茶の間
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無自覚に除外された体験2023/12/06
何者かになりたい問題と同じか違うレイヤーかまだ自分の中ではっきりしていないけど、自分が「量産型」的であると自分で感じる領域について自分を肯定できていなかったところがあるなと思った。
好きなものがめちゃくちゃ大流行したものであるという場合に、その体験を自分の中で「大事なこと」としてカウントしようとしない、みたいな不誠実さが自分にあった。
このことに折り合いがつくのは、「何が好きか」ではなく「どこがどう好きか」にフォーカスした時だと思う。本当に熱心な人が、それが流行ろうが廃れようが関係なしに愛を貫けるのは、早々に「どこがどう好きか」に焦点を移しているからだろう。これは好きの深度の問題ではなく、ある種のコツだと思う。
社会にとって必要なのは「何を好ましく思うか」であり、「どう好ましく思うか」はどうでもいい。だから社会の要請に大人しく従うなら「どこがどう」を自分に問う意味はないだろうし、何かを好きということをいつかは「卒業」することが重要になる。その流れに負けると自分の「好き」は容易く軽くなる。
(2023/12/05のツイート)
これは文脈としては「自分の音楽体験の原点はSPEEDにある」ということを自分が無意識に否定し続けてきたことの反省に端を発している。
4 COLORS2023/12/05
SPEEDの5thアルバム。2012年。昨日の投稿(「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」)にて、再結成後のを追っていなかったからこれを機にチェックしてみようか、と書いた通り早速チェックしてきた。
4 COLORS ‑「アルバム」by SPEED | Spotify
いやめっちゃ感動してしまった。えーん。私としては所謂「捨て曲がない」感じの全曲好きなやつだ。すーげえかっこいいじゃん~~~。
やっぱり寛子と絵理子の歌声は唯一無二だし仁絵と多香子はオーラがちょーかっこいい。Cooooool!!!って感じ。ボキャブラリーが甚だ怪しくなっているが仕方がない。
ここからもう既に10年経っているのかあ…。10年前にちゃんと追っているべきだった。
思い出補正の贔屓目なしに素晴らしい出来のアルバムだと思う。AKBと嵐に埋め尽くされたヒットチャートに嫌気が差して根の深いJ-POP離れに陥っていなければ、リアルタイムで褒め倒していたに違いない(八つ当たり)。
まあでも……もし熱心に追いかけていたら、期待が膨れた分その後が辛くなっただろうな。
没の山という財産2023/12/05
前投稿のSPEEDの話、結構長々と書いているけど本当は各所をそれぞれ倍くらい書いていて、これでもばさばさ落としてこの長さ(短さ)になっている。
頭に「//」を付けるかアウトラインを折り畳むかしてしまうだけで公開用データからその部分がカットされるので、没の部分も完成稿の中に混ぜておける。内容によっては採用と没が交互に並んで縞々になっている(没部分は色が薄くなるようにしている)。どういう流れで何を書こうとしてなぜカットしたのか一目瞭然だ。
公開するための文章は公開することによって財産となっていくけれど、結局公開はしなかったけど何かしら考えて言葉にしたというものも私の中では財産になる。公開する部分に必要ないからといってすっかり削除してしまうと財産が失われてしまうと感じる。
没の部分を上とか下にまとめて置いておくのも、私にとってはあんまり有効ではないようだ。私という世界においてのこの話、というのがまず一連としてあって、その中から一文ごとに公開するかしないか決めていくという形式が私には合っているのだろう。
「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」2023/12/04
SPEED「White Love」の歌詞の一節。作詞・作曲とも伊秩弘将。1997年。
流行っていた当時は全く気に留めなかったけど(よくわかってなかった)、今見るとちょっとエモーショナルだなと思う。
SPEED / White Love -Music Video- - YouTube
手帳術なんかが流行るよりずっと前だけど、若い女の子の生活をイメージした時に手帳が当たり前にあったのだろうか。まあ1997年はスマートフォンはもちろんないし携帯電話も一般に普及してはいなかったわけなので、個人的な何かを書くなら手帳あるいは日記帳ということにはなるのだろう。
「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」という歌詞を見ると、前提として今年も手帳を使っていて、そしてイニシャルをあちこちに沢山書いているほど重用していたということになる。実際の女の子たちがどの程度手帳を活用していたかわからないけれど、でもこの歌詞に違和感がなかったのだとすれば実態との乖離が大きかったわけではないのだろう。
個人的なことをせっせと紙に書きつけるのが割と普通にあった時代を思うと、なんとなく心温まるというか、デジタル時代の寒々しさからちょっとだけ解放された気分になる。
ちなみに歌詞検索サイトで「手帳」が含まれる曲を探してみるとちょっと面白い。
大塚愛「さくらんぼ」も確かにド頭から手帳の話をしていた。
ばーっと見ていくと「写真挟みがち」「✕つけがち」「時の流れを思いがち」「空欄見つめがち」「何か塗り潰しがち」「逆に意地でも消さずに残しがち」という感じだろうか(揶揄しているわけではないよ)。
手帳とともにある生活が歌詞から見えて、なんとなくフフッと笑ってしまう。手帳というものに注目することによって、それまで特に縁を感じなかったような歌詞もリアルなものに思えるからかもしれない。
余談のSPEED語り
それにしても、やっぱり「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」は意味の豊かな表現だなと思う。
SPEEDの曲の歌詞はかなり(すごく)背伸びをした攻めた感じが多くて「小中学生に何歌わせとんじゃ!」と後から叫びたくなってしまったものも多々あるわけだが、一方で圧倒的に女子たちに受けた理由も何割かはそこにあるのだろう。(本当に今はもう未成年の子に歌わせるものとしては許されないんじゃないかなと思うレベルに攻めているし、平成の開放感の象徴という感じがする。)
歌詞全体で結局何を言っている歌なのかを考えると非常にあれな曲がちょくちょくあるわけだけど、大体どの曲も声に出して歌った時の各単語・フレーズの強さと言いやすさというのが抜群で、キャッチーなメロディーにちょっと大人っぽく且つ発声しやすいパワーワード(小中学生的に)が絶え間なく乗った状態で丸々一曲走り抜けてしまう。シングルで出る曲出る曲そうなので、ある種の中毒性があったと思う。「脳漿炸裂ガール」や「千本桜」なんかの中毒性とちょっと似ている(それらは歌いやすくはないけども)。
「新しい手帳にもあなたのイニシャルが沢山ありますように」の部分も、声に出して歌った時にすごく気持ちいいリズムをしている。複雑過ぎない程度に適度に詰め込まれていて、発声に無理がない。
あと、上の本題部分では書かなかったけど、「なぜイニシャルが書かれるのか」というのはなんとなく想像するわけで、当時の女子たちは具体的なことは全然わからなくともやはりそこに大人の香りを感じ取っていたと思う。この曲全体から漂う「縋っている感じ」と「慈愛に満ちた感じ」が、意味の曖昧な部分にも漠然と「大人の階段の上にあるもの」のイメージを纏わせている。
諸々の歌詞のギリギリアウト感はともかく、言葉はいつも巧みに配置されていたと思うし、メロディーも素晴らしいものを連発しているので伊秩弘将氏はすごい人なのだろう。
解散前の曲は多分全部知っているけど一番好きなのは「ALIVE」かなあ。歌詞も綺麗なやつ(?)です。1998年。(あれこれ書いておきながら個人的には背伸び感には然程興味ないのであった。)
SPEED / ALIVE -Music Video- - YouTube
色々歌詞を見直して思ったけど、アダルトな曲もそうでない曲もやたら「愛」がプッシュされているな。SPEEDの曲に等身大感が薄いのは、不相応にセクシャルだからというだけでなく、ちょくちょく話が壮大になるからなのかも。あと内容の攻め方に反して使われている語彙は総じて「普通に真面目」な感じだなと思う。頽廃的な印象がない。それがよかったのかもしれないなあ。
「BODY & SOUL」ですら、最後の畳み掛けの「両手を広げて 大地駆けぬけて 空を抱きしめて 風を受け止めて 虹を突き抜けて 世界抱きとめて 夢も願いも 愛も止められない」の部分はなんかこう、真面目な感じがしてくる。真面目っていうのは別にダサいという意味ではない。斜に構えたら出てこない感じがあるけど。
そう、斜に構えてないんだ。だから「性」のイメージを具体化出来ない子どもにとっては、ひたすらパワフルに前に進む応援歌みたいに見えたのだと思う。
期間限定再結成の時ので好きなのは「華」かな~。多分メジャーじゃないけど。「BRIDGE」収録、2003年。
歌詞をよく読むと、これはSPEEDの四人に贈った言葉だったのかなと思う。CDが今手元にないけどなんか書いてあったかな。
解散後の彼女たちの生き方がどうであれ、彼女たちが自身の青春を犠牲にして私たちにもたらしてくれたものはあまりにも大きく、間違いなくレジェンドだなと思う。
(絵理子寛子の歌はもちろんだけど、私は多香子と仁絵の見た目の雰囲気がすごーく好きだった。かっけーーーーーって思っていたよ本当に。)
ごちゃごちゃ語ってきたけど、しかし私は当時の流行りに影響されていたに過ぎず、そこまで熱心なファンというわけではないので、ちゃんと再結成して以降の2010年代のとかは全然知らない。2010年代はSPEEDに限らずJ-POP全体からほとんど離れてしまっていた。
リアルタイムに売上に貢献しなかったことを申し訳なく思いつつ、せっかくだからこれを機にチェックしようかな。それでまた何か思ったらここに書くことにしよう。
赤盤・青盤2023エディション2023/12/03
先月、『The Beatles 1962-1966』(通称「赤盤」)と『The Beatles 1967-1970』(通称「青盤」)の2023エディションが発売された。
2023/11/26放送の「ディスカバー・ビートルズⅡ」にてUKオリジナル版と2023Mix版の聴き比べをやっていて、とても面白かった。
2023Mix版は各楽器を分離(デミックスというやつ?)したリミックスになっており、オリジナル版でははっきり聞こえにくかった楽器演奏がクリアに聞こえるようになっている。
そうするのがプラスに働くかどうかはその曲の雰囲気と聴く人の好みによると思うけど、クリアになることでそれまで気づかなかったことに気づくのは面白いことだし、ビートルズを好む誰にとっても発見があると思う。
聴き比べをしたのは「I Saw Him Standing There」「She Loves You」「This Boy」「A Hard Day's Night」で、どれも比べてみると「ああ違うな」と感じたけれど、その中でも違いが際立っていたのは「A Hard Day's Night」。リンゴ・スターが叩いているボンゴの音がはっきり聞こえて、ずーっとトコトコポコポコ鳴っているのが面白い。これまでのバージョンでは全然気づかなかった。
A Hard Day's Night (2023 Mix) - YouTube
(スピーカーやヘッドホン、イヤホンは良質のものを推奨。雑なスピーカーだと聞こえにくい。)
MCの和田唱さんも言っていたことだけど、全体的にオリジナル版はロックンロール感がある。そして2023Mix版は今風に聞こえる。演奏自体は変わっていないはずなのにジャンルが違っている感じがある。
ロックンロール感というのは演奏方法や曲調より「レコード」という媒体によってもたらされているのかもしれない。どのくらい音が混ざって聞こえるかがロックンロールの肝なんだろうか。
音が混ざると、その結果歌声が前面に出て、他の楽器演奏が一体になってちょっと後ろにある感じがする。なので、ワーッとした歌が第一で演奏がその盛り上げ役になっているような曲はオリジナル版の方がイケてる感じがするかもしれない。逆に、演奏の美しさや歌声の繊細さで勝負している曲はクリアに分離された方がイケている。
和田唱さんはそれを写真に喩えて「背景がピンぼけで主役がはっきりしているか、背景までクリアに写っているか」という感じに表現していた。そんな感じがする。
関連:Now And Then
マスク(映画)2023/12/02
子どもの頃恐ろしかったもの。1994年公開の映画「マスク」もその一つだ。
「呪いのモチーフ」の話でも書いたけれど(ダンドンダンドンダンドンダンドンダーダラッ)、「身につけたものが外せない」ということが私には恐ろしかった。
その上、それに乗っ取られて自分自身が変わってしまうとなれば卒倒レベルの恐ろしさだ。
コメディ映画って言うけど、ただただ恐怖して見ていたし、怖すぎてもう詳細は全然覚えていない。一度しか見ていないけどこれからも一生見ないと思う。これで映画というコンテンツそのものがちょっと苦手になった気がする。
今冷静に考えて思ったけど、別に映画のマスクは「外せない」ものじゃなかったかもしれない。普通に所有者の意思で着け外しできたかもしれないけど、当時の私は「二度と解放されないもの」という風に感じていた。
多分それは半分くらいドラゴンクエストのせいで、既に書いた「おうごんのつめ」(ピラミッドと黄金の爪)や呪われた装備、あるいはドラゴンクエストの小説『モンスター物語』収録の「呪いのブラックメイル」で丹念に刷り込まれた印象だったのだと思う。
あとは、マスクが顔と一体になっているのがその印象を強めていた。手にした仮面と、それを身に着けた状態は明らかに違っていて、マスクが所有者の肉体に染み込んでいるような感じがした。いずれ人の部分は自我を完全に失いマスクが本体になるんだろうと思った。
「やだあ~~」2023/12/01
ちょっと前に何だったかの情報番組か何かで、松下由樹が百均に行っていろいろ買うというのをやっていた。つまりは今話題の便利アイテムの紹介だ。
で、店員さんが面白いアイテムを見せる度に松下由樹が「やだあ~~」と反応していて、あまりに毎回言うので共演者も笑っていたし私もお腹を抱えて見ていたのだが、本人はそれが口癖になっていることにそれまで気づいていなかったようだ。スタジオでVTRを見て自分の口癖を知り「恥ずかしいー!」という感じだった。
この感嘆を示すための「やだあ~~」、言わない人は一生言わないと思うけど、言う人はいつの間にか言うようになっている。どこかから伝染してくるんじゃないかと思うけど、これは一体どこから飛来してくるのだろう。遊びの感覚で面白がって言っているうちに定着してしまうんだろか。
面白い表現だなと思うので誰かが「やだあ~~」と言っているのを見るとふふっと笑ってしまう。でも「そのような表現をする人間になりたい」と思って言うようになるものとはとても思えないので、どこからどう受け継がれて伝播していくのか不思議だ。気づいた時には「やだあ~~」が口から出る人間になっているものなのかもしれない。
ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん2023/11/30
遊助(上地雄輔)の「ミツバチ」という曲の1フレーズ。曲は2010年リリース。
突き抜けてバカっぽい感じが逆に元気をくれる。
発表当時はインターネット上のどこを向いても「⊂二二二( ^ω^)二⊃
」が飛び回っていた気がする。その当時のインターネットの雰囲気と相性が良かったのだと思う。今思うにとてつもない流行り方だったような。
この曲やこの当時この人が出ていた某番組は色々と物議を醸したけど、まあでもこの曲はいいんじゃないかなと思ったりする。曲はね。一部似ている曲があるという話を踏まえても(まあよくあることだし…)。
時たま不意に「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」と頭に流れるから洗脳ソング(※比喩)怖い。最近は忘れてたけどうっかり思い出してしまったので、またしばらく「ぶーんぶんしゃかぶぶんぶーん」に襲われると思う。
ダンドンダンドンダンドンダンドンダーダラッ2023/11/29
一般的には「デロデロデロデロデロデロデロデロ デンデロン」と表記されるようだけど、幼少の私の耳には「ダンドンダンドン」と聞こえた。よく聞くと微妙に複雑で、今頑張って表記すると「ダラドロダラドロダラドロダラドロドーンダラン」という感じだろうか。
何かというと、ドラゴンクエストシリーズでSEとして用いられる「呪いのモチーフ」というフレーズのこと。
子どもの頃恐ろしかったものだ。
よくトラウマSEと言われるけど、多分基本的には「冒険の書(=セーブデータ)が消えた時に流れるから」というのがトラウマの理由なのだと思う。でも私はそんなに冒険の書が消えた経験をしていないので、普通に「装備が呪われていた」というタイミングで恐ろしく思った。
ドラクエシリーズの中でも「トルネコの大冒険」でよく遭遇した。拾った武器・防具・指輪は時々呪われているのだ。呪われているというのは、「装備が外せない」という意味だ。
このSE自体嫌過ぎるが、「装備が外せない」というのもそれ単体で恐ろしい。仮に十分強くて着けっぱなしでも構わない装備だとしても、それが外せないということになったらすごく嫌だ。
ドラゴンクエストⅦのカジノに「ラッキーパネル」というミニゲームがある。要するに神経衰弱なのだが、並べられたカードの中に「シャッフルパネル」という外れカードが混じっている。これを開けてしまうとカードの配置が全部混ぜられてしまって、どこに何があったかわからなくなるので非常に困る。ほぼ「負け」を意味していると言ってもいい。
そしてこの「シャッフルパネル」を引いてしまった時に「呪いのモチーフ」のSEが鳴る。耳にする度にギャーッとなったが、言ってしまえば「カードが混ぜられてしまう」というだけの話なのに(ゲーム内マネーが無駄になるという実害はあるけども)、このSEのせいでもうとんでもなく嫌なことが起きたかのような気分になる。ゲーム的に困るからというより、この音を聞きたくない一心で「シャッフルパネル」を引き当てないことを祈っていた。
何回聞いても絶対に慣れない恐怖のフレーズ。正直今でも嫌。
舟渡聟(ふなわたしむこ)2023/11/28
NHK総合で2023/11/26放送の『古典芸能への招待』にて野村万作家三代の狂言をやっていた。
前半だけ見たのだけど、万作・裕基による『舟渡聟』が可笑しかった。
調べたところ、大蔵流と和泉流とで展開が違うようだ。和泉流だと船頭=舅で、一言で言ってギャグである(野村家は和泉流)。
聟(むこ)が舅に挨拶に行く途中に渡し船に乗ったら、持参した酒の匂いを嗅ぎつけた船頭が脅してきてがぶがぶ飲まれてしまい、仕方なくほとんど空になってしまった酒樽と共に舅の家に行ったところ、その舅が船頭だったという話。
自分の家を訪ねてきた聟というのがさっき船に乗せて酒を強奪した若い男だと知った舅(野村万作)の「うわやべっ」という感じの逃げ帰り方が可笑しい。そしてトレードマークだった長い髭を妻に「その髭普段から煩わしかったんだよ!」というような台詞と共に剃り落とされ、風貌を変えて聟の前に出るも、結局ばれてしまう。ばれた時の両者の動きが滑稽で笑ってしまった。
ところで野村万作氏は92歳とのこと。すごい。頭使うし動き回るし床を踏み鳴らすし身体に良さそうとは思うけど…(素人の感想)。
片山杜秀2023/11/27
クラシック音楽番組繋がりで、この人のことも書いておこう。
NHK-FMの「クラシックの迷宮」という番組の案内人をやっているクラシック通だけど、本職は政治学者。
ちなみにこの番組は吉田秀和氏の「名曲のたのしみ」の後番組だ。吉田秀和氏が大物すぎて後継選びは大変だったのではと思ってしまうけど、片山杜秀氏の語りは納得という感じ。
ここ数年はちょっと聴きづらい時間帯に移動してしまったので聴けていないけれども(聴こうと思えば聞き逃し配信で聴けるのだけど)、前まではだいたい毎週聴いていた。
片山氏の語りを聴いていると、その滑らかさに驚く。とても聞きやすい声でわかりやすくスーッと話していくのだけど、一度に話す情報量がものすごく多い。耳から脳に大量の情報がするすると詰め込まれていく感じがする。よくそんな綺麗に話すものだと思う。
原稿を用意しているからかとも思ったけど、テレビでのトークも同じ調子だったのでそういう才能らしい。
明るくて個性的で教養の豊かな語り口がとても面白い人です。
音楽の泉2023/11/26
前投稿(にちあさ)ではテレビ番組の方だけ触れたが、日曜朝のもう一つのお供がラジオ番組の「音楽の泉」だ。
2020年度から奥田佳道氏が案内人。その前は故・皆川達夫氏だった。皆川達夫氏は1988年からとのことで、実に30年以上務めていたことになる。すごい。
皆川氏は惜しくも2020年に亡くなられたが、92歳だった。長生き! きちんと2019年度の仕事を全うし、4月に天に帰られた。
最後の方の回で「歌オラショ」というものが取り上げられていて、その話がとても印象的だった。隠れキリシタンが歌い継いだグレゴリオ聖歌だ(皆川氏が研究により論証)。あまりに前提知識に乏しかったため話の全部を理解はできなかったけれど、全く知らなかった世界に案内されたということに衝撃があった。
先週はラヴェルの『クープランの墓』のことをやっていた。邦題は直訳で『クープランの墓』だけど、実際の意味はその表現から想像するものとは違っていて、「墓」と訳されている「Tombeau」は音楽用語として「故人を悼む曲」というような意味があるらしい。そうだったのか~。クープランの墓碑に思いを馳せているのではなく、クープラン的な形式のバロック風音楽によって、戦争で亡くなった知人に思いを馳せているのだろう。
調べればわかることではあるけど(このことはWikipediaにも載っている)、それは「調べれば」であって、自分が見知った全てのものを調べるわけではないので、こういう番組で「へ~」と思えるとやはり楽しい。
ちなみにこの番組のテーマ曲はシューベルト作曲の『楽興の時』第3番ヘ短調。多分誰でも聞いたことがあると思うけど、この曲は一度聞いたらきっと一生残ってしまう種の不思議な印象を持っている。暗くはないけど明るくもない、なんとも言えない気分になる。面白い曲だなと思う。
そして案内人交代に伴い演奏が変わったのだが(アンドラーシュ・シフ→マリア・ジョアン・ピレシュ)、結構な違いを感じて少し驚いた。演奏家が違えば音が違うのは当然ではあるけれども、それにしても味わいが違っていて奥が深い。
にちあさ2023/11/26
もちろんニチアサと掛けたタイトルだけども、私の日曜朝は別の番組でスタートする。例によってNHK。NHKさんには本当にお世話になっている。
日曜日の朝の時間は、テレビを見る時はNHK総合で「さわやか自然百景」「小さな旅」を見る。「Dearにっぽん」まで見る時もある。テレビを見ない時はラジオで「音楽の泉」を聴いている。
「さわやか自然百景」は、日本のどこか一箇所を取り上げ、そのエリアで見られる動植物の生活を紹介してくれる。動植物が好きなので、ぼーっと見ているだけで癒やされる。そして日本というのはこういう世界なのだというのがわかる。どこに何が生息しているのか、結構な種類を覚えたような気がする。問われてパッと名前を言えるとかではないけれど、だいたいこの地域にこういう生き物がいるはずだ、というのがなんとなくわかる。
「小さな旅」は、これも日本のどこか一箇所を取り上げるものだが、こちらは人の営みだ。昔から続いている、そして少しずつ変わってきている生活が紹介される。日本は本来こうであったというのが感じられる。都市に住んでコンクリートの建物を往復してパソコンやスマホに齧りついていたら全然わからないことだ。私たちが本当に生きるために必要なもの――つまり衣食住、あるいは信仰、そしてアイデンティティ――を支える生活がどんなものなのか。
「Dearにっぽん」はもうちょっと人間と人間の関係に寄った題材だろうか。人間社会に働きかけるために何かに取り組む人々の姿を見つめる番組だ。そんなには見ていないが、何回か興味を引かれて見た。
日本にある自然、日本にある営み、日本にある取り組み。それらに思いを馳せる時間と言える。
過去記事追加とか2023/11/25
2023年4月~9月分の過去記事を追加しました。
ある程度自動化しているけれど地味に時間がかかる作業だ…。
あと各記事に「関連度が高いかもしれない記事」欄を設置。
機械的に類似度を計算して列挙。直接リンクしていない記事でも繋がりができたらいいなという期待を込めて。記事数が増えれば威力が増すと思います。
Blueskyの招待コードが余っているので配布ページを設置。
欲しい方はここからどうぞ→Bluesky invite codes - Dynalist
しねばいいのに(曲名)2023/11/25
【俺ミク2】しねばいいのに【カイトオリジナル】 - ニコニコ動画
どぶウサギ作曲のボーカロイド曲。2009年発表、歌っているボーカロイドはKAITO。
言葉がストレート過ぎて強烈だけど、もちろん具体的に誰かに死んでほしいというのではなく、日常生活で生じる「くそが〜〜〜〜〜」という心境を歌ったもの。地味に心を削る不運みたいなものへの爽やかな恨み節。
何かあると頭の中でこの曲のフレーズを再生してしまう。それはもはや反射だけど、そうすることで物事がちょっと滑稽になるという効能がある。
蛇足
当時のニコニコ動画の裏路地感が懐かしく思い出される。ブラックジョークまでもいかない、ちょっとニヤッとするこの塩梅。
多分この頃は、裏路地で遊んでいる自覚のある人たちが遊んでたからよかったんだろうなと思う。「うっせぇわ」やひろゆきが直に子どもに浸透してしまう世界だと、大人たちも遊びづらいよね。
ネットで遊ぶことは少し恥ずかしいことであるという認識は必要だった。「そんなのに夢中になって」と白い目で見られるくらいがちょうどいい。肯定的に見られるようになった結果何が起こるのかは、もう明らかになりつつある。「恥」の制御のない「自由」はいつも良いことであるわけではない。
ピラミッドと黄金の爪2023/11/24
子どもの頃恐ろしかったもの。
ドラゴンクエストⅢのダンジョン、ピラミッドの地下で「おうごんのつめ」というものが手に入る。
その時点では強力な武器で、手に入れられるなら手に入れたいものだ。しかしこれを入手することには代償がある。宝箱を開けてしまうと……
おうごんのつめを うばう者に わざわい あれっ!
というメッセージが表示されたのち、それから一歩ごとに敵に襲われるのだ!
私は親がSFC版をプレイしているのを見ていただけだったが、当時の私にはこれが非常に恐ろしかった。
本当に呪われたような気がした、というのとはちょっと違って、「自分の行動で何かが大きく変わってしまう」ということがものすごく怖かった。オカルト的な恐怖ではないから、これはゲームだよ、なんていう慰めは何も意味がない。現実かそうでないかの問題ではないのだ。
今ならまあ、ゲームの中の変化ならばダメージを受けないようにする防御反応が働いて私の心は守られるけれど、当時は自分の心がむき出しの状態でゲームを見ていたわけなので、この種のダメージを色々受けた。
それも人生経験だね。
みうらじゅんの手帳2023/11/23
みうらじゅんについてもう一つ印象に残っているのが、手帳の話だ。
みうらじゅんのLOVE スクラップ - ほぼ日手帳 2017
まず手帳を「人に見られるのが前提のもの」として考える。これをみうらじゅん氏は「見られ前」と表現している。
家族や友人に見られたとき、もしくは落とした手帳を誰かが拾ったときに、「ああ、こいつ楽しそうだな」と思われたほうがいいじゃないですか。
そんなこと考えたことなかった! 普通は「誰にも見られないんだから何でも書こう」と言われるところだ。
そして、気持ちを盛り上げるために表紙を作ろうということで、なんと写真集の1ページを切り取って貼ってしまう。写真集を切り取る! 衝撃!
本来は一冊の本として鑑賞するものですが、これくらい景気のいい写真はめったにありませんから、せっかくなので貼ってしまいましょう。
デコトラのかっこいい写真をドドーンという感じに貼ったのだが、曰く、
これを貼ることで、「俺はデコトラの表紙の手帳で1年間やっていくんだ」という決意が生まれる。周りも、みんなこういう雰囲気の人だという目で見るわけです。
なるほど。ものすごく我が道を行っているように見えて、周りの目にどう映るかというのをかなり意識しているのも興味深いところ。これはもちろん周りの目を気にするということではなく、セルフプロデュースの意識。
確かに、何を好んでいる人なのか、何を見たがっている人なのかというのは、周りがその人の「雰囲気」を知るために重要な情報だ。それが見えてこない人間のことはどう捉えたらいいのかわからないものだろう。
そしてこの手帳の表紙を通して「そのように見られる」ことによって、本人も実際に「そのような人間」に近づいていくかもしれない。
最後は、手帳を書く時のペンネームを作ろうという話。
それから、ほぼ日手帳には名前を書く欄がありますから、そこにペンネームを記入してもいいかもしれません。「大豪寺虎男」みたいな名前を書いておいたら、1年それでやっていくわけですから、少々の悩みは吹っ飛ばせますよ。
この発想よ。すごい。
本当の芸能人だったら芸名は簡単に変えられませんけど、一般の人は毎年変えればいいわけですから。「今年はこうなりたい」という雰囲気の名前を毎年考えてつければいい。それが10年たまったら、自分の手帳でありながら、いろんな人の手帳ができるわけです。
この記事を読んで衝撃を受けてから結構経っているけれど、全然真似はできていない。自分の性根が全然エンターテイナーではないから難しい。でも「手帳というのは自由だ」というメッセージをこの記事から叩き込まれ、それが自分に根付いているのは確かだ。
みうらじゅん2023/11/22
全然詳しく知らないのだけれど、ちょこちょこ聞き知ったことからひとつの理想像だなと思っている人。全然詳しく知らないけど。
もう何年前になるのか、NHKラジオ第1でやっていた「すっぴん!」という番組内で、みうらじゅん氏がゲストのインタビュー回があった。聞き手は藤井彩子アナウンサーと、確か故・宮沢章夫氏だったかと思う。(宮沢章夫氏の訃報はかなりショックだった。もう一年以上になるのか。)
そのインタビューの中で、自分は飽きっぽいのだという話になり、みうらじゅん氏は「なんならこの会話も飽きてますからね」的なこと(文言は曖昧)を言い放った。藤井アナはちょっと動揺していたと思うけど、私は大いにウケて笑ってしまった。わかる。とてもわかる。
別にインタビューが退屈なものだったというわけではなく(なにしろ藤井アナはとっても仕切りが上手いし、宮沢氏は素面で酔ってるような愉快なおじさんである)、みうらじゅん氏としても聞き手二人にけちを付けるつもりで言ったわけではないはずだ。自分の性質として、そうやって尺を取ってゆっくりひとつの話をしていくというのが飽きるということだろう。その「飽き」は相手に依存しているわけではないから面と向かってあっさり言ったんじゃないかと思う。
私も人と話していて「あ~飽きた~~~」と思うことがある。別に相手のことが嫌いとか話の内容がくだらないとかではなく、双方が情報を十分に出して、「今ここに劇的な変調は訪れないな」みたいな感じが察せられるとそこで飽きるのだ。後はもう惰性になってしまうし、惰性の会話はちょっとストレスになる。この時のみうらじゅん氏の場合も、多分、インタビューに答えるというのは自分の情報をただただ出していくだけなので「飽きた」が発生するのだろう。
もちろんと言うかなんというか、みうらじゅんのスクラップブックにも大きな憧れがある。すごいと思う。やっぱり本当に好きなことを、好きだーっ!という熱意でやるからできることだろう。
エロスクラップとか、当然中身を見たことはないけども、そういうものをそうやってきちんと集めて残せるってすごいことですよ。自分の「好き」に正直であることの迫力。あと仏像のスクラップについてはストレートに迫力がすごい。
今だと画像をデジタルで保存できるけど、どれだけ集めてもいまいちスクラップブック感はない。コラージュ画像を作ろうとしたこともあるけども、なんかこう、違うんだよなあ~。なんか違う。やっぱり紙を切り貼りするところがいいのだと思う。はさみで切って、糊で貼る。これが良い。
とはいえデジタルでゲットした画像をわざわざ印刷するのもなんなので、デジタルはデジタルでいい感じにコレクションできる方法をずっと考えている。
フェルナンド・ボテロ2023/11/21
今年の9月に亡くなった、コロンビアの画家。
ふくよかなモナ・リザを描いたりしていて、絵を見ると吹き出してしまう。この人の絵を見ながら怒るのはちょっと大変そう。
「ふくよかさ」が持つ迫力を実寸大で味わう。「ボテロ展 ふくよかな魔法」がBunkamura ザ・ミュージアムで開幕|美術手帖
一番印象的なのは《楽器》という絵。楽器が太っている! わははと笑ってしまった。
ボテロのぽっちゃり絵画はマンドリンから始まった〜Bunkamuraザ・ミュージアム「ボテロ展 ふくよかな魔法」|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」
その時、ボテロはマンドリンの「サウンドホール」を、本来の比率よりもずいぶん小さく描いた。すると、楽器全体がふくよかに見えることに気づいた。そこからボテロ固有の表現が始まったというのだ。
上に貼った美術手帖の方でももちろん言及されている。
「静物画というジャンルには、ある意味ではボテロの絵画のエッセンスがすべて詰まっています。理由のひとつには、ふくよかな絵画のスタイルは、マンダリンを描いていたときにサウンドホールを小さく書いたら楽器の大きさがふくらんで見えたという出来事がきっかけになったということがあります。楽器という静物を描くことによって、物のボリュームを強調して描くという自らの行く道筋が見つけだされた。ボテロがふくよかな画風に進もうと決心した契機になったジャンルが、静物画なのです」
女性ではなく楽器が原点というのが興味深い。ボテロのこれは女体へのこだわりではなく、あくまで「ふくよか」という概念へのこだわりなのだ。だからもちろんというかなんというか、男性のこともしっかりふくよかにしている。
楽器というのはどちらかというと硬質で、それゆえにボテロはビビッと来たのかもしれないが、もっとふくよかそうなものが入り口になっていないのは驚き。
難しいことを考えずに、ふくよかであることがもたらす「感じ」に浸るとなんとなく心が豊かになってくる気がして面白い。