こちらの記事へのレスポンスです。

本題に入る前に、いくつか興味深い点があったので自分に照らしてみた感想を書いていこうと思います。

 

私は「この空間で情報を利用するならば、自分もまた何かしらの情報を投下しなければならない」という気持ちを持っていました。言い換えれば、インターネットを利用するというのは受信と発信がセットになった行為なのだ、という理解があったわけです。

私にはあまりこの感覚はありませんでした。「言いたい」という気持ちがある人間なので結果的に何かしらの発信もしていましたが、「受信したからには」的な認識は持っておらず、考えてみると少し不思議…というか、自覚していない歪みがあるような気がしてきました。

もしかすると、テレビによって、情報というのは「撒き散らされているもの」だという感覚が染み付いてしまっていたのかもしれません。誰かが作ってくれているということを理解はしつつも、だから自分もという当事者意識には繋がっていませんでした。もちろん、インターネットの黎明期を知らないということも大きな要因かとは思います。

 

このことを逆に見れば、私がブログを書くときには、「読みやすく、面白く、役に立つ」文章を意識していないことになります。だからこそ、ブログは楽しく書けるのでしょう。Twitterも然りです。「本」を書くときに一定のつらさ(あるいは負荷)がかかるのは、そうした指針を持っているからだとも言えます。

私は以前noteの書き手になろうとして(敢えて「noteの書き手」とします)、大変に辛い気持ちになって結局ほぼ何もしないまま挫折したのですが、まさに「読みやすく、面白く、役に立つ」文章というような指針が「縛り」となって書くことを辛いものにしてしまったように思います。

倉下さんと違って、題材探しの時点からその条件に合うかどうかを前提にしようとしていたのが苦しみの根本原因でしょう。自分のフィールドが先に決まっていてこそ、指針が「道標」として働いてくれるのだと思いました。

 

本題に入りますが、倉下さんはブログを書く動機について「率直にその精神性について書いてしまえば、たぶん「自慢」なのだと思います。」と書いていらっしゃいました。その上で、

純然に利他性を持って人を楽しませようとしているのではありません。まず自分の言いたいこと・自慢したいことがあり、それを──ある種の「加工」を経て──楽しめるように表現すること。このねじくれた動機が、私のブログにはありそうです。

とあります。更にタイトルには「こんがらがった動機」とあり、最後は「ちょっとやそっとでは動かせそうもないので、なんとかそれと付きあっていくしかなさそうです。」と仰っているので、なんとなく「なるべくならそうでない方がいいのになあ」というような気配を纏っている感じがしました(倉下さんがそうお思いになっているのだろうと感じたというよりは、言葉の印象がそういうベクトルだと感じた、という意味です)

このお話には実のところ意表を突かれた気分になったのですが、私の中では「こんがらがった」り「ねじくれた」りするどころか、なんというか、人と人が話をする上でのベーシックな動機のように思えていました。

そしてうまく加工してやろうということをも含めて、「どうだ!」とか「私はここにいるぞ」とか、そういう気持ちが支えているのではないかと。つまり一貫して、他ならぬ自分の存在、自分の体験、自分の心がけ(楽しませようという気持ちも含め)を他者に配り届けてしまおうという思いによって文章が書かれるように思いました。報酬を得ないのならば、それ以外の動機で書く方がむしろこんがらがっている気さえします。

この要素の中で、存在のアピールが強い自覚があれば「結局自慢なのだ」と感じ、体験のアピールが強い自覚があれば「自分語りに過ぎない」と感じ、心がけのアピールが強い自覚があれば「自分をコンテンツ化しているのさ」と感じる、みたいなことはあるのかもしれませんが(私は自分語り型です)、仮にこういう傾向の違いがあったとして、多分どの場合もそんなに違わないことをやっているのだろうなと思っています。

 

tasuさんも倉下さんも「誰かの役に立つものを分かりやすく伝えたい」とはあまりお思いになっておられないとのことですが、私も基本的にそう思っていません。(でも役に立ちそうなものを発見してしまったら分かりやすく伝えようとは思います。お二人もそうなのではと、勝手ながら思っております。)

翻って読み手の身になって考えた時、「読む」という体験として楽しいものというのは、「役に立つもの」より誰かの「どうだ!」だと感じています。「情報を得る」という作業の中では「役に立つもの」を欲することにはなりますが、別にそれは楽しいものというわけではないような気がします。TwitterやInstagramなどが面白いのも、やはり「どうだ!」に感心したり驚き呆れたりできるからだと感じています。

こう考えると、「書きたいもの」と「読みたいもの」は、楽しさを求める上では一致しているように思えます。読んで楽しいものにするためには「加工」の技術が求められるところに「書く」ということの難しさがあると思いますが、自分の何かを読み手に掴ませてやろうという動機自体は、利己的なようでありながら実はエンターテインメントの基本のような気もしています。多分、とても大事な動機なのだと思います。

 

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