※2025/07/14 一部加筆

https://bsky.app/profile/rashita.bsky.social/post/3ltnsnhta2s2e

「ある手法で本を読んだら、もうその本を手にする必要がない」ことをメリットだとイノセントに述べる読書術は、僕は信用しておりません。

このポストを見て京極夏彦氏のことをふと思い出したが、氏の本棚と本というものに対する解釈を知ったら、本を「情報を吸い取るためのもの」と見なしている種の態度はもはやふふっと笑えてくる。
私の親はどちらも相当な本持ちだったので何千冊くらいの単位の本があるのは当たり前だった。それが特にプラスに働かなかった、あるいは「飢え」がなかったために渇望することもなかったからか、私は大して本を読まない人間になってしまったが(読まずじまいの本を百何十だか二百か三百かその程度持って歩いている状態)、本という存在を自分の「下」に置いていいとは思わない。

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本は人の知と心が詰まったものであり、蔑ろにしていいものではない。それを読むことを好むか好まざるかは人それぞれだが、どういう経緯を経ようが本を「用無し」のようにみなすのは傲慢だろう。

そういえば、私は中学・高校の現代文の授業で文章の要約をさせられることを激しく嫌っていたのだが(リアルタイムにそうだったというよりは大学以降で振り返って苦々しく思うようになった)、エッセンスをコンパクトにまとめてしまえばあとはいい、というような態度を不愉快に感じている。
もちろん、要約をさせる意図はわかる。生徒に身に付けさせなければいけない能力というものがあるのもわかる。教育に従事している人たちはみな苦労していろいろ考えている。その努力に対して不快だとか言うのは失礼だとも思う。要点を何も汲み取れないような国語力が放置される方が遥かに害が大きい、それはそう。
それでも、中学高校のガキごときが人様の文章に対してそれらしい要約をできるものと信じるようなやり方は受け入れられない。「中学高校のガキごとき」の部分は「二十代三十代の若造ごとき」でもいいし「還暦にもなっていない青年ごとき」でもいいし「ただ自分の人生を生きただけの一人の人間ごとき」でもいい。要するにあらゆる人間に於いてそうである。

言わずもがなの話だが、要約を試みること自体が直ちに悪ということではない。しかしながら、大学受験のためにテクニックを使って文章を読もうとするみたいなことが進学校では当たり前にある(今は知らないが少なくとも過去にはあった)。そのような読み方で要約をして、採点基準を満たして満点を取り、それで国語が得意だったなどと思うのはどうかと思う。

本は(悪書も多々あるにしても基本的に)尊いが、本を読むということは別に偉くないし、本を読んだ人間が偉いわけでもないし、読書術を駆使している人間が偉いわけでもない。
本を尊ぶ姿勢は尊いと思う。

と言いながら、本を読むということを日常化することに失敗し続けている私としては、本と親しむために費やすべきエネルギーを極力少なくするということをずっと考え続けているので、どこかで何か軽率なことを書いたことがあるかもしれない(別に書いてないかもしれない)。