茶の間
古のブログ風のミニマムな投稿場所です。
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サイトの引っ越し2024/02/25
Freshで作ったバージョンが公開に至った。
JSXを使って書けるのは本当に快適だ。そしてサイトの構成を作るのもちょー簡単なので、やっていて楽しかった。煩わしいとか面倒くさいとかいう感じがなかった。
去年の時点ではReactもJSXもWebフレームワークも全然扱えるレベルに達していなかったので、この二ヶ月弱でかなりレベルアップした感がある。
やろうと思えば色々やれそうなのでのらてつワールドを作っていけるといいなと思う。
Freshで自分のプログラミング体験というのは大きく変わったけれど、何がどうすごいのかを言い表すのが難しくて「とにかくすごいんですよ(ボキャ貧)」としか書けない件。
最高にクールなもの2024/02/24
トゲヒレアシハナムグリのフォルム。
最高にキュートなもの2024/02/23
オオサンショウウオのおてて。
物申したい度の高まり2024/02/22
を、自分で感じることがある。
これには二つのパターンがあって、絶対的に物申したい度が高まっているパターンと、相対的に物申したい度が高いということになってしまっているパターンだ。
今は後者の方だと感じる。元気がないので、絶えず強制的に感情を刺激されてしまう「不快」が相対的に強い状態になる。
一番低コストでできてしまうのが「物申す」なのだろう。ちゃんとした批判はむしろ最もコストがかかるが、「物申す」のは簡単にできる。
こういう時に限ってネタのストックがなかったりするんですよね。
気分が悪いと文化的な話がしづらい2024/02/20
気分というのは機嫌という意味も体調という意味も含めている。気分が悪いとはつまりヘルシーじゃない時ということだ。
厭世的な気持ちでいることは多い。それは主観的にはヘルシーじゃないけれど、しかし真にヘルシーじゃない時からすれば、単に厭世的でいるだけなら別に不健康ではないとわかる。
身体的あるいは精神的にヘルシーじゃない時、どうも文化的なことを考えることが難しい。カメラのピントが合わないというのか、素朴に何かを見つめるということができなくなる。何かを見て何かを感じても、それを言葉にする気力がない。できる時はコストなしにやれている気がするのに、できないといったらなんとしてもできない。
そういうものを言葉にすることは自分を回復させることだとも思う。だからそれができないということは自分で自分を回復させることもできないということで、好循環に入っていけない。
困ったものだ。
年をとったと感じる時2024/02/17
「AさんとBさんが交際」というヘッドラインを見てどっちも誰なのかわからなかった時。
サモンズボード10周年2024/02/13
ガンホーのスマホゲーム「サモンズボード」が10日に10周年を迎えた。めでたい。
私はリリース当初に始めて途中で一度やめてしまったのだが、去年またインストールして最初から始め、それからずっとやっている。なおやめた理由は「戦略的過ぎて疲れた」「他のソシャゲをやりたいので優先順位が下がりやる時間がなくなった」「他のソシャゲを入れたいので容量を空けたくなった」ということ。
新しいキャラが強力だし普通にガチャをやっていれば何かしら手に入るので、新たに始めても大丈夫な親切設計。他人と競うこともほぼないので弱くても問題ない。
難しいステージが攻略できないままになっても、(コラボ以外は)いずれ復刻するのでそんなに悔しくない。とにかくストレスが少ない。昔の昔はあまりにも戦術重視で疲れてしまったけれど、今はキャラの適度なインフレによって自分にできることが増えたので楽しい。インフレしてもPvPがないので腹は立たない。
マス目の上をキャラそれぞれの「移動できる方向・量」に従って動かして戦うというチェスのようなバトルシステムが秀逸で、サモンズボードを一度やめた後にこれを超える面白さのゲームには出会えなかった。あとイラストが綺麗でデフォルメがかわいい。ソシャゲ類を全部やめてサモンズボードに戻ってきて、今は楽しい時間を過ごせている。
note記事も移転完了2024/02/12
noteに投稿した記事も移した。Noratetsu LabとトンネルChannel同様このサイトに表示されるようにした。
自分がもう見たくない記事は省いた。ほとんど省くことになるかと思ったけど、読み返すとまあ悪くないんじゃないと思えるものもあったのでそこそこ残すことになった。
過去記事移転(ほぼ)完了2024/02/10
Noratetsu Lab内の記事の引っ越しが終わったあああああ。
Dynalistに移動したのでこのサイトで表示することが可能になった。
とても大変でした。飽き性には辛い単純作業(しかもちょっと頭使う必要あり)。
ある程度は作業しやすいようにスクリプトで加工したけれど、どう頑張っても自動化し得ない要素があったので手作業せざるを得なかった。でも今後機械的に扱えるための作業だったわけなので、これは一度で済む苦労。
あとはnoteの記事を引っ越そうと思う。まあこっちは全部引っ越さなくてもいいかな。
心配しなくてもそれを嫌いな人は他にもいる2024/02/08
Twitterのオタクたちは「嫌いなものを語るな、好きなものを語れ」ということを耳にタコができるほど聞いている。嫌いなものを語ることは本人を含めて誰にとってもほとんどメリットがなく、およそ「賢明」ではない。
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それでも嫌いなものを語りたいという欲求はなくしがたいもので、「好みの問題」に過ぎないとわかっているものについてはなんとか我慢しても、批判を浴びて当然の出来事が発生したりすると待ってましたとばかり恨み言をぶつけたりする。その気持ちは私も持っている。チクリと皮肉を言ってやりたいみたいなことはある。
逆に嫌いなものを語らないことで受ける不利益は何か。実際に不利益はない気がするけれど、主観的には言わないでいることの方が損に感じられるところがあるから言ってしまうわけである。
誰も自分が嫌いなものに対してネガティブ評価をしないとすると、目に映るのはポジティブ評価だけになる。そうするとみんなそれを良いと思っているかのようで、世界がそれに染まるような感じがしてくる。それを否定するのは許されないかのような雰囲気が漂っているように思えてくる。
それはまあ、当たり前に苦痛だろう。自分が嫌いなものが肯定されているのを見ることは、間接的にそれを嫌っている自分の感性が否定されているような気持ちになるものである。その解釈は妥当ではないとしても、妥当であろうがなかろうが心に発生するものは発生するのだ。
そういう気分は不愉快を通り越して焦燥や恐怖をもたらす。「みんな」が自分の嫌いなものを肯定し始めるとかなり辛い。
しかし実際にはそれは「みんな」などではない。如何なるものについても「沈黙している人」が相当数いる。むしろ世の人間のほとんどは「沈黙している人」である。で、心配しなくても、そこに「それを嫌いな人」は必ず多数いる。
もちろん、同じものを嫌いな友人などが実際にいた方が心は安定するだろう。しかし逆に「嫌いな方が当たり前」という感覚に陥るとそれもそれでよろしくない。攻撃性を増すようではよくないので、嫌い談義であまり盛り上がらないことである。
沈黙の中に同士はいる。そう信じることで平静を保つのが、自分を貶めずに済む現実的な選択肢だろう。
Obsidian再インストール2024/02/07
Obsidianを久々に使うことにした。
noteにいろいろ記事を書いておきながら、私自身はその後しばらくして使うのをやめてしまって長らく使っていなかった。当時はObsidianがなんだか妙に重くて(私の環境だけかもしれない)、さっと編集するということがやりにくくなってフェードアウトしてしまったのだが、今再インストールして使ってみると今のところは特に重いということはない。
久しぶりに触ってみたところ、なんとなく以前より快適になっている気がする。どこがどうというのはよくわからないけれど前より良い感じがする。
今回再活用しようと思ったのには具体的な理由があって、それさえ達成できればいいから、「第二の脳」的な使い方はしない。コミュニティプラグインも何も入れないでおこうと思う。Zettelkastenとかもやらない。デイリーノートも作らない。グラフビューも見ない。タグも使わない。
使い込まずに使う、という感じ。
○○術と言っちゃうことへの葛藤2024/02/06
自分のことを知っている人あるいはどこかにいるはずの自分と似ている人に自分はこう使っていると言いたいだけで提唱しようという気はないけど、検索で引っかかってしまうかもしれないと思うとなんか大声で言おうとしているかのようで微妙だな…とかごにょごにょ考えている。気にしたら負けだ。
Twitter的なSNSはその点すごく難しくて、こちらが想定している範囲と実際にアクセスしてくる可能性のある範囲が違っている。昔のようにある個人サイトにたどり着くまでにリンクを渡り歩く必要があった時代は自然と「十分狭い範囲」になっていたのに、今は単語検索一発でたどり着かれてしまう。全然狭まらない。
単純に検索を避けるならアカウントに鍵かけちゃうのが早いけど、そういうことじゃないんだよなあ。まあ嫌ならMastodon…しかしそういうことでもない…。
気にしたら負け! それ以外にない!
鯉用芋ようかん2024/02/05
2024/02/05放送の「ギョギョッとサカナ★スター」でコイのことをやっていた。
驚いたのが、コイを釣る餌として芋ようかんを使うということ! 釣りをする人には常識なのかもしれないけれど、私は知らなかったのでシャーク香音と一緒に「ええっ!?」と叫びました。
ちゃんとコイ用の芋ようかんがあり、人も食べられるようなものだが(黒砂糖使用とか書いてあったしさかなクンが実際に食べてみせた)、コイが気づきやすいようにより匂いが強められているらしい。
芋ようかんを使ってさかなクンと香音さんが釣りを始めたら香音さんがめちゃデカいコイを釣り上げたので、芋ようかんパワーは覿面のようだ。
芋ようかん、久しく食べてないな…。食べたくなってきたな…。
遠くから見ている分には目の保養になる人々2024/02/03
セント・フォース所属のアナウンサーとEXILE一門。
彼ら彼女らの洗練されたスタイルはやっぱり目には良い。古代の彫刻と同じ感覚で見ている。なおEXILEについては個人的に2008年以前が良い(思い出補正)。
まあもちろんあれを目指せと言われたら嫌だしみんながあれを目指し始めても嫌だしあれから遠い位置にある人間が見下されるのも冗談じゃないわけですが。
でもそれはそれとして、整っているなーすごいなーと思って見るのは構わないだろう。憧憬はないが鑑賞の対象として関心を持っている。
ゲンセイ2024/02/02
ツチハンミョウの仲間の昆虫。手元の図鑑ではトラヒラズゲンセイとキイロゲンセイが載っている。実際に見たことはないが、名前が異質なのでなんとなく覚えた。
漢字で書くと「芫青」らしい。なるほどわからん。
漢方薬の名前ということになるのだろうか。
外用では皮膚病や腫瘍の治療、発毛剤として用いる。内服すると利尿作用があり、また尿道を刺激するため催淫剤としても知られている。
腫瘍治療に発毛に催淫。なんだかすごい薬だ。ツチハンミョウに毒があるのは比較的広く知られていると思うけども、その毒にも含まれている「カンタリジン」を微量使えばそのような薬効を得られるわけだ。
ちなみにツチハンミョウはハンミョウの仲間ではない。分類的にも近くはなさそうだし見た目からして全然違っている。
筆記具2024/02/01
ちょっと前まで油性ボールペンを使っていたけれど、今はもう極細水性ペン(プロッキーなどの細い側)一択になっている。さらさらっと書けるのが良い。
あと「あかあおえんぴつ」をよく使っている。小学校の時に親が用意してくれたものがまだ思いきり余っている。特にあお(紺)の方は尖らせて筆記に使っている。あか(朱)はマーキングの方が多い。黄色の色鉛筆もよく使う。
鉛筆はインクやペン先の具合を気にしなくていいのが楽でいい。残量は明らかだし、手入れと言えば「芯を折らない」「時々削る」だけで済む。
難点はインクのようには筆跡がはっきりしないことと太さが安定しないこと。楽だが「やっぱりペンの方が…」という気持ちを度々抱くのは免れない。
「憮然」と「気色ばむ」2024/01/31
今現在「憮然(ぶぜん)」は「むっとした様子」という意味で使われがちだが、本来「憮」は「心を無くす」と書くように「むなしい」「失望する」という意味合いの字。よって「憮然」は「失望・落胆してどうすることもできないでいるさま」ということになる。
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それなのに「憮然」がしつこく使われるのは、「ぶぜん」という音のイメージが本来の意味と合っていないことと、「むっとした様子」を表す言葉が他に思いつかないことによるのだろう。
日本国語大辞典の用例として松本清張の一文が挙げられているが、松本清張がそのように使っていたということであれば、誤用がこうまで浸透したのも尤もなことだ。
私も「むっとした様子」をずばっと表す言葉になかなか思い至らなかったが、「気色ばむ」という言葉があることを思い出した(たまたま見かけて)。
しかしこっちはこっちで全然「むっとしている」感が想起されない。「けしきばむ」という音や「気色」という字面から何を思い浮かべればいいのかが自明ではない感じがする。そもそも「何かしらの顔色が現れる」的な意味しか示していない言葉だろうし、慣習として意味が狭められているとしても、見た目には怒りや面白くない感じに限定する必然性がない。「色を作す(なす)」も同様だ。
「憮然」については誤用と分かっていて使うのもなんだか嫌なので、辞書が揃って「転じて、~~」などと書くようになるまでは「むっとする」という意味では使わないつもりでいるものの、もはや本来の意味を表そうとして用いてもおそらく通じない。
早いうちに後世まで通じるうまい言葉を作れなかったせいで、後々に他の言葉が意味を乗っ取られアイデンティティを剥奪されている。
言葉は変わり続けるもので仕方のないことだが、その渦中にある言葉を見るとなんだか遣る瀬無いような気持ちになる。一方で私たちは「とうに乗っ取られた言葉」をしばしばさも伝統があるかのように使っている。それが全く「正しい日本語」でなかった時期があることを知りもしない。よって、言葉の軽々しい移り変わりを嘆いてみたところで、昔の人から言わせれば笑止千万もいいところだろう。
ルリチュウレンジ2024/01/30
漢字が想像できない名前シリーズ。
ハバチの仲間の蜂。全身メタリックブルーで綺麗。写真だと光沢がわかりにくいけど、実物を見ると甲虫並にピカピカしている。針が無いので刺さないし、動きものろいので、蜂と言っても怖くないやつ。
漢字は「瑠璃鐫花娘子」。変換したら余計にわからない。瑠璃色のチュウレンジバチなのはいいけども、「鐫花娘子」とは。
(↓でかでかと虫の写真があるので苦手な人は開かない方が良いです。)
「鐫」は、「のみ」と読み、木材などをうがつ道具のことを意味しています。
ふむ、葉や茎に卵を埋め込むように産みつける様子からこういう名前のようだ。「鐫」は音読みでは「セン」のようだけど、じゃあ中国語読みなのかというとそれも違うような? 「鐫花娘子」がどうして「チュウレンジ」に…。
この記事ではネット上の記述を調べた結果が報告されているけれど、まあやはりよくわからない。
個人的な推測では、注連縄(しめなわ)の“注連(ちゅうれん)”から来ているというのもあり得るか…? とは思った。
これは気持ちとしては結構なるほどと思えた。葉の端に卵を産み付けていった時の様子が縄っぽい感じがなくもない。
レファレンス協同データベースも見てみたが、過去にチュウレンジについて質問した例は収録されていないようだ。今度図書館に行った時にでも調べてみようかと思う。
晩夏になると、気づいた時にはツツジが幼虫だらけになっていたりする。まあよっぽど大量発生しないとすっかり丸坊主とまではいかないと思うけども。
どうでもいい文句
どうでもいいけど、チュウレンジバチ駆除について書いているとあるWebページで使われている写真が、幼虫も成虫もどう見てもチュウレンジバチではなかった(アメリカシロヒトリか何かの幼虫とクロウリハムシの成虫に見える)。専門家面して適当な情報をばら撒かないでほしい。
もしかして:2024/01/29
私は音楽が好きなのでは?
前に「音楽が好きというほど音楽が好きなわけでもない」と書いたけど(自分を作るもの)、その割に音楽の話をしようという気持ちが強い感がある。
好きであるということは専門性を有するかどうかとは全然関係がない。逆に何かの専門家もその対象を好きとは限らない。流れでその専門家になっちゃったからやってるだけです、という人も普通にいる。
でもなんとなく、好きと言ったら人より「詳しい」必要があるかのような気がしてしまう。これはなんなんだろう。
別に「好き」のゴールは「オタク」でも「マニア」でも「フェチ」でもないだろう。メジャーなものしか聞かなくても、トレンドを全て把握してなくても、音楽用語をきちんと知らなくても、その体験を気に入っていれば好きと言ってもいいような気がする。