「賢くなる」ということについての語りを面白く拝聴・拝読しました。

 

ナレッジスタックPodcastについて

まずナレッジスタックPodcastの感想を書いてみたいと思います。

「文化系トークラジオ Life」のくだりがとても興味深かったです。私もわかる感じがしました。面白いことを言っているのはわかるのに自分がついていけない状態には、楽しげな未知の世界があることへのワクワク感と、そこに立ち入るための切符を自分が手にしていない寂しさとを感じます。

特に知的な雰囲気の領域だと後者の「寂しさ」が私には強く感じられます。ドレスコードに引っかかって門前払いを食らいそうという気持ちです。つまりそこはまだ「立ち入れない場所」という感じがするのです。

ラジオならその場のやり取りに参加せずにただ聴いているということができますが、もしその場に放り込まれたら自分には何もできません。相手にとって話す価値のある存在ではないわけです(物を知らない一般人の代弁者として呼ばれでもしない限り)。それはとても寂しいし悲しいので、もし「あそこに行きたい」と思ったならば、やはり頑張って知識やその界隈の常識を集めようとするでしょう。

 

知見や知恵のようなものを集めたいのだ、というお話も大変共感しました。私は「人生訓を集める」というふうに言っています。

私のひとつの憧れの形にカール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』があります。といっても恥ずかしながら全部読んではいないのですが、時たま開いて「いいなあ」と感じ入っています。あんまり「読まなきゃ」とも思っておらず、気が向いた時に「いいなあ」を摂取しているという感じです。

もうひとつの憧れに、ラ・ロシュフコーの『箴言集』があります。正直なところこの本の内容自体が好きというわけではないのですが、「これぞ我が価値観」という感じでドンと出せることに大きな憧れがあります。いつかはそのような一冊を自分で作りたいという願望があります(世に出すかどうかは別として)

最終的には人の名言の紹介などではなくあくまで自分の価値観を自分の言葉で表現したいわけですが、その手本として、あるいは自分の価値観を引き出してくれるものとして、世の人の言葉を集めたいと思ってやっています。

 

「賢くなる」とはどういうことか

私も「賢い」「賢くなる」という言葉が自分にもたらすイメージについて自分なりに言葉にしてみようと思います。倉下さんが「賢い」を「頭がよい」と翻訳して考えていらっしゃったように、私も言い換えて考えることにします。「賢い」ような様子を私は普段「賢明」と「聡明」で表現しています。

「賢明」については、一般的に「賢明な判断」などと言うように、現実的に相応しい選択をしている様子を指しているものと思います。特に、自分や家族、あるいは仲間を守れるかどうかがかかっているような時によく使われます。つまり「賢明である」とは「危機回避能力に長けている」ということです。

「聡明」の方は、より多くの性質をその言葉から感じています。まず人の話がよくわかること。つまり十分な知識を持ち、且つ洞察力に優れていること。次に人に話を伝えられること。つまり豊かな表現力があり、且つ相手に応じた形でそれを発揮できること。そして己の価値観が明確であり、それを表現したり実践したりしていること。最後に、社会・世界・地球・宇宙に生きる身として「より良い」ことを目指し、自己を修正し続けていること。

いずれの場合も、他の存在との関係性が前提にあると言えるかもしれません。自分という存在の領分というのか、他者(あるいは自然など)との境界や距離感についての捉え方を誤っている様子は「賢い」とは言い難く感じます。巷でしばしば言われる「頭はいいんだろうけど……」という表現はその乖離を示しているものと思います。

この意味で賢くなるためには、必然的に知識と思索が必要なので、倉下さんが分けて考えていた「賢くなりたい」と「うまく考えられるようになりたい」は私の中では一緒になってしまっています。とはいえ、知識と思索のどちらを重視するかで言えば思索の方だなとは思います。

いずれにしても私自身は自分の「賢い」像から遥かにかけ離れたところにいるので、死ぬまでにちょっとでも近づきたいところです。ただ上で書いたような表現だと「能力」と「状態」が一緒くたになっているので、現実的に考えて「状態」にフォーカスするのが「賢明」でしょう。

 

情報ツールを使う理由

倉下さんのメルマガ記事にて挙げられていた問いの一つ、自分自身が情報ツールを使う理由についても考えてみます。

まず「うまく動けること」があります。タスクやスケジュールの管理、あるいはマニュアルの整理といったことです。多分それが一番一般的な使用法なのでしょう。

でも社会的な必要に一切迫られなくても私は情報ツールをせっせと使います。tksさんと同様に大学の頃からそういったツールに関心を持ち、仕事とは全く関係ない文脈で活用していました。勉強のためですらありませんでした。アリバイ的に時事問題についての記事を集めたりはしていましたが、まあそれは私にとっては正直どうでもいいもので、後から見ればもはやノイズです。

最近は「今後何かを書くために」という観点を持ってやっていますが、以前は情報ツールを使うにあたって未来のことは全然考えていなかったように思います。活かすために情報を集めてはいなかったということです。役に立つためのものではないという意味で「単なるコレクション」という表現もできるかもしれませんが、コレクター精神でやっていたのでもないので、厳密にはそれもちょっと違っています。

一言で言うと「がらくた箱」ということになるでしょう。格好をつけて書くと「心が動いたものログ」です。「がらくた箱」は私的なコレクションではありますがコレクター精神によるものではありません。スクラップブックと重なる部分は多いでしょうが、スクラップブックのようなテーマ性もありません。

それをやる理由にはもちろん「好きなものを集めておくと嬉しいから」ということがあります。しかしそれ以上に、心が動いたものを自分で頑張って捕まえないと自分が何に心を動かす人間なのか自分でわからなくなるという不安があった、というのが大きな理由です。

 

微妙な不一致

前半で書いた通り「賢くなりたい」という種の願望は私にもあり、そしてそのために情報ツールは強力な味方になってくれるはずです。ただ私にとって情報ツールは、(必要に迫られて使う領域以外は)基本的に「がらくた箱」であり、いまいち「賢くなる」ために有効活用するということはできていないなと思いました。

その辺りの歯車の噛み合わなさはずっと漠然と感じてはいたのですが、今回この文を書いていく中で「あれ、こことここがズレてるっていうことなんじゃないか」と気づくに至りました。願望と欲望のズレという感じもします。

自分の中の混乱がちょっと整理されたような気分なので、情報ツールの使い方をもう一度考え直してみたいと思いました。

 

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