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ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~
前回から五ヶ月半経っていることに仰天している第九回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。
今回は「書けない」というより「ちょうどよく書けない」ということについて考える。いつにもまして個人的な話なので、誰かの参考にはならないかもしれない。
久しぶりなので、本題に入る前に「ド下手問題」と題している一連が何なのかを説明しておくと、「自分が困っていることについて自問自答して対処法を見出す、その解体と構築の過程をそのまま書き留めたもの」である。究極のところ自分の問題を解決できれば私としてはそれで良く、副産物として読める形にしたものをついでに公開しているという感じのものだ。
さて、このブログを続ける中で私はひとつ問題を感じている。それは「記事一本が常に長い」ことで、これを解決することには前々から苦戦が続いている。このブログを始める前より抱えている課題である。
某所では「1500字くらいを目安に」と書かれているのを見たことがあるし、まあ実際、継続しやすさもさることながら、「読みやすさ」を追求する意味でもそのくらいが読みやすいには読みやすいのだろう。一方自分が書いている記事はいつも3000~5000字くらいである。長い。
書きたいように書いているとそのくらいに「なってしまう」ので、その意味では字数が多いというのは苦しみを伴っているわけではないが、エネルギー消費は字数の分だけ多いため、長い記事を同じサイズで書き続けるのは難しい。つまり投稿の数が少なく抑えられてしまう。数多く連打すればいいというものではないが、自分が投稿したいペースに届いていないので、そのギャップは不本意に感じている。
(こう書くと、長く書きたくても書けないのが悩みという人を面白くない気持ちにしてしまうかもしれない、と思わなくもないのだが、今現在そういう人も私と同じ病に罹ればたちまち「長くなってしまう」ことに悩む羽目になると思うので、そういうもんかと思っていただきたく。)
このブログを始める前に別所でちょろっと書いていた時も、長々書きたくなくて手頃な内容が何かないかと考えるなどして"頑張って"短く書こうとしたことがあったのだが、努力して捻り出したのは短いというより単なる駄文だった。アプローチの仕方を誤っていたと思う。その頃は今より焦っていたので、無闇に必死だったのである。
常に長いのが問題と書いたが、文章が長いことそのものが読み手にとって悪いのかと言えば、それは必ずしもそうとは思っていない。
読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような(というか、そうやってさっさとまとめてしまいたくなるような)冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。
なので、「長い記事は良くない」ということを前提として考えているのではなく、ここで私が解決したい問題は自分が記事の規模をコントロールできていないことである。言いたいことを言おうとすると必ず長くなり、コンパクトに書こうとすると無意識に内容自体を陳腐にしてしまう。これがコントロールできないということは、文章の質もコントロールできないことを意味しているように思う。
他の人は、長さが必要な時は存分に言葉を尽くしながら、そうでない時にはよく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章を書いているように思える。それなのに私はどうして「長くなってしまう」のか、ということを考えたい。
一応いつもこれというテーマがあって書いているし、全体がそれに関連したものになっているはずではある。「ところで」とか「そういえば」とかいう断りをして脱線した時もそうで、それがあるのとないのとでは自分のイメージに読み手がどれだけ寄れるかに大きな違いがあると思うからそうしているのであり、ただ思いついたから書いたというわけではない。脱線だが脱線ではないというか、線を太くするために横に一度はみ出ているといった役割のものだ。(功を奏しているのかは自分にはわからない。)
それらは「要するに、」とやりたい人の手にかかればバッサリ裁ち落とされてしまうかもしれないもので、意図がどうあれただ冗長なのかもしれないが、ともかく自分の中では必要があってそうしているのである。
必要があってやっているというならこれ以上どうにもならないじゃないか、という結論に行き着きかねないが、ここで立ち止まって考える必要がある気がする。「自分の中での必要」の部分である。何がしたくて、そう念入りに書いてしまうのか。
そこをよくよく考えてみると、自分には「話の全てを自分が感じているように読み手に感じてもらいたい」といった欲求があることがわかった。もうちょっと無機質に言うと「誤解なく追体験させたい」ということだ。そうすると、読み手を文脈に乗せることが絶対になり、文脈から外れかねない分かれ道は全部塞いでおきたいということになる。
つまらないところで明後日の方向に脱線(こちらは文字通りの脱線)をされると、自分としてはあんまり語った意味がないような感じがしてくる。その脱線が読み手や書き手の私にとって豊かさをもたらすものならもちろん喜ばしさもあるのだが、誤解や侮りによって読み手がひとたび否定的な気分になってしまうと、その瞬間その人の中で私の文章は無価値化し、何千字だかの文字の並びは全くごみのようになってしまう。それはなるべく避けたい。一旦否定したものを肯定し直すのには恐ろしく体力が必要で、そうまでして評価を改めてもらえる可能性は高くはない。もちろん意図通りに読んでもらいさえすれば必ず評価されるはずだとかいう話ではないのだが、防げたものを防げなかったということがあったとしたらそれはかなりの損に思われるのである。
脱線を防止する手としては「結論を先に書く」ということがある。ただ、情報を教えるとかシェアするとかいうものではない、自分の状況や感情を共有するタイプの文章を書く場合、「結論を先に書く」ということは難しい。物語性が損なわれるからである。つまり「追体験」が難しくなる。そして、「追体験」を目論むゆえに最後まで読んでもらわないと何のための物語だったのかがわからないとなると、途中で切ることには勇気が必要になる。できれば文脈を切断することなく一本で最後まで行ってしまいたい。
そういった思い――「○○してもらいたい」と「✕✕されたくない」――でガチッと縛られていることで、文章の規模は雪だるま式に増大していくのだろう。
自分の「誤解なく追体験させたい」という願望に対して、如何なるアプローチがありうるか。
この願望の最も過剰な状態を考えると、「(全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」ということと言えそうだ。こうなるといかにも雁字搦めな感がある。日頃ここまで念じているわけではないが、「よりよい文章」を追求するということがこの過剰な状態に至らしめる可能性は想像に難くない。そうなれば、文章が短くならないどころか、書くこと自体ができなくなってしまうかもしれない。「書くなら前よりレベルアップしたものを書きたい」という漠然とした向上心が、その過剰さの罠に自分を陥らせる危険があるのである。
「誤解なく追体験させたい」という希望自体を捨ててしまうのは恐らく無理なので(個性の成分ではないかと思う)、それはひとまず理想として置いておき、括弧内の過剰さをコントロールことを考える必要があるだろう。
まず「全ての人に」の部分を抑えるとする。わかる人がわかればいいと割り切ること、この人にさえ伝わればいいという範囲を狭く持つこと。実際どれほど努力したところで結局伝わっているのはごく狭い範囲なのかもしれないし、それなら最初から「この範囲」と割り切るのが現実的に思える。どこまで絞るかの問題はあるが、少なくとも「全ての人」が無理なのは当たり前なので、何も意識しないでいることによって無自覚に「全ての人」を目指してしまう事態は回避したい。
ただ、この範囲にさえ伝わればと思ってはみても、そう思えばその範囲外から絡まれても平気になるというわけではない。「この範囲」と想定した相手との結びつきの強さを支えにするといったことは必要になりそうである。
なお「全ての人に」を諦めた場合にどう短くなるかというと、例えば諸々「初見の人でもわかるように」的な配慮をしている箇所を省略できることになる。以前「同志にはいきなり語れ」という話をしたが(発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~ )、助走的な文章を省くことで話は随分コンパクトになるだろう。
次に、「一切の」の部分を抑えよう。これも端から無理なのは明らかだが、「なるべく」を強化し続けると結局「一切の」を目指すことになってしまうので、意識的に妥協のラインを引く必要がある。
冷静に考えた時、まず「誤解されるとそんなに困るのだろうか」という問いが浮かぶ。全く困らないということにはならないが、「そんなに」困るかと言うと、そこまででもないかもしれない。誤解した人間が何か影響力の大きいことをしでかさない限り、本当の意味で私に不利益になることはまずない。声のでかい人の偏った解釈が出回るとか、好ましくない集団の中に晒されるとかするとそれは実際問題困ることになるのだが、そうならない限りは単に「イラッとする」程度のものだろう。
これも、前述したような仲間との結びつきがあるかどうかがストレス耐性を左右する気はするので、文章の書き方よりそちらに力を振り分けたほうが結果的に「ちょうどよく書ける」ようになるかもしれない。一切誤解されないようにとまで思わなくとも、誤解しない人は誤解しない、ということをどれだけ信じられるかにかかっている。
「一切の」を抑えれば、いちいち厳密にしようとして言葉を重ねてしまう部分を減らせるので、多分いくらか文字数は少なく済むだろう。でもどちらかというと、投稿のハードルを下げる意義の方が大きいかもしれない。
最後に「一度に」の部分だが、作業としてはこれが一番簡単なことだろう。この記事も切断ポイントが三、四箇所あると思う。そこで思いきってえいやと切ってそれぞれ投稿すれば、ひとつ当たりの字数は減る上に、投稿数は増えることになる。
と言っても、長く書いたのをただ分割しただけでは、そのテーマに費やす字数自体は変わっていないことになる。不完全燃焼状態の記事を投稿する勇気を持つ感覚は鍛えられそうだし、それもそれで必要だが、書き方の根本的な変化にはならない。というかむしろ、分割した後でそれぞれに加筆してトータルで増える可能性すらある。自分はただ記事一本当たりの字数を減らしたいのではなくて軽快に書けるようになりたいのではなかったか。
別の考え方としては、ひとつの話を小さくする、つまり変化を全て書いて全部を追体験させようということはせずに、俳句のように一瞬の「感じ」にクローズアップしたものを書くということがあるだろう。上の方で書いた「よく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章」というのはこういうことのような気もする。これはジグソーパズルのピースを小さくするようなもので、同じ絵を表現するためにピースは多くかかるかもしれないが、ピースを置くべき場所の検討(≒話の解釈)の幅も含めて読み手の体験としてはより豊かなものになる可能性もある。
ピースを大きくすると、それがピースとして成り立つためにその中で論理をカチッと固める必要が生じ、その分だけ解釈の幅は狭まっていく。紙面が限られていれば解釈の幅による豊かさは説得力とトレードオフで、どちらが必要なのかは内容次第だろうが、全ての話について説得力を重視してしまうと不必要に諄く重々しくなる感じがする。
~まとめ~
「(全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」を目指そうとしてしまう危険
- 文章の肥大化を引き起こし、最悪書くこと自体ができなくなる
全員に → 範囲を具体的に想定し、同志間での意思疎通の成功を支えにする
- ⇒全員と接続するための助走部分を膨張させずに済む
一切の → 誤解しない人は誤解しないという実感を得る努力と信じる努力をする
- ⇒予防線を張り巡らし過ぎずに済む
一度に → 自分の変化一連全てを追体験させようとしない、断片にクローズアップする
- ⇒論理を固めることに文を費やし過ぎずに済む
困るのは「全部が長い」ことであって、目指すのは「全部を短くしよう」というのではない。これからも長い時は長いだろうし、種々の要素のバランスを取ったら結局これまでと変わらないということになってしまうこともあり得る。
そもそも短くすればペースが上がるという保証もない。結局どっちにしたって、書きたいこと自体が変わらなければ難易度は下がらないかもしれないし、むしろ長いままの方が速かったりするかもしれない。
それでも「やらない」と「できない」の差異はおそろしく巨大なので、自分の意図を構成している要素を把握し、時にスッと引く勇気を持ち、身構える力を抜く選択肢をいつでも選べるようにしておけたら良いと思う。
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