自分の考える理想郷というのはあるけど、それを政治的に実現したい・してほしいというふうには僅かにも考えない。「政治的に実現する」ということ自体が自分の考える理想郷にない概念だからかもしれない。
だから思い描く理想郷というのはそもそも実現しないもの、しなくていいものとして考えている。
自分の考える理想郷について単純に「こうだったらいいのにな」とか「こういうのは個人的に嫌いだ」といった語り方で表現することはあるわけだけど、それを政治的に実現することを望んでいると認識されたとしたら極右的に見られる可能性があることをちょっと考えていた。
というか、昔(別の名前でやっていたとき)唐突に攻撃されて意味がわからなかったことがあったけど、それはそういうことだったのかと思った。
人の在り方の話は如何なるベクトルもそれを極限まで強化すれば危険思想になるわけで、「突き詰めればこうだろう、お前の話はどうかしてる」みたいに言われてもね。大抵は反対に寄っている時にもうちょっと戻ってほしいという意味で言うのであって、なぜ極限までそれを突き進めるのが前提なのかちょっとわかりませんね。
政治にものすごく興味がある人の目には全ての話の後ろに「だから政治はそのようになってほしい」がくっついているように映っている、ということが時々こちらの理解を超えたことを発生させる。
例えばの話、私は言ってしまえばアンチグローバリズムだけど、それは「だから元に戻しましょう」ということを考えているのではなく、「グローバリズムがここまで浸透しない世界線だったらよかったのかもしれないなあ」ということに過ぎず、現状に強い不快感は抱きつつも別にそれを変えたいとは思わない。恩恵も享けているわけだしね。
でももしグローバリズムに対する文句を言ったとすれば、文句イコール現状の変更を望んでいると解釈される場合、私は某オレンジのあれを支持する人間かのようになってしまう。結構ものすごい誤解を生じるわけだけど、正直に話をしようとするとその誤解の可能性に気づかないでべらべら喋ってしまいかねない。
つまり、「願望」ということの解釈が人によって違っていて、その違いがとんでもない(時に全く逆方向の)誤解を生む。願望は願望に過ぎず、それは政治による実現を望むとは限らないし、そもそも実現自体望んでいるとは限らない。でもその「望み方」の濃淡みたいなのがネット上では考慮されない。SNSはもちろんそうだし、多分それは前からそうだった。
恐ろしい話だと思う。なぜって、政治的に対立する人間のことは内心「同じ人間とカウントする必要のない、無知無学で非常識な頭のイカれたやつだ」と認識するのが割とふつうにあることだから。