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ヤンマーニ2024/01/18

KalafinaのstoriaからFictionJunction YUUKAを思い出したのでついでに。

「ヤンマーニ」というのは、FictionJunction YUUKAの2004年の曲「nowhere」で繰り返されるフレーズである。

nowhere - YouTube Music

「ヤンマーニヤンマーニヤンマーニヤイーヤ」と聞こえるけど、梶浦由記曰く実際は「ヤッラーヒ」だったらしい。そう言われて聞いてみると確かにそうかも? LIVEの歌唱だとよりはっきり「ヤッラーヒ」と歌っている。いずれにしても意味のある言葉ではないようだ。(LIVE版は演奏がCD音源とはかなり違うので聴いてみると面白い。だいぶハードロックになっている。)

アニメ「MADLAX」の挿入歌だったとのことだけど、その当時は見ていなかったばかりか存在も知らなかった。何年か後になってニコニコ動画を見るようになったら、この曲が半ば常識として扱われていたのでそこで初めて知った。

「ヤンマーニ」部分も印象的だけど他の部分もいいなあと思う。サビの終わり方の跳び上がるような感じ、そして間髪入れずに「ヤンマーニ」に繋げてAメロへ。この流れが面白く、絶え間ない歌声に自分が運ばれていくような感じがする。そして急かし続けるようなドラム。Kalafinaの「Magia」のドラムにもそういう圧をちょっと感じたけど、面白い世界観だなと思う。

あと間奏を挟んだ後の、高低二つのメロディが同時に進んでいく展開(専門用語がありそう)の部分も面白い。人間の中にあるアンビヴァレンスを感じる。聴き込めば聴き込んだだけ発見がある曲だ。

 

FictionJunction YUUKAの曲は他に「荒野流転」や「焔の扉」が好き。いずれもそれを主題歌とするアニメは見ていないけど。他の曲も総じて美しくて素敵です。

Freshがだいぶわかった2024/01/17

DenoのフレームワークFreshの書き方がだいぶわかった。去年までのReactの飲み込みの悪さからすると半年くらいかかるんじゃないかと思ったけど、半月でおおよそ必要な要素は掴めたようだ。

思ったよりずっと速やかに理解できたけど、久々に謎のエラーとの格闘が続いて脳が筋肉痛という感じがする。

 

アナログノート風デジタルノートツールをFreshで作り直している。書き方が根本的に違うので結局全部書き直しだが、JSXとstate管理を使うとコーディングが簡単になるので仕組みが理解できさえすれば換装作業自体はそんなに苦労は感じない。

パーツの追加などが楽になるので色々試しやすくなる気がしている。

storia2024/01/16

Kalafinaの曲で2009年リリース。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」のテーマ曲(2021年まで放送)

Kalafina 『storia』 - YouTube

初めて耳にした時はかなりの衝撃を受けた。この曲の壮大さは「歴史秘話ヒストリア」にあまりにもマッチしていて、番組を見て歴史に馳せる思いのしみじみとした感じの、その何割かはこの曲によって生み出されていたようにすら思える。

「歴史秘話ヒストリア」には他にもKalafinaの曲がいくつもエンディングに使われていて、どの曲もありとあらゆるストーリーを「時を超えて現在へと繋がる感動の秘話」にしてしまう。

Kalafinaのハーモニーは非常に独特な美しさだなと思う。知り合いにも熱烈なファンがいた。私はそんなにKalafinaには詳しくないけれど(Kalafinaが活動していた期間は前に書いた通りJ-POP離れ真っ只中だったため)、FictionJunction YUUKAが結構好きだったし梶浦由記ワールドは惹かれるものがある。

Kalafinaが解散してからもう五年になろうとしているところだけど、今更ながら追い直そうかな。

ニールセンのアラジン組曲2024/01/15

デンマークの作曲家カール・ニールセンの曲に「アラジン組曲」というのがある。

Carl Nielsen - Aladdin Suite Op.34 - Hakan Şensoy - YouTube

以前NHK-FMのクラシックカフェで聞いたのだったと思うが、冒頭のメロディのインパクトがすごくて一発で覚えてしまった。冒頭部分の曲調は印象としてはハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」の「ワルツ」をもっと強烈にした感じ。

出だしの圧がすごいが、その後の曲調は繊細で美しくミステリアス。良い曲だと思う。

思えば遠くへ来たもんだ2024/01/14

海援隊の曲。1978年。

思えば遠くへ来たもんだ - YouTube Music

武田鉄矢と言うと金八先生その他の俳優業がイメージされるが、歌手としても結構活躍していたのだろう。(世代ではないので当時の雰囲気はわからない。)

私でも馴染みがあるのは「贈る言葉」くらいだが、この間たまたま「思えば遠くへ来たもんだ」をラジオで聞いて、なかなかいいなと思った。ちゃんと聴くと武田鉄矢の声の良さがわかる。この曲のミックスでかけられている効果(?)がまた声に合っている。

長年先生役をやっていたからってドラマの外でも先生風に振る舞う必要はないのではと常々思っているのだが、それ以前にどのように才能を発揮していたかを知ると、やはり有名になるだけはあるのだなあとしみじみ思う。

 

何事も、あんまりにも大々的にヒットしてしまうと「そこまでか?」的な気持ちが出てきてしまい、多分どんなものもそのようにジャッジしてしまうと「そこまで」ではないと思うのだが、そこまでかどうかは脇に置いて鑑賞してみると、「なるほどヒットするだけあって悪くないな」と思う余地が出てくる。「そこまで」じゃないイコールくだらないもの、みたいな極端な評価は妥当ではない。

競い合いによる開拓2024/01/13

2024/01/07放送の音楽の泉で、オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ランナーとヨハン・シュトラウス1世による「ワルツ合戦」の話にちらと触れられた。

この二人についてちょっと調べてみるとなかなか面白いというか、まるで漫画のような人生だ。性格は正反対で、それにもかかわらずとても仲が良かったのに、人気の具合で拗れて険悪になり、そうなってからの競争でウィンナ・ワルツは劇的に発展し、やがて仲直りする(ただし元のような親しさには戻れない)

存命の間はヨハン・シュトラウス1世の方が人気になったが(『ラデツキー行進曲』は今でも定番中の定番)、現在も演奏される曲としてはヨーゼフ・ランナーの方が多いらしい。ウィンナ・ワルツの原型を作ったのはヨーゼフ・ランナーの方。

仲良く二人三脚を続けられたとしてもウィンナ・ワルツは発展するにはしたのだろうが、こなすので精一杯になりそうな激烈な忙しさの中でも新しい風を吹き込み続けられたのは、両者の「あいつに負けてなるものか」という意地のおかげではなかろうか。この二人はどちらも超重要人物として今に至るまで名を残しているが、生きている間大人気であった割に音楽史に名前は刻まれなかった、という作曲家はおそらく数多い。

こういう競争がプラスに働く人と働かない人がいるだろうし、私はプラスには働かない方だが、これが力になった時の限界突破が世界を変えていった例というのはやはり少なくないのだろう。

ブルボンの濃厚チョコブラウニー2024/01/12

ブルボン 濃厚チョコブラウニー|商品情報

美味しい。なんかリッチな感じがする。こういう小袋に入ってる系のお菓子では一番くらい良いかもしれない。

ロッテのチョコパイも好きだが、もっとくどいくらいでもいいのになという気持ちがあるので、濃いめなのは嬉しい。ただしスニッカーズのようなのは「そうじゃない」のだ。ただ糖度を上げればいいというもんではない。深みがほしい。

 

Webサイトへの文句

ところでブルボンのこのサイト、色々駆使しすぎて見づらい。スマホからならまあいいけど、PCで見ると酷いので見え方をウィンドウサイズかデバイスの種類で分けたほうが良いんじゃないかなと思う。

スクロールに応じて表示していく系のデザインって結構くせもので、閲覧者の時間を無駄に消費することにもなりかねないので、広い画面の場合は全部の情報をパッと表示して欲しい。そんな演出付き合ってらんないのだがという気持ちになる。

大きなアメーバ2024/01/11

DenoのFreshで書いたコードをDeno Deploy | Denoでデプロイ(≒サイトとして公開)することに成功した。

そこで自動でURLが割り振られたのだけど、それが「large-amoeba-~」という文字列だった。

大きなアメーバ! 一人でウケていたのだが、それというのも、私は前々から自分の頭の働き方がイメージとしてアメーバっぽいなと思っていて、そういうことを書いたりしていたからだ。

▽私の脳はアメーバ状で「切る」と相性が悪い - Noratetsu's Room(のらてつ研究所)

面白かったので、どうせテスト用のものだしこのURLをそのまま使おうかなと思う。

 

Freshにはもうしばらく苦戦するかと思っていたけど、ローカルファイルの書き込み方がわかった(APIの作り方がわかった)ので、理解が一気に進んだ。まだ複雑なstate管理は試していないけどどうすればいいかの見当はつく気がするので色々なことができそうだ。

Scrapbox代わりの茶の間2024/01/10

変なタイトルだけど、気持ちを表現できる言い回しが他にない。

この茶の間には色々と「大したことのない」感じのことを書いてきたけれど、これらはそれまでならScrapboxに書いていたようなことだ(非公開の個人プロジェクト)

で、Scrapboxにはあまりにも多様なページが作られていて、相互に埋もれさせ合っている感がある。それでもいいのがScrapboxなのだが、個々のページの輝き的なものがないのも事実である。

一方で、ここに書いたことというのは、発表したという意識があるからか、あるいは人に見せる以上はと何度も読み返すからか、あれを書いたはずだというのをはっきり覚えていて、「埋もれる」という感じがない。

たくさん書いていけば、100個あるうちのひとつ、1000個あるうちのひとつ、ということになっていくが、それでも非公開のメモよりずっと存在がはっきり自分の記憶に残ると思う。

私はScrapbox(の非公開個人プロジェクト)を使うことでそういう感覚で情報が蓄積されていくことを期待していたが、やはり人に見せるための一定の丁寧さを発揮するか、あるいは「必要があれば後で加筆すればいいや」的な雑さに留まるかで情報の存在感は大きく違ってしまう。非公開の自分用のメモを丁寧に作るのは私には難しい。

その意味でも、Scrapboxは公開で使った方が有用性が高まる部分はあると思う。

とりあえず、私はこの茶の間に書くことで、ちょっとした情報を自分にとって意味のあるメモにしていきたいと思う。

アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella)2024/01/09

イタリアの作曲家。1883年生まれ、1947年没。

名前は聞いたことないでもない気がする、という感じでいたのだが、大晦日のEテレ「名演・名舞台2023」で、N響が6月定期講演にジャナンドレア・ノセダ指揮で演奏した「歌劇『蛇女』からの交響的断章」(La Donna Serpente, Frammenti Sinfonici)が一部放送され、それを聴いてちょっと衝撃を受けた。かっけえ!!!

YouTube Music

多分あんまり適切な褒め言葉ではないが、「映画音楽みたいだ」と思った。非常にドラマチックで壮大で、楽器それぞれが存在感を持ち、とても今風な感じがする。展開も面白い。(時系列的に正しく言うならジョン・ウイリアムズなどの映画音楽の方がカゼッラっぽいということなのだと思う。)

イタリアの指揮者ジャナンドレア・ノセダはカゼッラの曲の演奏に非常に力を入れているようだ。BBCフィルハーモニックの演奏により多くが録音されている。

食器洗いという鬱時間2024/01/08

食器洗いの時間が毎日憂鬱である。

食器洗い自体がそんなに嫌だというのではない。洗い物は別にいいのだが、洗い物をしている間、毎度黒歴史の総復習タイムのようになっていて、それがひたすらに辛い。

自分の奇行、判断ミス、人との諍い、屈辱の経験、そういったものを洗い物の度に私の脳は引っ張り出してくる。なぜかそういう時間にしてしまっているのだ。

洗い物をしている間というのは、脳みそがあいている状態なのだが、しかし洗い物にもある程度の注意が必要で(ぼんやりしていると食器をぶつけて割る可能性があるし汚れを見落とすおそれもある)、何かを考え込んでしまうにはちょっと忙しい。そういう何も出来ないけどちょっと暇という状態に、黒歴史が滑り込んでくる。

他には、洗い物の時間ほどではないが風呂とトイレの間も危ない。水の流れとともに洗い流してくれるならいいのに、全然流れていってはくれない。

 

今気づいたが、一時期は何かを聴きながら洗い物をしていた。音楽やWebラジオなどだ。それをいつの間にかやめてしまったから頭が暇になって黒歴史の忍び込む余地を作ってしまっているのかもしれない。

明日から何か聴きながらやることにしよう。

ReactとPreactとFresh2024/01/07

前投稿と似たリズム感のタイトルだけど内容は1ミリも関連がない。

去年のうちから「Reactが使えるようになったらな~」と思っていたけど、これがなかなか難しい。なんというか、別に難解なわけではないと思うのだが、考え方が土台から別のものをインストールする感じがして、一応JavaScriptだけど違う言語を覚えなくてはならないかのようだ。

 

更に、現在Denoを使っているのでDenoでPreactを使えるFreshというフレームワークを導入した。Reactがあやふやなのだから当然Preactもよくわからないわけで、なんとなく無謀なことをしている気配が漂っている。The手探り。(一応普通にReactを触っていた期間はある。)

とりあえず、再び超簡単なミニゲームの再現でスタートして慣れていきたいと思う。おみくじ、じゃんけん、二桁掛け算、ポーカー、スロットなどである。その後、前に作ったテトリスとぷよぷよもどきとドット絵エディタの換装を試みたい。

ラズベリーとシャワーとダッシュ2024/01/06

SPEEDの「Wake Me Up!」に以下のような歌詞がある。(1997年、伊秩弘将作詞)

シャワー浴びて メイクして ラズベリーのパン 頬張って ダッシュで行けば いつものに間に合うよ

 

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例によって小中学生の女子にとっての背伸び感が漂う言葉づかい。

「ラズベリーのパン」はさすがに狙っていてあざといなと思うし(ラズベリーのパンってそんなに見かけない)、まずそこに注目してしまうのだが、よくよく考えると「シャワー浴びて」も絶妙だ。

というのも、まあ今の子どもの生活がどうなっているのかはわからないが、おそらく基本的には子どもにとって身を清める時間は「親が用意してくれたお風呂」であり、多くは親に促されて(しばしば嫌々に)こなすタスクだ。

しかし高校生以上になると、自分の好きな時に勝手にシャワーを浴びるという選択肢が出てくる。家族の都合と合わせなくてはいけない風呂とは違って、シャワーは(禁じられない限りは)いつでも構わないのだ。入れと人に急かされるのではなく自分でタイミングとやり方を決定するのがシャワーである。お湯はりを待つ時間が要らないという意味でも縛りがない。

しかも朝に浴びるとなれば、それはかなり能動性が高い行動だと感じる。まあ前日のうちにやらなかったから先送りして朝になっているかもしれないが、それも含めて自分の選択である。そういう自由が「シャワーを浴びる」という行為に伴っている。

 

そんな感じで、「シャワー」「メイク」「ラズベリー」と背伸びワードが三連発で続くのだが、その後に「ダッシュで行けば」と来る。ダッシュ! これはなかなかすごいと思う。

「ダッシュで行く」は実際に使っている年代に割と幅がある表現に思われる。小学生に始まり二十代三十代くらいは使っているんじゃないか。もっと上でも何気なく使っているかもしれない。でも言葉の響きとしてはやはり小中高あたりの語彙だろう。ただし子ども限定の語彙ではないことが重要である。

実際に使っていて馴染みがあり、かつもう少し先まで使えて爽快な動詞。これが「駆ける」とか「急ぐ」じゃあいまひとつなのだ。お行儀良くなりすぎて「自分たちの歌」感が減じる。そちらの方が別種の背伸び感はあるかもしれないが、この曲ではスマートさではなく「自分で自分の一日を決めるぞ」という方向の背伸びを描いているので、やはりここは「ダッシュで行けば」が良い。

 

聞いていた当時は違和感がないゆえに特別何も感じなかったことが、今振り返ると如何に巧みに計算された結果のものであったかに気がつく。計算と言っても必ずしも理数的なイメージではなく、あくまで感覚的なものかもしれないが、とにかく「適当ではない」ことははっきりしている。

 

ちなみに後年のセルフカバー版はとてもおしゃれ。

Wake Me Up! (Re Track) - YouTube Music

俳句の世界への一歩2024/01/05

いきものに焦点を当てた歳時記を読んでいた。

鳥獣虫魚歳時記 秋・冬の巻 | 実, 飴山, 汀子, 稲畑 |本 | 通販 | Amazon

季語になっている鳥獣虫魚について、大きく美麗な写真と専門家による解説があり、そこに俳句が一句から十数句、例句として添えられている。季語を知ろうと思って手に取った本だが、いきもの図鑑としても優れた素敵な本だ。

 

私は俳句については全く素養がなく、プレバトなど夏井いつき先生出演の番組や俳句甲子園の番組を気まぐれにちらちら見る程度なのだが、非常に魅力的な世界だなと思うので死ぬまでにいくらか造詣を深めたいと思っている。最低限のルールについては解説書を一冊読んでおさえたところ。

この歳時記はとても楽しかった。気に入った句をノートに書き写して、今数えると112句だった。ごく一部だけピックアップしたが、数えてみれば結構な数になっていた。

載っていた句は四千句とのことだが、俳人の数に対して全然少ないと思うので、きっとごく一部の人の句しか触れていない。その中でも「この人いいぞ!」と感じる俳人が何人かいたので、まずはこの人たちを入り口として俳句の世界を楽しんでいきたいと思う。

  • 高濱虚子(1874-1959 正岡子規に師事)

  • 赤星水竹居(1874-1942 内藤鳴雪、高濱虚子に師事)

  • 松根東洋城(1878-1964 夏目漱石に師事)

  • 吉田冬葉(1892-1956 大須賀乙字に師事)

  • 山口青邨(1892-1988 高濱虚子に師事)

  • 阿波野青畝(1899-1992 原田浜人、高濱虚子に師事)

  • 高濱年尾(1900-1979 高濱虚子長男)

  • 稲畑汀子(1931-2022 高濱年尾次女)

ほか。以上は掲載句が多い人たちで、一句二句しか載っていないがそれが気に入ったという作者も他にたくさんいる。

とりあえず高濱虚子の一門を追えばいいのではないか?と思っているところ。でもこの中で一番気になっているのは松根東洋城で、こちらは高濱虚子と確執がある模様(ただし俳句観の問題ではないかもしれない)

ちょっとだけ調べて思ったのは、あんまりそれぞれの主義主張や性格について知ると疲れてしまうということ。まずは句が個人的に好ましく感じるかどうかを基準として、無邪気に楽しめるだけ楽しんでいこうと思う。

無題(2024/01/04)2024/01/04

軽率で吟味のない人間に対する嫌悪感がいよいよ限界まで高まっている。

時事に飛びつき放言して自尊心を愛撫している暇があったら本の一冊でも読んでいろ。

無題(2024/01/02)2024/01/02

せめて正月くらいは、という人間の思いも虚しく、地球は地球の都合で容赦なく運動する。

メディアは立場上報道をしなければならない。他の放送局がやっていようが関係なく、それぞれが己の責務として報道をする。全ての局が災害報道一色になる。当たり前で、やむを得ないことだ。

被災していない人々は、いつもならメディアやタイムラインが作ってくれる日常を、自力で守らなくてはならなくなる。特に年末年始はメディアに気分を演出してもらっている部分がやはり大きい。報せを聞いてただでさえ苦しいのに、自分の心を守ることを誰かに頼ることができない。

 

テレビの報道は一番大きな地震の直後だけ見て、あとは見ていない。津波への警戒の呼びかけは、被災の可能性がある人々に向けられたもので、そして聴き続けることを前提としているものではない。切迫感極まる強い声音は、心の健康を考えればずっと聞いていていいものではないだろう。

私は情報の転記作業を淡々とやった後、夕飯どきには年末の番組の録画を見ていた。シンプルに笑えるものだ。そうやって、思いを致しながらも自分を守るために「いつも通り」を貫くことには、常に苦しみが伴う。

今はただ祈っている。そして今日は自分の備えを確かめることにする。苦しい年明けになった。

文章をシュッと終える2024/01/01

トンネルChannelは1000字や1500字縛りで書くことにしようか、と考えていた。

その字数にこだわるわけではないけど、とにかくシュッと終わる感じにする。

何かを言おうとしない。

頑張らない。

ただ誠実に書く。

大晦日の夜の歌2023/12/31

大晦日の夜は紅白歌合戦からのゆく年くる年がやはり定番なのだろう。

私も子どもの頃は紅白を見ていた。好きなアーティストがテレビに出ていると素朴に嬉しかったし、普段は縁のない演歌歌手のステージを見るのも面白かった。

ただ年を重ねるにつれ、幕間の余興を見るのが辛くなってきたので、最近は全く見ていない。ノンストップでアーティストのステージをやってくれるなら見るのになと思う。流行りの曲を知らないというのは紅白を見ないこととは関係がない。

紅白を見ないで何をしているかと言うと、いつもEテレの「第九」演奏会を見ている。まあやっぱり年末は「第九」(ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調 作品125)だよね。「第九」の後もクラシック音楽のハイライト番組をやっているのでそれを続けて見る。年が明ければウィーン・フィルのニューイヤーコンサートだ。

 

紅白歌合戦は長い間とても重要な役目を担ってきたと思う。今年の芸能界の騒動は紅白歌合戦にも著しく影響するだろうし(※この文は昼に書いています)、それ以前に「紅白歌合戦」という形式はもはやこの時代に相応しいとも思えないし(男女が対等でなかった時代は極めて重要な役割を果たしたと思うけれども、幸福なことにその役目はもう終えられたと思う)、紅白はいよいよ在り方の転換を迫られているような気はするのだが、ともあれ「みんなで歌って年を越していこう」というイベントは今後も必要なんじゃないかと思っている。

みんなで気持ちを分かち合おうとするのならば、やはり歌でなければいけないと思う。自分自身は歌わなくても、みんなが歌っているのを見るというのがよいのだ。第九も合唱付きだから年末に相応しい。

少し前まで、酔っぱらいの集団が肩を組んで何かを叫ぶように歌っているみたいな光景が割とよくあったような気がするが、今はどうなのだろう。自然と歌いたくなるというのは変わらずにあるものだろうか。それともいつの間にか消え去りつつあるだろうか。新型コロナで封印されてしまったかもしれない。もしもそれを失ったならば、人間が人間として生きてきた何万年かの魂を失ってしまうのじゃないかと私は思っている。

2023年についての感想2023/12/31

人を物か玩具かゴミと思っている権力者はどうしようもない。