タスク管理は何のためにやるのか、というお話がうちあわせCastであった。
少し考えてみたが、個人的には「養うため」というのが一番収まりがよいかもしれない。(今自分で考えて書いているけれど、他に誰かは言ってそう。)
「養う」にも色々あるが例えばこういうこと。
自分および家族のいのち
人生の納得感、コントロール感
自身の有能感、自己肯定感
自分の能力
まず第一に、自分や家族が生きられるように養っていかなくてはならない。仕事がうまくできないということは、昇進できないかもしれないしクビになるかもしれないし仕事が取れないかもしれないし会社が潰れるかもしれないということだ。そうすると文化的な暮らしはできなくなっていくし、いのちすら危うくなる。収入が減らないようにするために仕事をうまくやらねばならない、というのがタスク管理の大前提だろう。
働き続けるためには働けるような精神状態を保っておかなくてはならないので、その意味では「怒られないようにする」といったことも重要な要素である。(怒られたくなさで倫理を無視してはまずいけれども。)
切羽詰まっているとか生存以外の欲がないとかであれば、自分や家族を養えれば達成ということになり、それ以外の意味合いはタスク管理に伴わないかもしれない。そして別に管理しなくても養えるなら(あるいは自分が養わなくてもいいのなら)そもそもタスク管理は不要だろうと思う。
生き物としていのちが続くことを確実にできたなら、次は精神面の健康を養う必要がある。
不満があったり不幸を感じていたりすれば、寿命まで生きるには生きたが生きた甲斐がなかった、ということになりかねない。それを回避するためには、自分の生活に納得すること、社会を構成する一個体として十分な存在であると思えることが必要だろう。
つまり、自分の生活がどういうものであり、自分は何を選択しているのか、そして実際に何を成してそれが社会でどういう意味を持っているのか、ということを把握し管理することで不満から脱出するよう試みるわけである。この意味では、誰かを養う身分でなくともタスク管理というものは有用ということになる。
ただしこれらは、例えば「どう生きたって人はどうせ死ぬのだ」的な考えに納得しているならば必要ない要素であろうと思う。幸福感の欠如に悩まされていないのならわざわざ自分の選択や存在意義に思い巡らさなくても構わないだろう。
更に、生存を確かにするためにしろ幸福感を確かにするためにしろ、ただ現状をどうにかしているだけでは足りなそうならば、環境を変えるためにまだ自分にない能力を新たに養う努力をしなくてはならない。そのためにはその努力をするのに必要な時間や資金を捻出する必要がある。(ここでの「能力」というのは、いわゆる「スキル」だけでなく「思考回路」も含む。新たな考え方も新たな能力ということである。)
となると、既にあるタスクと開拓のためのタスクを合わせて管理して日々を設計することになる。これは頭の中だけでやるのはかなり難しいので、実際的なタスク管理の必要に迫られる。必要な行動は何で、それをいつまでにどのようにどの順番でやっていかなくてはならないのか、そういったことをどこかに書き出して検討して決めていく工程は必須だろう。
まずいのちを養う。現状で頑張っても駄目そうなら新たな能力を養う。いのちが安泰なら精神を養う。現状でやっていっても幸福感が足らなそうなら新たな能力を養う。それを着実に実行していくために、自分の頭の中だけでは足りないようならタスク管理ということをする。
いずれの意味でも養う必要がない、または養うにあたり改めて把握と管理をする必要に迫られていない、という状態ならタスク管理は多分要らない。
タスク管理は、タスクの実行を最適化する手段であると同時に、それらのタスクを検討・実行している自分自身の姿が可視化されるという副産物をもたらすものである。
タスクの選択や可視化された自己の解釈には、タスク管理そのものとは別の営為が必要であり、それが例えばミッション・ステートメントやTak.さんのライフ・アウトラインの「LIFE-BE」「LIFE-AS」といったものということになるだろう。どう実践していけば本当に自分に有用かというのはよくよく勉強と検討を重ねていく必要がある。
ということを考えた。
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