古のブログ風のミニマムな投稿場所です。
記事タイトルをクリックすると個別記事ページが開き、記事間のリンクを見られます。

注意力散漫な時2023/12/10

コアラのマーチの柄を見ないで食べてしまった時。

カメーン2023/12/09

子どもの頃恐ろしかったもの。

「スーパーマリオUSA」というゲームに出てくる敵モンスター。名前の通り仮面のモンスターで、なんかめっちゃ高速でびゅんびゅん動いて襲ってくる。

「スーパーマリオコレクション」というスーパーファミコンソフトに収録されていたバージョンをやって、私はかなり恐怖した。

デザインも心臓によろしくない。左半分は白、右半分は赤で、なんだか嫌に立体的に見える。

これも鍵を手にすると追いかけてくるという「物に関する呪い」な感じのもので、まあ多分誰でも怖いからこういう表現があっちにもこっちにもあるのだろう。所謂「みんなのトラウマ」というやつだ。

SURPRISE(SPEED)2023/12/08

4 COLORSの中で一番曲調が好きな曲。

SURPRISE - YouTube

歌詞を見ると「大人になってしまったなあ」という感じがする。SPEEDも自分も。

SPEED SURPRISE 歌詞 - 歌ネット

歌詞について

あとやっぱり大人の女性になったら女性が書いた歌詞を歌うべきだなと思った。こと恋愛模様に関しては。

なんというかこう、肌の接触が全てじゃあないわけですよね(性的な意味でもそれ未満の意味でも)。そりゃそう。現実もそりゃそうだし、歌として歌ったり聞いたりしたいのもそこじゃあないのよ。で、男性が女性の気持ちになって書いた歌詞というのは、そういったセクシャルな要素を含まないものであってもどうしてもイメージとしての女性像に寄ってしまう感じがあるので、女性が書いた歌詞の方がよりしっくり来る。

でも伊秩節に納得いってないのかというとそうではなく、若いうちってか子どもであるうちは微妙な機微のことなど理解できないのでむしろダイレクトに性的なニュアンスの方が女子も興味を惹かれると思うんだけど(歌っている本人たちもそうだったんじゃないかなあ)、まあ大人になったら「そこじゃない」になっちゃうよねという。その後の人生経験がどうであるかは関係なく、単純に人間として成長したらそういうモザイク的解像度で物を見なくなる。

 

当時を寛子と伊秩氏が振り返っている対談(2021年)を読むと、まあやっぱりそうだよね。

SPEED「SPEED MUSIC BOX -ALL THE MEMORIES-」島袋寛子×伊秩弘将プロデューサー対談|デビュー25周年を迎える今だからこそ思えること、エネルギーに満ちていた当時の記憶 (2/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

島袋 「Walk This Way」の歌詞で、伊秩さんに「hiroは恋に恋してる」って書いていただきましたけど(笑)、まさに夢見がちで、少女マンガが大好きな子だったんですね。だから「あなたのために生きていきたい」とかも、そういう思いを抱く恋がある、愛があるっていうイメージから抵抗なく歌えてましたね。歌詞の世界を自分事にしちゃってた。

伊秩 僕はまず、リリースの3年後に本人たちが歌ったときにダサいとか子供っぽいって思われるような歌詞は書かないということにこだわってました。女の子の成長は速いから。あとは、本人たちと同年代のリスナーは当然付いてきてくれると思ってたけど、少し上の層にも聴いてほしかった。一見尖って聞こえたり背伸びしているような言葉でも、奥底にはそうじゃないテーマをしっかり込めていたから、自信がありましたね。奇をてらおうとすると、本人たちに絶対見抜かれるからね。

とはいえ「子供っぽくない」の方向性は他にもあったやろがいとは思ってしまう。でもまあ、コケるわけにいかないというプレッシャーの中では仕方ないことだったのかも。「White Love」でさえ作っていた側は不安だったとなれば。四人の才能ある子どもの未来がこの一人の大人にかかっていたわけで、その状況を想像するとちょっと胃が痛くなってくる。

この対談は他にも色々面白いお話があって興味深い。


 

それはそうとこの曲の印象めちゃくちゃかっこいいなあ。ボーカル二人の強い声質がバシッと合っていると思う。声が多分ちょっと低くなったこともあり。(当たり前の変化。)

 

10年前に追っているべきだったと前の投稿で書いたけど、でもリアルタイムで聴いて今感じているのと同じ深さの感動を覚えたかというと微妙なところだ。

SPEEDが復活した2008年から2012年のあたりは自分に全く余裕がなかった。あらゆる意味で傷ついていたし、SPEEDにもせいぜい懐古の情しか湧かなかったかもしれない。癒やされるためにしがみつくみたいな感じで。

でも時が過ぎ、自分の環境や心境はあの頃から随分変わった。今は過去の思い出に縋る必要はなく、シンプルに楽曲そのものやパフォーマンスを楽しむことができる。前投稿J-POP離れとニコニコ動画で書いたように音楽観が変わっていることも感動に寄与している。まあだから、今更の今更になってこのアルバムに触れたのは、私の人生上は正解だったと思う。

 

なんか書いているうちにだんだん「勝手に過去のものにしてしまっていた感動」が蘇ってきた。自分の行動(=いつ何を聴くかの選択)が流行に左右されていたのは事実だけど、自分の感動は流行とは関係ないし、若かりし日の私はやはり心底この四人の姿に感動していたのだと思う。

茶の間に書いてなかったら凍結していた感動を解凍せずじまいだったかもしれないから茶の間効果おそるべし。

(ちなみにこの文は3日頃に書いたものであり、これを踏まえて無自覚に除外された体験をポストした。)

J-POP離れとニコニコ動画2023/12/07

4 COLORSに関連して。

一時期の自分のJ-POP離れについてもちょっと言葉にしておこう。好きだったアーティストまでもをスルーしたのは普通に自分が悪いので誰を恨むものでもないけれど、当時のヒットチャートに辟易したのは私だけではなかったと思う。

 

続きを読む

私の中でJ-POPは2008年あたりで一度終わっている。最も流行歌に敏感である必要がある年齢を過ぎてしまったからというのもあった気はするけど、しかしそれだけが原因のはずはない。

 

それでもやっぱり音楽というものからは離れられなかった。代わりとなったのはニコニコ動画の世界だ。ボーカロイド曲やアニソン、キャラソン、ゲームのBGM、既存曲のアレンジ。それまで特別二次元を好んでいたわけではなかったけど(ジャンプ漫画はある程度読むというくらいのものだった)、J-POPが私にとって地雷原になってしまったので、J-POPを視界に入れずに日本の楽曲を楽しめる世界としてニコニコ動画に住み着いてしまった。

玉石混淆極まるボーカロイド界隈やアレンジ界隈は音楽を聞く態度というものをある種高慢にさせたと思う。ただ同時に、音楽を聞くという行為に能動性をもたらしてくれたのも事実だ。それまで「流行っているものが好き」みたいなスタンスでいたのが、「流行っているものを好きになれない」という壁に直面した後、「自分が好きなものが好き」に健全に移行する、その助太刀をしてくれたのがニコニコ動画という場だった。

 

曲そのものとは関係ない要素によってヒットチャートから多様性が失われたことは本当に疎ましかったのだけど、それだけ当時の私はヒットチャートに依存した音楽生活を送っていたということだ。

一応その時点で好ましく感じているアーティストというのはあったわけだけど、それは相対的な評価で、あくまでヒットチャートの中でそのアーティストを見かけたならそのCDを優先して入手する、という感じだった。ヒットチャートに見えなくなったら自分の関心からも外れてしまう。辛うじてベストアルバムは追ったかなという感じ。そして嫌なものを見たくないがためにヒットチャート自体を見なくなったら、新曲というもの全体が自分の視界に入らなくなってしまった。

J-POPから目を背けてニコニコ動画に流れていった当時にその点を反省したわけではなかったけど、それまで聞いたことがなかったような種々の音楽に囲まれ、私は本当はこういうのが好きだったのか、という気づきを色々得る中で結果的に自分の音楽観は改まっていった。

そうして前に書いたように音楽について語るということ、音楽文化への関心は薄れたまま、音色や曲調が自分に合うかどうかだけを基準に聞くという感じに行き着いた。逆にそれまで「流行り」によって好きになった曲について、自分の感性と照らし直して「この曲は深く好きだ」と思うようになった。「好き」の深度が総じて浅かったのを深め直したという感じ。

 

以前の私は流行歌をただ消費していて、それらを「アーティストによる作品」とはあまり思えていなかったのだと思う。猥雑なニコニコ動画の世界をうろうろする間にちょっとだけ音楽の聴き方がわかった。

ボーカロイド曲の作曲者を○○Pと呼ぶ文化も私の意識を大きく変えたと思う。昔は歌がある曲については「歌っている人」を基準で見ていて、作詞作曲が誰の手によるものかは全くどうでもよかった。でもボーカロイド曲は作曲者が誰であるかが最も重要であって、歌うのが誰かは二の次になる。この文化を経て、例えばアニメの挿入歌やキャラクターソングについても作詞と作曲がそれぞれ誰か見るようになった(前はJ-POP以上に誰が作ったか気にしていなかった)

関心がライトだと、ひとつのものについてそれに深く関わっている人間というのを一人しか認識できないのかもしれない。なのでクラシック音楽やゲーム音楽では作曲者がその曲に紐付けられるところを、歌だと作曲者ではなく歌手が紐付けられる。他の情報までくっつけられるほどの粘着力(=関心の強さ)がないのだ。

 

このように大きな転換があったのは事実だけど、ニコニコ動画での音楽体験を通じて音楽に対する関心が広がったかというと、実のところ広がりとしては大して変わっていない。元々音楽に興味が強い方ではないので(中学から大学の間は耳が空いていたらずっと何かしら音楽を聞いてはいたが、それでも)、色々聞いたからといって造詣が深くなっていく方向には進んでいかないようだ。次々開拓しようという気にもあまりならない。

変わったのは音楽世界への関心の広がりではなく、音楽を聞いている時の自己の解像度だと思う。自分はこの曲から何を感じているのか。自分はどうしてこの曲を聞いているのか。

別にそういったことがはっきりしている必要はないし、わざわざ自分に問うて明らかにしようとしたわけでもない。自分に問いはしないけれど、何かを聞いている時に「音楽によって私に何かがもたらされている」ということを感じ取るようになった。

そうして、「この曲のこの部分が私は好きだ」ということを言えるようになった。ぼんやり生きていた私にとっては、それは非常に大きな変化だった。

ポートランドの壺2023/12/06

大英博物館にある古代ローマの壺。ガラス製で、パッと見は黒だけど実際は暗い青色をしている。

画像

from: File:Portland Vase BM Gem4036 n5.jpg - Wikimedia Commons

 

1845年に泥酔した来館者によってばらばらに破壊され(破片は200以上)、完全修復に至ったのはおよそ140年後のこと。140年! 組み合わせてみてもパーツが余ったり形が歪んだりしたようで、随分難易度の高いパズルだったようだ。

修復にはジョサイア・ウェッジウッドが作っていた陶器(ジャスパーウェア)の模造品が役に立ったとか。ノートルダム大聖堂の修復にゲーム「アサシンクリード」のデータが生かせるかも?という話が火災当時に話題になったのをちょっと思い出した。(そっちは実際に役に立つのかどうかわからないけど。)

 

ウェッジウッドのジャスパーウェアは身近にあったので知っていたけれど、それのある種元ネタと言ってもいいようなこの壺のことは最近まで知らなかった。ジャスパーウェアというのは、多くはペールブルーの地に白のレリーフが施された、素焼きの鉢に似た質感の陶磁器。ツルツルピカピカではないやつ。ウェッジウッドの代表的なパターンのひとつだ。

Jasperware: Care Guidance, History & The Making - Wedgwood

マットな質感が目に優しい。使えば使うほどツヤが出てくるという話だけど、実用はなんとなくちょっと勇気が要る。普通に使っていいみたいだけどね。ちなみに素焼きの鉢に似たと書いたけれど、それはあくまで表面の質感の話で、性質は多分全然違うやつ(素焼きと違って透水性はない)

無自覚に除外された体験2023/12/06

何者かになりたい問題と同じか違うレイヤーかまだ自分の中ではっきりしていないけど、自分が「量産型」的であると自分で感じる領域について自分を肯定できていなかったところがあるなと思った。

好きなものがめちゃくちゃ大流行したものであるという場合に、その体験を自分の中で「大事なこと」としてカウントしようとしない、みたいな不誠実さが自分にあった。

このことに折り合いがつくのは、「何が好きか」ではなく「どこがどう好きか」にフォーカスした時だと思う。本当に熱心な人が、それが流行ろうが廃れようが関係なしに愛を貫けるのは、早々に「どこがどう好きか」に焦点を移しているからだろう。これは好きの深度の問題ではなく、ある種のコツだと思う。

社会にとって必要なのは「何を好ましく思うか」であり、「どう好ましく思うか」はどうでもいい。だから社会の要請に大人しく従うなら「どこがどう」を自分に問う意味はないだろうし、何かを好きということをいつかは「卒業」することが重要になる。その流れに負けると自分の「好き」は容易く軽くなる。

(2023/12/05のツイート)

 

これは文脈としては「自分の音楽体験の原点はSPEEDにある」ということを自分が無意識に否定し続けてきたことの反省に端を発している。

4 COLORS2023/12/05

SPEEDの5thアルバム。2012年。昨日の投稿「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」にて、再結成後のを追っていなかったからこれを機にチェックしてみようか、と書いた通り早速チェックしてきた。

4 COLORS - YouTube

4 COLORS ‑「アルバム」by SPEED | Spotify

いやめっちゃ感動してしまった。えーん。私としては所謂「捨て曲がない」感じの全曲好きなやつだ。すーげえかっこいいじゃん~~~。

やっぱり寛子と絵理子の歌声は唯一無二だし仁絵と多香子はオーラがちょーかっこいい。Cooooool!!!って感じ。ボキャブラリーが甚だ怪しくなっているが仕方がない。

ここからもう既に10年経っているのかあ…。10年前にちゃんと追っているべきだった。

思い出補正の贔屓目なしに素晴らしい出来のアルバムだと思う。AKBと嵐に埋め尽くされたヒットチャートに嫌気が差して根の深いJ-POP離れに陥っていなければ、リアルタイムで褒め倒していたに違いない(八つ当たり)

 

まあでも……もし熱心に追いかけていたら、期待が膨れた分その後が辛くなっただろうな。

没の山という財産2023/12/05

前投稿のSPEEDの話、結構長々と書いているけど本当は各所をそれぞれ倍くらい書いていて、これでもばさばさ落としてこの長さ(短さ)になっている。

頭に「//」を付けるかアウトラインを折り畳むかしてしまうだけで公開用データからその部分がカットされるので、没の部分も完成稿の中に混ぜておける。内容によっては採用と没が交互に並んで縞々になっている(没部分は色が薄くなるようにしている)。どういう流れで何を書こうとしてなぜカットしたのか一目瞭然だ。

公開するための文章は公開することによって財産となっていくけれど、結局公開はしなかったけど何かしら考えて言葉にしたというものも私の中では財産になる。公開する部分に必要ないからといってすっかり削除してしまうと財産が失われてしまうと感じる。

没の部分を上とか下にまとめて置いておくのも、私にとってはあんまり有効ではないようだ。私という世界においてのこの話、というのがまず一連としてあって、その中から一文ごとに公開するかしないか決めていくという形式が私には合っているのだろう。

「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」2023/12/04

SPEED「White Love」の歌詞の一節。作詞・作曲とも伊秩弘将。1997年。

流行っていた当時は全く気に留めなかったけど(よくわかってなかった)、今見るとちょっとエモーショナルだなと思う。

SPEED / White Love -Music Video- - YouTube

 

手帳術なんかが流行るよりずっと前だけど、若い女の子の生活をイメージした時に手帳が当たり前にあったのだろうか。まあ1997年はスマートフォンはもちろんないし携帯電話も一般に普及してはいなかったわけなので、個人的な何かを書くなら手帳あるいは日記帳ということにはなるのだろう。

「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」という歌詞を見ると、前提として今年も手帳を使っていて、そしてイニシャルをあちこちに沢山書いているほど重用していたということになる。実際の女の子たちがどの程度手帳を活用していたかわからないけれど、でもこの歌詞に違和感がなかったのだとすれば実態との乖離が大きかったわけではないのだろう。

個人的なことをせっせと紙に書きつけるのが割と普通にあった時代を思うと、なんとなく心温まるというか、デジタル時代の寒々しさからちょっとだけ解放された気分になる。

 

ちなみに歌詞検索サイトで「手帳」が含まれる曲を探してみるとちょっと面白い。

歌詞全文(フレーズ)検索 - 歌ネット

大塚愛「さくらんぼ」も確かにド頭から手帳の話をしていた。

ばーっと見ていくと「写真挟みがち」「✕つけがち」「時の流れを思いがち」「空欄見つめがち」「何か塗り潰しがち」「逆に意地でも消さずに残しがち」という感じだろうか(揶揄しているわけではないよ)

手帳とともにある生活が歌詞から見えて、なんとなくフフッと笑ってしまう。手帳というものに注目することによって、それまで特に縁を感じなかったような歌詞もリアルなものに思えるからかもしれない。

 

余談のSPEED語り

それにしても、やっぱり「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」は意味の豊かな表現だなと思う。

SPEEDの曲の歌詞はかなり(すごく)背伸びをした攻めた感じが多くて「小中学生に何歌わせとんじゃ!」と後から叫びたくなってしまったものも多々あるわけだが、一方で圧倒的に女子たちに受けた理由も何割かはそこにあるのだろう。(本当に今はもう未成年の子に歌わせるものとしては許されないんじゃないかなと思うレベルに攻めているし、平成の開放感の象徴という感じがする。)

歌詞全体で結局何を言っている歌なのかを考えると非常にあれな曲がちょくちょくあるわけだけど、大体どの曲も声に出して歌った時の各単語・フレーズの強さと言いやすさというのが抜群で、キャッチーなメロディーにちょっと大人っぽく且つ発声しやすいパワーワード(小中学生的に)が絶え間なく乗った状態で丸々一曲走り抜けてしまう。シングルで出る曲出る曲そうなので、ある種の中毒性があったと思う。「脳漿炸裂ガール」や「千本桜」なんかの中毒性とちょっと似ている(それらは歌いやすくはないけども)

「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」の部分も、声に出して歌った時にすごく気持ちいいリズムをしている。複雑過ぎない程度に適度に詰め込まれていて、発声に無理がない。

あと、上の本題部分では書かなかったけど、「なぜイニシャルが書かれるのか」というのはなんとなく想像するわけで、当時の女子たちは具体的なことは全然わからなくともやはりそこに大人の香りを感じ取っていたと思う。この曲全体から漂う「縋っている感じ」と「慈愛に満ちた感じ」が、意味の曖昧な部分にも漠然と「大人の階段の上にあるもの」のイメージを纏わせている。

諸々の歌詞のギリギリアウト感はともかく、言葉はいつも巧みに配置されていたと思うし、メロディーも素晴らしいものを連発しているので伊秩弘将氏はすごい人なのだろう。

 

解散前の曲は多分全部知っているけど一番好きなのは「ALIVE」かなあ。歌詞も綺麗なやつ(?)です。1998年。(あれこれ書いておきながら個人的には背伸び感には然程興味ないのであった。)

SPEED / ALIVE -Music Video- - YouTube

SPEED ALIVE 歌詞 - 歌ネット

色々歌詞を見直して思ったけど、アダルトな曲もそうでない曲もやたら「愛」がプッシュされているな。SPEEDの曲に等身大感が薄いのは、不相応にセクシャルだからというだけでなく、ちょくちょく話が壮大になるからなのかも。あと内容の攻め方に反して使われている語彙は総じて「普通に真面目」な感じだなと思う。頽廃的な印象がない。それがよかったのかもしれないなあ。

「BODY & SOUL」ですら、最後の畳み掛けの「両手を広げて 大地駆けぬけて 空を抱きしめて 風を受け止めて 虹を突き抜けて 世界抱きとめて 夢も願いも 愛も止められない」の部分はなんかこう、真面目な感じがしてくる。真面目っていうのは別にダサいという意味ではない。斜に構えたら出てこない感じがあるけど。

そう、斜に構えてないんだ。だから「性」のイメージを具体化出来ない子どもにとっては、ひたすらパワフルに前に進む応援歌みたいに見えたのだと思う。

 

期間限定再結成の時ので好きなのは「華」かな~。多分メジャーじゃないけど。「BRIDGE」収録、2003年。

Hana - YouTube

SPEED 華 歌詞 - 歌ネット

歌詞をよく読むと、これはSPEEDの四人に贈った言葉だったのかなと思う。CDが今手元にないけどなんか書いてあったかな。

 

解散後の彼女たちの生き方がどうであれ、彼女たちが自身の青春を犠牲にして私たちにもたらしてくれたものはあまりにも大きく、間違いなくレジェンドだなと思う。

(絵理子寛子の歌はもちろんだけど、私は多香子と仁絵の見た目の雰囲気がすごーく好きだった。かっけーーーーーって思っていたよ本当に。)

 

ごちゃごちゃ語ってきたけど、しかし私は当時の流行りに影響されていたに過ぎず、そこまで熱心なファンというわけではないので、ちゃんと再結成して以降の2010年代のとかは全然知らない。2010年代はSPEEDに限らずJ-POP全体からほとんど離れてしまっていた。

リアルタイムに売上に貢献しなかったことを申し訳なく思いつつ、せっかくだからこれを機にチェックしようかな。それでまた何か思ったらここに書くことにしよう。

 

赤盤・青盤2023エディション2023/12/03

先月、『The Beatles 1962-1966』(通称「赤盤」)と『The Beatles 1967-1970』(通称「青盤」)の2023エディションが発売された。

 

2023/11/26放送の「ディスカバー・ビートルズⅡ」にてUKオリジナル版と2023Mix版の聴き比べをやっていて、とても面白かった。

2023Mix版は各楽器を分離(デミックスというやつ?)したリミックスになっており、オリジナル版でははっきり聞こえにくかった楽器演奏がクリアに聞こえるようになっている。

そうするのがプラスに働くかどうかはその曲の雰囲気と聴く人の好みによると思うけど、クリアになることでそれまで気づかなかったことに気づくのは面白いことだし、ビートルズを好む誰にとっても発見があると思う。

 

聴き比べをしたのは「I Saw Him Standing There」「She Loves You」「This Boy」「A Hard Day's Night」で、どれも比べてみると「ああ違うな」と感じたけれど、その中でも違いが際立っていたのは「A Hard Day's Night」。リンゴ・スターが叩いているボンゴの音がはっきり聞こえて、ずーっとトコトコポコポコ鳴っているのが面白い。これまでのバージョンでは全然気づかなかった。

A Hard Day's Night (2023 Mix) - YouTube

(スピーカーやヘッドホン、イヤホンは良質のものを推奨。雑なスピーカーだと聞こえにくい。)

 

MCの和田唱さんも言っていたことだけど、全体的にオリジナル版はロックンロール感がある。そして2023Mix版は今風に聞こえる。演奏自体は変わっていないはずなのにジャンルが違っている感じがある。

ロックンロール感というのは演奏方法や曲調より「レコード」という媒体によってもたらされているのかもしれない。どのくらい音が混ざって聞こえるかがロックンロールの肝なんだろうか。

音が混ざると、その結果歌声が前面に出て、他の楽器演奏が一体になってちょっと後ろにある感じがする。なので、ワーッとした歌が第一で演奏がその盛り上げ役になっているような曲はオリジナル版の方がイケてる感じがするかもしれない。逆に、演奏の美しさや歌声の繊細さで勝負している曲はクリアに分離された方がイケている。

和田唱さんはそれを写真に喩えて「背景がピンぼけで主役がはっきりしているか、背景までクリアに写っているか」という感じに表現していた。そんな感じがする。

 

関連:Now And Then

マスク(映画)2023/12/02

子どもの頃恐ろしかったもの。1994年公開の映画「マスク」もその一つだ。

「呪いのモチーフ」の話でも書いたけれどダンドンダンドンダンドンダンドンダーダラッ、「身につけたものが外せない」ということが私には恐ろしかった。

その上、それに乗っ取られて自分自身が変わってしまうとなれば卒倒レベルの恐ろしさだ。

コメディ映画って言うけど、ただただ恐怖して見ていたし、怖すぎてもう詳細は全然覚えていない。一度しか見ていないけどこれからも一生見ないと思う。これで映画というコンテンツそのものがちょっと苦手になった気がする。

 

今冷静に考えて思ったけど、別に映画のマスクは「外せない」ものじゃなかったかもしれない。普通に所有者の意思で着け外しできたかもしれないけど、当時の私は「二度と解放されないもの」という風に感じていた。

多分それは半分くらいドラゴンクエストのせいで、既に書いた「おうごんのつめ」ピラミッドと黄金の爪や呪われた装備、あるいはドラゴンクエストの小説『モンスター物語』収録の「呪いのブラックメイル」で丹念に刷り込まれた印象だったのだと思う。

あとは、マスクが顔と一体になっているのがその印象を強めていた。手にした仮面と、それを身に着けた状態は明らかに違っていて、マスクが所有者の肉体に染み込んでいるような感じがした。いずれ人の部分は自我を完全に失いマスクが本体になるんだろうと思った。

「やだあ~~」2023/12/01

ちょっと前に何だったかの情報番組か何かで、松下由樹が百均に行っていろいろ買うというのをやっていた。つまりは今話題の便利アイテムの紹介だ。

で、店員さんが面白いアイテムを見せる度に松下由樹が「やだあ~~」と反応していて、あまりに毎回言うので共演者も笑っていたし私もお腹を抱えて見ていたのだが、本人はそれが口癖になっていることにそれまで気づいていなかったようだ。スタジオでVTRを見て自分の口癖を知り「恥ずかしいー!」という感じだった。

 

この感嘆を示すための「やだあ~~」、言わない人は一生言わないと思うけど、言う人はいつの間にか言うようになっている。どこかから伝染してくるんじゃないかと思うけど、これは一体どこから飛来してくるのだろう。遊びの感覚で面白がって言っているうちに定着してしまうんだろか。

面白い表現だなと思うので誰かが「やだあ~~」と言っているのを見るとふふっと笑ってしまう。でも「そのような表現をする人間になりたい」と思って言うようになるものとはとても思えないので、どこからどう受け継がれて伝播していくのか不思議だ。気づいた時には「やだあ~~」が口から出る人間になっているものなのかもしれない。

ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん2023/11/30

遊助(上地雄輔)の「ミツバチ」という曲の1フレーズ。曲は2010年リリース。

遊助 『ミツバチ』 - YouTube

突き抜けてバカっぽい感じが逆に元気をくれる。

発表当時はインターネット上のどこを向いても「⊂二二二( ^ω^)二⊃」が飛び回っていた気がする。その当時のインターネットの雰囲気と相性が良かったのだと思う。今思うにとてつもない流行り方だったような。

この曲やこの当時この人が出ていた某番組は色々と物議を醸したけど、まあでもこの曲はいいんじゃないかなと思ったりする。曲はね。一部似ている曲があるという話を踏まえても(まあよくあることだし…)

時たま不意に「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」と頭に流れるから洗脳ソング(※比喩)怖い。最近は忘れてたけどうっかり思い出してしまったので、またしばらく「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」に襲われると思う。

ダンドンダンドンダンドンダンドンダーダラッ2023/11/29

一般的には「デロデロデロデロデロデロデロデロ デンデロン」と表記されるようだけど、幼少の私の耳には「ダンドンダンドン」と聞こえた。よく聞くと微妙に複雑で、今頑張って表記すると「ダラドロダラドロダラドロダラドロドーンダラン」という感じだろうか。

何かというと、ドラゴンクエストシリーズでSEとして用いられる「呪いのモチーフ」というフレーズのこと。

子どもの頃恐ろしかったものだ。

 

よくトラウマSEと言われるけど、多分基本的には「冒険の書(=セーブデータ)が消えた時に流れるから」というのがトラウマの理由なのだと思う。でも私はそんなに冒険の書が消えた経験をしていないので、普通に「装備が呪われていた」というタイミングで恐ろしく思った。

ドラクエシリーズの中でも「トルネコの大冒険」でよく遭遇した。拾った武器・防具・指輪は時々呪われているのだ。呪われているというのは、「装備が外せない」という意味だ。

このSE自体嫌過ぎるが、「装備が外せない」というのもそれ単体で恐ろしい。仮に十分強くて着けっぱなしでも構わない装備だとしても、それが外せないということになったらすごく嫌だ。

 

ドラゴンクエストⅦのカジノに「ラッキーパネル」というミニゲームがある。要するに神経衰弱なのだが、並べられたカードの中に「シャッフルパネル」という外れカードが混じっている。これを開けてしまうとカードの配置が全部混ぜられてしまって、どこに何があったかわからなくなるので非常に困る。ほぼ「負け」を意味していると言ってもいい。

そしてこの「シャッフルパネル」を引いてしまった時に「呪いのモチーフ」のSEが鳴る。耳にする度にギャーッとなったが、言ってしまえば「カードが混ぜられてしまう」というだけの話なのに(ゲーム内マネーが無駄になるという実害はあるけども)、このSEのせいでもうとんでもなく嫌なことが起きたかのような気分になる。ゲーム的に困るからというより、この音を聞きたくない一心で「シャッフルパネル」を引き当てないことを祈っていた。

何回聞いても絶対に慣れない恐怖のフレーズ。正直今でも嫌。

舟渡聟(ふなわたしむこ)2023/11/28

NHK総合で2023/11/26放送の『古典芸能への招待』にて野村万作家三代の狂言をやっていた。

前半だけ見たのだけど、万作・裕基による『舟渡聟』が可笑しかった。

調べたところ、大蔵流と和泉流とで展開が違うようだ。和泉流だと船頭=舅で、一言で言ってギャグである(野村家は和泉流)

(むこ)が舅に挨拶に行く途中に渡し船に乗ったら、持参した酒の匂いを嗅ぎつけた船頭が脅してきてがぶがぶ飲まれてしまい、仕方なくほとんど空になってしまった酒樽と共に舅の家に行ったところ、その舅が船頭だったという話。

自分の家を訪ねてきた聟というのがさっき船に乗せて酒を強奪した若い男だと知った舅(野村万作)の「うわやべっ」という感じの逃げ帰り方が可笑しい。そしてトレードマークだった長い髭を妻に「その髭普段から煩わしかったんだよ!」というような台詞と共に剃り落とされ、風貌を変えて聟の前に出るも、結局ばれてしまう。ばれた時の両者の動きが滑稽で笑ってしまった。

 

ところで野村万作氏は92歳とのこと。すごい。頭使うし動き回るし床を踏み鳴らすし身体に良さそうとは思うけど…(素人の感想)

片山杜秀2023/11/27

クラシック音楽番組繋がりで、この人のことも書いておこう。

NHK-FMの「クラシックの迷宮」という番組の案内人をやっているクラシック通だけど、本職は政治学者。

ちなみにこの番組は吉田秀和氏の「名曲のたのしみ」の後番組だ。吉田秀和氏が大物すぎて後継選びは大変だったのではと思ってしまうけど、片山杜秀氏の語りは納得という感じ。

ここ数年はちょっと聴きづらい時間帯に移動してしまったので聴けていないけれども(聴こうと思えば聞き逃し配信で聴けるのだけど)、前まではだいたい毎週聴いていた。

片山氏の語りを聴いていると、その滑らかさに驚く。とても聞きやすい声でわかりやすくスーッと話していくのだけど、一度に話す情報量がものすごく多い。耳から脳に大量の情報がするすると詰め込まれていく感じがする。よくそんな綺麗に話すものだと思う。

原稿を用意しているからかとも思ったけど、テレビでのトークも同じ調子だったのでそういう才能らしい。

明るくて個性的で教養の豊かな語り口がとても面白い人です。

音楽の泉2023/11/26

前投稿にちあさではテレビ番組の方だけ触れたが、日曜朝のもう一つのお供がラジオ番組の「音楽の泉」だ。

2020年度から奥田佳道氏が案内人。その前は故・皆川達夫氏だった。皆川達夫氏は1988年からとのことで、実に30年以上務めていたことになる。すごい。

皆川氏は惜しくも2020年に亡くなられたが、92歳だった。長生き! きちんと2019年度の仕事を全うし、4月に天に帰られた。

最後の方の回で「歌オラショ」というものが取り上げられていて、その話がとても印象的だった。隠れキリシタンが歌い継いだグレゴリオ聖歌だ(皆川氏が研究により論証)。あまりに前提知識に乏しかったため話の全部を理解はできなかったけれど、全く知らなかった世界に案内されたということに衝撃があった。

 

先週はラヴェルの『クープランの墓』のことをやっていた。邦題は直訳で『クープランの墓』だけど、実際の意味はその表現から想像するものとは違っていて、「墓」と訳されている「Tombeau」は音楽用語として「故人を悼む曲」というような意味があるらしい。そうだったのか~。クープランの墓碑に思いを馳せているのではなく、クープラン的な形式のバロック風音楽によって、戦争で亡くなった知人に思いを馳せているのだろう。

調べればわかることではあるけど(このことはWikipediaにも載っている)、それは「調べれば」であって、自分が見知った全てのものを調べるわけではないので、こういう番組で「へ~」と思えるとやはり楽しい。

 

ちなみにこの番組のテーマ曲はシューベルト作曲の『楽興の時』第3番ヘ短調。多分誰でも聞いたことがあると思うけど、この曲は一度聞いたらきっと一生残ってしまう種の不思議な印象を持っている。暗くはないけど明るくもない、なんとも言えない気分になる。面白い曲だなと思う。

そして案内人交代に伴い演奏が変わったのだが(アンドラーシュ・シフ→マリア・ジョアン・ピレシュ)、結構な違いを感じて少し驚いた。演奏家が違えば音が違うのは当然ではあるけれども、それにしても味わいが違っていて奥が深い。

にちあさ2023/11/26

もちろんニチアサと掛けたタイトルだけども、私の日曜朝は別の番組でスタートする。例によってNHK。NHKさんには本当にお世話になっている。

日曜日の朝の時間は、テレビを見る時はNHK総合で「さわやか自然百景」「小さな旅」を見る。「Dearにっぽん」まで見る時もある。テレビを見ない時はラジオで「音楽の泉」を聴いている。

 

「さわやか自然百景」は、日本のどこか一箇所を取り上げ、そのエリアで見られる動植物の生活を紹介してくれる。動植物が好きなので、ぼーっと見ているだけで癒やされる。そして日本というのはこういう世界なのだというのがわかる。どこに何が生息しているのか、結構な種類を覚えたような気がする。問われてパッと名前を言えるとかではないけれど、だいたいこの地域にこういう生き物がいるはずだ、というのがなんとなくわかる。

「小さな旅」は、これも日本のどこか一箇所を取り上げるものだが、こちらは人の営みだ。昔から続いている、そして少しずつ変わってきている生活が紹介される。日本は本来こうであったというのが感じられる。都市に住んでコンクリートの建物を往復してパソコンやスマホに齧りついていたら全然わからないことだ。私たちが本当に生きるために必要なもの――つまり衣食住、あるいは信仰、そしてアイデンティティ――を支える生活がどんなものなのか。

「Dearにっぽん」はもうちょっと人間と人間の関係に寄った題材だろうか。人間社会に働きかけるために何かに取り組む人々の姿を見つめる番組だ。そんなには見ていないが、何回か興味を引かれて見た。

日本にある自然、日本にある営み、日本にある取り組み。それらに思いを馳せる時間と言える。

過去記事追加とか2023/11/25

2023年4月~9月分の過去記事を追加しました。

ある程度自動化しているけれど地味に時間がかかる作業だ…。

 

あと各記事に「関連度が高いかもしれない記事」欄を設置。

機械的に類似度を計算して列挙。直接リンクしていない記事でも繋がりができたらいいなという期待を込めて。記事数が増えれば威力が増すと思います。

 

Blueskyの招待コードが余っているので配布ページを設置。

欲しい方はここからどうぞ→Bluesky invite codes - Dynalist