用があって小学生の学年別漢字配当表を見ていた。
別表 学年別漢字配当表:文部科学省
これを見ていると、日常的な意味で言う「難しい」というのは「馴染みがない」と「納得が生じるほど自分で考えてみたことがない」に過ぎないよなあということをひしひしと感じる。「一年生でやったから簡単」「小学校でやらなかったから難しい」などと考える時の「簡単」と「難しい」の意味とは何か。本当はそのものの難易度ではない。
私たちは普段、「簡単」「難しい」の意味すらわからずにその言葉を使っている。
多くの場合「難しい」というのは「まだ馴染んでいない」「まだ考えたことがない」に過ぎない。しかし「難しい」と表現してしまうがために、それを字義通りに「自分には困難なものである」と予測する。そう予測するから馴染むことがないし考えることもない。永久に「難しい」が「難しい」のままである。
例えば「緑」という漢字を書けない人はまずいない。小学三年生で習うし、よく使うからだ。しかし「緑」という漢字は簡単なのかというとちょっとそうは思われない。同じく三年生で習う「旅」は実際に難易度が高すぎて大人でも書けない人はいる。しかし「小学三年生で習ったから」という理由で書けるようになっている人もいる(ほとんどがそうである)。
例えば「捏」という字がある。「こねる」とか「でっちあげる」の「でつ」、「ねつ造」の「ねつ」の部分に登場する字である。「つくね」もこれ。手偏に「日」と「土」だから、漢字の成り立ちとしては簡単だ。意味と組み立ても合っている(会意文字)から、意味に対して突飛な見た目をしているわけでもない。
しかし覚えている人は少ないと思う。見かけても覚えられないことのほうが多いだろう。なぜなら習わないからだ。なので、こんな簡単な字を「難しい」と思う。なお習わないので書けなくても別に恥ではない。日常生活で目にしないわけではないので読めないとちょっと格好悪いかもしれないが、その程度のものだ。
言葉を曖昧に使うと自分の可能性も閉ざす。「難しい」は大抵「まだ行ったことのない世界である」の意味しかない。それなら「まだ行ったことのない世界である」と言うべきだろう。そう言うならば、行ってしばらくすれば馴染むものという可能性が生まれる。その過程にいくらか時間がかかるとしたって、それは「難しい」ものではない。
敢えて「難しい」と言ってしまったほうが気合が入る人というのはいるかもしれない。難しいことに挑戦したいという趣味があるなら、「難しい」ということにしたほうが取り組みがいがある。それは自分の好みに合わせたらいい。
なんでもいいから、自分のブレーキをわざわざ自分で踏むようなことはしないことだ。