以前「生活の技術」というテーマ的なものが話題になっていたことをふと思い出したので、その肝になるのはなんなのかを自分なりに考えてみることにした。
土台となるもの
「生活の技術」という言い回しで表現されているであろう領域を考えると、具体的な個々のスキルの習得量よりも、生活全体に対するマインドが重要になるだろうと思う。つまりライフハックの小ネタを大量に集めることより、生活をより良くしようという心持ちだ。その結果小ネタを大量に集めることにもなるかもしれないけれど、まず他ならぬこの自分という人間の生活を良くするのだという意識がないことには始まらない。
生活をどんどん良くしている感じの人というのはとても魅力的に見えるもので、雑誌やSNSでもそういう人たちの工夫というのは人気の高いコンテンツだろう。ああなりたい、と惹かれる人は多いと思う。
そういう人に憧れた時、とりあえずその人がやっていることを真似したくなる。なぞればその人のような「良さげな生活」ができそうだからだ。でも実際にはそれだけではうまくいかない。自分の中からアイデアが生まれないのなら誰かの物真似をし続けなくてはならないし、自分以外の誰かの工夫がそのままぴったり自分にはまるというのは稀なことだろう。
もちろん、まず真似してみるということが悪いわけではない。やってみなければそれがどういうことなのかわからないのだし、むしろ気になったものはどんどん真似してみるのが良いだろう。そうやって真似してみた時に「自分に欠けていたピースはこれだ」と雷に打たれたような気持ちになることがある。そういう出会いに恵まれると、その先は自分の力で自分を豊かにしていくことができる。そこから人生が始まるかのような気分になることもあるだろう。
使えるものを使ってみる
漠然と憧れている状態から、自力で自分の生活を豊かにしていく状態に変わるために、何が決定的に必要なのか。私が思うに、「使えるものを使ってみる」ということに尽きるのではないかと思う。
これを「使えるものは使うべき」と言い換えると似て非なることになってしまう――というか「生活を豊かにする」というベクトルとは正反対の方向に突き進みかねないので、変に言い換えてはならない。あくまで「使えるものを使ってみる」である。
物的に考えると方向性は二つあるだろう。一つは、ある用途で使ったものに対して別な用途を見出すことだ。
ペットボトル飲料を飲んだとする。そのペットボトルを見て「何か使えないかな」と考える。今のところ良い用途がなければそのまま捨てることになるが*1、それ以後何かのタイミングで「あ、ペットボトルを使えば良いかも」と思いつくことがある。予めペットボトルに対して「何か使えないかな」と思うことによって、その後工夫の芽が出るのだ。段ボール箱でもいいだろう。これを何かに……と思っていると閃きの電球がしばしば点灯する。
別な用途に転用するということの身近な例としてペットボトルと段ボール箱を取り上げたけれど、廃品利用的なことはしたくない、というのも普通にあり得る美意識で、それも真っ当なことだ。別に「捨てるもの」の活用でなくてもいい。何でもいい。例えば余しているノート、箱に仕舞ったままの花瓶、箪笥の中の風呂敷、使っていない棚。今まで想定していた用途では使う機会を見いだせないままになっているものに対して、新たな用途を考え出して実践してみる。
この転用のためには、前段で述べたマインドが必要になる。例えばペットボトルを使うとして、単に「捨てるのが勿体ないから」ではなく、「自分の生活を良くするために欠けている部分を埋められそうだから」使うのである。主語はペットボトルではなく自分の生活だ。ペットボトルのために無理して用途を捻り出すのでは、ペットボトルを捨てずに済ませる言い訳はできるかもしれないけれども、自分の生活が本当に良くなっているとは限らない。いや実用性とは関係なく何かに新たな用途を見出した瞬間の気持ちよさこそが自分の生活に必要だ、というのならそれはそれでいいけれども、とにかく「自分の生活」に焦点を合わせて考える。
もう一つの方向性は、所有してはいるが(あるいは今すぐにでも利用できると知っているが)一度も使っていないものを使ってみることだ。
誰かからもらったけど勿体ないとかタイミングが思いつかないとかで使わずじまいになっている物。無料のチケットがあるけどなんとなく億劫で利用できていないサービス。パソコンに搭載されているけれど勝手がわからなくて起動したことのないアプリケーション。色々とあるだろう。
試すまでもなく自分には要らないと判断できるものならさっさと手放せば良いと思うが、そう決められないものは何かしら気になっている部分があるのだろう。試してみれば自分の生活に新しい風が吹き込む可能性はある。
自分の生活を良くするものがなんなのかというのは、それがまだない状態では想像することが難しい。実際に使ってみて初めて「これを使う生活が自分に必要かもしれない」と気がつく。
例えば私は、日頃書いているようにJavaScriptで自分用のちょっとしたアプリケーションを自作したり既存のアプリケーションをカスタマイズしたりしていて、それは自分の生活に必要不可欠なことだと今は思うけれど、二年前はJavaScriptとは何なのかもわかっていなかった。楽しそうにしている人を真似して試してみたら「私に足りなかったのはこれでは」と知るに至った。
プログラミングはパソコンがあればそれ以上の金銭的コストはゼロで始められる。つまり、使ってみようと思いさえすればすぐさま使えるものである。でもパソコンの普及率の割にやってみようと思う人は少ない*2。
ここまでは真新しさのない話に見えると思うが、ひとつ強調すると、「まだ手にしていない、見た感じ良さそうなもの」に飛びつくことはこの二つには入らないということを言っておきたいと思う。店なりインフルエンサーなりの宣伝で「良さそう」と思ってそれを買う、というのは生活の技術ではないだろう。流行りに乗る技術ではあるだろうが、自分で自分の生活を見つめた結果でないのなら、「良さそう」と思ったほどは実生活には役立たない。
誰かの話を見聞きした時、「まさにそれこそが自分の探し求めていたものだ!」と思うのならそれは躊躇なく取り入れたらいいと思う。肝心なのは、それが自分の生活に必要なピースなのかどうかである。
まだ持っていないものというのは既に持っているものより良さそうに錯覚してしまうので、まずは既に持っているものを見つめてその中に新しさを見出す方が着実に生活の技術を身につけられると思う。その上でまだ手にしていない新しいものにも目を向ける、という順序で考えた方が、その新しいものが自分にもたらす価値も正しくわかる気がする。これは物でもツールでもメソッドでも同じである。
試してみないことにはわからないにしても、目新しさに惹かれて闇雲に試すより、欲しい結果を先に思い描いておいてそれを満たすかどうかを判定する気持ちでいた方が試行は有意義になるだろう。
軽快な試行錯誤
何かしら新しいことをやってみないことには、今いる場所からどこにも進めない。生活をより良くするためには今までなかったものを取り込む必要がある。
しかしそのことにいちいち気力を費やしていたら疲れてしまって、豊かになるどころかかえって生活の質が悪くなってしまう。「新しいことに取り組んでいかないと」と意気込んでいると大変だと思う。エネルギーが有り余っているならいいのだが、日々心身ともに疲弊していて寝れるなら寝ていたいと感じているような多くの現代人には到底無理な話だ。
なので、新しいことを試すという挑戦はしつつもそのことを殊更頑張るような感じではない方が暮らしとして現実的だろう。ネットスラングに「軽率に○○する」という言い回しがあるが(これをやっていいんだろうかと迷ったりせずに気楽にさらっとやってしまう、というようなニュアンス)、そんな感じで気合には頼らず軽々しくやってしまうのが生活を良くするコツではないかと思う。「ぬるっと○○する」でもいい。重力に従って広がるかのようになんとなく手を伸ばしてみる。事前に意気込まなければ途中でやめるのも気が引けない。
例えばプログラミングをやってみるとして、現実問題として文法を正しく学ばないことには何もできないので最低限の勉強は必要なのだが、その一方で、買ってきた入門書の内容をまず一通りちゃんと理解しなければというような気合の入れ方は要らない。全体の1%でも2%でも、わかった範囲で軽率に何か作ってみる方が楽しいし自分の生活への反映も早くなると思う。もちろん、一通り勉強するということに全然苦痛がないタイプならその限りではない。
小さな試行錯誤
試行錯誤は軽くやってしまおう、と提案したいわけだが、逆に、軽くやれるところから試行錯誤していこうということも同時に掲げたい。
思い切って何かをできるならそれでいいし、「必ず小さいところから始めろ」という話ではないのだが、とはいえ自分の生活に倦んだからといって一番大きなフレームワークを全取っ替えすればそれでめでたしめでたしということにはならない。常に「自分が実はストレスに感じている小さなこと」に目を向けて、「あ、これちょっと変えた方がいいじゃん」と気づいていくことが実生活では大事だろうと思う。
そして変えてみて、変えた後が必ず良いとも限らず元に戻すことになるパターンもあるが、そうやって小さい自問自答を繰り返すことによって自分の形というものが自分でわかってくるだろう。揺るぎない感じで魅力的な生き方をしている人のその人なりの統一感というのは、その積み重ねによって生まれているのだと思う。必然的に、大きな枠組みの変更にも根拠が生まれ、良い変化に確信を持つことができる。
自分の生活に納得して自信を持っているように見える人というのは、やっていること自体が何かすごいとか立派だとかいうのではなく、そういう自問自答の蓄積で「私としてはこれが最善」と言い切れるようになっているということだろう。私たちが実際に憧れているのは、目に見えている部分の洗練された格好良さより、それを結果として導き出している、生活や人生というものに対するそういう堂々とした態度の方ではないかと思う。
もうちょっとどうにかならんかなと思いながら、使えるものを使ってみる。他人の輝きを追いかけてばかりではなく、自分の生活に焦点を合わせる。それが生活の技術の核なのだろうと私は思っている。
*1: 本来処分すべきものを「何かに使えるかも」と言って処分しないままにするのは、「使えるかも知れないが、現時点ではごみに過ぎないもの」に自分の暮らしが圧迫される危険性を伴うので、用途を見出さない限りはその都度きちんと処分した方が良いだろう。「次に手に入ったらこう使おう」と思ってから確保しても遅くはない。
*2: 当然ながら全ての人の生活が自力のプログラミングによって豊かになるわけでもないので、気になりもしない場合は試す意味はないだろう。気になるかならないかは分水嶺と見てよいと思う。
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