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マミチャジナイ2023/12/20

漢字が想像できない名前シリーズ。

ツグミの仲間の鳥。

手元の辞書では「眉茶𪃹」とある。「しない」は大型のツグミの古名とのこと。眉の部分は白いから、眉が目立つ茶色のツグミということだろうか。

他に「眉茶𫛉」「眉茶鶇(鶫)」とも書くようだ。「鶇(鶫)」はツグミ。

緑茶コーヒー牛乳2023/12/19

冬の間は温かい飲み物を飲む。最近よく飲んでいるのは、緑茶(ペットボトル飲料)と牛乳を6対4くらいにしてインスタントコーヒーをスプーン1/4杯くらい入れて電子レンジで温めたもの。

話題になっていたとかではなく、単に常備しているものを混ぜてみたというだけで、他に同じような飲み方をする人が存在するか知らない。

 

元々ミルクコーヒーはよく飲んでいたけど、なんとなく、コーヒー分が多すぎるかなと感じることがある。といって、牛乳を多くするとかインスタントコーヒーの量を減らせばいいかというとそうでもない。

ちなみに、牛乳を入れるのは好きだがホットミルクは好きではない。牛乳で割られるものがなくてはいけない。

緑茶に牛乳を入れて飲んでみると、まあ悪くないけど、そのまま飲んだ時にちょうどいいように作られているわけだから、牛乳で割ると薄い。

ということで、薄すぎず、コーヒー感が強すぎず、牛乳が多すぎず、というバランスを探って緑茶コーヒー牛乳に行き着いた。すごく美味しいかというと、「別に普通…」としか言いようがないが、飲みやすいのでガーッと飲んでしまう。

緑茶じゃなくて十六茶などの麦茶系にすることもある。

曜変天目ぬいぐるみ2023/12/18

かの有名な国宝・曜変天目茶碗を所蔵する静嘉堂文庫美術館が、曜変天目茶碗のぬいぐるみを販売している。

去年だったかTwitterで大いに話題になった。茶碗のぬいぐるみ! すごい発想!

静嘉堂文庫美術館のコメントだったか他の人のコメントだったか忘れたけど、「茶碗も手に包み持って愛でるものだからぬいぐるみを持って愛でるのもそれと同じ」というような話を見て「なるほど!(?)」という気持ちになった。

上記の記事内で、

開永一郎代表によると、陶芸で完全に本物と似たようなものを制作するのは難しかったため、陶磁器とは正反対の柔らかい布で制作することに。

とあって、そりゃあそうだよなと思った。似せて作ることができないからこの茶碗はすごいのである。仮に形だけ頑張って似せて表面プリントとかしてもあまりありがたみがなさそう。逆にぬいぐるみに、という判断をしたのは大正解だと思う。

試作品を披露した際、手にした人たちがまるで本物の茶碗を持つように、割れないように手で包むように持ってくれたという驚きのエピソードがあります。
開永一郎代表は「自然にそうなることを見て、これはすごいなと感じた。制作を思いついたときは、みんながこうやって持つとは思わなかった。この反応が本当に全てだった」と当時のことを語っています。

あー。それは意外なことだったのか。ぬいぐるみでもやっぱり「曜変天目ごっこ」みたいにしてみたくなるものだろうと思うけども。こういうのは、作る側はやはりいつでも不安なものなのだろう。

永遠に美しく…2023/12/17

1992年公開の映画。ロバート・ゼメキス監督、メインキャストはメリル・ストリープ、ブルース・ウィリス、ゴールディ・ホーン。

これは子どもの頃恐ろしかったシリーズではないけども、子どもの頃に見てすさまじい衝撃を私に与えていった作品。金曜ロードショーでやっていたんだったかな。

かなり小さい頃に見たきりなので細かいところは忘れたけど、謎の美女が持ってきた秘薬が妖しく輝いていたこと、メリル・ストリープの首が捩じれて反対を向いていたこと、ゴールディ・ホーンのお腹に大穴が空いたこと、メリル・ストリープとゴールディ・ホーンがスターウォーズ風のチャンバラをしてたこと(?)、最後に頭部だけになって会話していたこと、は頭から離れない。とにかく各所の絵面がすごかったけど、これはまあ『マスク』の時とは違ってコメディ映画としてゲラゲラ笑って見ていたと思う。

あらすじを読んでみるに、前半部分、というか人間関係や事の経緯全般を何も覚えていない。忘れたというより、見た時点でよくわかっていなかったのだと思う。

 

あと原題が『Death Becomes Her』であることを今知った。へえ~~~。邦題の『永遠に美しく…』はうまかったんじゃないかなと思う。そのままの翻訳だったらなんかあんまり、日本人にはいまいちだったかも。

 

『マスク』の話でもちらっと書いたけどマスク(映画)、私は映画をあまり好んでいないので見た数は地上波やビデオ・DVDを含めても本当に少ない。で、これ以後に見た映画はいずれも『永遠に美しく…』ほどのインパクトを私にもたらさず、大体『マスク』と『永遠に美しく…』のせいで映画に対する感覚がバグってしまったと思う。

どっちも物心がついた頃に見るもんじゃなかったよ絶対。

タグ付きテンプレートリテラル2023/12/16

昨日、テンプレートリテラルについて確認したら「タグ付きテンプレート」というのを見つけた。

読んだだけではいつどう使えばいいのかわからなかったのだが、今日たまたまhtm(Hyperscript Tagged Markup)について調べたところ、思いきりタグ付きテンプレートが使われている。

昨日の今日で実例が目の前に現れたことにかなりびっくりした。

逆の順で見ていたら全然ピンと来なかったと思う。

Webコミックを楽しむコツ2023/12/16

  • コメントを見ないこと。

  • コメントによる気づきに頼らなくていいように自分で隅々までじっくり読むこと。

※自戒。

そんな餌で俺様が釣られクマー2023/12/15

インターネットで発信するという行為をSNSでスタートした人々は多分もう全くわからないことだと思うけれど、匿名掲示板がメインの場だった時代には「釣り」という概念があった。

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何かを侮辱したり明らかに誤ったことを言ったり、あの手この手で人の感情を煽る書き込みだ。怒らせて場をかき回したいだけのことなので、反応したら負けである。スルースキルの無さにm9(^Д^)プギャーと嗤われるだけだ。私自身はそれほど匿名掲示板らしいスレに顔を出していたわけでもないので「当時をよく知る人間」というのではないけど、まあでも「匿名掲示板にはあって、SNSにはないもの」はなんとなくわかる。

 

昔も今もそうやって「釣り」をやっている人間はたくさんいる。しかしかつての匿名掲示板とは違って、今のSNSはそれに対してどう反応すべきかというのが全然共有されていない。「釣り」かどうか、というのを判定することができないから、おかしい発言に対して面と向かって「批判」する。

批判せざるを得ない事情もあるだろう。掲示板の場合は「場」に集まって話をするから、その場での常識というのが作られていくが、SNSではそんなものはない。「釣り」の内容を真に受けて心から同意する人は本当にいて、たとえそれが割合で言えば数%もいるかいないか程度だとしても、絶対数にしたらかなりの規模になってしまう。野放しにしておくと危険だからきちんと正す必要が生じる。

 

結局のところ人間というのは「賢いっぽい選択」をするものだろう。「釣り」を見た時に、その内容が「誰も言わない真実を喝破した」と思えばそれが賢く見えるし、「そうやって煽動したいんだろう、お見通しだぞ」と思えばそれが賢く見える。大抵の場合事実というのは個々人にはわからないのだから(より信頼できるっぽい情報を信じるしかない)、自分の目では確かめようがない事物に対してどうするのが「賢い選択」かというのを学習して判断しているわけで、そこまでの人生で何を学習してしまったかにかかっている。

別に匿名掲示板が「良かった」とは思わない。ただ、「こういうものにはこう対処する」という手法を共有し、ブレーキの踏み方を学習する機会を得られていたのは確かだろう。それが結局冷笑的な態度に繋がってはそれもそれで全然よろしくないのだが、しかし正義感的なもので絶えず馬鹿正直に燃えているのが良いわけでもない。

 

あとアスキーアートや特有の言い回しによって印象を和らげていたのはひとつの知恵だったなと思う。今なら宇宙猫やコラなど定番の画像がその代わりになっているように思うが(それらは匿名掲示板のAAというよりはLINEのスタンプの感覚だろうか)、当時のAAやスラングというのはそのように単にツッコミの定型文を代替するものではなく、ともすると激しい応酬になりかねないところを「それは阿呆らしいぜ」と宥める効果があった(多分)。無意味に深刻化させない知恵だ。

やはりそれは「場」で生活しているということが生んだ知恵だと思う。みんなが「来る」場所だから、住民の手で過ごしやすくしなければいけない。好き勝手にやっていいところではなかった。

 

ところで「そんな餌で俺様が釣られクマー」のAAと、釣り針を前に思案しているクマーのAAが好きなのだが、単に「それ釣りだろ」「お前釣りに引っかかってるよ」という二値的なメッセージだけでなく、「釣りだろうとわかっちゃいるがそれはスルーし難い」とか「巧妙に装っているつもりかもしれないが臭ってるぞ」みたいな微妙なニュアンスを表現しているのが面白いし、これもまた知恵だなと思う。

Informer2023/12/14

Snowの曲。1992年。

Snow - Informer (Official Music Video) [4K Remaster] - YouTube

リアルタイムで知ったわけではなかったけど、かなり前にラジオで耳にして一撃で好きになった曲。いや、好きになったというか、刻まれたという感じだ。

聞いただけでは何言ってるのか全くわからないので歌詞の内容が好きというわけではないけど、リズムとメロディーがものすごく印象的で一度聞いたらもう離れない感じがする。

最初に聞いた時は「Informer,」の部分以外はスペイン語か何かだと思った。しかし実は英語で歌っている――英語!? 何度聴いても信じられない。でも歌詞を見ながら聴くと確かに英語だ。レゲエ文化やラップ文化に明るくないので普通どうなのかわからないのだけど、こういうノリならこんな感じになるものなのだろうか。それともカナダの人だからフランス語訛りになっているとか?

これもMoskau同様口に出して歌えたら気持ちよさそうに思うものの、この曲が作られた経緯が酷い(知人?の密告による冤罪で18ヶ月投獄された)ので歌詞があんまり楽しくない。歌えたら気持ちよさそうだけどなあ。

勉強2023/12/14

勉強はする方だったけど、勉強したかったわけでもないし、勉強の大切さを信じていたわけでもない。

でもきっと、子どもが目の前にいれば勉強というのはしてみれば楽しいものだし大切なことだよとか言っちゃうんだと思う。世界が広がるからねとか言って。やらないと後で困ることになっちゃうぞとか言って。

私自身はそんな動機でなんか勉強してなかったのにね。大人の責務としてそうやって下の世代に語りかけるのだ。世の中にあるそういう綺麗な説諭は、正直私には全然響いていないけど。嘘は言っていない、というくらいのものだ。

褐釉蟹貼付台付鉢2023/12/13

読みは「かつゆうかにはりつきだいつきばち」。宮川香山の1881年の作品。重要文化財。

画像

from File:Miyagawa Kōzan kani.jpg - Wikimedia Commons

褐釉蟹貼付台付鉢〈宮川香山作/〉 文化遺産オンライン

 

こういう、壺などの表面に生き物が立体的に施されているものが非常に好き。

3年8ヶ月と4年7ヶ月と9年2023/12/12

SPEEDの活動期間は、最初が1996年8月5日デビューで2000年3月31日解散の3年8ヶ月弱。その間にシングル11枚、アルバム3枚、ライブ6本。

2001年・2003年に期間限定再結成。合わせてシングル3枚、アルバム1枚、ライブ2本。

完全復活が2008年8月31日で、仁絵の退所が2013年4月、活動期間は4年7ヶ月。シングル6枚、アルバム2枚(うち1枚はセルフカバーアルバム)、ライブ3本。

期間としては復活後の方が最初の活動期間より長い。濃さが違うのはまあそうだけど、でもちょっと意外だ。

で、2003年が4月から12月まで活動していたから、全部合わせると9年くらいになる。そう考えると割と十分なんじゃないかと思えてくる。60年やり続けているバンドとかも世の中にはあるけど、10年やらないグループが少ないわけでもない気がする。グループ自体はずっとあっても個々のメンバーは10年しないで抜けるという場合も多いし。

数えてみれば印象以上に割と長くやっていたことになる。そっかー、と思った。

 

何が言いたいかって、当人たちの中できっともう済んでしまったことになっていることを、こちらが殊更残念がる必要はない程度には、十分に活動してくれたんだなということだ。

弱いオチで落とす技術2023/12/11

NHK-FMに「音楽遊覧飛行」という番組がある。

音楽遊覧飛行 - NHK

四人のパーソナリティが週替わりでそれぞれひとつのテーマを担当していて、そのうちのひとつが「映画音楽ワールドツアー」。2016年4月から紺野美沙子さんがやっている。その前は中川安奈さんだったけど2014年に急逝。

(ちなみにFire Danceの項では向谷実さん担当の「ミュージックエクスプレス」に触れた。)

で、新旧問わず様々な映画の音楽を紹介している良い番組なのだけど、紺野美沙子さんのトークがゆるふわで面白い。豊かな人生経験を感じさせつつわざととぼけたようなコメントをして笑いを誘う感じがある。

映画の内容やリスナーのお便りに対して、「私はこう思いました」「私はこうでした」という種の素朴な感想を言うのだが、話し方が多分すごく巧みなのだろう。だいたい話のオチとしては弱そうな内容に着地するのだけど(とても素朴な感想であるため)、ペースを緩めて「この感想が着地点です」と分かるように話しつつ、そこでスッと引いて間を取るので、なんだかシュールな空気が漂って笑ってしまう。それ以上のオチがないことがむしろ可笑しい。

その空気がウケることを分かっていて狙ってやっているのだろうけど、それがウケると確信できること、そして毎度絶妙にその空気を作れることは才能だと思う。あの落ち着いた声の感じも素敵だ。

マスク(モンスター)2023/12/10

子どもの頃恐ろしかったもの。ま~た仮面かい。はい。

「チョコボの不思議なダンジョン」というゲームに出てきた敵モンスター。

宝箱を開けると偶にこれが出てくる。RPGによくあるミミックとかマンイーターとかの類のモンスターだ。

で、逃げても逃げても追ってくるし、普通には倒せない。その上、こちらの装備品のレベルを下げてくる。「マスクの呪い」という技だったと思う。

 

仮面というのは基本的に恐ろしげなものだと思う。顔をかたどっているから何かがそこに宿りそうな感じがある。

そして、誰が着けても同じ顔になってしまうということになる。それゆえにありとあらゆる文化の神事に仮面があるのだと思うけど、やはり「顔を上書きされる」というのは怖いことだと感じる。

 

ちなみに、「チョコボの不思議なダンジョン2」だとデザインがちょっと変わって、ジャングル風味の飾りが増えてオシャレしている感じになりあんまり怖くなくなった。顔自体は変わっていないのだが、どちらかというとむしろ愉快なモンスターに見える。仮面はシンプルな方が怖いのかもしれない。

どういう能力を持った敵だったのか忘れてしまったけど、多分そんなに恐ろしげではなかったのだと思う。でもなんか喋ったような…。2のマスクは怖いというより憎たらしいタイプの敵だったのかも。

注意力散漫な時2023/12/10

コアラのマーチの柄を見ないで食べてしまった時。

カメーン2023/12/09

子どもの頃恐ろしかったもの。

「スーパーマリオUSA」というゲームに出てくる敵モンスター。名前の通り仮面のモンスターで、なんかめっちゃ高速でびゅんびゅん動いて襲ってくる。

「スーパーマリオコレクション」というスーパーファミコンソフトに収録されていたバージョンをやって、私はかなり恐怖した。

デザインも心臓によろしくない。左半分は白、右半分は赤で、なんだか嫌に立体的に見える。

これも鍵を手にすると追いかけてくるという「物に関する呪い」な感じのもので、まあ多分誰でも怖いからこういう表現があっちにもこっちにもあるのだろう。所謂「みんなのトラウマ」というやつだ。

SURPRISE(SPEED)2023/12/08

4 COLORSの中で一番曲調が好きな曲。

SURPRISE - YouTube

歌詞を見ると「大人になってしまったなあ」という感じがする。SPEEDも自分も。

SPEED SURPRISE 歌詞 - 歌ネット

歌詞について

あとやっぱり大人の女性になったら女性が書いた歌詞を歌うべきだなと思った。こと恋愛模様に関しては。

なんというかこう、肌の接触が全てじゃあないわけですよね(性的な意味でもそれ未満の意味でも)。そりゃそう。現実もそりゃそうだし、歌として歌ったり聞いたりしたいのもそこじゃあないのよ。で、男性が女性の気持ちになって書いた歌詞というのは、そういったセクシャルな要素を含まないものであってもどうしてもイメージとしての女性像に寄ってしまう感じがあるので、女性が書いた歌詞の方がよりしっくり来る。

でも伊秩節に納得いってないのかというとそうではなく、若いうちってか子どもであるうちは微妙な機微のことなど理解できないのでむしろダイレクトに性的なニュアンスの方が女子も興味を惹かれると思うんだけど(歌っている本人たちもそうだったんじゃないかなあ)、まあ大人になったら「そこじゃない」になっちゃうよねという。その後の人生経験がどうであるかは関係なく、単純に人間として成長したらそういうモザイク的解像度で物を見なくなる。

 

当時を寛子と伊秩氏が振り返っている対談(2021年)を読むと、まあやっぱりそうだよね。

SPEED「SPEED MUSIC BOX -ALL THE MEMORIES-」島袋寛子×伊秩弘将プロデューサー対談|デビュー25周年を迎える今だからこそ思えること、エネルギーに満ちていた当時の記憶 (2/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

島袋 「Walk This Way」の歌詞で、伊秩さんに「hiroは恋に恋してる」って書いていただきましたけど(笑)、まさに夢見がちで、少女マンガが大好きな子だったんですね。だから「あなたのために生きていきたい」とかも、そういう思いを抱く恋がある、愛があるっていうイメージから抵抗なく歌えてましたね。歌詞の世界を自分事にしちゃってた。

伊秩 僕はまず、リリースの3年後に本人たちが歌ったときにダサいとか子供っぽいって思われるような歌詞は書かないということにこだわってました。女の子の成長は速いから。あとは、本人たちと同年代のリスナーは当然付いてきてくれると思ってたけど、少し上の層にも聴いてほしかった。一見尖って聞こえたり背伸びしているような言葉でも、奥底にはそうじゃないテーマをしっかり込めていたから、自信がありましたね。奇をてらおうとすると、本人たちに絶対見抜かれるからね。

とはいえ「子供っぽくない」の方向性は他にもあったやろがいとは思ってしまう。でもまあ、コケるわけにいかないというプレッシャーの中では仕方ないことだったのかも。「White Love」でさえ作っていた側は不安だったとなれば。四人の才能ある子どもの未来がこの一人の大人にかかっていたわけで、その状況を想像するとちょっと胃が痛くなってくる。

この対談は他にも色々面白いお話があって興味深い。


 

それはそうとこの曲の印象めちゃくちゃかっこいいなあ。ボーカル二人の強い声質がバシッと合っていると思う。声が多分ちょっと低くなったこともあり。(当たり前の変化。)

 

10年前に追っているべきだったと前の投稿で書いたけど、でもリアルタイムで聴いて今感じているのと同じ深さの感動を覚えたかというと微妙なところだ。

SPEEDが復活した2008年から2012年のあたりは自分に全く余裕がなかった。あらゆる意味で傷ついていたし、SPEEDにもせいぜい懐古の情しか湧かなかったかもしれない。癒やされるためにしがみつくみたいな感じで。

でも時が過ぎ、自分の環境や心境はあの頃から随分変わった。今は過去の思い出に縋る必要はなく、シンプルに楽曲そのものやパフォーマンスを楽しむことができる。前投稿J-POP離れとニコニコ動画で書いたように音楽観が変わっていることも感動に寄与している。まあだから、今更の今更になってこのアルバムに触れたのは、私の人生上は正解だったと思う。

 

なんか書いているうちにだんだん「勝手に過去のものにしてしまっていた感動」が蘇ってきた。自分の行動(=いつ何を聴くかの選択)が流行に左右されていたのは事実だけど、自分の感動は流行とは関係ないし、若かりし日の私はやはり心底この四人の姿に感動していたのだと思う。

茶の間に書いてなかったら凍結していた感動を解凍せずじまいだったかもしれないから茶の間効果おそるべし。

(ちなみにこの文は3日頃に書いたものであり、これを踏まえて無自覚に除外された体験をポストした。)

J-POP離れとニコニコ動画2023/12/07

4 COLORSに関連して。

一時期の自分のJ-POP離れについてもちょっと言葉にしておこう。好きだったアーティストまでもをスルーしたのは普通に自分が悪いので誰を恨むものでもないけれど、当時のヒットチャートに辟易したのは私だけではなかったと思う。

 

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私の中でJ-POPは2008年あたりで一度終わっている。最も流行歌に敏感である必要がある年齢を過ぎてしまったからというのもあった気はするけど、しかしそれだけが原因のはずはない。

 

それでもやっぱり音楽というものからは離れられなかった。代わりとなったのはニコニコ動画の世界だ。ボーカロイド曲やアニソン、キャラソン、ゲームのBGM、既存曲のアレンジ。それまで特別二次元を好んでいたわけではなかったけど(ジャンプ漫画はある程度読むというくらいのものだった)、J-POPが私にとって地雷原になってしまったので、J-POPを視界に入れずに日本の楽曲を楽しめる世界としてニコニコ動画に住み着いてしまった。

玉石混淆極まるボーカロイド界隈やアレンジ界隈は音楽を聞く態度というものをある種高慢にさせたと思う。ただ同時に、音楽を聞くという行為に能動性をもたらしてくれたのも事実だ。それまで「流行っているものが好き」みたいなスタンスでいたのが、「流行っているものを好きになれない」という壁に直面した後、「自分が好きなものが好き」に健全に移行する、その助太刀をしてくれたのがニコニコ動画という場だった。

 

曲そのものとは関係ない要素によってヒットチャートから多様性が失われたことは本当に疎ましかったのだけど、それだけ当時の私はヒットチャートに依存した音楽生活を送っていたということだ。

一応その時点で好ましく感じているアーティストというのはあったわけだけど、それは相対的な評価で、あくまでヒットチャートの中でそのアーティストを見かけたならそのCDを優先して入手する、という感じだった。ヒットチャートに見えなくなったら自分の関心からも外れてしまう。辛うじてベストアルバムは追ったかなという感じ。そして嫌なものを見たくないがためにヒットチャート自体を見なくなったら、新曲というもの全体が自分の視界に入らなくなってしまった。

J-POPから目を背けてニコニコ動画に流れていった当時にその点を反省したわけではなかったけど、それまで聞いたことがなかったような種々の音楽に囲まれ、私は本当はこういうのが好きだったのか、という気づきを色々得る中で結果的に自分の音楽観は改まっていった。

そうして前に書いたように音楽について語るということ、音楽文化への関心は薄れたまま、音色や曲調が自分に合うかどうかだけを基準に聞くという感じに行き着いた。逆にそれまで「流行り」によって好きになった曲について、自分の感性と照らし直して「この曲は深く好きだ」と思うようになった。「好き」の深度が総じて浅かったのを深め直したという感じ。

 

以前の私は流行歌をただ消費していて、それらを「アーティストによる作品」とはあまり思えていなかったのだと思う。猥雑なニコニコ動画の世界をうろうろする間にちょっとだけ音楽の聴き方がわかった。

ボーカロイド曲の作曲者を○○Pと呼ぶ文化も私の意識を大きく変えたと思う。昔は歌がある曲については「歌っている人」を基準で見ていて、作詞作曲が誰の手によるものかは全くどうでもよかった。でもボーカロイド曲は作曲者が誰であるかが最も重要であって、歌うのが誰かは二の次になる。この文化を経て、例えばアニメの挿入歌やキャラクターソングについても作詞と作曲がそれぞれ誰か見るようになった(前はJ-POP以上に誰が作ったか気にしていなかった)

関心がライトだと、ひとつのものについてそれに深く関わっている人間というのを一人しか認識できないのかもしれない。なのでクラシック音楽やゲーム音楽では作曲者がその曲に紐付けられるところを、歌だと作曲者ではなく歌手が紐付けられる。他の情報までくっつけられるほどの粘着力(=関心の強さ)がないのだ。

 

このように大きな転換があったのは事実だけど、ニコニコ動画での音楽体験を通じて音楽に対する関心が広がったかというと、実のところ広がりとしては大して変わっていない。元々音楽に興味が強い方ではないので(中学から大学の間は耳が空いていたらずっと何かしら音楽を聞いてはいたが、それでも)、色々聞いたからといって造詣が深くなっていく方向には進んでいかないようだ。次々開拓しようという気にもあまりならない。

変わったのは音楽世界への関心の広がりではなく、音楽を聞いている時の自己の解像度だと思う。自分はこの曲から何を感じているのか。自分はどうしてこの曲を聞いているのか。

別にそういったことがはっきりしている必要はないし、わざわざ自分に問うて明らかにしようとしたわけでもない。自分に問いはしないけれど、何かを聞いている時に「音楽によって私に何かがもたらされている」ということを感じ取るようになった。

そうして、「この曲のこの部分が私は好きだ」ということを言えるようになった。ぼんやり生きていた私にとっては、それは非常に大きな変化だった。

ポートランドの壺2023/12/06

大英博物館にある古代ローマの壺。ガラス製で、パッと見は黒だけど実際は暗い青色をしている。

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from: File:Portland Vase BM Gem4036 n5.jpg - Wikimedia Commons

 

1845年に泥酔した来館者によってばらばらに破壊され(破片は200以上)、完全修復に至ったのはおよそ140年後のこと。140年! 組み合わせてみてもパーツが余ったり形が歪んだりしたようで、随分難易度の高いパズルだったようだ。

修復にはジョサイア・ウェッジウッドが作っていた陶器(ジャスパーウェア)の模造品が役に立ったとか。ノートルダム大聖堂の修復にゲーム「アサシンクリード」のデータが生かせるかも?という話が火災当時に話題になったのをちょっと思い出した。(そっちは実際に役に立つのかどうかわからないけど。)

 

ウェッジウッドのジャスパーウェアは身近にあったので知っていたけれど、それのある種元ネタと言ってもいいようなこの壺のことは最近まで知らなかった。ジャスパーウェアというのは、多くはペールブルーの地に白のレリーフが施された、素焼きの鉢に似た質感の陶磁器。ツルツルピカピカではないやつ。ウェッジウッドの代表的なパターンのひとつだ。

Jasperware: Care Guidance, History & The Making - Wedgwood

マットな質感が目に優しい。使えば使うほどツヤが出てくるという話だけど、実用はなんとなくちょっと勇気が要る。普通に使っていいみたいだけどね。ちなみに素焼きの鉢に似たと書いたけれど、それはあくまで表面の質感の話で、性質は多分全然違うやつ(素焼きと違って透水性はない)

無自覚に除外された体験2023/12/06

何者かになりたい問題と同じか違うレイヤーかまだ自分の中ではっきりしていないけど、自分が「量産型」的であると自分で感じる領域について自分を肯定できていなかったところがあるなと思った。

好きなものがめちゃくちゃ大流行したものであるという場合に、その体験を自分の中で「大事なこと」としてカウントしようとしない、みたいな不誠実さが自分にあった。

このことに折り合いがつくのは、「何が好きか」ではなく「どこがどう好きか」にフォーカスした時だと思う。本当に熱心な人が、それが流行ろうが廃れようが関係なしに愛を貫けるのは、早々に「どこがどう好きか」に焦点を移しているからだろう。これは好きの深度の問題ではなく、ある種のコツだと思う。

社会にとって必要なのは「何を好ましく思うか」であり、「どう好ましく思うか」はどうでもいい。だから社会の要請に大人しく従うなら「どこがどう」を自分に問う意味はないだろうし、何かを好きということをいつかは「卒業」することが重要になる。その流れに負けると自分の「好き」は容易く軽くなる。

(2023/12/05のツイート)

 

これは文脈としては「自分の音楽体験の原点はSPEEDにある」ということを自分が無意識に否定し続けてきたことの反省に端を発している。