ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第二回。

 今回は記事の内容と構成についての迷走と展望について書いていこうと思う。

 

 ブログを書こうと思ったとき、書きたいことや書けそうなことがあるからそう思うのだが、実際に書こうとするとどうしたら良いかが何故かわからなくなってしまう。どういう切り口で、どういう語り口で、誰に何を伝えようとすれば良いのか。そもそも自分は何がしたくて書くのか。自分の中にエネルギーが渦巻いていることはわかるのに、いざそれを放出させようと思うと途方に暮れてしまう。

 エネルギーは形を作らなくてはならない。かめはめ波でも気円斬でも気功砲でも魔貫光殺砲でもビッグバンアタックでも、エネルギーを自分が放出できる形に整えるから放つことができるのである。そしてその形は人それぞれ違っている。観察力があれば他人の形のコピーもできてしまうかもしれないが、それが自分にとって最強の技になることはあまりないだろう。

 とはいえ、そうと解っていても自分の形を見出すのは容易ではない。読者がいて初めて成り立つことを考えると、有効な形とはなんであるかを考慮に入れなければならなくなってくる。世の中では何がウケているのか、誰が何を欲しているのか、自分が読んで面白いのはどういうものか。分析すればするほど、正解は放射状に無数に広がり、その全てを満たしたくて迷走する。

 書く目的がPV稼ぎならば話は別だが、もし自分のエネルギーを放出させたくて書くのならば、自分仕様というものを先に考えなくては道は定まらないであろう。

 

 私自身長いこと迷走している。「きっとこう考えて生きたほうが良いのだろう」みたいなことを言いたいという気持ちがまずあって、ならばそれをどう書くのか。そのまま言ってもそれを聞き入れようと思ってもらえるとは思えない。何かしらのプロにならなくてはならないような感じがする。そのまま言うなら、毎日同じ熱量でそのまま言い続けるとか。そのままでないのなら、フィクションにしろノンフィクションにしろきっちりストーリーを作って読み手の心に染み込むようにするとか。もっと一般化して心理学に基づいたアカデミックな説得力を核にするとか。どれかでやっていけるだろうかと思ってちょっと書いてみては、なんか違うなと感じてブログ自体をやめてしまう。その繰り返しだ。やがて「ちょっと違うよな」と事前にわかるようになり、投稿に至ること自体がなくなっていく。

 一歩引いてみて、その生き方を実現する手段として何かのツールやメソッドと出会ったとする。じゃあ生き方そのものをストレートに表現しようとするのをやめてツールの話をしようと思う。しかしそうなると、どこに力点を置くのかが曖昧になってくる。ツールの良さはツールの良さであって、自分の考える生き方を実現する手段として推したいかというと、なんとなく微妙な気持ちになる。論理が複雑になってきてしまうのだ。Aという理由があってBという生き方を推したいという信条が前提にあって、更にそれを支えるCというツールの話をしようとすると、Aから話をスタートするとCまで遠すぎ、かといってBのためにCを使うのだという話だけでまとめてしまうとBという生き方を当然の正解と捉えているかのような印象になりかねない。これは個人的に不本意なのである。そもそもこれでは誰に言いたいのかもわからない。

 いっそ自分の信条は封じて自分を支えているノウハウだけを書いてみようかと思ったりもする。何本かは確かに書ける。しかしそれ以上は続けられない。理由は単純で、ノウハウ探しやツールの機能分析に熱意があるわけではないからだ。あくまで自分の人生と密接に結びついている範囲でしか表現できず、そうなるとノウハウの数としてはたかが知れている。ノウハウ紹介のプロになるには、自分がそれによってどういう恩恵を受けるかとは関係なく、どういう人間にどういう効用が生まれるかを想像することに豊かさを感じられるようでなくてはならないだろう。

 迷走で通過したどのやり方にしても、まだ実践してはいないが認識はしている他のやり方にしても、「全く書けない」とは言えないために判断が鈍ってしまったところがある。無理をすればやれそうな気がしてしまう。どういう組み立てでできているのかわからないではない。実際何本かならそれっぽいものが書けなくもない。覚悟を決めさえすれば、その中のどれかを選べそうな希望がある。

 ピンと来ないまま苦しみ迷っている時点でその希望はまやかしなのだが、何を軸にしたいのかが自分でわかっていないから他に希望を見出すことができずにいたのである。

 

 前回、私には世に訴えたいことがない、自分に対する研究発表をしたいだけなのだ、ということを書いた。そのことは以前から薄々自覚していたことではあるのだが、自分のそのスタンスを肯定してしまったとすればいよいよ何をどう書けば良いのかわからなくなってしまい、その気持ちは脇に置いたままにしていた。読み手に読んでもらうものなのに世に訴えたいことがないとはどうしたことか。有名人でも何でもない一般市民がただ自分語りをして何になるのだろうか。普通に考えて、何の価値も生み出せそうにない心境である。

 その考え方が少し変わる転機になったのが、このブログを初めてすぐに数本連載した「アウトライナーの使い方ド下手問題」だ。ただただ自分が如何にアウトライナーの使い方が下手かを言語化して分析を試みたものだが、意外にも面白がってもらえた。早い話が、自己紹介と今後の予定を語っただけにもかかわらずである。

 自己の言語化は私にとっては半ば強迫的にやってしまうことで、誰かの役に立つだろうからと思って試みているというよりは、放っておいても無限にやってしまうからそれを人が読める形に書こうと思えば書ける、というものだ。変態的に自己の言語化を重ねていくと、そのうち誰かの痒いところに手が届くのかもしれない。その瞬間にきっと読み手を主人公にすることができる。

 やるなら自己イメージなど抛ってちょっと狂気を感じるくらいにやらなければ、他人の痒いところにまで手は届かないだろう。気鋭の書き手たちにはどこかそういうところがある。内容に共感が多ければ狂気は目立たないが、その文章を生み出すために必要な心構えを想像すると常人離れした感覚を察してしまう。前々からそういう感覚に憧れてもいたのだが、自分の中にそんなものはないと思っていた。事物への関心は薄く霧のように広がっており、どこか一点に集中することはできない。ただひとつ見続けていられるのが、自分自身の内面だった。

 私自身が軽視していたように、自分自身の内面、自分の中だけで起きている現象について見つめて言語化するということは、ごく個人的なもので社会的に価値を生むものとは思いにくい。世界にとって自分という存在は全くちっぽけなのに、更にその自分の中でちらっと揺れ動いただけのことは、まるで取るに足らない些細なもののように思える。せいぜい自分の認知の偏りを正すための指標にするくらいで、それを外に表現して誰かの役に立つことがあるだろうか。実際そう思いながら記事を書いて、しかしそれは自分が思うほど些細なことではなかった。自分の中の現象は数多の人間の中の現象であり、全ての人間の中に起こることではないにしろ、誰かが言葉とともに自覚したかった現象なのである。

 ここで私の中に生まれたのが、「小乗仏教」のイメージだ。といっても私は仏教に詳しいわけではないし教義について語りたいのではなく、また「小乗仏教」というのは軽侮の表現であり「上座部仏教」と呼ぶべきである。それでも敢えて「小乗」のイメージを取り出したかったのでそう書いたのだが、「他の人を悟りに連れて行こう」ではなく「自分が悟りに至ろう」を体現するようなことを文章に於いても目指して良いのではないか、ということである。もちろん既にそのようなスタンスで書いている人というのはたくさんいるのだが、そうするにはもっと自分に特別な何かが必要な気がしていた。しかしながら、実のところ必要なのは「特別な何か」ではなく、ただ自分を見続ける癖なのではないかと思うようになった。

 

 自己を語ることを人にとって意味のあるものにするには、言語化の解像度を上げて誰かの痒いところに手を届かせるのがまず必要なことであろう。ただそれだけではあまり価値があるとは言えない。その言語化がどういう文脈に於いて行われているのか、すなわち文章の構成というものが重要になってくると感じる。いや、いかなる文章でも構成の如何がその価値を左右すると思うのだが、自分語りも当然例外ではないということである。

 自己の中の現象を書き表わそうとしたとき、その現象の瞬間、つまり「気づき」にフォーカスしたくなる。私の中でこれが起きたのだ、ということに力を入れて書きたくなってしまう。確かにそれを含むように書くのではあるが、その気づきというのは他人にとっては必ずしも意味のあるものにはならない。少なくとも本人ほどはそこに感動はしない。本人にとっても、本当はそれが単発で意味をなしているのではなく、そこに至る経緯がそこに意味を作り出しているからである。

 それは自分の意志表明や、自分が考えや行動を何か変えたという内容でも同じであろう。自分にとっては何かを決めたり変えたりといったことが非常に重要なのだが、他人にとってはそれそのものには意味がない。必ず経緯とセットでなければ読み手が自分の人生に於いて応用することができないのだ。

 そもそも、気づきや決定や変化は瞬間的なものである。その重要性を強調するために言葉を重ねることはできるかもしれないが、そうやって言葉を尽くすことは必ずしも状況の解像度を上げることには繋がらない。説得力を上げるための言葉は何かの事実を詳らかにするわけではない。自分語りに対して読み手が期待するのは、書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、案外「膝を抱えてぐだぐだといじけている」ようなことなのではないかと思う。気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。

 つまり自分が何についてどんなふうに困っているのか、ということからスタートする必要がある。困ったままでいられても読み手も困ってしまうから、少しでも良いから何かターニングポイントとなる要素に着地するのが望ましい。

 よって簡単にまとめるならば、

  1. 自分にはできないこと・困っていることがある

  2. その理由はこれだ

  3. こうしていけばいいかもと思った、こういうことをし始めた

 という組み立てだ。こうしてみると読み手としては当たり前の構成で稚拙さすら感じるが、しかし書き手としてはそうでもない。何を閃いても、そもそも自分は何に困っているのかに立ち戻ることを意識する。そうすることで、自分語りを軸としながらも読み手にとって意味のあることを安定的に書けるのではないかと思っている。

 これは別に魔法の杖でも銀の弾丸でもないが、自分が表現の波に乗り、すいすいと書いていくためのひとつのガイドになるに違いない、という期待を抱いている。

 

 次回は文体とテンションについて考えようと思っている。

 

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