こちらを拝聴しました。

 RPG的ライフ・アウトラインを取り上げていただきました。ありがとうございます!

 

 この回では、「ノウハウの真似は自分なりに表現を言い換えることから始めるのがきっと良いが、自分なりに言い換えるのはなぜだかなかなか難しい」ということが語られていました。

 倉下さんがご指摘になっているように、内面化された規範性が邪魔しているようには思います。「与えられたものはそのまま受け取りなさい」という従順さが魂レベルで植え付けられている感は拭えません。そしてこの恭順の強制がいくつかの傾向を生み出しているように思います。思いつく範囲で書いてみます。

  • 人が作ったものを勝手に弄るのは無礼なんじゃないか(過度の尊重)

  • メソッドはそのままなぞればいいように作れよ(責任の転嫁)

  • 変えちゃったら効果がなくなっちゃうのでは(有効性虧損の懸念)

 自分なりに変えてもいいんだよと繰り返し説かれても動けないのは、三つ目の要素が結構大きいのではないか、と私は想像しています。

 そもそも「従え」というのが通用するのは「従うことが正解だから」という建前があるからですよね。与えられるものは正解であることが保証されている、という構図に慣れすぎているように思います。もちろんそんなものは幻想なのですが、既に正解であるはずのものに自分が手を加える余地などないという体験が続くと、それがそもそもどういうもので成り立っているものなのかを考えること自体がなくなってしまう気がしています。

 私個人の経験からしても、私は元々自由奔放的性質が無いタイプだったので、積極的に「これが正解なんだ!」と信じる心があったわけではなくとも、敢えて疑ってかかるとか「これはそもそも何なのか」と問うとかいう習慣は身につきませんでした。まあ、自分に活力がなくてそういうのは面倒くさかったんですね。

 

 メソッドに対して「自分なり」を考えることができないのは、まず「自分自身がわからないから」、そして「そのメソッドの成分がわかっていないから」ではないかと思います。(今回は後者に焦点を当てています。)

 例えば料理をする時、何をどうすればどうなるのかがわかっていれば、冷蔵庫の中にあるもので適当に作るということが普通にできるでしょう。でもそれがわからなければレシピをどういじっていいのか皆目見当がつかないということになってしまいます。

 しかも、自分が余計なことをしなければ完璧であったものを勝手に自己判断で動いたせいで台無しになる、というようなことを恐れていれば試すこともできません。「台無し」のイメージの程度が問題で、実際にはせいぜい「ちょっといまいちになる」程度のマイナスしかないようなことにも、まるですっかりゼロになるかのように恐怖しているようなことがあり得ます。

 社会と自己の境界が曖昧だと「勝手なことをしない」を自分の個人的な領域にまで侵食させてしまいますが、自分しか見ないもの、誰にも迷惑などかからないものは自分の領域として線を引いて守る必要があるでしょう。

 

 また、情報に関するメソッドとなると、どういう単語を使うかということ自体が重要な情報であり、それがそのメソッドの根幹のように感じられるようにも思います。

 例えばスポーツのトレーニング方法に何かの名前がついていたとしても、重要なのはトレーニングの方法そのものなので、それをなんと呼ぶかは(生み出した人に敬意を表するということを抜きにすれば)どうでもいいことだと思います。しかし情報を扱うものではそうはいきません。

 うちあわせCast内でTak.さんが自省的に語っておられましたが、ある語彙を使うことには根拠があり、多くのメソッドはその根拠を説明している気がします。根拠として示されている条件をクリアする語彙は他にもあるかもしれませんが、提唱者が色々思いつくとは限らないので、とりあえず採用された語彙が「必然的にそうなった」かのように表現されることになるでしょう。そうなると、その情報をその尺度で認識して取り扱うためにはその語彙を使わなければならない、という感覚が生まれても不思議ではありません。

 ただ、ひとつ重要なのは、語彙に対して持ちうるイメージはそもそも人それぞれ違っているということです。その提唱者にとってはその語彙がそのイメージをバシッと示しているのだとしても、他の人にとってはそうではないわけです。RPG的ライフ・アウトラインで私は以下のように表現しました。

ところでいずれの言葉も、それに伴うイメージのうち余計な部分はしれっと無視して、またその言葉では補いきれないイメージもしれっと補完して考えている。(中略)この無視と補完は、人それぞれの歴史が反映されるものだと思うので、ただ人の語彙を真似してもうまくいかないのだ。

 あるメソッドで使われている語彙が「その人のワールド」のものに過ぎないことを踏まえれば、それをなぞらなくてもいいこと、自分の世界の言葉に翻訳した方が馴染むであろうことがなんとなくイメージできるのではと思います。表現を変えてもそのメソッドの有効性がただちに崩壊することはないということです。

 

 とはいえ――とまだ語りたいことがあるので、名づけ問題についてはもう少し記事を書くと思います。

 

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