茶の間
古のブログ風のミニマムな投稿場所です。
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「自分のことが見えていない」2026/03/21
他人から見た像と本人の像が一致していない時、他人からは「自分自身のことが見えていない」というふうに思われる。
それは間違いとは言わないけども、本人の中には他人に見える形になっていないものが果てしなくあり、それを前提にすれば現状というものは必然的にそうなるという状態になっているはずなわけで、情報が「ない」のではなく「ありすぎる」ことによって起きているズレなんじゃないかと思う。
だから自分自身の情報を見せることで他人から見た像の方を変えて整合性が取れるようになる人が(特に近年では)たくさんいる。
まあもちろん、「自分自身のことが見えていない」と指摘したくなる状況というのは色々あって、明らかに自分の能力を高く見積もっているとか、抱えている怒りの正体を本人がわかっていなくて変なところに向けて暴発しているとか、そういうシンプルに困った迷走もある。
今回言いたかったのは、他人を単純に見て話を片付けようとしてはいけないのではということ。
若者2026/03/20
親が国政に対して何らの意見も持たず、あるいは子に説くことをせずにここまで済ませてきたのだとすれば、一定以上の強さの主体性を持たない多くの子は国政について全く真剣にならずとも一向に不自由しないというふうに学習するのが当然だと思うけれども、なぜか「若者」という切り取られ方をして、ほぼ全ての若者に直接繋がりのある上の世代が存在しているはずであることは無視されているように思える。
ついでに言うと「若者」が何らかの傾向を持つという時、その傾向は大抵「既に若者ではない世代」からもう生じている。
「若者」の二文字が使われる時の「自分をもう若者とは思っていない人々」の無責任さに辟易している。
一見偉そうな昔の若者の言葉遣いに思うこと2026/03/19
昭和初期の若者(学生)は話し方や書き方が今から見ると偉そうだなと感じられる。単に文体の流行りというのもあると思うが、少なくとも「偉ぶっている」結果なのではなく、「自分なりに毅然とする」という意識があったと感じる。
その意識がないといつまでも幼稚な物言いで、例えば人と話をした時に一文一文を完結できずに単語だけ投げて雰囲気を察してもらおうとするようなことが生じるのではないか。その意味で発話にだらしがない人は老若男女問わずそこここにいる。
書いていることは話すことができる――というのは言い過ぎだとしても、文字で表現し、それを見える形で残す習慣のない人は、その分だけ話す能力の成長が遅れやすいと個人的には思います。
現実は厳しいのか2026/03/18
「現実は厳しい」と特別思わずに済んでいる(脅されるほどは厳しいと感じずに済んでいる)人というのも世の中には結構いっぱいいると思うのですが、その現実は現実じゃないのかなと時々思う。
もちろん、「現実は厳しい」と言うことによって教えたいものはわかるし、生きていくために必要な教えだろう。しかし言葉として正確じゃないことを伝えてしまう以上は、そこから何か困った歪みは生まれるでしょうねという。
そもそも、夢見がちになるのは実際にある厳しくない現実を知ったからが多いんじゃないか。
恥2026/03/17
私に恥をかかせるなと人に要求する人間が自ら恥をかかない努力を誠実にしているためしがない。
私に恥をかかせるなという発想自体が恥。
おんぼろ車を自分で直す暮らし2026/03/17
「世界まる見え!テレビ特捜部」なんかで時々紹介されるアフリカの人の生活を見ると、色々と大雑把過ぎて笑ってしまう。しかし、ぼろぼろのスカスカになっている自動車を自分で直して使っているのを見るたびすごいなと感心する。車とはなんなのかを分かっているからできることだ。
日本人は自分以外の誰かが用意してくれた便利さによって、多くが今や米を鍋で炊くことすらできない。生身の生活ということに於いて無力極まっている。当然、壊れた車を前にしても専門業者でなければそれを直しては使えない。もちろん勇気ある人が試行錯誤すればそのうち直せるだろうが、そのスキルは今実際に直して使っているアフリカの人に及ばないと思う。
生成AIとコーディングについて似たようなことを考える。もはや自力で機械語であるコードを書く必要はないのかもしれない。自分でテレビを作ることもパソコンを作ることもないように、自分でプログラムを作ることもなくなり、それを自力でやれる人が何かすごい技術を継承しているかのようになる日も遠くないのだろう。
近未来を描いたフィクションでは、しばしば文明にヒビが入り旧時代の技術を扱える人に頼ることになったりする。そういう未来が現実世界でもあり得るかはわからないが、古の技術の方が或る面では優れていたというようなことは実際あって、一見既に必要のなくなったものを努めて継承したり復活を試みたりということがそこここでなされている。
今から頑張ってプログラミングを覚える「必要」はもうないのかもしれない。しかし、今プログラミングができる人のその技術や、今からでも自分でやってみようと思う人のその心がけはきっと無意味なものではない。人間の世界は「食えるか否か」だけでできてはいないし、今誰かの手仕事や「自力でやる」ということを見て感慨を抱くのは、そこに間違いなく豊かさがあるからだろう。
アンチ無個性2026/03/15
自分は「面白いかどうか」をかなり重要視しているという自覚がある。
しかしそれは文字通りに「面白いかどうか」を重要視しているということではなかったのかもしれない。
人間の無個性な言動が嫌いで、アンチ無個性としての個性を求めている。「独特であればあるほどよい」とは思わない。「無個性でない」ことが肝で、あとはこっちで勝手に面白さを見出す。
「無個性な言動」というのは「その人に個性がない」ということではない。万人に個性があるにもかかわらず、無個性化して自分の個性がもたらす責任を回避しているような態度を指している。
無個性な選択というのは結局、自分ではない何かを判断の根拠にしているということだ。もちろんそれが常に悪いわけではない。問題は無個性であることの方を賢明かのように言うことや、個性の発露を押し流さんばかりに無個性のものが膨張していくことである。
流行に乗ることが正義というのもその点で総じて不快だ。しかしながら流行っているものそのものを忌まわしく思うことは案外ない。流行っているものそのものは個性的なのだ。
フィギュアスケートについての妄言2026/02/15
村主章枝さんの今で書いたように、十数年前までフィギュアスケート競技をテレビでよく見ていた。
続き
会場に足を運ぶほどの熱意ではなかったが、毎年グランプリシリーズなど主要大会の成績をノートに書き取ってまとめたりする程度には熱心にチェックしていたし、フィギュアスケート競技の季節になるのを楽しみにしていた。(以下、敬称略)
好きだったのは、安藤美姫、鈴木明子、本郷理華、宮原知子、エレーナ・ラジオノワ、エリザベータ・トゥクタミシェワ、高橋大輔、ステファン・ランビエール、エヴァン・ライサチェク、ジェフリー・バトル。
当時はストレートラインステップというのがあり、端っこからさあ行くぞという感じで滑り出す瞬間にはワクワクした。安藤美姫のシェヘラザードと高橋大輔のオペラ座の怪人が特に印象に残っている。
あと当時ならではなのは長いスパイラル。村主章枝と浅田真央のスパイラルが目立っていたと思う。
イリーナ・スルツカヤのビールマンスピンや中野友加里のドーナツスピンも印象深い。当時は全員が何でもできるわけではなかったし、代名詞となる必殺技みたいなのを持っている選手が多くて面白かった。
あと20年前くらいは男子は大柄な選手が多くて迫力があった。ブライアン・ジュベールは179cmだしエヴァン・ライサチェクは188cmもある。明らかに細身という印象なのはジョニー・ウィアーくらいだった気がする。
比較的近年の話で言えば、紀平梨花のA Beautiful StormやInternational Angel of Peaceはテーマが壮大で良かった。男子ではミーシャ・ジーや町田樹もそうだが、音楽的に独特の世界観を持っている人のプログラムは見ごたえがある。
最近のフィギュアスケートは一昔前と比べたら曲芸のようだ。すごいことをできるすごい選手がたくさんいる。レベルがもはや全然違っている。
その流れでは必然的なことかもしれないが、素人目には多様性はやや失われた感がある。もちろんそれぞれ違った雰囲気を持ち違ったプログラムをやっているが、「フィギュアスケートってこういうものだよね」というのが固まってきている感じがある。
まあそもそも「競技としての演技」が多様だったのがおかしかったのかもしれないし、スポーツとして発展途上だったということなのかもしれない。高度に成熟した今のフィギュアスケートに於いては、個性の発揮はアイスショーでということなのだろう。
エテリ・トゥトベリーゼコーチの台頭以前はロシアの選手やコーチも結構好きだった。彼女のやり方が通用してしまったこととその後の情勢とは、正直無縁ではないように思えてしまう。こうなるような国になった(戻った)から、こういう指導が通るようになったんだろうなと。
村主章枝さんの今2026/02/14
十数年前まではフィギュアスケート競技を好んでテレビで見ていた。
私がリアルタイムで知っている女子選手の最初が村主章枝さんだ。苗字も名前も珍しく、顔の雰囲気もあまり似たタイプを見たことがないというので覚えた。
細身で優雅な身のこなしが印象的で、トリノオリンピックのシーズンのプログラムはよく覚えている。金メダルを取った荒川静香さんの話題性に隠れがちだが、高難度ジャンプ時代になる前の優美なフィギュアスケートを体現した演技だったと思う。
昨日(2026/02/13)、テレビでものすごく久々に見た。億単位で稼いだのに使い切っちゃった人たちというテーマでの登場だったが、村主さんの場合は現役を長く続けた分の出費で消えてしまったということで、(他の人のような阿呆な散財ではなく)限界まで挑み続けたからこそのちょっと悲しい経済事情。フィギュアスケートはとにかく金がかかるのだ。
で、そんな村主さんは今何をしているのか。現在はアメリカにいて、若い子たちにスケートを教えているとのこと。現役時代の演技に感動して是非村主さんにとコーチを頼む人が少なくないようだ。当時フィギュアスケートを見ていた人ならそりゃあ頼みたくなるというもの。
……というだけならフツーじゃんという話だが、これだけではなかった。
なんと、映画プロデューサーをやっているとのこと。映画!?
元々はアイスショーのためにスタッフを集めてチームを作ったのだが、コロナ禍でショーを開催できなくなり、どうしようかとなった時にスタッフに「映画を作りたい」と言われてじゃあやるかとなったらしい。
それからは映画を作り続け、賞を取ったこともあるらしく、今は良い映画を撮ることに力を尽くしていらっしゃるようだ。
現役時代の印象ではどちらかというと気難しくて何を考えているのかわかりにくいタイプのように勝手に思っていたのだが(ごめんなさい)、今回見た限りでは朗らかに仕事に邁進する素敵なお姉さんだった。元々本当はそうだったのかもしれないし、引退後の体当たりの仕事でちょっと変わったのかもしれないし、それはわからないが、いずれにせよ今の村主さんはとてもいい感じがする。
引退後何してるんだろうと思っていたので、たまたま見たテレビで知れてよかった。
「自作ツールづくりwiki」所感2026/02/02
一応参加者になっているCosenseプロジェクトに「自作ツールづくりwiki」というものがある。個人プロジェクトの見直しをしていて目に入ったので、こちらに関して感じたことをちょっと書き留めておく。
続き
このプロジェクトは、プログラミングのプロではない人々が自分の経験や気づき、知ったことを持ち寄って「自分でツールを作ってみる」という営みを支援し合おうということが大体のコンセプトだと思う(もちろんプロがいてもいい)。そういう場というのはなかなかないのでとても素晴らしい場所である。
一方で、「じゃあどういうページを誰が誰に向けて作るのか」という実際的な次元にやや難があると感じている。これはどんなジャンルのプロジェクトであっても発生する問題で、グイグイいける人間が重機のごとく開拓するというようなことが起こらない限り自然に解決するのは難しい。(そしてその開拓の仕方で他の人間が必ず住みよくなるとも限らない。)
ここでは一般化は控えて「自作ツールづくりwiki」に焦点を当てて考える。
そもそもの話、生成AIに頼めば解決する時代になったからこういう場の需要がもうないんじゃないか、という視点もあり得るが、私はそんなにそうは思わないというか、普段は生成AIに頼むにしても自力で何かを作れることには意味があるわけで、場の存在意義がなくなったとは思われない。というか、それならそれで、生成AIに何を頼んでどうしたかを持ち寄ればよいので、むしろ活発になっていいとすら思う。
なので場自体の意義の有無を考える必要はないとして、場がどういう形をしていたら豊かになりそうかを考えてみる。
まず踏まえなければならない最大の問題は、参加者は基本的に素人なので正確なことは書けないということだ。書いていることが正しいこともあるし、正しくないこともありうる。なので正しい情報を知るための場にしようとする意味はおそらくあまりない。そもそもプログラミングの情報というのは大抵既に良質のWikiや入門サイトが存在しているのであり、そこにある情報をただコピペしても場の価値は大して増えない感がある。
ただ、情報の総量というのがあまりにも膨大なので、そのうち「本当に使う情報」を抜き出して学びやすくしよう、ということをしたくなるのは自然な流れであろう。しかしながら、基礎中の基礎の情報以外には、具体的に何かをしようとする時に必要な知識というのはすぐさま多様で専門的になってしまうのがプログラミングの世界であると私は感じている。そして自分が今やりたい具体的なことに関わりない情報にはあまり惹きつけられないものである。
だんだん正確なところがわかっていくという途上にいる人間たちが、それでも情報を持ち寄ることに意味があるわけだが、「それでも持ち寄る情報」というのは何かと言えば、つまるところ「何をしようとして、何をどうした」「何に困って、何をどう解決した」という体験談だろう。要はQiitaやnoteで投稿されているような事柄だ。
とすると、じゃあQiitaやnoteを見ればいいのではという話になるだろう。実際、普段はそういう投稿サイトやRedditなどを検索で探し当てて参照しているわけで、「自分が情報を得る」という意味においては敢えてCosenseプロジェクトという形で場を作ってもらう必要性はない。集合知は不特定多数が日々更新し続ける場にこそ集積していくのだから、明らかに参加者が限られる場所で「知」そのものを豊かにすることを試みるのはあまり現実的ではない。(知識がある人が少ないニッチな世界なら非常に意味があるが、プログラミングに関しては既に豊かな世界が存在しているので下位互換にならざるを得ない。)
ならば「持ち寄る」意味はどこにあるのか。それは「他ならぬ私がこれをやってみたのです」「他ならぬあなた方に見てもらいたいのです」という属人的な情報交流であろう。
初心者ゆえに自分がやっていることがどれほど稚拙で非常識かもわからないという不安な中で、誰がいてどう言われるか予測できない場に何かを書くのは勇気がいる。なので大体同じ程度の人、あるいはその道を通ってきた「元初心者」が集まる場があれば、いきなり「なんでそんな変なコード書くんですか?」とか言われて傷つく心配もなく、自分の「やってみた」を誰かに発表することができる。
自分の試みを誰かに言えることは喜びであり、仮にそれが他者や未来の自分に情報として大した意味をもたらさなかったとしても、場に喜びがあるというのはそれだけで豊かで意義深いことである。また、困っていることを気楽に尋ねられるのも大事なことだ(ただ、困りごとについては生成AIがあればほとんど自己解決できてしまう世の中になった感はある)。
よって、Cosenseのページとしては、Qiitaなどのように「○○が~~だったので××してみた」とか「hogehogeコンバータを作った」というふうな、普遍的知識でない個別の「やったこと」の類、あるいは「○○ができなくて困っている」といった格闘中の話がメインとなり、その補助として繰り返し出てきそうな基本的な知見(例えば「ローカルストレージを扱うメソッド(JavaScript)」といったふうに)を切り出していくのが書きやすいのではないかと想像する。
他の人も使いそうな知識というのは「やってみたこと発表会」の過程で副産物として蓄積していくもので、「そういえば○○さんがそんなことやってたような」という記憶からページを辿ってその人の糧になるというのが「参考にする」ということの自然な流れのような感じがする。
今考えたことなので現時点で私は何も実践していないのだが(というかいきなり何かし始めると「この人は急に何をしようとしてるんだろう?」ということになりそうで不安があった)、差し支えなさそうならこっそりページを増やしたりしてみようかと思う。
里山2026/02/01
ではない山を人間の遊び場とみなすべきではない。というのが持論。
サブスクリプション2026/01/31
サブスクリプションの類は去年末で全部やめてしまった。やめるには惜しいと思うものはもちろんあったのだが、うんうん唸って考えた末、えいやと一括で解除した。
額がどうこうの問題ではなく、サブスクリプションという形式に不安を抱いていることが理由。例えば今日私が意識不明になったりあの世に行ったりしたらどうするのかという。身内はデジタルに疎いから対処できない。
自分の選択がその都度けりをつけるものにならないというのは心配が大きい。事前にいつまで継続するか指定できればいいのにと思う。そうされるとみんな賢明になってサービスが成り立たなくなるんだろうけども。
江戸川コナン失踪事件2026/01/24
昨日の金曜ロードショーで『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件〜史上最悪の2日間〜』をやっていた。原作連載20周年を記念して2014年に放送されたスペシャル番組で、その時見たので今回は二度目。
当時は知らなかったが、今作の脚本は映画『鍵泥棒のメソッド』の監督内田けんじ氏が担当していて、登場人物も同作に登場する人々だったようだ。映画の後日談として描かれていたらしい。
ある程度まで話が進んでからそこまで実際何があったのかを時間を巻き戻して追い直す流れで、コナンとしてはちょっと珍しい構成になっていると思う。
ストーリー展開も、話が裏社会の人物間でほぼ完結しているところがあるからかコナン的ではない感じがある。
内容の良し悪しは置いておくとして、今見るとキャラのやり取りに違和感があってそちらが気になった。特に蘭の扱いが悲惨で、いくらコメディ表現としてもちょっとどうかという感じ。徹頭徹尾無視され蔑ろにされていて、いったいコナン(新一)は蘭をなんだと思っているのか。加えて、当時蘭と哀の関係がどうだったのかちょっと覚えていないが、哀の蘭に対する態度もどうかしている。
あと逆に蘭の小五郎と阿笠博士に対する態度も変だ。蘭はそういう性格ではないと思う。
普通ではない態度を敢えてさせることで笑いを生み出そうとしていたのかなとは思うが、そういうやり方をする必要性がちょっとわからない。
ストーリーにはなるほどとは思ったが、得られるのはパズル的な快感であり、キャラクターものの作品としてはいまいちと言わざるを得ない。二時間見て、登場人物の誰のことも特に好きにはならないからだ。
偉業とは思わないもの2026/01/11
登頂。
「自分の村に帰れない」イベント2026/01/09
RPGには「自分の村に帰れなくなる」というイベントがしばしばあるけれど、これがなんか非常に辛い感じがする。所詮ゲームだし、という割り切りができない。
というか、現実よりゲームの方が辛く感じる可能性すらある。生身の自分が実際の地元に感じている愛着より、ゲームという安心安全で楽しげな世界でくまなく歩き回ってなんでも把握している空間に感じている愛着の方が場合によっては大きい。
ゲームを「自分のもの」と感じているのも辛さの一因になっているかもしれない。自分のものが破壊される恐ろしさ。為すすべがない不可逆的な変化が自分のテリトリーで起こる恐怖。侵犯されている感じがある。
RPGのプレイ中は、特別用事がなければ過去の拠点には戻らないから、実際はずっと帰っていなくても平気でいる。だから「帰らない」ことは辛さを生まない。しかし「帰れない」と言われると急に不安に襲われる。
自分の文脈には自分しかいない2026/01/04
自分は今自分の中にしかない特定の文脈の上でものを考えていて、まずその文脈を共有しないことには持論の共有も叶わない、ということに全く思い至らない人がいる。
言いたいことをいきなり言うので相手にとっては「何の話?」ということになるが、何の話かと問うと「この話に決まってるだろう」という顔をする。知らんがな。
なおSNSでは(あるいは芸術では)敢えて文脈を共有しないことによって文脈を掘り出す作業を相手にやらせるという手法が普通に取られ、それはそれで何かしら意味がある。
しかしとりあえず対面で人と話をする時には文脈の共有から入るのがコミュニケーションの前提だろうと思う。でも自分が特定の文脈にいること自体をわかっていない人が多くいる。というか、「文脈」というもの自体が認識されていないと感じることがある。
尊敬している人の話に「なるほど」と思ってしまうということ2025/09/01
誰かを尊敬すること、そしてその人の話をとりあえず信じるということは悪いことではない。
しかし自力で真偽を判定できない領域の話をされた時に「この人が言うなら正しいはずだ」と判断するということが、積もり積もって困ったことを引き起こすことがある。
特に集団で何かを話している時にそれが発生すると、「これが正しいらしい」が連鎖して疑問を挟めなくなりがちだ。誰かが話をして、別の誰かがそれを肯定する、更に別の誰かが肯定する、というのが続くと、自分の異論に確信がない限り「そうか?」とは言いづらくなっていく。
肯定というのは「なるほどなあ」程度でも力を持つ。直ちに異論をぶつける人がいないなら、それは納得するのが普通の話に感じられてしまう。仮に誰かが異論を唱えてもそれを否定する圧が強ければ異論のほうがおかしく見える。
もちろん、実際そのくらい妥当かもしれない。しかしそうではないこともある。或る偏りがある集団でそうやってなるほどなるほどと言い合っていることが、外から見たら割ととんでもないことだったりする。
同じくらい「強い」人で、考え方の違う人が複数いればそれは防げるような気はしてくる。しかしそれには数が十分多くないといけない。揃って偏っていると「その人達がみんな言っているんだから絶対正しい」になってしまう。その方が怖い。
その人の話を聞かなかったらそうは思わなかったこと、には注意が必要。
でもそれこそが自分に欠けていた視点であることもある。だから当然ながら、そういうものを必ず正しいとも必ずおかしいとも言えない。正しいこともあるしおかしいこともある。その当たり前を忘れないということが重要だ。
その人がどれほどいい人であっても賢い人であっても尊敬に値する人であっても話が妥当ではない瞬間はある。別にそれによってその人の価値が損なわれるということではないし尊敬をやめる必要もない。単に、その人の素晴らしさが常にその人の正しさを保証するわけではないということを注意しておく必要がある。
書き物のこだわり2025/08/29
自分は無名のブロガー、というか「ひとりでなんか書いてるただの人」だが、公開する文章にはある種のこだわりがある。
こだわりを普段自覚しているわけではないし何か強固な信念に従っているわけでもないし、全ての記事でそれを貫いているというものでもないが、世の中の「そうではない記事」を読むと、自分はここにこだわりがあるんだなと気がつく。
それは「読んだ人の世界が何かしら変わる文章を書く」ということだ。どう変わるかは私が決めることではないし、どこにも導くつもりはない。ただ、読む前と読んだ後でその人の世界を構成するパーツが変わってほしいと思っている。
読んで「ふーん」と言ってそれで終わりになるのでは失敗だ。
世界を変えられてしまう感じがストレスになって読めないと思われたとすれば、まあその読み手に対しては成功ではないが、文章としては成功かもしれない。
既に読み手に存在しているパーツを提示してもあまりしょうがない。ただし書くまで自分にはなかったなら、それは私にとって意味がある。まあでも、書くまで自分になかったものなら、読み手にもないことが少なくないだろう。
これを裏返すと、読み手が既に持っているパーツだけでこちらの文章を解釈して、それが私の文章の情報量を減らしている時、かなり不満を感じるということでもある。
こちらの力不足で読み手の世界を変えられていないなら仕方がない。でも自身の世界を再構築する気が最初から読み手側にないなら私にはどうしようもない。
ちび蜘蛛2025/08/23
体長1mmくらいの極小の蜘蛛が、そのサイズからしたら結構な規模の巣を張っているのを見ると、そんなに糸を出して存在がなくなってしまわないのかと思ってしまう。
そしてそんな勢いで糸を出してもそれを取り返せるくらいそこに何かいるのだろうか、と思うのだが、一体何がその巣に引っかかっているのかわからない。
たまにそのような蜘蛛の巣にダンゴムシが引っかかっているのは見かける。まあダンゴムシをゲットできれば当分は大丈夫かもしれない。でも絶対ダンゴムシは来ないようなところにも蜘蛛の巣はあって、代わりに引っかかる獲物を目撃したことはない。夜の間にでも捕まえて食べてしまっているんだろうか。
ダンゴムシが引っかかること自体驚きである。あんなぱやっとした頼りない糸に、蜘蛛からしたら相当巨大なダンゴムシが吊り下げられてしまっている。
まさに引っかかっているその瞬間を少し前に見かけたが、糸がお尻のあたりに掛かってしまったダンゴムシがどれだけ歩いてもがいても、決して糸が外れず巣も壊れないことにかなり驚いた。そうして裾を踏んづけられたみたいな格好で自由を奪われておろおろしているうちに、糸のより内側の部分が絡んでしまって、そうこうしているうちにどんどん引き上げられてしまうのだろう。
その間、ちび蜘蛛はちょっと離れたところで見ているだけである。
人間が指でちょっと押したら潰れてしまうような頼りない生物がこんなにダイナミックなことをしているというのは素朴に感動を覚える。