今年も一年間に投稿した記事から一部分をピックアップして振り返っていきたいと思います。どんなサイトかがわかるようにということを目的とした総集編です。

 去年までは投稿場所がBloggerでブログ名は「Noratetsu Lab」でしたが、今年は自分で作ったこの場に拠点を移したので今回は「よくわかるNoratetsu House」です。

 一部分のピックアップでは文脈が削ぎ落とされるので、フックになるように一部を太字にするなどしておきました。複数の部分を引用しているものがありますが、引用と引用の間には必ずしも繋がりはありません。

 まずは上半期。

 

1: 2024年

読み手にとってありがたみがあれば万々歳だが、それ以前に、 少なくとも未来の自分にとって「当時の考えや思いを言葉にしておいてよかった」と感じられるような文章でなくてはしょうがない。 過去の自分に「ありがとう!」と言えるように、その時々なりの誠実さでもって文章を書くことを心がける。

SNSのタイムラインは常に不意打ちである。 自分の場に流し入れるのは、不意を打たれても影響がないものに限ったほうが精神的には安全だろう。

 

2: 世間観察メモはナンバリングしながら書き溜めることにした

 

T1: 2024年の展望@トンネルChannel

 

3: じゆうちょうノート術(仮)

例えば読書ノートの取り方に思いを巡らせてみたりすると、一念発起して専用ノートを用意してびしっといい感じに書き込んでいきたくなるのですが、そう思った時は「血迷うな!」と自分を止めます。

 

4: サイトの作り方④取得したデータを加工する

 

5: じゆうちょうノート術(仮)②中身の書き方

と言っても、特別なことはなんにもありません。自分が作ってしまうルールやフォーマットからの解放がこのノート術(仮)の肝心なところです。

あとは、チラシの裏に書いて捨ててもいいような、計算などの一時的なメモを書く場にもなっています。そういうメモは案外残っていると嬉しいんです。役に立つという意味ではなく、気分的に。

これまで書いてきた通り、見開きを基本の単位としながらも左右で別の内容を書いていることがしばしばあります。 二間続きの和室みたいなもので、間の襖を開けたり閉めたりしているような感覚です。

 

6: 最終稿が投稿サイトに依存していると更新が億劫

几帳面に手元のファイルをまずきちんと更新して、投稿サービスではコピペするだけ、という手順を守っているならまだいいのだが、面倒になって投稿サービス上だけ更新して最終稿がそのサービスだけにあるとなると、いかにも「ちゃんと管理できていない」という感じがする。

 

7: じゆうちょうノート術(仮)③16分割レイアウト

 

8: RPG的ライフ・アウトライン

また「内政」「外交」は政治的な言葉だが政治のニュアンスを含めたいという意図は全然ない。自分の個人的なこと(=内)と他者との関わり(=外)について考えていくとなった時に、 かつて光栄の三國志シリーズにハマっていた私は「内と外と言えば内政と外交だな!」と思って、政治的どころかむしろ「身近な言葉」として採用した。 私の中では子どもの頃にやったゲーム用語なのである。

同じ発想で、 Tak.さんのアウトライン・プロセッシング論に度々出てくる「未使用」はドラクエ流に「ふくろ」と書くことにした。キャラ一覧の一番下にあって、各キャラが現在装備・所持していないものが全部入っている宇宙的容量の謎の容れ物である。 「てんくうのつるぎ」も「うまのふん」も一緒に入っているような雑多な感じは、ともすると規範意識に影響されがちなアウトライン使いを柔軟にしてくれるかもしれない。

ところでいずれの言葉も、それに伴うイメージのうち余計な部分はしれっと無視して、またその言葉では補いきれないイメージもしれっと補完して考えている。(中略)この無視と補完は、人それぞれの歴史が反映されるものだと思うので、ただ人の語彙を真似してもうまくいかないのだ。

 

T2: 理想のタスク管理ツール

入力欄の設計は難問です。メタデータが複雑になると入力欄も複雑になってしまいます。 チェックボックスにしろリスト選択にしろ、ひとつひとつは簡単に選択できてもそれがいくつもあると嫌になってしまうでしょう。

タスク管理アプリが続いたためしがありませんが、それも入力欄の見た目の問題が少なからずあったように思います。しかしタイトルしか入力できないのではそれもそれで困るのです。わがままな話です。

 

9: 今月の振り返り(2024年1月)

具合が悪くなるたび、心身ともに健康な日を無駄にすることがどれほどの損かを思うのだが、しかし元気になるとその切実さを忘れてしまうから困ったものだ。(忘れないように今ここにわざわざ書いている。)

 

10: じゆうちょうノート術(仮)④読書ノート

私の個人的な性質として、 ガイドにできるものが多いと(例えば方眼罫)、それを活かそうとしすぎてしまう ということがあるので、あくまで無地のノートにこだわっています。

区切って書くと各マスにゆとりが生まれるので、ページあたりの記述量は減ることが多いです。逆に、区切ることで隣との隙間なくみっちり書き込んでも気になりにくい面もあるので、むしろ増やすことも可能ではあります。マスというものの解釈次第でノートの雰囲気は変わるでしょう。 罫線のない無地であることで、マスの中の密度は全く自由に決められます。 大きい字で何文字かだけ書いたマスの隣が極小の文字で埋め尽くされていても問題は何もありません。

考えてみると、巻物のように全部広げて見られるならともかく、 ノートはどう頑張っても見開き単位でしか見られないわけですから、続きの内容がすぐ次に書いてあろうが離れて書いてあろうが割とどうでもいいことですよね。

 

11: じゆうちょうノート術(仮)⑤インデックス

子どもの頃に「じゆうちょう」を使っていた時、インデックスを作ろうとしたり「相応しいページ」を考えたりした人はあまりいないと思います。 自分で自分の自由を奪わないように、「こうしたら良さそう」という一見ポジティブなアイデアにも慎重になることが肝要です。

インデックス作りに囚われないために重要な大前提がひとつあります。それは「 インデックスとにらめっこして内容を思い出すよりパラパラめくった方が早い 」ということです。ノートがよっぽど大量でなければ、インデックスはなくてもどうにかなるでしょう。

上の方で書いたように私はある程度ノートを書き進んでからインデックスを作りますが、その理由は規範性への囚われ回避に加え、 ちょうどいいタイミングで振り返りの機会を設けるため です。

 

12: 「名づけ」を考える ①「台無し」恐怖症?

そもそも「従え」というのが通用するのは「従うことが正解だから」という建前があるからですよね。 与えられるものは正解であることが保証されている、という構図に慣れすぎているように思います。 もちろんそんなものは幻想なのですが、既に正解であるはずのものに自分が手を加える余地などないという体験が続くと、それがそもそもどういうもので成り立っているものなのかを考えること自体がなくなってしまう気がしています。

しかも、自分が余計なことをしなければ完璧であったものを勝手に自己判断で動いたせいで台無しになる、というようなことを恐れていれば試すこともできません。「台無し」のイメージの程度が問題で、 実際にはせいぜい「ちょっといまいちになる」程度のマイナスしかないようなことにも、まるですっかりゼロになるかのように恐怖しているようなことがあり得ます。

 

13: 「名づけ」を考える ②忠実な実践のための言い換え

馴れ馴れしい言い方になりますが(すみません)、Tak.語とのらてつ語は傾向としてちょっと遠い位置にあるので、翻訳しないと自分の世界の概念に繋げられないわけです(逆にTak.さんから見てものらてつ語は翻訳の必要が生じると思います)つまり私の言い換えというのは「Tak.さんのメソッドを忠実になぞるために、忠実に翻訳する作業」ということになります。

良くも悪くも言葉があるとそれに引っ張られてしまいます。連想ゲームは意図せず進行してしまうものです。なので、対象がどんなものであり、それが自分の感覚・知覚においてどう表現されるべきか、じっと観察する必要があるでしょう。どちらかと言うと、 「名前をつける」のではなく「名前が見出される」 感覚になろうかと思います。

 

14: 「名づけ」を考える ③「名づけ」を言い換えてみる

そういうわけで、意味内容を示すことを目指すタイプの「名づけ」をそれ以外の名づけと区別する形で言い換えてみようと思います。(中略)そこで行われることは、自分が知っている語彙の中で、その情報(または情報の集合)が持つ意味合いと共通点が多いものを探し出すこと、あるいはその特徴を他と区別しながら指し示せるものを探し出すことです。(中略)この試みを何と呼ぶか。 自分がその言葉によって特定の領域を想起できる状態を目指しているのだから、「象徴探し」なんかがいいかもしれません。

 

15: ライフ・アウトライン日記: メソッドをなぞる効能

重要なのは、そのように元々あった要素を、Tak.さん式のフレームに収めて扱うようになったということだ。 適当な段ボール箱に突っ込んでいたものをちゃんとした棚に並べるようになったみたいな感覚だ。

取り組む際に「とりあえずは忠実にやってみよう」という意識を持てることは大事なことだ。 自分で考え出したものはあまりに有効性の保証が乏しいので、「とりあえず続けてみよう」と決めるのはなかなか難しい。 実際は「なんでもいいからそのまま続ける」ということこそが重要で「どうやるか」は割と二の次だったりするのだが、より良い方法を探さずにいられない欲張りな人間にはそれが呆れるほど困難だ。

なぜTak.さんのライフ・アウトラインはこうなっているのか、ということをよくよく考えることが、 自分の中に生まれる「良いこと」面した規範性を撃退する ひとつの有効な手立てとなっている。

 

16: Noratetsu Lab Dict.の改修作業をします

 

17: ライフ・アウトライン日記: ノート欄を楽しむ

逆に、項目を縛るものがないということは「動かせてしまう」ということでもある。すべての項目を全く自由にしておきたいかというと、必ずしもそうではない。 「これは親項目なのである!」と思いたい時は、むしろゴテゴテと修飾して「重く」した方が納得感があったりする。 修飾が複雑になると別のストレスが生まれるのであまり変なことはしない方がいいが、敢えてどっしりさせるというのはひとつの選択肢だ。

何十行にもわたる考え事をした時などは、それを開いたままにしておくわけにはいかないので親項目を閉じてしまうことになる。すると、親項目を工夫しないと中身の存在感が消え去ってしまい、 「すごく考えた」という雰囲気がそこから失われる。 視覚的に邪魔だから閉じるのだが、そこにあった空気まで霧散するとちょっと困ることがある。

 

18: 一人で考えていると記事ができない

何かへの反応なら、「ここまで言い表せば十分である」というラインが見える。対象と程度が明らかになる。 そうではなく自分の中から出そうとしている場合には、対象があやふやな上どこまで言うべきかも自明ではない。

要はほどほどの距離の多様性が必要だろう。思考の相性が良く(つまり言っていることがすんなりわかり)、かつ自分では思いつかないような話をしてくれる存在。そういう人や場、読み物を見つけておいて日常的に巡ることが自分を停滞させないためのひとつの要になる。

 

19: 『すべてはノートからはじまる』の技法に自分なりの表現を当てはめてみた

この本では著者から「技法」としてポイントを示してもらっているわけだが、そのポイントに合わせて「目的+動詞」の形で要約したら非常に理解がクリアになったので、普段の読書でも勝手に「技法」として表現していったら良いだろうと思った。ちゃんと「技法01」「技法02」という風にナンバリングすることがミソだ。

 

20: サイトの引っ越しをしました

 

T3: 「賢くなる」と情報ツールの位置関係

(自分自身が情報ツールを使う理由は)一言で言うと「がらくた箱」ということになるでしょう。格好をつけて書くと「心が動いたものログ」です。「がらくた箱」は私的なコレクションではありますがコレクター精神によるものではありません。スクラップブックと重なる部分は多いでしょうが、スクラップブックのようなテーマ性もありません。(中略)それをやる理由にはもちろん「好きなものを集めておくと嬉しいから」ということがあります。しかしそれ以上に、 心が動いたものを自分で頑張って捕まえないと自分が何に心を動かす人間なのか自分でわからなくなるという不安があった 、というのが大きな理由です。

 

21: 今月の振り返り(2024年2月)

また今月は本(主にKindle)を読む時間を多く取れた。「本を読むぞー!」というポジティブな気分だったからではない。心身ともに不調が目立ち能動的なことが難しい日がしばしばあり、暇つぶし的なこともできないがただボーッとしているのも嫌だという時に、本を読むほかない、となって読んでいた。

本を読むということの優先順位が下がりがちな身としては今月の傾向は地味に大きな変化に感じられた。 何しろ消去法で残ったのが読書だったわけだから、読書に際して気合が要らなかったのだ。

 

22: 豆エッセイのある濃いタイムライン

それはさておき、Podcastの語りに要約的な一文を与えるということをしばらくやっていて思うのは、「他の人の言葉はなんだかんだ要約しやすい」ということだ。 単に容易であるというよりは、「決着がつきやすい」と言った方が良いだろう。

それもそのはず、 自分の発想はあくまで「イメージ」で、一方人の言葉というのは「この人はこう言ったという事実」である。 ファンタジー小説と議事録くらい違う。

できれば「イメージ」状態と「事実」状態を両方保持したい。となると、もしかすると「イメージを一般化する」ということにこだわりすぎていたところに問題があるのかもしれない。(中略)やるべきは「変換」ではなく、「そこに含まれている構造の発見」だろうと思う。イメージを言葉にしたものはそのまま置いておき、そこから構造を見出す。当然、それは骨格に過ぎないので、イメージ全体の要約にはならない。恐竜の骨を見ても色や羽毛の有無はわからないのと同じようなものだ。それはそれでよいのである。

場所をはっきり分けるかどうかは置いておくにしても、居場所として納得できるように運用するとすれば、イメージはイメージで文章外の何かに依存せずにひとかたまりの文章として完結させることと、 雑多さによって印象を薄め合わないこと が必要に思える。つまり、「豆エッセイ」を作ること、そしてそれによって構成された「濃いタイムライン」を作ること。これにはイメージの場を永久に編集可能なままにしておかないという意味もある。

 

23: Obsidian再び

時には余白が狭いということも重要だ。なんでもかんでもゆったりオシャレっぽくすると自分の泥臭さとマッチしなくなる。あとシンプルに視界に入る情報量が減って困る。

 

24: がらくた箱と知の箱

ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。

 

25: 自分の「知」に必要な三つの箱

ただしそれ(=私に知的好奇心がないこと)は、何かを知ることに喜びがないという意味ではないし、何かを見てもそこから知的刺激を受け取らないという意味でもない。単に「もっと深く知ろう、もっとたくさん知ろう」という欲がないということで、何かを知ること自体にはそれなりの感動を抱く。 喩えるなら、ケーキを食べれば喜びを感じるしケーキを味わうつもりもあるが、積極的にケーキを食べたいと思うわけではない、というようなものだ。

豆エッセイというのは基本的に「思いついてしまったもの」でできている。 「思いついてしまう」というのは結構難しい性質を持っていると思っていて、自分の中から生まれてくるのだから一見能動的で積極性があるもののようだが、実際は自分の脳が自分の意識の都合にはお構いなしに勝手にやっていることだ。 自分の意識としてはむしろ受動的な情報のように思える。受動的なもの向けの設計をしないとうまくいかない。

 

T4: 今年新規導入・再導入したもの

(ライフ・アウトラインは)生活・人生の舵取りに関わる情報を包括的に扱う手法で、私としては何か初めてのことをやっているというよりは、今まで秩序なくとっ散らかった状態でやっていたことを「Tak.さんが設計した棚」に収めてやるようになったという感じです。その意味ではファイリングの技法を学んだような感覚でもあります。

当時は自分に関わる情報をあまりにごっちゃに扱っていました。一緒くたに扱えることが良いことだと思っていたからです。 ですが自分の性質を考えるに、明らかに関連の薄いものは別の箱に入っていた方が良いようです。

 

26: 思考の描写ログ

エッセイと表現しているが結局何をしていることなのかというと、「頭の中のイメージを人が読めるレベルの言葉にする」ということで、これを端的に言うなら私の中では「表現」または「描写」が合う。「表現」と言ってしまうと世間に発表できるレベルまで整えるイメージがあるので、「描写」にしておこうか。描写した結果として書かれたものを指すなら「描写」というより「随想」なのだが、動詞としては「描写する」が合っている。「ログ」と合わせて「描写ログ」。まあ悪くない。頭の中のことであるということを強調して「思考の描写ログ」としたらどうか。

 

27: 三つの箱(領域)の整理

 

28: ScrapboxとObsidianの個人的使い分け(2024年版)

ページがひとつひとつ存在していることが常に良いかというと、必ずしもそうとは言えない。というのは、例えば今現在私が「がらくた箱」として使っているScrapboxプロジェクトには4000ページほど存在しているが、これが全て個別のファイルとしてローカルに出力されたらちょっと耐えられない。ファイルが何千もあるということ自体圧倒される感じがして嫌だし、実体を持った形で並んでしまうとページの無秩序さが気になってくる。適当に使うことが難しくなるのだ。

逆に、内容によってはScrapboxではちょっと困るのだが、その要因はこの「視界に入る機会」にある。あるページが存在していても、そのページに至る導線がその後全く作られなければ、そのページに行き着くことはない。(中略)「必要が生じた時に見つかればいい」型の情報ではないものを扱うとするならば、それでは少し不便になる。

 

29: がらくた箱と宝石箱

子どもの頃のがらくた箱というのは、その時点で自分の目に輝いて見えたものを収集したもので、まだ関心の幅も大したことがないから必然的に純度が高く範囲が狭いものになる。例えば「情報」はその箱にはほとんど入らない。しかし大人になっていくと、むしろ情報に対して関心を持つ方が多くなるし、関心を抱く領域も広範になって、己の心の赴くままに集めていると量的に収拾がつかなくなる。

 

30: 「文脈エディタ」としてのアウトライナー

そしてふと気付いたことがある。単発のメモはやがて鮮度を失い死んでいってしまう一方で、 何かのアウトラインの中に存在している一行は、多くがそれ単体では意味が不十分であるにもかかわらず、かなりの月日が経っても「どういうつもりで書いたんだったっけ」ということにはならずに生きたままだということだ。

ただし、だからといって文章にしなくていいということではない。アウトラインは文脈の保存はできるが人に伝えるものとしての「思い」はそこに乗りにくい。事実が保存されているだけで演出がないからである。読み手の中に何をどのように響かせるかはレトリックにかかっていて、おそらく完全にリニアな表現(文章、映像ほか)でないとその力は十分に発揮できない。

 

31: メモとノートと書き物と文脈

メモを長い間生かすためには、その一文が既に言語化されている文脈と十分に接続することが重要ということになる。 つまり小さいノートに変身させるということだ。

例えば「メモとノートと書き物は分けて考える」という閃きが生まれたとして、そのままでは「なんで?」というのがわからない。そのうち何がしたかったのか忘れてしまうだろう。そしてメモは死んでしまう。でも、仮に「デジタルノートツールを適切に使い分けたい」という言語化された文脈と接続すれば、なぜごっちゃにしちゃまずいのかがわかる。縦しんばその時点にあった「どう分けるべきか」のイメージを忘れたとしても、そのメモはHPを半分くらい保った状態で生き残るように思われる。

 

32: 土であって種ではない

で、これ(=アトミックなノート)はつまり「土壌」なのだと思う。 あくまで「土」であり、じつは「種」ではないのだ。 「種」だと思って膨らませようとしても、「芽」が出るのではなくて「良い土」になっていくのであり、表現としての文章にはなっていかない。考え事は進むのになぜか文章に繋がらないということが時々あるのだが、それはこういうことなのだと思う。良い土になっても「種」がなければ一向に芽は出ない。 「種」というのは自分なりの文脈であり、自分の価値観に基づいて自分や他者をどこかに連れて行くための根源である。 良い土に種を蒔けば、それは芽を出し大きく育つ可能性が高くなる。

 

33: 結局考え事はどこでしているか

豆エッセイはTwitterをやり始めて爆発的に増えた。(中略)「つぶやき」に留まらないサイズの何かをTwitterで言い始めた時には、それはもう豆エッセイなのである。何か人に伝えたいこと、つまり文脈があり、それを人が読める程度の言葉にしている。それらは大体自分にとって重要な内容で、ツイートを書くというまさにその行為によって形を成したものであることが多く、なるべくきちんと保存しておきたい。しかしそれがなかなか難しかった。

 

34: 今月の振り返り(2024年3月)

メンタルがよろしくないと「茶の間」の更新が難しいようだ。書くネタが思いつかない。素朴なものに焦点を合わせられなくなってくる。あと何かを人にシェアしたいという気持ちがさっぱり湧かなかった。

 

35: ノードの本文を判定して任意のスタイルを設定する(Dynalist)

 

36: 古いノート・メモを年ごとに角2封筒に突っ込んだらスッキリした

前はサイズごとに扱っていたので時系列がよくわからなくなっていたのだが、 やはりメモ・ノートの整理の大前提として時系列に並んでいる必要があると思う。 自分のテーマとしてはっきりしているものはテーマごとでいいが、それにしてもそのテーマ内ではやはり原則として時系列で整理されているべきだろう。

例えば「ノートの使い方に関する自分の思索の変遷」みたいなことを辿るとすれば、それ用のノートを作っていたのでない限りは、年単位でごちゃごちゃと入っている中から漁って確認することになり、如何にも効率が悪い。が、 年単位でごちゃごちゃと入っている中を漁るということは、実のところ事前に想像するよりは簡単に済む作業でもある。 それ以上の効率は必要なのかどうか。

様々な形式で書いたものが封筒というひとつの入れ物にまとめて収納されている状態は、私にとっては思いのほか気分が良かった。 こんなにもめちゃくちゃにノートを書いてきたのにそれが全部ひとまとめになっている、ということになぜだか感動を覚えた。 きちんとバインダーに綴じたりノートに紙片を貼ったりして集約するよりむしろ「ひとまとめになっている」感があるのだが、多分そうやって変形したりせずに元の形のままであることを許容しているからだろうと思う。

 

37: 角2封筒で物理的に粒度を調節する

重要なのは、取り回しが楽な範囲で管理することだろう。パンパンに詰め込んだ場合、重くて取り出しにくい上に中身も出しづらい。そしてゆとりがないと内容物の確認のためにはいちいちすっかり出してしまわなくてはならない。それはひとまとめの粒度が大き過ぎる。封筒をケチってはいけない。

自分で封筒を手に取った時にちょうどよいと感じる粒度が、情報の管理上もちょうどよい粒度なのではないかと思う。 物質的な感触を基準にして決めるというのはアナログならではのことだ。

 

38: お問い合わせお返事/自分の手で創造する余裕

最近は「知識がなくても簡単にサイトが作れる」みたいなサービスがたくさんありますが、みんながそういうものに頼ってしまうと、サービス提供者が想定する範囲のものしか世に生まれないということになるでしょう。

 

39: カードとは何かを考えてみる

で、カードであることの何が嬉しいかというと、情報をオブジェクトとして扱えること、そしてそのオブジェクトに任意の文脈を持たせられることだろうと思う。

カードを使うこととネットワーク型の情報管理をすることは別に全然イコールではない ということも大事なポイントかもしれない。これはデジタル世代ゆえに発生する混乱に思える。

 

40: 「知」のノートの種類

 

41: 上半期の振り返り/浦島太郎再び

 

 もう半分はまた明日。

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