茶の間
古のブログ風のミニマムな投稿場所です。
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食器洗いという鬱時間2024/01/08
食器洗いの時間が毎日憂鬱である。
食器洗い自体がそんなに嫌だというのではない。洗い物は別にいいのだが、洗い物をしている間、毎度黒歴史の総復習タイムのようになっていて、それがひたすらに辛い。
自分の奇行、判断ミス、人との諍い、屈辱の経験、そういったものを洗い物の度に私の脳は引っ張り出してくる。なぜかそういう時間にしてしまっているのだ。
洗い物をしている間というのは、脳みそがあいている状態なのだが、しかし洗い物にもある程度の注意が必要で(ぼんやりしていると食器をぶつけて割る可能性があるし汚れを見落とすおそれもある)、何かを考え込んでしまうにはちょっと忙しい。そういう何も出来ないけどちょっと暇という状態に、黒歴史が滑り込んでくる。
他には、洗い物の時間ほどではないが風呂とトイレの間も危ない。水の流れとともに洗い流してくれるならいいのに、全然流れていってはくれない。
今気づいたが、一時期は何かを聴きながら洗い物をしていた。音楽やWebラジオなどだ。それをいつの間にかやめてしまったから頭が暇になって黒歴史の忍び込む余地を作ってしまっているのかもしれない。
明日から何か聴きながらやることにしよう。
ReactとPreactとFresh2024/01/07
前投稿と似たリズム感のタイトルだけど内容は1ミリも関連がない。
去年のうちから「Reactが使えるようになったらな~」と思っていたけど、これがなかなか難しい。なんというか、別に難解なわけではないと思うのだが、考え方が土台から別のものをインストールする感じがして、一応JavaScriptだけど違う言語を覚えなくてはならないかのようだ。
更に、現在Denoを使っているのでDenoでPreactを使えるFreshというフレームワークを導入した。Reactがあやふやなのだから当然Preactもよくわからないわけで、なんとなく無謀なことをしている気配が漂っている。The手探り。(一応普通にReactを触っていた期間はある。)
とりあえず、再び超簡単なミニゲームの再現でスタートして慣れていきたいと思う。おみくじ、じゃんけん、二桁掛け算、ポーカー、スロットなどである。その後、前に作ったテトリスとぷよぷよもどきとドット絵エディタの換装を試みたい。
ラズベリーとシャワーとダッシュ2024/01/06
SPEEDの「Wake Me Up!」に以下のような歌詞がある。(1997年、伊秩弘将作詞)
シャワー浴びて メイクして ラズベリーのパン 頬張って ダッシュで行けば いつものに間に合うよ
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例によって小中学生の女子にとっての背伸び感が漂う言葉づかい。
「ラズベリーのパン」はさすがに狙っていてあざといなと思うし(ラズベリーのパンってそんなに見かけない)、まずそこに注目してしまうのだが、よくよく考えると「シャワー浴びて」も絶妙だ。
というのも、まあ今の子どもの生活がどうなっているのかはわからないが、おそらく基本的には子どもにとって身を清める時間は「親が用意してくれたお風呂」であり、多くは親に促されて(しばしば嫌々に)こなすタスクだ。
しかし高校生以上になると、自分の好きな時に勝手にシャワーを浴びるという選択肢が出てくる。家族の都合と合わせなくてはいけない風呂とは違って、シャワーは(禁じられない限りは)いつでも構わないのだ。入れと人に急かされるのではなく自分でタイミングとやり方を決定するのがシャワーである。お湯はりを待つ時間が要らないという意味でも縛りがない。
しかも朝に浴びるとなれば、それはかなり能動性が高い行動だと感じる。まあ前日のうちにやらなかったから先送りして朝になっているかもしれないが、それも含めて自分の選択である。そういう自由が「シャワーを浴びる」という行為に伴っている。
そんな感じで、「シャワー」「メイク」「ラズベリー」と背伸びワードが三連発で続くのだが、その後に「ダッシュで行けば」と来る。ダッシュ! これはなかなかすごいと思う。
「ダッシュで行く」は実際に使っている年代に割と幅がある表現に思われる。小学生に始まり二十代三十代くらいは使っているんじゃないか。もっと上でも何気なく使っているかもしれない。でも言葉の響きとしてはやはり小中高あたりの語彙だろう。ただし子ども限定の語彙ではないことが重要である。
実際に使っていて馴染みがあり、かつもう少し先まで使えて爽快な動詞。これが「駆ける」とか「急ぐ」じゃあいまひとつなのだ。お行儀良くなりすぎて「自分たちの歌」感が減じる。そちらの方が別種の背伸び感はあるかもしれないが、この曲ではスマートさではなく「自分で自分の一日を決めるぞ」という方向の背伸びを描いているので、やはりここは「ダッシュで行けば」が良い。
聞いていた当時は違和感がないゆえに特別何も感じなかったことが、今振り返ると如何に巧みに計算された結果のものであったかに気がつく。計算と言っても必ずしも理数的なイメージではなく、あくまで感覚的なものかもしれないが、とにかく「適当ではない」ことははっきりしている。
ちなみに後年のセルフカバー版はとてもおしゃれ。
俳句の世界への一歩2024/01/05
いきものに焦点を当てた歳時記を読んでいた。
鳥獣虫魚歳時記 秋・冬の巻 | 実, 飴山, 汀子, 稲畑 |本 | 通販 | Amazon
季語になっている鳥獣虫魚について、大きく美麗な写真と専門家による解説があり、そこに俳句が一句から十数句、例句として添えられている。季語を知ろうと思って手に取った本だが、いきもの図鑑としても優れた素敵な本だ。
私は俳句については全く素養がなく、プレバトなど夏井いつき先生出演の番組や俳句甲子園の番組を気まぐれにちらちら見る程度なのだが、非常に魅力的な世界だなと思うので死ぬまでにいくらか造詣を深めたいと思っている。最低限のルールについては解説書を一冊読んでおさえたところ。
この歳時記はとても楽しかった。気に入った句をノートに書き写して、今数えると112句だった。ごく一部だけピックアップしたが、数えてみれば結構な数になっていた。
載っていた句は四千句とのことだが、俳人の数に対して全然少ないと思うので、きっとごく一部の人の句しか触れていない。その中でも「この人いいぞ!」と感じる俳人が何人かいたので、まずはこの人たちを入り口として俳句の世界を楽しんでいきたいと思う。
高濱虚子(1874-1959 正岡子規に師事)
赤星水竹居(1874-1942 内藤鳴雪、高濱虚子に師事)
松根東洋城(1878-1964 夏目漱石に師事)
吉田冬葉(1892-1956 大須賀乙字に師事)
山口青邨(1892-1988 高濱虚子に師事)
阿波野青畝(1899-1992 原田浜人、高濱虚子に師事)
高濱年尾(1900-1979 高濱虚子長男)
稲畑汀子(1931-2022 高濱年尾次女)
ほか。以上は掲載句が多い人たちで、一句二句しか載っていないがそれが気に入ったという作者も他にたくさんいる。
とりあえず高濱虚子の一門を追えばいいのではないか?と思っているところ。でもこの中で一番気になっているのは松根東洋城で、こちらは高濱虚子と確執がある模様(ただし俳句観の問題ではないかもしれない)。
ちょっとだけ調べて思ったのは、あんまりそれぞれの主義主張や性格について知ると疲れてしまうということ。まずは句が個人的に好ましく感じるかどうかを基準として、無邪気に楽しめるだけ楽しんでいこうと思う。
無題(2024/01/04)2024/01/04
軽率で吟味のない人間に対する嫌悪感がいよいよ限界まで高まっている。
時事に飛びつき放言して自尊心を愛撫している暇があったら本の一冊でも読んでいろ。
無題(2024/01/02)2024/01/02
せめて正月くらいは、という人間の思いも虚しく、地球は地球の都合で容赦なく運動する。
メディアは立場上報道をしなければならない。他の放送局がやっていようが関係なく、それぞれが己の責務として報道をする。全ての局が災害報道一色になる。当たり前で、やむを得ないことだ。
被災していない人々は、いつもならメディアやタイムラインが作ってくれる日常を、自力で守らなくてはならなくなる。特に年末年始はメディアに気分を演出してもらっている部分がやはり大きい。報せを聞いてただでさえ苦しいのに、自分の心を守ることを誰かに頼ることができない。
テレビの報道は一番大きな地震の直後だけ見て、あとは見ていない。津波への警戒の呼びかけは、被災の可能性がある人々に向けられたもので、そして聴き続けることを前提としているものではない。切迫感極まる強い声音は、心の健康を考えればずっと聞いていていいものではないだろう。
私は情報の転記作業を淡々とやった後、夕飯どきには年末の番組の録画を見ていた。シンプルに笑えるものだ。そうやって、思いを致しながらも自分を守るために「いつも通り」を貫くことには、常に苦しみが伴う。
今はただ祈っている。そして今日は自分の備えを確かめることにする。苦しい年明けになった。
文章をシュッと終える2024/01/01
トンネルChannelは1000字や1500字縛りで書くことにしようか、と考えていた。
その字数にこだわるわけではないけど、とにかくシュッと終わる感じにする。
何かを言おうとしない。
頑張らない。
ただ誠実に書く。
大晦日の夜の歌2023/12/31
大晦日の夜は紅白歌合戦からのゆく年くる年がやはり定番なのだろう。
私も子どもの頃は紅白を見ていた。好きなアーティストがテレビに出ていると素朴に嬉しかったし、普段は縁のない演歌歌手のステージを見るのも面白かった。
ただ年を重ねるにつれ、幕間の余興を見るのが辛くなってきたので、最近は全く見ていない。ノンストップでアーティストのステージをやってくれるなら見るのになと思う。流行りの曲を知らないというのは紅白を見ないこととは関係がない。
紅白を見ないで何をしているかと言うと、いつもEテレの「第九」演奏会を見ている。まあやっぱり年末は「第九」(ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調 作品125)だよね。「第九」の後もクラシック音楽のハイライト番組をやっているのでそれを続けて見る。年が明ければウィーン・フィルのニューイヤーコンサートだ。
紅白歌合戦は長い間とても重要な役目を担ってきたと思う。今年の芸能界の騒動は紅白歌合戦にも著しく影響するだろうし(※この文は昼に書いています)、それ以前に「紅白歌合戦」という形式はもはやこの時代に相応しいとも思えないし(男女が対等でなかった時代は極めて重要な役割を果たしたと思うけれども、幸福なことにその役目はもう終えられたと思う)、紅白はいよいよ在り方の転換を迫られているような気はするのだが、ともあれ「みんなで歌って年を越していこう」というイベントは今後も必要なんじゃないかと思っている。
みんなで気持ちを分かち合おうとするのならば、やはり歌でなければいけないと思う。自分自身は歌わなくても、みんなが歌っているのを見るというのがよいのだ。第九も合唱付きだから年末に相応しい。
少し前まで、酔っぱらいの集団が肩を組んで何かを叫ぶように歌っているみたいな光景が割とよくあったような気がするが、今はどうなのだろう。自然と歌いたくなるというのは変わらずにあるものだろうか。それともいつの間にか消え去りつつあるだろうか。新型コロナで封印されてしまったかもしれない。もしもそれを失ったならば、人間が人間として生きてきた何万年かの魂を失ってしまうのじゃないかと私は思っている。
2023年についての感想2023/12/31
人を物か玩具かゴミと思っている権力者はどうしようもない。
曜変天目の再現度2023/12/30
「美の壺」の茶碗の回を見た。
その中で曜変天目の再現に挑む人の話があった。
父親がそれに打ち込み、かなり近づいたにもかかわらず、資料をほとんど残さずに亡くなってしまった。息子は父親の姿に最初は反発していたようだが、やはり曜変天目の再現に挑む人生に。
折角迫りながらも肝心の記録を残さなかったということに、心の中で「馬鹿!!!!!」と叫んでしまった(色々そっちのけでやっていたのにそれはあんまりだろう)。後を継いだ息子の涙ぐましい努力の何割かは、しなくていい努力だったのではないかと思ってしまう。研究するならやはり記録は残さなければ駄目だ。
なおこの方の対談記事はこちら。(「美の壺」とは関係ない記事)
曜変天目が生み出された中国の建窯に幾度も通って学んだとか。
ある時、砕かれた蛍石の存在に気がつく。普通は絶対に使わないものらしい。しかしタイミングを見計らって窯に投入することで、蛍石はガスとなって釉薬と反応し、特異な光彩が生まれるとのこと。
そうして作られた茶碗は、かなり曜変天目に近づいていて驚いた。あともう少しという感じだ。
もう少しだけど、ここからが長いのかも知れない。そして失敗作の山を見ると、なんというか、人間の営みの罪深さを思ってしまう。陶芸の世界の人々はみんな戦っていることなのだろうけど。
関連:曜変天目ぬいぐるみ
文体の迷走2023/12/29
今年自分が書いた記事を読み直していて、文体の迷走が非常に気になった。
単に敬体だったり常体だったりするという話ではない(それは場や内容に応じて変えているだけ)。そうではなく、言葉を並べる順番が安定していない感じがある。
実のところこれは結構前から自覚があることだ。わかりやすく言うと、一文の長さが時期によってまちまちになってしまっている。短くすぱすぱ行こうとする時期もあれば、もったりと長く書こうとしてしまう時期もある。
他の人の文を読んでそういう揺れが生じていることを感じることはないが、他の人達は実際のところどうなのだろう。
で、今年はもったり型の文ばかりになってしまった。特にトンネルChannelに書いていた文章はそれが酷い。一文の頭で想像し始める内容と、句点に至った時にそこに現れている内容とが一致していない。読み手の頭に浮かぶであろうイメージをうまく想定できていなかった。端的に言って悪文だと思う。
基本的には「放っておくともったり書いてしまう」と思っておいた方がよいのだろう。すぱすぱ書いている時というのは別にそれに気をつけてやれているからすぱすぱいっているわけではないのだが、とにかくもったり型文章に陥ることは防がなくてはならない。
自分の文章が「どう伝わるか」も重要だが、それに囚われると修飾過多になる。それより、読み手が豊かになるかを考える必要がある。
精力善用2023/12/28
NHKの「知恵泉」で嘉納治五郎のことをやっていた。
その中で「精力善用」という言葉が登場した。
何事をするにも、その目的を達するために精神の力と身体の力とを最も有効に働かす、ということである。
柔道を習っている人ならきっと誰でも知っているのだろう。私は初めて聞いたのだが、「これこれ! まさにこういう日本語が欲しかった!」と思った。
以前トンネルChannelに、良い書きっぷりを目指すという記事を書いた。
一方で、私が個人的にイメージしていたのは、「その人に可能な最大限のもの」を上限とした尺度です。少し俗っぽい言い方ですが、巷で言われている「パフォーマンス」です。
一度カタカナを経ないと伝えられないことに苛立ちを覚えたので、ズバッと日本語で言い表せるのは大変にありがたい。
集約された「精力善用」の四文字も良いが、上記の講道館の文書内にある「心身の力を最も有効に使用する」という言い回しも良い。普通に書いて初見で通じるのは後者だろう。
「精力善用」「心身の力を最も有効に使用する」を座右の銘としようと思う。
のどにスッキリ2023/12/27
というのど飴がある。
のど飴の中で一番好きなもので、家に常備してある。いつも舐めているわけではないけど、なんとなく喉の様子が怪しくなってきたらこれを舐める。何ヶ月も舐めずに済んでいる時もあれば、ほとんど毎日舐めている時もある。昨日久々に舐めた。
ハーブとメントールのスッとした薬っぽい感じもあるのだが、それでいてまろやかで尖った感じがない。練乳とメントールが意外にマッチしている。
あと面白いのが形だ。ホタテ型。ミルクとハーブののど飴の形がホタテ。なにゆえ。
のどにスッキリのおいしい話 | 春日井製菓のおいしい情報 | 春日井製菓
のどにスッキリは、ホタテ貝の形をしています。開発当時、丸型のキャンディが多い中、印象深くお客様に覚えていただける形はないだろうか?と試行錯誤を重ねた結果、この形に決定しました。また、見た目だけでなく、お口に入れたときの食べやすさにもこだわりました。
ホタテ貝は、商品とは直接関連がありませんが、強いインパクトを与えたようです。
「なるほど!」とはちょっとならないが、目的は見事に達成している気がする。単純な丸い形は無個性でつまらないもんね。ホタテ型の見た目はかわいい。飴の色とも合っている。
貝殻風の細かい波状の凹凸は、口に入れた時の感じも良くしている。つるりとしたものがただごろっとあるよりも舌に馴染む感じがするのだ。
さまざまな面で工夫が行き届いた飴だと思う。
アナログノート風デジタルノートを作った2023/12/26
ケーキを食べる日2023/12/25
子どもの頃、12月25日はケーキを食べる日だったと思う。
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クリスマスプレゼントをもらう日ではなかった。いや、何も買ってもらえなかったというのではない。我が家のクリスマスプレゼントは「事前にお願いしたものを24日の夜にサンタさんが届けてくれる」形式ではなく、おもちゃ屋の広告が頑張りだす頃に両親に連れて行ってもらい、欲しい物があれば「じゃあこれ」と言って買ってもらう形式だった。なので、サプライズとか「願いが叶った」とかいうのはなく、普通に「なんかでかいの買ってもらっちゃったぞ」とビビるイベントだった。ちなみに買ってもらったのは確かレゴのセットとか。
サンタクロースなるものを信じていた期間は1秒もない。サンタさんがいるとかいないとかいう話が同級生の口から出てくるのは割と意味が分からなかった。「いつまで信じていたか」って、いつまでも何も、そもそもなぜいると思うのか不思議でならなかった。
うちの親は「サンタクロースの正体が実は親だって子どもにいつ打ち明けよう」などと悩んでいる人々をかなり軽蔑しており、「あんなのは所詮コカ・コーラのキャンペーンだ」「うちはキリスト教徒じゃない」と度々言っていた(言っている)ので、サンタのふりをしてどうこうという謎イベントは発生する余地がなかった。まあ、それでよかったと思う。
一方で、世間一般でクリスマスというのはオードブルやケーキを食べて子どもはプレゼントをもらうものだ、ということは踏まえていて、こちらから食べたいとか欲しいとか言ったことはなかったと思うけど、そういう人並みのクリスマスを過ごしていた。
世の風潮の圧力というのはいつも暴力的だと思うけれども、そういうものがもう生まれてしまっている以上は、親の信条により子が寂しい思いをするとか屈辱な気分を味わうとかいうのはやはり子どもにとってはしんどいことだと思う。親はそのしんどさを絶対に回避しなければならない、と言いたいのではないが、事実として子どもの負担は大きい。何かしら確固たる信念をうちの親が持っていてのことかはともかく(違うと思う)、その辺のバランスを取ってくれたのは私にとっては良かったなと思う。
めたくそにこきおろしながら、それはそれとして、社会のあり方からむやみに逸脱しないという姿勢はあっていい。ある文化の徹底拒否がプラスに働くとは限らない(プラスには働かない方が多いと思う)。迎合しないが排除もしないということ。
そんな感じで、うちのクリスマスでの姿勢は、結果的に「家庭と社会は別」かつ「しかし社会の中に家庭がある」という二つの前提を意識することを私にもたらしたと思っている。
そこに愛はあるんか?2023/12/24
アイフルのCMで大地真央扮する女将さんが板長役?の今野浩喜に投げかけるセリフ。
金貸し屋に愛を説かれても、というのが率直な感想だけど、それはそれとして、一連のCMのインパクトと「そこに愛はあるんか?」というフレーズの利便性はすごいと思う。
「そこに愛はあるんか?」って、笑っちゃうけど真面目に大事なことなので多分ウケているんだと思う。実際使いたくなるし使っている。半分茶化しながら、もう半分は本気で言っている、みたいな感じで。
ところでこのCM、大地真央と今野浩喜じゃなかったらそんなにウケなかったかもしれない。大地真央、ハローキティ並みになんでもやるな…。すごいな…。そしてCM作ってる人すごいな…。
アイフルへの好感度が上がるかというと、何をどうやったって金貸しの好感度が上がることはないのよという感じだけど、大地真央と今野浩喜の好感度は上がっている。それとあっちもこっちもクサいドラマ仕立てでうんざりするCMだらけ(※個人の感想です)の中でこうも愉快な気持ちになるものを作っていることには感服。
昔やっていた、チワワのくぅ〜ちゃんと清水章吾のCMもアイフルだったと思うけど、アイフルは絶妙に面白いもの出してくるなあ。まあチワワを使ったあれは、金貸し屋のくせにそれは卑怯じゃない?と思ったけど(スラング的に褒めているのではなく、語義通りの意味で)。
その点、武富士ダンサーズのCMは開き直った感じで力技極まっていて良かった。意味がわからないままパワーで押し切られる。今でも脳内再生できてしまうから本当に強烈で効果的なCMだったなと思う。
茶の間感2023/12/23
ブログでは「知的生産に関する知的生産」系の記事を主体としていて、それ以外の話を置く場所として「茶の間」と名付けたわけだけど、その当時なぜその場を「茶の間」と呼ぼうと思ったのかは覚えていない。その時は、今ここに書いているような内容を書こうと思っていたわけではなかった。
しかし結果的に、今ここに書いているのは「茶の間」感溢れる内容になっていると思う。10月末から、一日1~2記事公開してきた。記事というほどのものでもないけれど、いずれも自分が読み直した時に面白く思える。
ここまで書いてきて思うのは、多分書けることは無限にあるんだなということ。無限に思いつきはしないし、むしろいつも「今思いつくのはこれだけ」という状態だけど、普通に生きていれば「これ書くか」と思えるものを毎日見かけるか思い出すかする。
逆に、探そうとしてしまうと基準に達しないものを無意識に視界から排除してしまって何にも焦点が合わない感じがある。何気なく目を向けて「あ」と思うのが理想な流れだなと思う。
音楽の不思議2023/12/22
きっとみんなそうだと思うのだけど、誰かが「衝撃を受けた」「忘れられない」「なぜだか涙が出てきた」と言っている曲を聴いてみた時、自分もそうなる確率というのはかなり低いと思う。そしてその誰かも、自分がそのように感じた曲を聴いて同じようには感動しないだろう。
より沢山の人にヒットする曲というのはあるので、そういう曲の場合は感動したと言う人が比較的多くなるけれど、それでも万人が心底胸を打たれる曲というのはない。
このことはすごく不思議なことだなといつも思っている。自分はこんなにも感動したのに、他の人は別にそれほどではない。他の誰かがあんなにも感動しているのに、私にとってはそれほどではない。それがごく当たり前に起こる。どこがそんなに刺さったのか、本人以外にはよくわからないのだ。「ああ、ここかな」という予想すらつかない。
音楽の「ツボ」は指紋のように千差万別なのだろう。音楽を聞いた時にだいたいどんな気分になるかは共通しているのに、深々と刺さるポイントは違っているというのが不思議で面白い。
あまりに人それぞれなので、音楽のことを語ったとして、それが共感されることはあまりないのかもしれない。だけど、その曲については感動がわからなかったとしても、「私があの曲で感じたような衝撃を、この人はこの曲から受けたんだなあ」と思って見ることはできる。音楽語りはそういうふうに読むべきなのだろう。
大阪いいでっせ2023/12/21
モーツァルトのレクイエムニ短調(K.626)より「サンクトゥス」、その後半部分の空耳歌詞。
母親がモーツァルトのレクイエムを好きだったのでかなり繰り返し聞いていて、ここに差し掛かると毎度「おーさかーいいでっせ~↑ええええぇ↓」「おーさかーいいでっせ~↑ええええぇ↓」の畳みかけに襲われる。
本当は「Osanna in excelsis.」で、天の最も高きところに万歳、みたいな感じのようだ。
ちなみにこの部分はモーツァルトによるものではなく(作る前に亡くなったため)、弟子のジュスマイヤーが作ったということになるのだろうか。
このレクイエムは日本語っぽく聞こえるところが多くて、笑うところではないと思いつつ笑ってしまう。コンサートに行ってゲラゲラ笑ったら大馬鹿者だけど、お家で偶然の一致をこっそり愉快がるのは許されたい。