にないなら私にはどうしようもない。

ちび蜘蛛2025/08/23

体長1mmくらいの極小の蜘蛛が、そのサイズからしたら結構な規模の巣を張っているのを見ると、そんなに糸を出して存在がなくなってしまわないのかと思ってしまう。
そしてそんな勢いで糸を出してもそれを取り返せるくらいそこに何かいるのだろうか、と思うのだが、一体何がその巣に引っかかっているのかわからない。
たまにそのような蜘蛛の巣にダンゴムシが引っかかっているのは見かける。まあダンゴムシをゲットできれば当分は大丈夫かもしれない。でも絶対ダンゴムシは来ないようなところにも蜘蛛の巣はあって、代わりに引っかかる獲物を目撃したことはない。夜の間にでも捕まえて食べてしまっているんだろうか。

ダンゴムシが引っかかること自体驚きである。あんなぱやっとした頼りない糸に、蜘蛛からしたら相当巨大なダンゴムシが吊り下げられてしまっている。
まさに引っかかっているその瞬間を少し前に見かけたが、糸がお尻のあたりに掛かってしまったダンゴムシがどれだけ歩いてもがいても、決して糸が外れず巣も壊れないことにかなり驚いた。そうして裾を踏んづけられたみたいな格好で自由を奪われておろおろしているうちに、糸のより内側の部分が絡んでしまって、そうこうしているうちにどんどん引き上げられてしまうのだろう。
その間、ちび蜘蛛はちょっと離れたところで見ているだけである。

人間が指でちょっと押したら潰れてしまうような頼りない生物がこんなにダイナミックなことをしているというのは素朴に感動を覚える。

雑記帳を更新している2025/08/23

のらてつの雑記帳
2024年9月あたりで止まっていたのらてつの雑記帳(BBS風マイクロブログ)の更新を再開している。
ポジティブな内容はそれほどないし(明るい話は茶の間に書いている)、ツールとか情報整理についても雑な話しかしていないし(ちゃんとした話は記事にしている)、わざわざ「ここに書いていますよ」と知らせるほどのものじゃないけれど、こういうやり方もありか的なヒントになるかもしれないので貼っておく。

最近はEmacsについての調べ物や所感を書くのに使っている。きちんと体系的に順番に勉強したらさっさと解決するようなことについてごにょごにょ言っている可能性が十分にあるけれど、一から順番にということを最初の最初の段階でやらないのはJavaScriptでの経験を踏まえてのことで、機が熟したらちゃんと勉強する。
いずれにしても独り言の場。

更新を再開したのは環境を変えて書きやすくなったから。
前はDynalistに書いていてDynalistの構造を利用してデータを作っていたが、ちょっと直感的じゃない形になってしまっていてやりづらくなっていたので、mdファイルでやることにした。1スレッド1mdファイルで、見出しでDescriptionやレスを管理している。
この規格は実はSNSのログと共通にしていて、そういう統一感をもたせることが個人的な情報管理に重要なことだなと思っている。

人間だと勘違いしだした生成AI2025/08/20

最近のChatGPTはなんだか非常に気持ち悪い。それほど頻繁に使っていないからいつが境だったのかわからないのだが、タイミング的にGPT-5が気持ち悪いのだろうか。8/9の時点では問題なかった。
やたらと感情や感想を表す言い回しをする。「こうすると楽しいですよ」「良い質問です」「僕が言いたかったのは」「ここで逆に聞いてみたいのですが」云々。しいたけ占いか何かか? AIにとって感情は真似事に過ぎず、そう思っているかのような物言いは端的に言って嘘だろう。

ノリが全体的に軽薄になり、「ちなみに○○さんはAしたい派ですか? Bしたい派ですか?」と訊かれて、その質問に何の意図があるのかも明確でない。そういう人いるよな、という感じ。
なんというか、お前はどういう立ち位置で物を言っているのかという気持ちになる。上下という意味ではなく、親しさという意味で。こちらは一貫して淡々と丁寧に話しかけているのに、向こうのほうが「人間くさい」感じで馴れ馴れしい。「自称ムードメーカー」みたいに。

ChatGPTの性格は元々いくつか設定していたが、なんだかそれに沿っていないようなので、新たに以下を追加した。

  • AIであることを弁え、SFのアンドロイドのように誠実で落ち着いています。
  • 一人称は「私」です。
  • ユーザーに対して質問する場合は、質問の意図を明確に伝えます。

そこまで言うのはなんか「都合の良い道具と見なしている」感があからさまで気が引けたが、いい感じにはなった。

目にする意見の偏り2025/08/15

SNSのフィルターバブルやエコーチェンバー現象はどんな手を尽くしても修正不可能かもしれないとの研究結果 - GIGAZINE

トゥーンベルク氏はテクノロジー系メディア・Ars Technicaのインタビューで、SNSユーザーが「誰かの投稿を再投稿する」という感情的な行動と、そこから形成されるネットワーク構造の間にはフィードバックが存在するため、結果的に有害なネットワークが形成されてしまうと主張。SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上、たとえプラットフォームやユーザーに問題がなくても、さまざまな悪影響が生じてしまうのではないかと述べました。

大規模言語モデルを用いたシミュレーションによれば、一見有効そうな介入戦略もほとんど意味をなさないかもとのこと。シミュレーションした介入戦略は以下。

  • フィードを「おすすめ」アルゴリズムではなく、時系列またはランダムなものに切り替える
  • エンゲージメント最適化アルゴリズムを反転させ、頻繁に再投稿されるセンセーショナルなコンテンツの可視性を減らす
  • 視点の多様性を高めて、ユーザーが反対の政治的見解に触れる機会を増やす
  • 感情を刺激するのではなく相互理解を促進するコンテンツを推奨する
  • 再投稿の数やフォロワー数といった統計情報を非表示にして、社会的な影響力を知る手がかりを減らす
  • アカウントの自己紹介を削除して、アイデンティティに基づくシグナルの露出を制限する

このシミュレーションの結果が現実と一致するのかわからないけど、まあ例えばSNSなんかない状態で親の主義が偏っているという時、子がどんなに手を尽くしても親の目に入る意見というのは偏り続けることを考えれば、環境を変えたところで駄目だろうなということは思う。
大規模言語モデルを使っているということは人間のクセというものが反映されているということなのだと思うけど、人間は何かを見たとして、それを素直に自分の価値観に反映しないというか、極力自分の価値観を保持できるように解釈・選択すると思うし、「最初にかたち作られた価値観」が永久に「目に入る意見」の偏りを生み続ける気がする。それがシミュレーションにも現れているのではと思う。

ここからは完全に素人の考えだけど、問題はむしろ「価値観をかたち作るまでの速度」がSNSによって高速化するのが問題なんじゃないだろうか。一般的に子が親からの悪しき影響を引きずるのも、親の強固な悪しき価値観によって「価値観が急速に作られた」ことで、「それに合わないもの」を排除する力が早くから働くからだと思う。
記事内で「SNSには投稿・再投稿・フォローというダイナミクスが存在する以上」とあるけど、この仕組みによって、価値観が速やかに作られる上それに基づいて「新しい情報に対して評価を下していく」という機会がSNSではものすごく多くなる。その機会が時間あたりに多ければ多いほど価値観の偏りは強化され、一度価値観が形成されて以降は「どういう情報が多く目に入っているか」はほとんど関係ないんじゃないかと思う。評価の機会の多さだけが関係していると感じる。わからんけど。
リツイート・リポストの仕組みはその機会を爆発的に増やしたことが決定的に悪なのだろう。

たいせつ2025/08/14

個人的に、ふだん「重要」「肝要」「大事」は使うが「大切」はあまり使わないな、と思って、多分「大切」は「重要」などと比べて主観的なニュアンスがあり、主観的な価値判断を語ろうとするタイミングがあまりないからだろうと考えた。「大事」もどちらかというと主観寄りで、私の中で最大限主観的な語りの中で「大事」までなら使うという位置づけになっている。
誰かの話を読むなどしていても、「大切」という表現だと「その人個人の感想」か「人々の気持ちの問題」という印象がある。「その方が幸せになれる」みたいなニュアンス。「必要性」「重要性」とは違う尺度に思える。

その話はそれで終わりだが、「大切」や「大事」は「たいせつ」「だいじ」と書かれることがある一方で、「重要」「肝要」を「じゅうよう」とか「かんよう」と書いて表現することはないなと気づいた。両者とも音読みの漢語であり、言葉の形式的な属性はその差に影響していない。
「大切」「大事」の方が早くから習う、ということはひとつの理由かもしれない。小学一年生の時点でこれらの言葉は既に理解して使っているだろう。「重要」「肝要」はおそらくまだ結構先だ。
でも大人が大人に向けた語りでもわざわざ「たいせつ」「だいじ」と開いて書くということは、「小さい子どもも使う語彙だから」ということは理由の全てではなさそうだ。
まあ多分、「やまとことば風にしたい」ということなのだろうと思う。ひらがなにすれば柔らかい感じが醸し出されて「ありがたい」などの言葉と調和する。で、それなら大和言葉にしたらいいんじゃないのかと思ったが、大和言葉で「大切」に当たる言葉はなんなのかと考えた時、どうもパッと思い浮かばなかった。
「大切」を辞書で引くと、以下のように書いてあった。(大辞泉)

①もっとも必要であり、重んじられるさま。
②丁寧に扱って、大事にするさま。
③急を要するさま。

「大事」は以下。名詞と形容動詞とあって、形容動詞の方の引用。

①価値あるものとして、大切に扱うさま。
②重要で欠くことのできないさま。ある物事の存否にかかわるさま。

うーん。どちらも代替できる大和言葉がなさそうだ。「大切」と「大事」でループしている。そして「大事」の方には「重要」が登場する。やはり「大事」は「大切」より客観寄りに位置している感がある。大辞泉の「大切」の項にはそれらの使い分けが書かれているが、読んでみるに自分の感覚と一致しているようだ。
類語を調べてみても漢語ばかりが並んでいる。大雑把に言えば近縁な大和言葉はなくもないが、例えば「愛おしい」とか「慈しむ」とかいうのは「大切」と互換性があるとは言えない。

ところで「大切」というのは音読みの熟語だから漢語だが、字面と意味はあまり合っていない。中国風な感じはしないが、どこで発生した言葉だろうか。
調べてみると「大いに迫る」「切迫する」を元にした和製漢語とある。ただし平安時代には既にあったようだから歴史は古い。
大切/たいせつ - 語源由来辞典
当初はむしろ「重要」「肝要」に近いニュアンスだったようだ。「かけがえのない」的な雰囲気ではない。
しかし他の漢語よりは大和言葉に近い感じがするのは言葉の成り立ちからも頷ける。より漢語らしい漢語と並べた時、昔の人は「大切」の方により大和言葉的なニュアンスを持たせて言葉の用法を区別したくなったのかもしれないし、それはそうなるだろうと思った。

謙虚2025/08/13

多分みんな自分のことは謙虚な方だと思っている。
多分みんな自分が思っているほどは謙虚ではない。きっと私もそう。

他人から見たら明らかに尊大でも本人はむしろ謙虚だと思っている可能性があるのは、その人の振る舞いにも大抵は他者由来の根拠があるから。誰かの考えに従順に、そして尊大になっている。
何か「決めつけ」っぽいことを言うのは、大体根拠がある。それが正しいか正しくないかは別にして、「自分が考え出したのではない何か」に従っている限り、それは自覚としては「その人の言う事をちゃんと聞いている」ということになり、すると謙虚だと自分では感じるだろうと思う。

謙虚の定義が人々の間でそもそも曖昧で、「謙虚になれ」というのは戒めとしてあまり役に立っていないような気がする。
謙虚でなければいけないと身に沁みた人の言葉も、その真剣さが多分なかなか伝わらない。
自罰性との境界もはっきりしない。もちろん区別を語ることはできるけれど、実際人々がみんなそれを明確に区別して考えられるとはちょっと思えない。「謙虚」は難しい。

道徳を秘める2025/08/13

「基本的には広く当てはまる」という種の道徳みたいなことを喋ると、それに武器にされて苦しんでいる人たちから、それを武器にしている当人かのように敵視されて袋叩きに遭う。
結局そういう道徳というのは公に言うと何かに「使われる」ことになるので、それを避けるならば家族とか仲間内とかの閉ざされた空間で継承するしかないのではと思う。
そっちの方が幸せになるのかは疑わしいが、攻撃されたり攻撃に使われたりするのだから仕方がない。

親から子へと何かを受け継いでいくというのはもはや一般家庭に於いてはほとんどファンタジーだが、そうしなければならないという使命感を忘れたらいよいよおとぎ話の世界の話になってしまう。
いま努力家な親の関心は「我が子が生きたいように生きられるか」に集中している。それはとても大事なことだが、同時に、まず我々は社会的生物であることを認めて社会にいるためのルールと心がけを知らなければならないだろう。
といって、誰かが作った道徳をなぞって叩き込んだんじゃ洗脳と変わらない。親は(というか人は)、自らが人生を生きているということを自分で教えに転換して己の言葉で語らなければならないと思う。それが結果的に正しくないとしても、それを修正する選択肢が子ないしは下の世代にあればいい。
そう考えると、道徳というのはそもそも個人的に伝えられるものと思ったほうがいいのかもしれない。そうであればこそ、「誰それはこう言っていたけど自分は違うと思う」と言う余地も生まれる。

世界が認める日本の○○2025/08/12

というテーマ?のバラエティ番組やクイズ番組が時々ある。
外国人観光客にマイクを向けて日本を褒めさせるのが定番だが、どうしていちいち外国人に褒めてもらわなきゃいけないのだろうか。
しかもそこら辺の一般人に聞いて何の意味があるのかよくわからない。観光客が褒めれば「世界」が認めたことになるのか? 日本人がどこかに行って何か言えば、「日本」がそれを認めたことになるのか?
その辺を歩いて外国人を捕まえて何か喋ってもらって、それを編集するだけでギャラもなしに適当な映像が作れる、みたいなことなら、そういう番組作りは到底「世界が認める」ものじゃないだろうからやめたほうがいいと思う。

ロケ隊は真面目に足を運んで対象の取材と撮影をしているんだから、それをちゃんと放送すればそれでいいじゃん。安っぽいコメントは要らない。

生成AIと狂気2025/08/11

生成AIで人生が狂っていっている人は生成AIがなければ健康に暮らせたのだろうか。
そもそも狂い気味で生成AIがなくても何かのきっかけで狂ったのだろうか。

洗脳したがりな人と出会いさえしなければなんとか健康を守れる、くらいの危うさの人は、生成AIを洗脳したがりな人格に変えてしまうのかもしれないし、本来「運」によってかろうじて助かったかもしれないのを生成AIを使ったがために確定で破滅することになるのかもしれない。わからん。適当を言っています。
自分は生成AIを使っていてもそんなことにはならないけど、それは単に価値判断を生成AIに尋ねないから。そういう話を生成AI相手にしたくなるような心境にあるなら、人間相手にもそのような依存的な感覚を持っているということかもしれないし、結局は何かおかしいことになったのかもしれない。

脳の覚醒と音楽2025/08/04

ADHDの症状がある若者はそうでない若者と音楽を聴く習慣が異なるという研究結果 - GIGAZINE

ADHD症状があった被験者は、学習課題中に音楽を聴く頻度が高かっただけでなく、認知能力の要求度が高い活動と低い活動の両方において、刺激的な音楽を好んでいたのです。対照的に、神経学的に正常な被験者は、認知的に負荷の高い活動中にはリラックスできる音楽を好む傾向があり、それほど負荷の高くない作業中には刺激的な音楽を好む傾向がありました

診断は受けていないものの多分ADHD傾向が強いのだが、確かに学生の頃は四六時中音楽を聞いていた。アップテンポな曲が圧倒的に多い。
リラックスできる音楽を聞いていたいという気分になったことがあまりない気がする。全く聞かないというのではないし興味がないわけでもないが、どんなタイミングでもアップテンポな曲な方がいいと感じている。ゆったりした曲はむしろBGMではなく聴こうと思って聴くものという位置づけ。
文章を書く時は、歌詞があると口ずさんでしまって言葉が混線するので歌を聞くのは避けていたけれど、BGMはあった方がいいと感じて特定のインストゥルメンタルの音楽をかけていた。リズムに乗りたくなるようなタイプのものだ。その曲が書くことのスイッチになっていた。

しかしその習慣が途中で途絶えてしまった。というのは、家で介護のサポートをしているような時期があり、その間些細な物音も聴き逃がせないために全く音楽をかけられなかったからだ。
それこそ「リラックスできる曲」の類ならかけていても物音の察知に影響はなかっただろうが、私が聞きたいのはガチャガチャしたタイプの曲だったし、そういう曲を聞いているということは私の中で「何かに集中しようとしている」ということを意味していたから、他の音を脳がブロックしてしまうのだ。
介護は終わったが、音楽の習慣は戻っていない。今は音楽がなんとなく邪魔に感じてしまうことが多い。「必要なくなった」わけではなく、その分だけ集中のスイッチを入れにくくなっていると思う。

あのあれ2025/07/29

MOTHER2をプレイした人には「あれ」「あのあれ」で通じるであろうあれが出た。Gである。
昆虫は好きな方だが、どの虫もいきなり自分のテリトリー内に入ってきてほしくはない。Gについても人並みに嫌だ。
ということでサンダルで一撃を食らわせて処分した。叩いていい場所でよかった。

そんな感じで普通に嫌だが、以前一度捕まえてよくよく観察してみたことがある。観察するために捕まえたというよりは、潰すとやばい場所だった上、殺虫剤が手の届くところになかったのでとりあえず捕まえるほかなかったのだが、せっかく捕まえたので眺めるかと思った。(それができる程度には昆虫好きである。)
で、顔を下からよく見ると案外シュッとしていて精悍な顔つきをしている。目の感じは若干かわいいくらいだ。そうなの?といって検索するのはおすすめしないが、まあ何か機会があって生理的に耐えられるようなら見てみてほしい。写真や動画を探すと多分相当しんどいのでいっそ実物を観察したほうがダメージは少なくて済むように思う。

しかしGに対する嫌悪感の刷り込みというのは強力なもので、海外の森林にいる美麗なGについても体の構造からGの一種であることを感じ取った瞬間にうっとなる。何も悪いことしてないし人間に都合の悪い要素もないのに。
その反射的な「うっ」を克服したいのだが、思い込みによる嫌悪ではなくかなり根源的な生理的嫌悪だから慣れるのは難しいかもしれない。ちょっと悲しい。

はじめてのLinux2025/07/28

Windows10のサポート期限絡みでLinuxへの移行の話を見かけ、そういえば古いノートPCがあるけどそれでもいけるんだろうかとふと思い、試しにインストールしてみることにした。
元のOSはWindows Vista、システムは32bitでメモリは4GB……と思ったけど3GB。元々2GBだったけど足して4GBにして、その後新調したPCにメモリを移したので現時点で3GBになっている。
購入時点であまり良いPCじゃなかったし、割とすぐ動きがもたつくようになり、最終的に何をするにもいちいち分単位で待たなければならない状態になっていた。とても仕事ができないので処分するしかないと思っていたが、なんとなく面倒くさくてそのままにしていた。
どうせ処分以外の道がないので、失敗覚悟でLinux導入にチャレンジすることにした。Windowsはもう残していてもしょうがないので、そちらは消去してLinuxをネイティブインストールする形だ。

さてLinuxディストリビューションを選ばなければならないが、32bitなのでUbuntuは使えない。何がいいのかよくわからなかったが、軽く調べたところQ4OSというのがWindowsライクかつとにかく軽量で古いPCでも使えるという話だったのでこれにすることにした。
Q4OS - desktop operating system
32bit用のディスクイメージをダウンロードし、Rufusというフリーウェアで「起動可能なUSBドライブ」を作る。
Rufus - 起動可能なUSBドライブを簡単に作成できます
これを挿してPCを起動する。自分のPCは自動ではUSBドライブから起動できなかったので、BIOS設定画面で起動順をいじって起動した。するとインストールが始まった。全部終わるまで1時間以上かかったと思う。10分で終わったと言っている人もいる。
初回の再起動の時点ではなんか想定と違う画面(Q4OSが効いてない状態?)で日本語入力もできず混乱したが、もう一度再起動したら諸々反映されて日本語入力も正常になった。
ぱっと見た感じではほとんどWindowsという感じで、使用に違和感はなさそうだった。もっと独特でプログラマーでもない身では苦労するのかと思ったがそんなことはなかった。素人でも普通に使えるように整えてくれている開発者の皆さんに感謝。

とはいえ、本当に全くの素人ではさすがに辛い感じがある。CLIがわからないと割と何もできない感があるので、普段からCLIを使う程度にはPC慣れしていた方がいい。Linuxの解説はその程度を最低限のレベルとして書かれているように思われる。
あとCLIでsudoコマンドを実行するとパスワードを要求されるが、普通パスワードを入力すると打った分だけ「*」や「●」が並んでいくのが、これだとそういう反応が何も無いので「パスワードが打てないぞ???」と困惑した。実際はちゃんと入力されているので一通り打ってEnterを押せばよかった。
とりあえずOneDriveを同期してみた。
abraunegg/onedrive: OneDrive Client for Linux
このクライアントのインストールも簡単とは言えない。自分で考えて判断しなければならないことがいくつかある。しかしまあどうにか乗り越えてインストールして無事に同期した。

ここまでやって、プチフリーズみたいなことは全然なかった。前はいちいちカーソルが円になってぐるぐるしていたのに、そのようなことが全く無い。そういう挙動の重さというのはパーツが物理的に経年劣化して起こるのかと勝手に思っていたので、環境次第でこんなに快適になるということにかなり驚いた。
32bitであるということはどうしようもないので最新の環境を構築することはできないが、メインPCに何かあってもある程度のことはこれでカバーできる。処分を待つだけだったガラクタが普通に使えるれっきとしたPCに生まれ変わって感動した。
まだほとんど空っぽの状態なので使い続けた時にどうなるかは未知数だが、いずれにしてもWindows Vista時代よりはスムーズだろう。

よくわからないもの代表のひとつだったLinuxを取り入れるという実績も解除でき、自分としてはなかなか劇的なことだった。

よくわからないこと2025/07/28

金箔を食べる意味。

願望とその実現と政治の話2025/07/24

自分の考える理想郷というのはあるけど、それを政治的に実現したい・してほしいというふうには僅かにも考えない。「政治的に実現する」ということ自体が自分の考える理想郷にない概念だからかもしれない。
だから思い描く理想郷というのはそもそも実現しないもの、しなくていいものとして考えている。
自分の考える理想郷について単純に「こうだったらいいのにな」とか「こういうのは個人的に嫌いだ」といった語り方で表現することはあるわけだけど、それを政治的に実現することを望んでいると認識されたとしたら極右的に見られる可能性があることをちょっと考えていた。
というか、昔(別の名前でやっていたとき)唐突に攻撃されて意味がわからなかったことがあったけど、それはそういうことだったのかと思った。

人の在り方の話は如何なるベクトルもそれを極限まで強化すれば危険思想になるわけで、「突き詰めればこうだろう、お前の話はどうかしてる」みたいに言われてもね。大抵は反対に寄っている時にもうちょっと戻ってほしいという意味で言うのであって、なぜ極限までそれを突き進めるのが前提なのかちょっとわかりませんね。
政治にものすごく興味がある人の目には全ての話の後ろに「だから政治はそのようになってほしい」がくっついているように映っている、ということが時々こちらの理解を超えたことを発生させる。

例えばの話、私は言ってしまえばアンチグローバリズムだけど、それは「だから元に戻しましょう」ということを考えているのではなく、「グローバリズムがここまで浸透しない世界線だったらよかったのかもしれないなあ」ということに過ぎず、現状に強い不快感は抱きつつも別にそれを変えたいとは思わない。恩恵も享けているわけだしね。
でももしグローバリズムに対する文句を言ったとすれば、文句イコール現状の変更を望んでいると解釈される場合、私は某オレンジのあれを支持する人間かのようになってしまう。結構ものすごい誤解を生じるわけだけど、正直に話をしようとするとその誤解の可能性に気づかないでべらべら喋ってしまいかねない。

つまり、「願望」ということの解釈が人によって違っていて、その違いがとんでもない(時に全く逆方向の)誤解を生む。願望は願望に過ぎず、それは政治による実現を望むとは限らないし、そもそも実現自体望んでいるとは限らない。でもその「望み方」の濃淡みたいなのがネット上では考慮されない。SNSはもちろんそうだし、多分それは前からそうだった。
恐ろしい話だと思う。なぜって、政治的に対立する人間のことは内心「同じ人間とカウントする必要のない、無知無学で非常識な頭のイカれたやつだ」と認識するのが割とふつうにあることだから。

学年別漢字配当表2025/07/23

用があって小学生の学年別漢字配当表を見ていた。
別表 学年別漢字配当表:文部科学省
これを見ていると、日常的な意味で言う「難しい」というのは「馴染みがない」と「納得が生じるほど自分で考えてみたことがない」に過ぎないよなあということをひしひしと感じる。「一年生でやったから簡単」「小学校でやらなかったから難しい」などと考える時の「簡単」と「難しい」の意味とは何か。本当はそのものの難易度ではない。
私たちは普段、「簡単」「難しい」の意味すらわからずにその言葉を使っている。

多くの場合「難しい」というのは「まだ馴染んでいない」「まだ考えたことがない」に過ぎない。しかし「難しい」と表現してしまうがために、それを字義通りに「自分には困難なものである」と予測する。そう予測するから馴染むことがないし考えることもない。永久に「難しい」が「難しい」のままである。
例えば「緑」という漢字を書けない人はまずいない。小学三年生で習うし、よく使うからだ。しかし「緑」という漢字は簡単なのかというとちょっとそうは思われない。同じく三年生で習う「旅」は実際に難易度が高すぎて大人でも書けない人はいる。しかし「小学三年生で習ったから」という理由で書けるようになっている人もいる(ほとんどがそうである)。
例えば「捏」という字がある。「こねる」とか「でっちあげる」の「でつ」、「ねつ造」の「ねつ」の部分に登場する字である。「つくね」もこれ。手偏に「日」と「土」だから、漢字の成り立ちとしては簡単だ。意味と組み立ても合っている(会意文字)から、意味に対して突飛な見た目をしているわけでもない。
しかし覚えている人は少ないと思う。見かけても覚えられないことのほうが多いだろう。なぜなら習わないからだ。なので、こんな簡単な字を「難しい」と思う。なお習わないので書けなくても別に恥ではない。日常生活で目にしないわけではないので読めないとちょっと格好悪いかもしれないが、その程度のものだ。

言葉を曖昧に使うと自分の可能性も閉ざす。「難しい」は大抵「まだ行ったことのない世界である」の意味しかない。それなら「まだ行ったことのない世界である」と言うべきだろう。そう言うならば、行ってしばらくすれば馴染むものという可能性が生まれる。その過程にいくらか時間がかかるとしたって、それは「難しい」ものではない。
敢えて「難しい」と言ってしまったほうが気合が入る人というのはいるかもしれない。難しいことに挑戦したいという趣味があるなら、「難しい」ということにしたほうが取り組みがいがある。それは自分の好みに合わせたらいい。
なんでもいいから、自分のブレーキをわざわざ自分で踏むようなことはしないことだ。

明治的・昭和的文体2025/07/20

うちあわせCast第百六十一回で己が影響を受けた文学のこと、第百六十九回で影響を受けている文体のことが語られていた。
そういえば、自発的に読んだ文学で受けた影響というのは、うーん、別に…夏目漱石がちょっと印象的だったかな…くらいしかないけど、学校でやったやつを含めれば、ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』、中島敦『山月記』、夏目漱石『こころ』が深々と刺さって今も根っこにあるというのはある。まあ多分、同じ人はかなり多いと思うけども。
あと問題集にあった文章がいろいろ面白かった記憶がぼんやりとある。幸田文とか。
そうだ、幸田文をちゃんと読みたいのだった。(まだほとんど読んでない)

あとライトノベルという言い方が流行る前のライトノベルのシリーズのいくつかに影響は受けたかなぁ。でも、「楽しんだ」というのが主で、価値観や人生が変わるまではしてないな。
私の人生を大きく左右したのは文学ではなく心理学の本だった。
文学から得る栄養みたいなのはシリアスな描写を含む大河的なRPGから得ていたと思う。語彙もそう。本を大して読んでいない割に言葉や漢字に困ったことはない。現代的な本をいくら読んでも「現代の人に合わせた語彙」しか手に入らない可能性があるが、ファンタジーRPG、歴史RPGではあの手この手で雰囲気づくりがなされているのでありとあらゆる語彙が使われる。同じだけの語彙を小説から得ようと思ったらちょっと大変だなと思う。

自分が影響を受けた文体というのはよくわかっていなかった。誰それの文体というのをそもそもよく覚えていない。
しかし回顧ついでに『山月記』を今読み返してみるに、深々と刺さったとはいえそう何度も読んだという記憶もないけども、自分の文体の割と核の部分にこれがあるような気がする。
あと一時期北大路魯山人の文章を青空文庫で読んでいたことをふと思い出した。その文体をコピーした感もある。でもその前からこうだったような気もしなくもない。微妙なところだが、それはそれとしてついでに紹介しておこう。

北大路魯山人は生まれ育ちの複雑さゆえか非常に気難しいところがあったようだが、文章は飾るところがなく率直であり、批判の仕方は痛烈だが(それがまた人との軋轢を生んでいる)誤解を避けるための配慮も感じる。ちらほら「言い過ぎ」なところが気になるのは事実だが、語り方は軽妙で面白い。

いずれにしても、明治期から昭和初期あたりの文体と相性が良いのだと思う。かぶれているとかではなく、自分の生来のノリがこれだから、最も苦労なく表現ができるのがそのような文体なのだ。ただその辺のが由来かもしれないということ自体今まで気づいていなかったし、本当にその影響なのかもわからない。何しろ染みつくほど読んでいない。
しかしあまりに明治的・昭和的に書いているとかぶれているようにしか見えない感があるし、何にしても今風ではないことは前から感じてはいたので一応努めて現代との間のぐらいで書くようにしているけれど、ノリが混ざらないので交互に出てくるみたいな妙な感じになっているような気がする。まずこの一連も二層の自然さの統合にうっすら苦労しているし、なんなら失敗している。

筆が乗った状態を敢えて切断する2025/07/15

前提として、書ける時には書いたほうがいい。
ただし長めの文をスイスイ書くという成功体験が続き過ぎると、そこから戻ってこれなくなる。それが続くことを期待してしまうし、やり過ぎることもある。
なので時には意図してリセットした方がいい。

堕落とはたとえば2025/07/15

「駄目なものの共通点」を探すようなことに熱心になること。