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しねばいいのに(曲名)2023/11/25

【俺ミク2】しねばいいのに【カイトオリジナル】 - ニコニコ動画

どぶウサギ作曲のボーカロイド曲。2009年発表、歌っているボーカロイドはKAITO。

言葉がストレート過ぎて強烈だけど、もちろん具体的に誰かに死んでほしいというのではなく、日常生活で生じる「くそが〜〜〜〜〜」という心境を歌ったもの。地味に心を削る不運みたいなものへの爽やかな恨み節。

何かあると頭の中でこの曲のフレーズを再生してしまう。それはもはや反射だけど、そうすることで物事がちょっと滑稽になるという効能がある。

 

蛇足

当時のニコニコ動画の裏路地感が懐かしく思い出される。ブラックジョークまでもいかない、ちょっとニヤッとするこの塩梅。

多分この頃は、裏路地で遊んでいる自覚のある人たちが遊んでたからよかったんだろうなと思う。「うっせぇわ」やひろゆきが直に子どもに浸透してしまう世界だと、大人たちも遊びづらいよね。

ネットで遊ぶことは少し恥ずかしいことであるという認識は必要だった。「そんなのに夢中になって」と白い目で見られるくらいがちょうどいい。肯定的に見られるようになった結果何が起こるのかは、もう明らかになりつつある。「恥」の制御のない「自由」はいつも良いことであるわけではない。

ピラミッドと黄金の爪2023/11/24

子どもの頃恐ろしかったもの。

ドラゴンクエストⅢのダンジョン、ピラミッドの地下で「おうごんのつめ」というものが手に入る。

その時点では強力な武器で、手に入れられるなら手に入れたいものだ。しかしこれを入手することには代償がある。宝箱を開けてしまうと……

おうごんのつめを うばう者に わざわい あれっ!

というメッセージが表示されたのち、それから一歩ごとに敵に襲われるのだ!

私は親がSFC版をプレイしているのを見ていただけだったが、当時の私にはこれが非常に恐ろしかった。

本当に呪われたような気がした、というのとはちょっと違って、「自分の行動で何かが大きく変わってしまう」ということがものすごく怖かった。オカルト的な恐怖ではないから、これはゲームだよ、なんていう慰めは何も意味がない。現実かそうでないかの問題ではないのだ。

今ならまあ、ゲームの中の変化ならばダメージを受けないようにする防御反応が働いて私の心は守られるけれど、当時は自分の心がむき出しの状態でゲームを見ていたわけなので、この種のダメージを色々受けた。

それも人生経験だね。

みうらじゅんの手帳2023/11/23

みうらじゅんについてもう一つ印象に残っているのが、手帳の話だ。

みうらじゅんのLOVE スクラップ - ほぼ日手帳 2017

 

まず手帳を「人に見られるのが前提のもの」として考える。これをみうらじゅん氏は「見られ前」と表現している。

家族や友人に見られたとき、もしくは落とした手帳を誰かが拾ったときに、「ああ、こいつ楽しそうだな」と思われたほうがいいじゃないですか。

そんなこと考えたことなかった! 普通は「誰にも見られないんだから何でも書こう」と言われるところだ。

 

そして、気持ちを盛り上げるために表紙を作ろうということで、なんと写真集の1ページを切り取って貼ってしまう。写真集を切り取る! 衝撃!

本来は一冊の本として鑑賞するものですが、これくらい景気のいい写真はめったにありませんから、せっかくなので貼ってしまいましょう。

デコトラのかっこいい写真をドドーンという感じに貼ったのだが、曰く、

これを貼ることで、「俺はデコトラの表紙の手帳で1年間やっていくんだ」という決意が生まれる。周りも、みんなこういう雰囲気の人だという目で見るわけです。

なるほど。ものすごく我が道を行っているように見えて、周りの目にどう映るかというのをかなり意識しているのも興味深いところ。これはもちろん周りの目を気にするということではなく、セルフプロデュースの意識。

確かに、何を好んでいる人なのか、何を見たがっている人なのかというのは、周りがその人の「雰囲気」を知るために重要な情報だ。それが見えてこない人間のことはどう捉えたらいいのかわからないものだろう。

そしてこの手帳の表紙を通して「そのように見られる」ことによって、本人も実際に「そのような人間」に近づいていくかもしれない。

 

最後は、手帳を書く時のペンネームを作ろうという話。

それから、ほぼ日手帳には名前を書く欄がありますから、そこにペンネームを記入してもいいかもしれません。「大豪寺虎男」みたいな名前を書いておいたら、1年それでやっていくわけですから、少々の悩みは吹っ飛ばせますよ。

この発想よ。すごい。

本当の芸能人だったら芸名は簡単に変えられませんけど、一般の人は毎年変えればいいわけですから。「今年はこうなりたい」という雰囲気の名前を毎年考えてつければいい。それが10年たまったら、自分の手帳でありながら、いろんな人の手帳ができるわけです。

 

この記事を読んで衝撃を受けてから結構経っているけれど、全然真似はできていない。自分の性根が全然エンターテイナーではないから難しい。でも「手帳というのは自由だ」というメッセージをこの記事から叩き込まれ、それが自分に根付いているのは確かだ。

みうらじゅん2023/11/22

全然詳しく知らないのだけれど、ちょこちょこ聞き知ったことからひとつの理想像だなと思っている人。全然詳しく知らないけど。

 

もう何年前になるのか、NHKラジオ第1でやっていた「すっぴん!」という番組内で、みうらじゅん氏がゲストのインタビュー回があった。聞き手は藤井彩子アナウンサーと、確か故・宮沢章夫氏だったかと思う。(宮沢章夫氏の訃報はかなりショックだった。もう一年以上になるのか。)

そのインタビューの中で、自分は飽きっぽいのだという話になり、みうらじゅん氏は「なんならこの会話も飽きてますからね」的なこと(文言は曖昧)を言い放った。藤井アナはちょっと動揺していたと思うけど、私は大いにウケて笑ってしまった。わかる。とてもわかる。

別にインタビューが退屈なものだったというわけではなく(なにしろ藤井アナはとっても仕切りが上手いし、宮沢氏は素面で酔ってるような愉快なおじさんである)、みうらじゅん氏としても聞き手二人にけちを付けるつもりで言ったわけではないはずだ。自分の性質として、そうやって尺を取ってゆっくりひとつの話をしていくというのが飽きるということだろう。その「飽き」は相手に依存しているわけではないから面と向かってあっさり言ったんじゃないかと思う。

私も人と話していて「あ~飽きた~~~」と思うことがある。別に相手のことが嫌いとか話の内容がくだらないとかではなく、双方が情報を十分に出して、「今ここに劇的な変調は訪れないな」みたいな感じが察せられるとそこで飽きるのだ。後はもう惰性になってしまうし、惰性の会話はちょっとストレスになる。この時のみうらじゅん氏の場合も、多分、インタビューに答えるというのは自分の情報をただただ出していくだけなので「飽きた」が発生するのだろう。

 

もちろんと言うかなんというか、みうらじゅんのスクラップブックにも大きな憧れがある。すごいと思う。やっぱり本当に好きなことを、好きだーっ!という熱意でやるからできることだろう。

エロスクラップとか、当然中身を見たことはないけども、そういうものをそうやってきちんと集めて残せるってすごいことですよ。自分の「好き」に正直であることの迫力。あと仏像のスクラップについてはストレートに迫力がすごい。

今だと画像をデジタルで保存できるけど、どれだけ集めてもいまいちスクラップブック感はない。コラージュ画像を作ろうとしたこともあるけども、なんかこう、違うんだよなあ~。なんか違う。やっぱり紙を切り貼りするところがいいのだと思う。はさみで切って、糊で貼る。これが良い。

とはいえデジタルでゲットした画像をわざわざ印刷するのもなんなので、デジタルはデジタルでいい感じにコレクションできる方法をずっと考えている。

フェルナンド・ボテロ2023/11/21

今年の9月に亡くなった、コロンビアの画家。

ふくよかなモナ・リザを描いたりしていて、絵を見ると吹き出してしまう。この人の絵を見ながら怒るのはちょっと大変そう。

「ふくよかさ」が持つ迫力を実寸大で味わう。「ボテロ展 ふくよかな魔法」がBunkamura ザ・ミュージアムで開幕|美術手帖

 

一番印象的なのは《楽器》という絵。楽器が太っている! わははと笑ってしまった。

ボテロのぽっちゃり絵画はマンドリンから始まった〜Bunkamuraザ・ミュージアム「ボテロ展 ふくよかな魔法」|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」

その時、ボテロはマンドリンの「サウンドホール」を、本来の比率よりもずいぶん小さく描いた。すると、楽器全体がふくよかに見えることに気づいた。そこからボテロ固有の表現が始まったというのだ。

上に貼った美術手帖の方でももちろん言及されている。

「静物画というジャンルには、ある意味ではボテロの絵画のエッセンスがすべて詰まっています。理由のひとつには、ふくよかな絵画のスタイルは、マンダリンを描いていたときにサウンドホールを小さく書いたら楽器の大きさがふくらんで見えたという出来事がきっかけになったということがあります。楽器という静物を描くことによって、物のボリュームを強調して描くという自らの行く道筋が見つけだされた。ボテロがふくよかな画風に進もうと決心した契機になったジャンルが、静物画なのです」

女性ではなく楽器が原点というのが興味深い。ボテロのこれは女体へのこだわりではなく、あくまで「ふくよか」という概念へのこだわりなのだ。だからもちろんというかなんというか、男性のこともしっかりふくよかにしている。

楽器というのはどちらかというと硬質で、それゆえにボテロはビビッと来たのかもしれないが、もっとふくよかそうなものが入り口になっていないのは驚き。

 

難しいことを考えずに、ふくよかであることがもたらす「感じ」に浸るとなんとなく心が豊かになってくる気がして面白い。

自分を作るもの2023/11/21

なんとなく音楽のことばかり書いている。

音楽が好きというほど音楽が好きなわけでもないけど、自分が感じたことをそのまま言えるというのが音楽というジャンルなのかもしれない。

ストーリー性が強いものだとそのまま言うことが必ずしもプラスにならない可能性がある。何かの言動に対してどう思うかを表明するというのは、ある種「境界を作る」ことでもある。

 

同じくらいに「そのまま言える」ジャンルは他に絵画や彫刻が思い浮かぶ。これらについても今までどこにも書いたことがないので、ぽちょぽちょ書いてみようかと思う。

自分の感性を作るもの、あるいは代わりに示してくれるもの、をひとつひとつ見つめて整理していくのは人生において有意義な試みだろう。

Now And Then2023/11/20

The Beatles - Now And Then (Official Music Video) - YouTube

The Beatles最後の新曲。

 

私自身はビートルズについては全然詳しくないけど、親がビートルズ大好き人間なので、私もある程度曲は耳にしている。

そして今年度はNHK-FMでビートルズについて掘り下げるラジオ番組が放送されているので、毎週日曜日の昼はこれを聴いている。MCは杉真理さんと和田唱さんの交代制。

2023/11/19放送の回(MCは和田唱)で、「Now And Then」について深掘りしていて興味深く聴いた。ジョン・レノンのデモテープに入っていたBメロ(日本で言うところの)が全カットされたという話が印象的だった。和田唱さんは甚くショックを受けたようだ。

音源をそのまま流せないということで和田唱さんが歌ったのを聴いたのだが、確かにこれはあった方が良かったんじゃ……という気持ちになった。なんとなく、「Now And Then」は要素が少ないというか、物足りないというか、そんな印象を持っていたからだ。

しかもプロジェクト開始当初の歌詞ではちゃんとBメロ部分が存在していたようなのに、なぜポール・マッカートニーは最終的にこれをカットしたのか。それについて和田唱さんが考察したところによると、日本で言う「Aメロ→Bメロ→サビ」という構成になるとイケてないと判断されたからではないか、ということだった。あくまで和田唱さんの推理だが、なるほどと思った。

私は完全なるJ-POP脳なので、Aメロ→Bメロ→サビという進行が自分に馴染むわけだけど、洋楽だとそういう構成はそんなに多くはない印象がある。その上、ジョン・レノンがこれを書いた70年代末と、他のメンバーがこの曲を完成させようとプロジェクトを立ち上げた90年代半ばと、そしてAI技術向上により完成に至った今の2020年代とでは、格好良いとされる展開が違っているのは尤もなことだ。今やるとダサい進行なのかもしれない。

(=完全なる洋楽脳)とこの件について話してみても、「確かに少しあっさりし過ぎているかもしれないけれど、このBメロが全部入っちゃうとちょっとサビに戻って来づらい感じがするから微妙」という意見だった。脇道に逸れ過ぎ、みたいな感覚のようだ。なるほど。私としてはBメロで変化を付けながらサビまで徐々に盛り上げていってドーン!みたいな曲がしっくり来るので意外な見解と感じたが、同時に納得もした。

じゃあそれならと、和田唱さんはひとつの試行として、サビの方をカットしてデモテープにおけるAメロBメロで構成したバージョンを自分で演奏・歌唱し、番組中で流した。これを聴いてなるほど~~~と思った。私はこちらのバージョンが結構気に入った。でも、本来のサビ部分にある明るさ(曰く「救い」の部分)がカットされてしまうとちょっと曲が暗すぎるかもという話もあり、それも確かにと思う。

 

結局のところ、実際に発表された「Now And Then」が全てであり、その他の可能性というのはもう選ばれなかった選択肢だ。もちろん、今になって新曲が発表されること自体が奇跡であって、すごいことだし有り難いことだと思う。

ただ、ジョン・レノンがBメロ部分を作っていたこと、そしてその部分は大変美しくて全カットするにはあまりに惜しいことは確かで、何らかの形で採用されたバージョンをビートルズの曲として聴いてみたかったなと思わずにはいられない。

それにしても、ジョン・レノンは全く意図していないはずのことだが、間もなく亡くなったことを踏まえてこの曲の歌詞を読むと、突然この世を去ってしまったジョン・レノンと去られてしまった三人の間の心情と重なるように思えて、当時を知らない若造の身でも胸を締めつけられる。

しずかなインターネット2023/11/19

最近、しずかなインターネットというサービスがリリースされた。

ここでは有益な情報を書くことはあまり求められていません。「たくさんの人に読まれなくていい」「自分のために、ひょっとすると、どこかの誰かのために」そんな気楽さで文章を書くための場所です。

まさにそのような場所を自分のために自分で作っていたわけなので(それがこの茶の間)、このコンセプトにはとても納得感がある。

ただし、「たくさんの人に読まれなくていい」と「誰にも読まれなくていい」の間には距離がある。そのことに無自覚だと挫折する可能性があると感じるので、いずれにしても自分はどういう場所で何をどうしたいのかは真剣に考える必要があるだろう。

音楽について語るということ2023/11/19

語ると言っても単に自分の個人的な思い出話をするということだけど、それでもわざわざするということには何か意味があると思う。

普段音楽について語ることはあまりない。タイミングがないし、相手が知らないものの話をしてもしょうがないから話題として選択されない。逆に相手が知っているものについて話すには自分に造詣が足りない。

音色や曲調を基準にして曲単位で好きになるから、或るアーティストについて詳しくなるみたいなことがあんまりないし、カルチャーとしての音楽界にはそんなに興味がない。中高生の頃は人並みにヒット曲を追いかけていたし好きなアーティストっていうのがあったけど、今はそんなにそういう風には楽しまない。ヒット曲はヒットするだけあるなといつも感心はするんだけど、「追いかけたい」という熱意にならない。

こんなんだから人を相手に話す機会はないし、SNSでも言う気にはあまりならない。自分の音楽についての思い出話というのは全然大した話じゃないんだけど、でも流してしまうような「どうでもいい」ことでもないから、もうちょっと大事に喋りたい。

といっても、別に言いたいのを我慢していたわけでもない。言わなきゃ言わないでまったく問題はない。だけど、ここにちょこちょこ書いていると、自分そのものの輪郭がちょっとはっきりしてくる感じがして楽しい。

 

あまりにも大ヒットしたような曲について敢えて「好きだったなあ」と言ったりするのも、なんというか、みんな知っている曲について言及して意味あるんだろうかみたいなことを考えてしまったりしたんだけど(他の人が大ヒット曲について話しているのをネガティブに感じることは全然ないんだけどね)、まあ別にいいじゃんね。

確かに、相手に情報が全然増えていかない話というのは退屈だから、同じものを同じように好きだという共感を生める確信がない限りは、あんまりにも自明なことは普段の会話では取り上げにくい。

でもこの場所はそういうコミュニケーションの場じゃないし、私の「茶の間」なので、普通のことを普通に書いてもいいやと思う。

スーパー三國志Ⅱ2023/11/18

光栄(現:コーエーテクモゲームス)が1991年に出したスーパーファミコン用ゲームに「スーパー三國志Ⅱ」というのがある。元の「三國志Ⅱ」は1989年にPC-88用に作られたもの。

父親がすごーく長い間熱心にやっていたゲームで(一体何年間遊んでいたのかわからない)、幼少の私は半ばこれで漢字を覚えた気がする。攻略本にはいっぱい漢字が書いてあった。

ゲームシステムも複雑すぎずちょうどいい感じに面白くて良いゲームだけれど、何と言っても印象的なのは音楽だった。今でもいくつかの曲はすぐに脳内再生できるくらいに私の耳に染み付いていて、唯一無二のサウンドだなと思う。リメイクが繰り返されているのでいくつもバージョンがあるが、やはりSFC版の音色が「これこれ!」という感じがして好きだ。

で、誰が作曲したのかというのは全然意識していなかったのだけど、去年だか一昨年だかに確か他の情報を見たくてたまたま調べたら、なんと「向谷実」と書いているじゃないか! 相当にびっくりしてひっくり返りそうになった。

ゲーム音楽の人とは思っていなかったし、長年活躍されていつつも私は全然別のルートで比較的最近ちゃんと認識できた人だったので、実はそんなに前から自分の人生に刺さっていた人だったのだということを知って本当に仰天した。

これもまた偶にあるタイプの劇的な経験。

 

別種の劇的な経験→Fire Dance

Катюша2023/11/17

1938年(つまりWWⅡ間近)に作曲されたロシアの歌曲。読みは「カチューシャ」。日本では時々ロシア民謡って表現されるけど民謡と言うには歴史が浅い。というか軍歌だろう。

2012年のアニメ「ガールズ&パンツァー」にてプラウダ高校のテーマソングとして金元寿子さんと上坂すみれさんが歌っている。そのシーンの印象深さも相まって、この曲にはかなりハマった。

カチューシャ Sung by カチューシャ&ノンナ - YouTube Music

これもまた歌詞を書き出して繰り返し練習しておおよそ口ずさめるようになった(しかし3番はどうしてもわからない)。日本語にはないリズムで発音するので面白い。

 

……のだが。前投稿で書いたMoskauもそうだけど、昨今の情勢ではコメントが難しいというかコメントしたくないというか、素朴に「いいよね」とかって言いたくない感じがある。

そもそもが、平和な世界を前提にして「好意的に見てやる余裕」みたいなものが生まれてやっと「いいよね」って思えるような距離感にあったと思う。色々な人が色々な世界で色々な努力をしてそこまで来ていた。しかしそれらは全てひっくり返された。

 

それでも、過去に好きになったものを手放すまではしない。自分の身に直接的に何かが起こらない限りは心の中の感動は守ることができる。

例えばこれらの曲はロシアで作られたりロシアに思いを寄せて作られたりしたかもしれないが、単純にその音楽としての印象を私は気に入っている。人が聞いていないところでカチューシャを口ずさむだろうし、モスカオ!モスカオ!と声を弾ませるだろう。

それすら許されないような世界にはならないことを祈っている。

Moskau2023/11/17

Dschinghis Khan "Moskau" 2020 Moscow-Edition - YouTube

Moskau - YouTube Music

ドイツ(当時の西ドイツ)のグループ「Dschinghis Khan」の1979年の曲。モスクワ五輪に合わせて作られた。邦題は「めざせモスクワ」。

2005年に空耳歌詞をつけた「もすかう」が大流行した。その頃はサブカルチャーに接していなかったのでリアルタイムでは知らないけど、このFlashが流行ったらしいというのは知っていて、十年くらい前あたりに遅れてハマった。

さすがにこの曲は有名過ぎるのでその前から(多分かなり小さい頃から)知ってはいた。一回聞けば覚えてしまうし、印象的だなとは最初から思っていたけれど、当初はそんなにすごくハマったわけではなかった。

しかし「もすかう」を見て笑っているうちに「声に出して歌えたら楽しそうだな」と思い、カタカナで表記したらどうなるのかを調べてノートに書いて、滑らかに言えるようになるまで繰り返し練習した。我ながら謎の熱意だったのだが、実際口ずさめると楽しい。

ただこの曲を口ずさめるようになったというだけでドイツ語について習得できたことは何もないけど、ちょっとだけ親しみが増した。

道成寺2023/11/16

少し前の話だけど、10月29日放送の「古典芸能への招待」で、能の「道成寺」をやっていた。

舞囃子「松浦佐用姫」・能「道成寺」 - 古典芸能への招待 - NHK

演じられたのは6月18日。

父から子へ秘伝の能「道成寺」…観世三郎太さんが6月に初演 | 紡ぐプロジェクト

 

シテにとっては本当に大変な演目なのだと思う。鐘入りは命懸けとのこと。

しかしそれはそれとして、正直可笑しいところが多くてずっと笑って観ていた。いや、間狂言以外は笑うところじゃなかったかもしれないけど、能自体ほとんど観たことがなかったので想像と違うような箇所にちょっと衝撃を受けた。

シテと小鼓による乱拍子、緊張感が張り詰めているのはありありと感じたけれど、それはそれとして、急にハッと動く時の動き方に滑稽味があって笑ってしまった。

そして乱拍子後に突如として笛の音が響き出し、大鼓小鼓が甲高い声で叫びながら複雑なリズムで鼓を打ち鳴らす場面はもはやハードロック。「いよっ」「ッハッハ!」「いよぉ~~~↑↑↑」あまりに衝撃的で呆気に取られ、やはり笑ってしまった。

間狂言は野村萬斎・裕基親子による醜い責任押し付け合戦で非常に可笑しかった。鐘の中にいるシテの着替えのためだと思うけれど、結構尺が長くてどれだけ押し付け合うのかと。大変愉快。そして「お前が行け!」という感じで放り出された方(野村萬斎)がそのまますーっと正座するなり「(鐘が)落ちてござる」と言ったのに吹き出した。落ちてござる。

あとそうそう、鐘の入退場が面白かった。準備から後片付けまで一通り観られてよかった。

 

この公演ではないけれど、「道成寺」のダイジェスト動画が公開されているのでご興味のある方はご覧になってみてください。

【能楽公演ダイジェスト】「能を知る会-能 道成寺 / 狂言 樋の酒」 Noh wo Shirukai “Dojo ji“ [ Noh Kyogen Performance] for J-LODlive - YouTube

ちらっと見た感じ、乱拍子の部分は結構違うような気がする。鼓の叫び方も印象がちょっと違っているかも。能を見比べるということを全然したことがないので知らなかったけれど、思った以上に「誰がやるか」で違ってくるものなんですね。

鳥の詩2023/11/15

そういえば、11日放送のブラタモリで「鳥の詩」のアレンジがBGMとしてかかった。ちょっとびっくりした。

壮大な感じだったけどさり気ないBGMだったので、サブカルがわからない人は全く気に留めずに聞き流したと思う。

別に何も意見とかはないんだけど、どこに生まれたものでも良い曲が良い曲だと認められて広く使われていくっていうのは良いことだなと思う。ちなみに今回ブラタモリで訪れた場所が作品の舞台だったから使われたのではという話を見た。

  

「鳥の詩」を主題歌とする元の作品についてはあらすじをさらっと調べたくらいで詳しくは知らないけど、この歌のインパクトは私にとっても相当なもので、曲単体でかなり好きだ。夏のまばゆい青空に絶え間なく流れる風を想像せずにはいられない。自分の中で風景を想像する曲ランキングを作ったら一位になるかもしれない。

歌を聞くという時、普段そんなに歌詞は意識して聞かないけれど、この曲に関しては出だしの「消える飛行機雲」によって否が応でも自分の心の目が空を見上げてしまうし、その後に続く歌詞も意味を持つ言葉として耳に入ってくる。すごいことだなと思う。

メロディーに対して歌詞に無理がないのかもしれない。童謡のような比重で歌詞が存在感を持っている。あと歌っているLiaさんの歌声がすごい。

この曲も自分の感性を形にしてくれているもののひとつだ。

ペケ2023/11/15

X(Twitter)のことを「ペケ」と呼ぶ慣習(?)の存在を今更ながら知った。ちょっと笑ってしまった。

「X」というのは多分名付けた人的に未来的なカッコいいものの象徴なんじゃないかと思うけど、Twitterの民に言わせれば「ペケ」。日本のTwitterオタクから見た実情を見事に表したダサい呼称で、その風刺の効き方にもはや感心。

サイト改良がだいぶ進んだ2023/11/14

一昨日から今日にかけて色々と改良を進めた。検索や関連ページを充実させたりあちこちスタイルを追加したり。

用語集もちょっとずつ追加。過去記事はまだ。

茶の間に追加しようと思っている記述はどんどん溜まっている。あんまりドドッと公開してもしょうがないので、追加は一日一記事程度に。

 

更新情報はこちらから↓

Noratetsu House Information - Dynalist

Fire Dance2023/11/14

Shakatakの「Down on the Street」(1984年)収録の曲に「Fire Dance」という曲がある。

FIRE DANCE - YouTube Music

前にNHK-FMの番組でかかって一発で好きになった。「音楽遊覧飛行」の「ミュージックエクスプレス」(パーソナリティは向谷実)だったか。

衝撃を受けたという感じだけど、「なんじゃこりゃ」というのではなく「私の魂はこんな形なのでは?」というような衝撃。曲調とメロディーがズドンとストライクゾーンに入った。私目掛けて投げてきたかのようだった。

打楽器をどこすこどこすこ叩いてからのジャン!!!がかっこいい。総じてかっこいい。

このアルバムの中ではなんか異質な曲だなと思う。

 

自分の感性をドンと形にしたような曲に偶に出会う。偶にしかないことだけど、巡り合うと一生の支えになってくれるものだと思う。

Life in the Fast Lane2023/11/13

Life in the Fast Lane (2013 Remaster) - YouTube

The Eaglesの曲で今のところ一番好きな曲で、ふと聴きたくなって最近リピートしている。1976年発表の曲。

「Hell Freezes Over」に入っているMTVライブ版がお気に入り。(私はイーグルス世代ではないしそんなに詳しいわけではないけども。)

 

追い越し車線を走り続けるみたいな人生は身を滅ぼすぞ!

流れないつぶやき2023/11/12

昨今、吐露の習慣とタイムラインの概念が合わさったことで、自分のことばは流れ去っていくのが「普通」かのようだ。それどころか、しばしば積極的に「流してしまう」ことを意図してことばが放たれている。

木を隠すなら森の中。ことばを隠すならタイムラインの中。

そして別に隠さなくてもいいものも、同じように流してしまう。基準はサイズだ。短いものを大事にとどめることをあまり考えなくなった。

実際、どこに書くのが相応しいのかと考えると迷ってしまう。SNSではどのサービスを選んでも多分流れ去ることには変わりがない。でもブログで「記事」にするほどのことじゃない。

結局、自分で作ったサイトじゃないと難しいのかもしれない。

きっと他のどこでも難しいので、自分の短いことばをここに少しずつ溜めていけたらいいと思う。