ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十一回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。

 

 今回は、せっかく書いた自分の文章に「そりゃそうでは?」と批判の目を向けてしまう問題について考える。

 

 他の書き手がどうかは正直全然わからないのだが、私は記事を書いていて「これは当たり前の話では?」と思って価値を疑うことがかなりよくある。そう自己批判してブラッシュアップするというのは大事なことだけれども、これ以上どうにもしようがないという内容でもそう考えてしまうのはただ自分を辛くするだけという感じがする。

 なんとか投稿の手を止めないでいられるのは、少なくとも自分語りの部分に関して「自己についての発見は自分にとっては当たり前ではない」という保証があるからだろう。しかし自分以外のものについての発見は何を書いても「そりゃそうでは?」という気持ちに苛まれ、自分語りをあまり含まないものは投稿ボタンを押すのにかなりの気力を必要とする。

 例によって、私自身が困っているのでこのことについて考えたいと思う。

 

本当に「そりゃそう」なのか?

 

 まず、事実として自分の書く内容が「そりゃそう」なものなのかどうか、ということを考える必要があるだろう。

 といっても、それは自分では判定できない。それこそ「そりゃそう」である。自分以外の人が読んだ時にどう感じるものかというのはどう頑張っても事前に察知しようがない。

 しかし一切判定できないわけでもない。少なくとも、自分自身はそれを書いてみるまでそれは当たり前ではなかったはずである。ということは、それを書く前の自分がよっぽどの無知蒙昧でない限りは、その内容を「そりゃそう」と感じない人がいくらかはいると思ってよいのではないか。「そりゃそう」と思う人が多数派である可能性を排除することはできないが、全ての読み手にとって「そりゃそう」なわけではないということは言えそうである。

 

「そりゃそう」が生まれる理由

 

 自分自身は書いてみるまで当たり前じゃなかったはずなのに、書いてみると途端に「当たり前では?」という気分になる。それはそもそもどうしてだろうか。

 当たり前のような気がするというのは、元々知っていたことのような気がしているか、理屈が単純で展開が必然的過ぎるような気がしているか、のどちらかのように感じる。

 この感覚はとても厄介である。自分の中から生まれたことなのだから、言語化以前の状態では既に自分の中に存在していたことだろうし、自分が書いたものであれば自分の理屈に必然のように納得してしまうのも当然のことだ。書きあらわした時点で、その内容は自分にとっての常識としてもう自分に組み込まれてしまっている。

 今まで自分が読んだことがないような話を書いてみたのだとしても、他の人達は既に知っている記述を自分が見ていないだけだとか、当たり前過ぎて今更誰も言わないだけだとかいう可能性は捨てきれない。

 

 更にそこに「自分ごときがわかるなら他の誰もがわかるはずだ」的な自己評価が加わると当たり前感が跳ね上がる。それを言い出したらおしまいなのだが、そう思い始めると振り払うのは容易でないと感じる。

 書こうとしているのが「新しいものを咀嚼する」という類の内容ならば、自分が咀嚼できたということで多分納得できる。しかし既にあるものを見つめ直して何かを言うというようなことをする時は、それがもし「自分だけが今更気づいた」ということだったなら、それを発表することが自分や他者にとってプラスになるかわからない。その可能性が高いかもしれないと思うと何も言えなくなってしまう。

 これについては、自分の発想の程度について忌憚のない意見を言ってくれる知人がいない、というのが大きな問題かもしれない。(信頼関係を築いていない人の評価は本気の批評なのかそうでないのか判別できない。)

 リアルの友人は文面でググって辿り着かれると私としては困るので見せられない。ネット上の友人は今のところ全然違う趣味での繋がりであり、こういう文章を読んでもらうような相手とは言い難いし、違う名前でやっていることなのでこれもまた文面でググって辿り着かれると困る。

 この「辿り着かれると困る」というのは私の個人的な理由なので、そういうのがない人は普通に親しい友人を付き合わせて批評してもらうのが自信に繋がる有効な手なのではないかと思う。

 

 あるいは、世にある記述を網羅するくらいに読みまくって、実際にこの世に何が書かれていて何が書かれていないかを知るのが一番早いのかもしれない。途方も無い遠回りに思えても、最も確実で結局近道になりそうである。本を読むのが苦手な人間にはかなりしんどい道だが、避けていてはいつまでも不安から逃れられないとも思う。

 『独学大全』を読むと自分が如何に怠惰かわかるし、自分を不幸にしているのは自分であると感じる。

 

「そりゃそう」なら駄目なのか?

 

 ただそもそもの話、「そりゃそう」なものを「今更」書いたら駄目なのだろうか、ということは考える必要がある。博覧強記の人からしてみれば、いま世の中にある文章の大半が「今更」に思えるのではないか。一体何回、この次元の話を繰り返すのか、と思うかもしれない。

 私自身(そしてきっと皆さんも)、おんなじ内容のものを何度も見かけるということは常日頃当たり前に体験している。各々の書き手が「その内容は既に世界に溢れている」ということを知っているのかいないのかわからないが、知っていようがいまいがそれらは発表されたのだろうし、既に世界に溢れているはずのその内容が全ての人に染み渡っているかというと到底そうは思えない。

 例えば「人ってご飯食べないと死ぬんですよ」レベルの「そりゃそう」はさすがに何の価値も生みそうに無いが、「人って寝ないと死ぬんですよ」となると「そりゃそう」度合いはもう半分くらいになりそうである。いや、もちろん概ね「そりゃそう」ではあるのだが、その一方でなんで死に至るのかはそんなに自明ではないし、どのくらいの不足でそうなるのかも明らかではない。死の原因が睡眠不足であったことがわかられていないケースもあるだろう。わかっている人はわかっている話だが、わかっていない人もいるかもしれない、というくらいになってくる。そうなると、それを知らせる記述はなんぼあってもいいですからね、という気もする。

 

信念はどこにある?

 

 この「今更」問題については私自身三年以上前に考えたことがある。

 

誰かにとっての「今更」は誰かにとっての「今」だ、という今更のこと|のらてつ

 

 一応答えは出ているのだが、それなのに今スッキリしない気持ちが残っている。なぜかと考えてみて、思い至ったのは信念の所在である。

 この三年前の記事内で出た結論では、まさに今その段階にいる人のために書くのだ、ということが自分を納得させうる理屈だった。今もそう思うし、そう思っている限りは無敵のような気がする。

 また、先程取り上げた「人って寝ないと死ぬんですよ」の例を考えれば、とにかく睡眠不足で命を削っている人を救いたいという強い思いがあればいくらでも繰り返し発信できるだろうと思う。他にもそれを言っている人がいるかどうかは全然関係ないし、むしろ同じことを言う人が多ければ多いほどいいくらいである。

 つまり、「○○な人のため」という目的があれば、「○○な人」がこの世に存在する限り立ち止まらずに続けていられることになる。立ち止まっているのは「○○な人のため」という思いがなくなっているからではないか。

 例えば今この記事を書いていられるのは、「自分と同じ悩みを抱えている人のため」ということがあるからだ。全然しょうもない文章かもしれないけれども、それでも自分と同じ悩みを抱えている人の力にちょっとでもなれたらそれでいいと思って書いている。

 

 ノリノリで投稿している記事と同じテンションで書いているつもりでいるのに投稿に躊躇う時がある。それは多分、「○○な人のため」という意識が欠けている時なのだと思う。じゃあどんな意識でやっているのかと言えば、「自分(の文章)が面白いかどうか」である。自分の存在意義に意識が向いている。だから「もう常識かもしれないことを発信してどうするんだろう」という思いに支配されることになる。みんなが知っていることを書いていたんじゃ自分の文章には価値がないんじゃないか、という発想だ。「みんなが知っていることを書いても意味がない」というルールのゲームを自ら設定しているということである。

 この状態にあるかどうかを判別するのは簡単で、「そんなのもう知ってるよ」と言われた時にダメージを受けるか受けないかを考えればいいだけだ。もしダメージを受ける状態にあるとしたら――オリジナリティによって自分の存在意義を証明しようとする試み自体が悪いわけではなくとも――発信者が過去に星の数ほど存在し、そして今この瞬間にも夥しく発信がなされているこの世界にあって、あまりにも無茶なことを成そうとしていることになるのは確かだろう。

 別に世紀の大発見をしたいわけではないにしても、「そりゃそうって言われるんじゃないか」と恐れるのは、つまるところそういう価値を勘定していることに他ならないのではないかと思う。

 

 誰かのために動くのなら、「そりゃそうでは?」なんて迷っている暇はきっとない。

 

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