昨晩、テレビで日曜美術館(NHK総合)を見た。「杉本博司 江之浦測候所奇譚(きたん)」の回である。
現代美術作家の杉本博司氏が現在手掛けている「江之浦測候所」は、私たちの中に眠る古の記憶を呼び覚ますように、かつて古代人が見たであろう風景、覚えたであろう感動を想起させる彫刻や建造物で構成された、巨大なアート施設である(この説明は番組で見聞きしたものを思い出して書いているので、解釈に誤りを含む可能性がある)。この施設を作るにあたり杉本氏が意識しているのが「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」だ、ということがこの番組で語られていた。
このアート施設にはテレビ越しでも色々と感嘆する点があり、細かく感想を述べたい気持ちもあるが、今回は「江之浦測候所」そのものについての所感は割愛する。一言だけ言うと、確かにこの施設は(他の多くのアートとは違って)五千年後も美しく残るかもしれない、という気持ちを私は抱いた。「表現」であって「表現」ではないような、元来のアート観を超越した何かがそこにはあるように感じられた。
さて、この施設自体にも圧倒されたのだが、それ以上に、「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」というビジョンの壮大さに仰け反った。パーソナリティの小野正嗣氏も驚嘆のあまり思わず笑ってしまっていたが、あまりにスケールが大きいともはや「わはっ」と言うしかない。
しかし、そのビジョンが非現実的かというと、そうは思わなかった。確かに残るかもしれないと思ったし、現に五千年前の人類が残した遺物というのは存在している。それも未だ美しい形で残っているものがいくつもある。そうやって残ることを「狙う」というのが想定外だっただけで、然るべきものを造れさえすればあり得ないことではない。
ただ、「確かに残るかもしれない」と感じられたのにはもちろん理由がある。杉本氏がそう言うなら残るんだろうとか、使っているものが石なんだから失くなりはしないんだろうとか、そういう単純な話ではなく、「五千年後も美しく残るものとは何か」が考え抜かれているからこそ納得できたのである。しかも、彼は「杉本博司という人間がこれを作ったのだ」ということを残したいのではない(ということが語られていた)。自分という個を云々する次元は超越し、人類とその歴史というものに真摯に向き合い、人類史を繋いでいくものとしての遺跡を作ろうとしているのだろう。
翻って、自分自身のビジョンを考えてみる。とりあえず、今まさにそうしている通りの「書く人間」としての自分に焦点を当てよう。私の日々にビジョンはあるだろうか?
正直なところ、ビジョンらしいビジョンはない。というか、「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」というビジョンがあり得ることを知った今、それまであった自分の思いらしきものは取るに足らなすぎてもう忘却してしまった。圧倒されて消し飛ばされたという感じである。
書くにあたって意識していたことを振り返るならば、「今書いているこの文章が、今読む人にとって、面白いものであること」を目指していたであろうと思う。共感性を高めるにはどうするかとか、読み手に首をひねらせることなく意味を伝えるにはどう書くべきかとかいうことである。
それはそれで多分大事なことだとは思うのだが、なんというか、あまりに「今」に意識が向き過ぎているようにも思う。Twitterで何かツイートするのと感覚的にはあまり変わらないのだ。ブログという、本ほどではないにしてもTwitterよりかは遥かに「残る」ことを意識した場であるにもかかわらず、「今」のことしか考えていない。
そして実際のところ、読んでくださっている人が「折に触れて読み返す」ということをしてくれるような文章を書けているかというと、それはまあ、検証するまでもないことであろう。
そうしてもらえるほどの文章というのは当然才能や見識の豊かさに支えられるものであって、そもそも自分にそれが足りていないという現実があるわけだが、その上「今」のことしか考えていないとなればいよいよ「残る」可能性は皆無である。せめて目指すくらいはしないと話にならない。
さすがに文章に於いて「五千年後」というのはスパンが長過ぎるので、それらしい長さを考えてみよう。といって、「五年後」程度だと、まあ今の時代ならば五年経って人の意識に残るのも奇跡的な話ではあるが、さすがにスケールが小さい。もっと大きく出てみたい。既存の名著を参考にするならば、まず『知的生産の技術』(1969年)や『発想法』(1967年)、『考える技術・書く技術』(1973年)、『日本語の作文技術』(1976年)など、古典というより「今の書物」として未だに読まれている本が思い浮かぶ。
それらがわっと刊行された時代から、既に五十年ほどが経った。私が生まれる前に誕生した本であり、デジタル技術をはじめ環境というのは大きく変わっているはずだが、私の目にも文章は全く色褪せていない。もっと下の世代にとっても同じであろう。これらは基本の「き」として折に触れて言及され読み返され、今を生きる人が「思考する」ということを考える上での最初の一歩であり続けている。はじめの一冊ではないとしても、返るべき原点として今も認識されているのである。
これらの名著はこの先も何十年経とうと鮮やかさを失わずに在り続けるかもしれないが、とりあえず、「五十年」というのは目標として悪くないように思う。五十年先も文章が残るというのは、絶対にあり得ないわけではない一方で、当然ながら普通はそうはならない。少なくとも、漫然とやっていたのでは達成され得ないことであろう。
よし、五十年残る文章を目指そう!
実現を信じるのは無茶だという気持ちは当然あるが、自分の文章に「芯」を作る上では「五十年残る文章を書く」というのはなかなか良い目標に思える。
ところで文章術の前提としてしばしば言われるように、基本的には「立派なものを書こう」という気負いが文章を書くという営みを邪魔しがちであって、その縛りから自分を解放することが肝要ではある。
ただ、そもそも「立派なもの」として想像している像が不適当ということもあるだろう。万人を納得させられるようなとか、読んだ人に一目置かれるようなとか、PV稼げそうなとか、そういったものだ。あるいは「完全無欠」を目指すもの。
先の「五千年後にも美しく残る施設」というのは、完璧な構造物ということではないように思う。己の信念や美意識に照らしてより理想的なものを追求するにしても、それは「完璧を目指す」のとはおそらく違っている。今に残る五千年前の遺物というのは「完璧」だから残っているわけではない。強いて簡潔に言語化するなら、必要なのは「存在感」であろう。
つまり必要なのは、「渾身の文章」を捻り出そうとすることだ。内容のスケールは別に大きくないとしても(今日の朝ご飯の話でも良いのである)、「まあ大体言いたいこと言えてるし及第点だよね」みたいな軽さでちゃらっと書くのではなく、一文でもいいから地球に刻み込もうと思って書くということ。この文章を読むことでしか手に入らない何かがあるということ。「わかりやすい」「面白い」に留まらず、どこか独特な印象を残すということ。全ての人に満遍なく届かせようというのではなく、目の合った幾人かを掴んで離さないということ。
字数を埋めるように書いているような時、「これが五十年後残ると思うか?」と自分を叱咤して筆を執り直したい。「他人」でも「自分」でもなく「歴史」に焦点を合わせた時、そこから湧いてくる活力というものがあるように思う。
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