茶の間
古のブログ風のミニマムな投稿場所です。
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「やだあ~~」2023/12/01
ちょっと前に何だったかの情報番組か何かで、松下由樹が百均に行っていろいろ買うというのをやっていた。つまりは今話題の便利アイテムの紹介だ。
で、店員さんが面白いアイテムを見せる度に松下由樹が「やだあ~~」と反応していて、あまりに毎回言うので共演者も笑っていたし私もお腹を抱えて見ていたのだが、本人はそれが口癖になっていることにそれまで気づいていなかったようだ。スタジオでVTRを見て自分の口癖を知り「恥ずかしいー!」という感じだった。
この感嘆を示すための「やだあ~~」、言わない人は一生言わないと思うけど、言う人はいつの間にか言うようになっている。どこかから伝染してくるんじゃないかと思うけど、これは一体どこから飛来してくるのだろう。遊びの感覚で面白がって言っているうちに定着してしまうんだろか。
面白い表現だなと思うので誰かが「やだあ~~」と言っているのを見るとふふっと笑ってしまう。でも「そのような表現をする人間になりたい」と思って言うようになるものとはとても思えないので、どこからどう受け継がれて伝播していくのか不思議だ。気づいた時には「やだあ~~」が口から出る人間になっているものなのかもしれない。
ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん2023/11/30
遊助(上地雄輔)の「ミツバチ」という曲の1フレーズ。曲は2010年リリース。
突き抜けてバカっぽい感じが逆に元気をくれる。
発表当時はインターネット上のどこを向いても「⊂二二二( ^ω^)二⊃
」が飛び回っていた気がする。その当時のインターネットの雰囲気と相性が良かったのだと思う。今思うにとてつもない流行り方だったような。
この曲やこの当時この人が出ていた某番組は色々と物議を醸したけど、まあでもこの曲はいいんじゃないかなと思ったりする。曲はね。一部似ている曲があるという話を踏まえても(まあよくあることだし…)。
時たま不意に「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」と頭に流れるから洗脳ソング(※比喩)怖い。最近は忘れてたけどうっかり思い出してしまったので、またしばらく「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」に襲われると思う。
ダンドンダンドンダンドンダンドンダーダラッ2023/11/29
一般的には「デロデロデロデロデロデロデロデロ デンデロン」と表記されるようだけど、幼少の私の耳には「ダンドンダンドン」と聞こえた。よく聞くと微妙に複雑で、今頑張って表記すると「ダラドロダラドロダラドロダラドロドーンダラン」という感じだろうか。
何かというと、ドラゴンクエストシリーズでSEとして用いられる「呪いのモチーフ」というフレーズのこと。
子どもの頃恐ろしかったものだ。
よくトラウマSEと言われるけど、多分基本的には「冒険の書(=セーブデータ)が消えた時に流れるから」というのがトラウマの理由なのだと思う。でも私はそんなに冒険の書が消えた経験をしていないので、普通に「装備が呪われていた」というタイミングで恐ろしく思った。
ドラクエシリーズの中でも「トルネコの大冒険」でよく遭遇した。拾った武器・防具・指輪は時々呪われているのだ。呪われているというのは、「装備が外せない」という意味だ。
このSE自体嫌過ぎるが、「装備が外せない」というのもそれ単体で恐ろしい。仮に十分強くて着けっぱなしでも構わない装備だとしても、それが外せないということになったらすごく嫌だ。
ドラゴンクエストⅦのカジノに「ラッキーパネル」というミニゲームがある。要するに神経衰弱なのだが、並べられたカードの中に「シャッフルパネル」という外れカードが混じっている。これを開けてしまうとカードの配置が全部混ぜられてしまって、どこに何があったかわからなくなるので非常に困る。ほぼ「負け」を意味していると言ってもいい。
そしてこの「シャッフルパネル」を引いてしまった時に「呪いのモチーフ」のSEが鳴る。耳にする度にギャーッとなったが、言ってしまえば「カードが混ぜられてしまう」というだけの話なのに(ゲーム内マネーが無駄になるという実害はあるけども)、このSEのせいでもうとんでもなく嫌なことが起きたかのような気分になる。ゲーム的に困るからというより、この音を聞きたくない一心で「シャッフルパネル」を引き当てないことを祈っていた。
何回聞いても絶対に慣れない恐怖のフレーズ。正直今でも嫌。
舟渡聟(ふなわたしむこ)2023/11/28
NHK総合で2023/11/26放送の『古典芸能への招待』にて野村万作家三代の狂言をやっていた。
前半だけ見たのだけど、万作・裕基による『舟渡聟』が可笑しかった。
調べたところ、大蔵流と和泉流とで展開が違うようだ。和泉流だと船頭=舅で、一言で言ってギャグである(野村家は和泉流)。
聟(むこ)が舅に挨拶に行く途中に渡し船に乗ったら、持参した酒の匂いを嗅ぎつけた船頭が脅してきてがぶがぶ飲まれてしまい、仕方なくほとんど空になってしまった酒樽と共に舅の家に行ったところ、その舅が船頭だったという話。
自分の家を訪ねてきた聟というのがさっき船に乗せて酒を強奪した若い男だと知った舅(野村万作)の「うわやべっ」という感じの逃げ帰り方が可笑しい。そしてトレードマークだった長い髭を妻に「その髭普段から煩わしかったんだよ!」というような台詞と共に剃り落とされ、風貌を変えて聟の前に出るも、結局ばれてしまう。ばれた時の両者の動きが滑稽で笑ってしまった。
ところで野村万作氏は92歳とのこと。すごい。頭使うし動き回るし床を踏み鳴らすし身体に良さそうとは思うけど…(素人の感想)。
片山杜秀2023/11/27
クラシック音楽番組繋がりで、この人のことも書いておこう。
NHK-FMの「クラシックの迷宮」という番組の案内人をやっているクラシック通だけど、本職は政治学者。
ちなみにこの番組は吉田秀和氏の「名曲のたのしみ」の後番組だ。吉田秀和氏が大物すぎて後継選びは大変だったのではと思ってしまうけど、片山杜秀氏の語りは納得という感じ。
ここ数年はちょっと聴きづらい時間帯に移動してしまったので聴けていないけれども(聴こうと思えば聞き逃し配信で聴けるのだけど)、前まではだいたい毎週聴いていた。
片山氏の語りを聴いていると、その滑らかさに驚く。とても聞きやすい声でわかりやすくスーッと話していくのだけど、一度に話す情報量がものすごく多い。耳から脳に大量の情報がするすると詰め込まれていく感じがする。よくそんな綺麗に話すものだと思う。
原稿を用意しているからかとも思ったけど、テレビでのトークも同じ調子だったのでそういう才能らしい。
明るくて個性的で教養の豊かな語り口がとても面白い人です。
音楽の泉2023/11/26
前投稿(にちあさ)ではテレビ番組の方だけ触れたが、日曜朝のもう一つのお供がラジオ番組の「音楽の泉」だ。
2020年度から奥田佳道氏が案内人。その前は故・皆川達夫氏だった。皆川達夫氏は1988年からとのことで、実に30年以上務めていたことになる。すごい。
皆川氏は惜しくも2020年に亡くなられたが、92歳だった。長生き! きちんと2019年度の仕事を全うし、4月に天に帰られた。
最後の方の回で「歌オラショ」というものが取り上げられていて、その話がとても印象的だった。隠れキリシタンが歌い継いだグレゴリオ聖歌だ(皆川氏が研究により論証)。あまりに前提知識に乏しかったため話の全部を理解はできなかったけれど、全く知らなかった世界に案内されたということに衝撃があった。
先週はラヴェルの『クープランの墓』のことをやっていた。邦題は直訳で『クープランの墓』だけど、実際の意味はその表現から想像するものとは違っていて、「墓」と訳されている「Tombeau」は音楽用語として「故人を悼む曲」というような意味があるらしい。そうだったのか~。クープランの墓碑に思いを馳せているのではなく、クープラン的な形式のバロック風音楽によって、戦争で亡くなった知人に思いを馳せているのだろう。
調べればわかることではあるけど(このことはWikipediaにも載っている)、それは「調べれば」であって、自分が見知った全てのものを調べるわけではないので、こういう番組で「へ~」と思えるとやはり楽しい。
ちなみにこの番組のテーマ曲はシューベルト作曲の『楽興の時』第3番ヘ短調。多分誰でも聞いたことがあると思うけど、この曲は一度聞いたらきっと一生残ってしまう種の不思議な印象を持っている。暗くはないけど明るくもない、なんとも言えない気分になる。面白い曲だなと思う。
そして案内人交代に伴い演奏が変わったのだが(アンドラーシュ・シフ→マリア・ジョアン・ピレシュ)、結構な違いを感じて少し驚いた。演奏家が違えば音が違うのは当然ではあるけれども、それにしても味わいが違っていて奥が深い。
にちあさ2023/11/26
もちろんニチアサと掛けたタイトルだけども、私の日曜朝は別の番組でスタートする。例によってNHK。NHKさんには本当にお世話になっている。
日曜日の朝の時間は、テレビを見る時はNHK総合で「さわやか自然百景」「小さな旅」を見る。「Dearにっぽん」まで見る時もある。テレビを見ない時はラジオで「音楽の泉」を聴いている。
「さわやか自然百景」は、日本のどこか一箇所を取り上げ、そのエリアで見られる動植物の生活を紹介してくれる。動植物が好きなので、ぼーっと見ているだけで癒やされる。そして日本というのはこういう世界なのだというのがわかる。どこに何が生息しているのか、結構な種類を覚えたような気がする。問われてパッと名前を言えるとかではないけれど、だいたいこの地域にこういう生き物がいるはずだ、というのがなんとなくわかる。
「小さな旅」は、これも日本のどこか一箇所を取り上げるものだが、こちらは人の営みだ。昔から続いている、そして少しずつ変わってきている生活が紹介される。日本は本来こうであったというのが感じられる。都市に住んでコンクリートの建物を往復してパソコンやスマホに齧りついていたら全然わからないことだ。私たちが本当に生きるために必要なもの――つまり衣食住、あるいは信仰、そしてアイデンティティ――を支える生活がどんなものなのか。
「Dearにっぽん」はもうちょっと人間と人間の関係に寄った題材だろうか。人間社会に働きかけるために何かに取り組む人々の姿を見つめる番組だ。そんなには見ていないが、何回か興味を引かれて見た。
日本にある自然、日本にある営み、日本にある取り組み。それらに思いを馳せる時間と言える。
過去記事追加とか2023/11/25
2023年4月~9月分の過去記事を追加しました。
ある程度自動化しているけれど地味に時間がかかる作業だ…。
あと各記事に「関連度が高いかもしれない記事」欄を設置。
機械的に類似度を計算して列挙。直接リンクしていない記事でも繋がりができたらいいなという期待を込めて。記事数が増えれば威力が増すと思います。
Blueskyの招待コードが余っているので配布ページを設置。
欲しい方はここからどうぞ→Bluesky invite codes - Dynalist
しねばいいのに(曲名)2023/11/25
【俺ミク2】しねばいいのに【カイトオリジナル】 - ニコニコ動画
どぶウサギ作曲のボーカロイド曲。2009年発表、歌っているボーカロイドはKAITO。
言葉がストレート過ぎて強烈だけど、もちろん具体的に誰かに死んでほしいというのではなく、日常生活で生じる「くそが〜〜〜〜〜」という心境を歌ったもの。地味に心を削る不運みたいなものへの爽やかな恨み節。
何かあると頭の中でこの曲のフレーズを再生してしまう。それはもはや反射だけど、そうすることで物事がちょっと滑稽になるという効能がある。
蛇足
当時のニコニコ動画の裏路地感が懐かしく思い出される。ブラックジョークまでもいかない、ちょっとニヤッとするこの塩梅。
多分この頃は、裏路地で遊んでいる自覚のある人たちが遊んでたからよかったんだろうなと思う。「うっせぇわ」やひろゆきが直に子どもに浸透してしまう世界だと、大人たちも遊びづらいよね。
ネットで遊ぶことは少し恥ずかしいことであるという認識は必要だった。「そんなのに夢中になって」と白い目で見られるくらいがちょうどいい。肯定的に見られるようになった結果何が起こるのかは、もう明らかになりつつある。「恥」の制御のない「自由」はいつも良いことであるわけではない。
ピラミッドと黄金の爪2023/11/24
子どもの頃恐ろしかったもの。
ドラゴンクエストⅢのダンジョン、ピラミッドの地下で「おうごんのつめ」というものが手に入る。
その時点では強力な武器で、手に入れられるなら手に入れたいものだ。しかしこれを入手することには代償がある。宝箱を開けてしまうと……
おうごんのつめを うばう者に わざわい あれっ!
というメッセージが表示されたのち、それから一歩ごとに敵に襲われるのだ!
私は親がSFC版をプレイしているのを見ていただけだったが、当時の私にはこれが非常に恐ろしかった。
本当に呪われたような気がした、というのとはちょっと違って、「自分の行動で何かが大きく変わってしまう」ということがものすごく怖かった。オカルト的な恐怖ではないから、これはゲームだよ、なんていう慰めは何も意味がない。現実かそうでないかの問題ではないのだ。
今ならまあ、ゲームの中の変化ならばダメージを受けないようにする防御反応が働いて私の心は守られるけれど、当時は自分の心がむき出しの状態でゲームを見ていたわけなので、この種のダメージを色々受けた。
それも人生経験だね。
みうらじゅんの手帳2023/11/23
みうらじゅんについてもう一つ印象に残っているのが、手帳の話だ。
みうらじゅんのLOVE スクラップ - ほぼ日手帳 2017
まず手帳を「人に見られるのが前提のもの」として考える。これをみうらじゅん氏は「見られ前」と表現している。
家族や友人に見られたとき、もしくは落とした手帳を誰かが拾ったときに、「ああ、こいつ楽しそうだな」と思われたほうがいいじゃないですか。
そんなこと考えたことなかった! 普通は「誰にも見られないんだから何でも書こう」と言われるところだ。
そして、気持ちを盛り上げるために表紙を作ろうということで、なんと写真集の1ページを切り取って貼ってしまう。写真集を切り取る! 衝撃!
本来は一冊の本として鑑賞するものですが、これくらい景気のいい写真はめったにありませんから、せっかくなので貼ってしまいましょう。
デコトラのかっこいい写真をドドーンという感じに貼ったのだが、曰く、
これを貼ることで、「俺はデコトラの表紙の手帳で1年間やっていくんだ」という決意が生まれる。周りも、みんなこういう雰囲気の人だという目で見るわけです。
なるほど。ものすごく我が道を行っているように見えて、周りの目にどう映るかというのをかなり意識しているのも興味深いところ。これはもちろん周りの目を気にするということではなく、セルフプロデュースの意識。
確かに、何を好んでいる人なのか、何を見たがっている人なのかというのは、周りがその人の「雰囲気」を知るために重要な情報だ。それが見えてこない人間のことはどう捉えたらいいのかわからないものだろう。
そしてこの手帳の表紙を通して「そのように見られる」ことによって、本人も実際に「そのような人間」に近づいていくかもしれない。
最後は、手帳を書く時のペンネームを作ろうという話。
それから、ほぼ日手帳には名前を書く欄がありますから、そこにペンネームを記入してもいいかもしれません。「大豪寺虎男」みたいな名前を書いておいたら、1年それでやっていくわけですから、少々の悩みは吹っ飛ばせますよ。
この発想よ。すごい。
本当の芸能人だったら芸名は簡単に変えられませんけど、一般の人は毎年変えればいいわけですから。「今年はこうなりたい」という雰囲気の名前を毎年考えてつければいい。それが10年たまったら、自分の手帳でありながら、いろんな人の手帳ができるわけです。
この記事を読んで衝撃を受けてから結構経っているけれど、全然真似はできていない。自分の性根が全然エンターテイナーではないから難しい。でも「手帳というのは自由だ」というメッセージをこの記事から叩き込まれ、それが自分に根付いているのは確かだ。
みうらじゅん2023/11/22
全然詳しく知らないのだけれど、ちょこちょこ聞き知ったことからひとつの理想像だなと思っている人。全然詳しく知らないけど。
もう何年前になるのか、NHKラジオ第1でやっていた「すっぴん!」という番組内で、みうらじゅん氏がゲストのインタビュー回があった。聞き手は藤井彩子アナウンサーと、確か故・宮沢章夫氏だったかと思う。(宮沢章夫氏の訃報はかなりショックだった。もう一年以上になるのか。)
そのインタビューの中で、自分は飽きっぽいのだという話になり、みうらじゅん氏は「なんならこの会話も飽きてますからね」的なこと(文言は曖昧)を言い放った。藤井アナはちょっと動揺していたと思うけど、私は大いにウケて笑ってしまった。わかる。とてもわかる。
別にインタビューが退屈なものだったというわけではなく(なにしろ藤井アナはとっても仕切りが上手いし、宮沢氏は素面で酔ってるような愉快なおじさんである)、みうらじゅん氏としても聞き手二人にけちを付けるつもりで言ったわけではないはずだ。自分の性質として、そうやって尺を取ってゆっくりひとつの話をしていくというのが飽きるということだろう。その「飽き」は相手に依存しているわけではないから面と向かってあっさり言ったんじゃないかと思う。
私も人と話していて「あ~飽きた~~~」と思うことがある。別に相手のことが嫌いとか話の内容がくだらないとかではなく、双方が情報を十分に出して、「今ここに劇的な変調は訪れないな」みたいな感じが察せられるとそこで飽きるのだ。後はもう惰性になってしまうし、惰性の会話はちょっとストレスになる。この時のみうらじゅん氏の場合も、多分、インタビューに答えるというのは自分の情報をただただ出していくだけなので「飽きた」が発生するのだろう。
もちろんと言うかなんというか、みうらじゅんのスクラップブックにも大きな憧れがある。すごいと思う。やっぱり本当に好きなことを、好きだーっ!という熱意でやるからできることだろう。
エロスクラップとか、当然中身を見たことはないけども、そういうものをそうやってきちんと集めて残せるってすごいことですよ。自分の「好き」に正直であることの迫力。あと仏像のスクラップについてはストレートに迫力がすごい。
今だと画像をデジタルで保存できるけど、どれだけ集めてもいまいちスクラップブック感はない。コラージュ画像を作ろうとしたこともあるけども、なんかこう、違うんだよなあ~。なんか違う。やっぱり紙を切り貼りするところがいいのだと思う。はさみで切って、糊で貼る。これが良い。
とはいえデジタルでゲットした画像をわざわざ印刷するのもなんなので、デジタルはデジタルでいい感じにコレクションできる方法をずっと考えている。
フェルナンド・ボテロ2023/11/21
今年の9月に亡くなった、コロンビアの画家。
ふくよかなモナ・リザを描いたりしていて、絵を見ると吹き出してしまう。この人の絵を見ながら怒るのはちょっと大変そう。
「ふくよかさ」が持つ迫力を実寸大で味わう。「ボテロ展 ふくよかな魔法」がBunkamura ザ・ミュージアムで開幕|美術手帖
一番印象的なのは《楽器》という絵。楽器が太っている! わははと笑ってしまった。
ボテロのぽっちゃり絵画はマンドリンから始まった〜Bunkamuraザ・ミュージアム「ボテロ展 ふくよかな魔法」|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」
その時、ボテロはマンドリンの「サウンドホール」を、本来の比率よりもずいぶん小さく描いた。すると、楽器全体がふくよかに見えることに気づいた。そこからボテロ固有の表現が始まったというのだ。
上に貼った美術手帖の方でももちろん言及されている。
「静物画というジャンルには、ある意味ではボテロの絵画のエッセンスがすべて詰まっています。理由のひとつには、ふくよかな絵画のスタイルは、マンダリンを描いていたときにサウンドホールを小さく書いたら楽器の大きさがふくらんで見えたという出来事がきっかけになったということがあります。楽器という静物を描くことによって、物のボリュームを強調して描くという自らの行く道筋が見つけだされた。ボテロがふくよかな画風に進もうと決心した契機になったジャンルが、静物画なのです」
女性ではなく楽器が原点というのが興味深い。ボテロのこれは女体へのこだわりではなく、あくまで「ふくよか」という概念へのこだわりなのだ。だからもちろんというかなんというか、男性のこともしっかりふくよかにしている。
楽器というのはどちらかというと硬質で、それゆえにボテロはビビッと来たのかもしれないが、もっとふくよかそうなものが入り口になっていないのは驚き。
難しいことを考えずに、ふくよかであることがもたらす「感じ」に浸るとなんとなく心が豊かになってくる気がして面白い。
自分を作るもの2023/11/21
なんとなく音楽のことばかり書いている。
音楽が好きというほど音楽が好きなわけでもないけど、自分が感じたことをそのまま言えるというのが音楽というジャンルなのかもしれない。
ストーリー性が強いものだとそのまま言うことが必ずしもプラスにならない可能性がある。何かの言動に対してどう思うかを表明するというのは、ある種「境界を作る」ことでもある。
同じくらいに「そのまま言える」ジャンルは他に絵画や彫刻が思い浮かぶ。これらについても今までどこにも書いたことがないので、ぽちょぽちょ書いてみようかと思う。
自分の感性を作るもの、あるいは代わりに示してくれるもの、をひとつひとつ見つめて整理していくのは人生において有意義な試みだろう。
Now And Then2023/11/20
The Beatles - Now And Then (Official Music Video) - YouTube
The Beatles最後の新曲。
私自身はビートルズについては全然詳しくないけど、親がビートルズ大好き人間なので、私もある程度曲は耳にしている。
そして今年度はNHK-FMでビートルズについて掘り下げるラジオ番組が放送されているので、毎週日曜日の昼はこれを聴いている。MCは杉真理さんと和田唱さんの交代制。
2023/11/19放送の回(MCは和田唱)で、「Now And Then」について深掘りしていて興味深く聴いた。ジョン・レノンのデモテープに入っていたBメロ(日本で言うところの)が全カットされたという話が印象的だった。和田唱さんは甚くショックを受けたようだ。
音源をそのまま流せないということで和田唱さんが歌ったのを聴いたのだが、確かにこれはあった方が良かったんじゃ……という気持ちになった。なんとなく、「Now And Then」は要素が少ないというか、物足りないというか、そんな印象を持っていたからだ。
しかもプロジェクト開始当初の歌詞ではちゃんとBメロ部分が存在していたようなのに、なぜポール・マッカートニーは最終的にこれをカットしたのか。それについて和田唱さんが考察したところによると、日本で言う「Aメロ→Bメロ→サビ」という構成になるとイケてないと判断されたからではないか、ということだった。あくまで和田唱さんの推理だが、なるほどと思った。
私は完全なるJ-POP脳なので、Aメロ→Bメロ→サビという進行が自分に馴染むわけだけど、洋楽だとそういう構成はそんなに多くはない印象がある。その上、ジョン・レノンがこれを書いた70年代末と、他のメンバーがこの曲を完成させようとプロジェクトを立ち上げた90年代半ばと、そしてAI技術向上により完成に至った今の2020年代とでは、格好良いとされる展開が違っているのは尤もなことだ。今やるとダサい進行なのかもしれない。
親(=完全なる洋楽脳)とこの件について話してみても、「確かに少しあっさりし過ぎているかもしれないけれど、このBメロが全部入っちゃうとちょっとサビに戻って来づらい感じがするから微妙」という意見だった。脇道に逸れ過ぎ、みたいな感覚のようだ。なるほど。私としてはBメロで変化を付けながらサビまで徐々に盛り上げていってドーン!みたいな曲がしっくり来るので意外な見解と感じたが、同時に納得もした。
じゃあそれならと、和田唱さんはひとつの試行として、サビの方をカットしてデモテープにおけるAメロBメロで構成したバージョンを自分で演奏・歌唱し、番組中で流した。これを聴いてなるほど~~~と思った。私はこちらのバージョンが結構気に入った。でも、本来のサビ部分にある明るさ(曰く「救い」の部分)がカットされてしまうとちょっと曲が暗すぎるかもという話もあり、それも確かにと思う。
結局のところ、実際に発表された「Now And Then」が全てであり、その他の可能性というのはもう選ばれなかった選択肢だ。もちろん、今になって新曲が発表されること自体が奇跡であって、すごいことだし有り難いことだと思う。
ただ、ジョン・レノンがBメロ部分を作っていたこと、そしてその部分は大変美しくて全カットするにはあまりに惜しいことは確かで、何らかの形で採用されたバージョンをビートルズの曲として聴いてみたかったなと思わずにはいられない。
それにしても、ジョン・レノンは全く意図していないはずのことだが、間もなく亡くなったことを踏まえてこの曲の歌詞を読むと、突然この世を去ってしまったジョン・レノンと去られてしまった三人の間の心情と重なるように思えて、当時を知らない若造の身でも胸を締めつけられる。
しずかなインターネット2023/11/19
最近、しずかなインターネットというサービスがリリースされた。
ここでは有益な情報を書くことはあまり求められていません。「たくさんの人に読まれなくていい」「自分のために、ひょっとすると、どこかの誰かのために」そんな気楽さで文章を書くための場所です。
まさにそのような場所を自分のために自分で作っていたわけなので(それがこの茶の間)、このコンセプトにはとても納得感がある。
ただし、「たくさんの人に読まれなくていい」と「誰にも読まれなくていい」の間には距離がある。そのことに無自覚だと挫折する可能性があると感じるので、いずれにしても自分はどういう場所で何をどうしたいのかは真剣に考える必要があるだろう。
音楽について語るということ2023/11/19
語ると言っても単に自分の個人的な思い出話をするということだけど、それでもわざわざするということには何か意味があると思う。
普段音楽について語ることはあまりない。タイミングがないし、相手が知らないものの話をしてもしょうがないから話題として選択されない。逆に相手が知っているものについて話すには自分に造詣が足りない。
音色や曲調を基準にして曲単位で好きになるから、或るアーティストについて詳しくなるみたいなことがあんまりないし、カルチャーとしての音楽界にはそんなに興味がない。中高生の頃は人並みにヒット曲を追いかけていたし好きなアーティストっていうのがあったけど、今はそんなにそういう風には楽しまない。ヒット曲はヒットするだけあるなといつも感心はするんだけど、「追いかけたい」という熱意にならない。
こんなんだから人を相手に話す機会はないし、SNSでも言う気にはあまりならない。自分の音楽についての思い出話というのは全然大した話じゃないんだけど、でも流してしまうような「どうでもいい」ことでもないから、もうちょっと大事に喋りたい。
といっても、別に言いたいのを我慢していたわけでもない。言わなきゃ言わないでまったく問題はない。だけど、ここにちょこちょこ書いていると、自分そのものの輪郭がちょっとはっきりしてくる感じがして楽しい。
あまりにも大ヒットしたような曲について敢えて「好きだったなあ」と言ったりするのも、なんというか、みんな知っている曲について言及して意味あるんだろうかみたいなことを考えてしまったりしたんだけど(他の人が大ヒット曲について話しているのをネガティブに感じることは全然ないんだけどね)、まあ別にいいじゃんね。
確かに、相手に情報が全然増えていかない話というのは退屈だから、同じものを同じように好きだという共感を生める確信がない限りは、あんまりにも自明なことは普段の会話では取り上げにくい。
でもこの場所はそういうコミュニケーションの場じゃないし、私の「茶の間」なので、普通のことを普通に書いてもいいやと思う。
スーパー三國志Ⅱ2023/11/18
光栄(現:コーエーテクモゲームス)が1991年に出したスーパーファミコン用ゲームに「スーパー三國志Ⅱ」というのがある。元の「三國志Ⅱ」は1989年にPC-88用に作られたもの。
父親がすごーく長い間熱心にやっていたゲームで(一体何年間遊んでいたのかわからない)、幼少の私は半ばこれで漢字を覚えた気がする。攻略本にはいっぱい漢字が書いてあった。
ゲームシステムも複雑すぎずちょうどいい感じに面白くて良いゲームだけれど、何と言っても印象的なのは音楽だった。今でもいくつかの曲はすぐに脳内再生できるくらいに私の耳に染み付いていて、唯一無二のサウンドだなと思う。リメイクが繰り返されているのでいくつもバージョンがあるが、やはりSFC版の音色が「これこれ!」という感じがして好きだ。
で、誰が作曲したのかというのは全然意識していなかったのだけど、去年だか一昨年だかに確か他の情報を見たくてたまたま調べたら、なんと「向谷実」と書いているじゃないか! 相当にびっくりしてひっくり返りそうになった。
ゲーム音楽の人とは思っていなかったし、長年活躍されていつつも私は全然別のルートで比較的最近ちゃんと認識できた人だったので、実はそんなに前から自分の人生に刺さっていた人だったのだということを知って本当に仰天した。
これもまた偶にあるタイプの劇的な経験。
別種の劇的な経験→Fire Dance
Катюша2023/11/17
1938年(つまりWWⅡ間近)に作曲されたロシアの歌曲。読みは「カチューシャ」。日本では時々ロシア民謡って表現されるけど民謡と言うには歴史が浅い。というか軍歌だろう。
2012年のアニメ「ガールズ&パンツァー」にてプラウダ高校のテーマソングとして金元寿子さんと上坂すみれさんが歌っている。そのシーンの印象深さも相まって、この曲にはかなりハマった。
カチューシャ Sung by カチューシャ&ノンナ - YouTube Music
これもまた歌詞を書き出して繰り返し練習しておおよそ口ずさめるようになった(しかし3番はどうしてもわからない)。日本語にはないリズムで発音するので面白い。
……のだが。前投稿で書いたMoskauもそうだけど、昨今の情勢ではコメントが難しいというかコメントしたくないというか、素朴に「いいよね」とかって言いたくない感じがある。
そもそもが、平和な世界を前提にして「好意的に見てやる余裕」みたいなものが生まれてやっと「いいよね」って思えるような距離感にあったと思う。色々な人が色々な世界で色々な努力をしてそこまで来ていた。しかしそれらは全てひっくり返された。
それでも、過去に好きになったものを手放すまではしない。自分の身に直接的に何かが起こらない限りは心の中の感動は守ることができる。
例えばこれらの曲はロシアで作られたりロシアに思いを寄せて作られたりしたかもしれないが、単純にその音楽としての印象を私は気に入っている。人が聞いていないところでカチューシャを口ずさむだろうし、モスカオ!モスカオ!と声を弾ませるだろう。
それすら許されないような世界にはならないことを祈っている。