Blueskyでぶつぶつ呟いていたことの整理。
こちらのポストから考えたいろいろのこと。
食への楽しみの意識がすごく低いのか、新幹線でも駅弁ではなくコンビニのおにぎりですし、出張で東京とかにいっても牛丼チェーンで済ませる、みたいな生活様式なのですが、「そんなことにお金を使うなら、本を買う」みたいな選択的吝嗇なのかもしれません
元のポストの文意としては、限りある資金を自分の関心に真っ直ぐに従って配分した結果の「こっちでは存分に、こっちでは約やかに」という状況を「選択的吝嗇」と表現したということかと思いますが、様々な切り口が浮かびあれこれ放射状に考えたので、せっかくなのでまとめ直しておく。
食の楽しみの種類
まず多分全く本題ではない話。
倉下さんのお料理のポストをしばしば拝見していることから「食への楽しみの意識が低い」ということが直ちに結びつかなかったのだけれども、逆に一般的に食べることが好きなら料理が好きかというと別にそんなこともない。
つまり「何かを食べる楽しみ」と「料理を作る楽しみ」というのは、関連性はあるけれども決してイコールではなく、「食」というゆるいカテゴリでやっと一緒に括られるくらいの距離感にあるように思える。たまたまどちらも好きな人もいるし、たまたまどちらも興味がない人もいる。
「料理をする」と「買って食べる」の対比から、人それぞれ「創造する豊かさ」と「獲得する豊かさ」に配分があること、そして個々人がそれぞれに割り振っているジャンルの種類から生まれる個性があることを想像した。
考えてみるに、「なぜ食べたいのか」と「なぜ料理を作るのか」にもそれぞれ色々な要素が見えてくる。「ある種の味が好きだから」「未知の味を体験したいから」「土地柄を感じたいから」「格式に浸りたいから」etc.「ものづくりの一種として好きだから」「ある種の芸術行為として好きだから」「食べさせる相手がいるから」「自分好みの味を作り出せるから」etc.
一口に食べると言っても、「食べ物を口に入れたその時」のことを指すのか、「食べるという行為をする空間と過程」も含めるのか。料理をするのも「出来上がった料理」が重要なのか、「出来上がるまでの過程」が大事なのか。もちろんそれらの全てを欲していることは多いだろうし、一方で一部だけに関心がある場合もある。
或る営為に対する目的と豊かさ
つまるところ「過程」と「結果」のいずれを目的とするのか、あるいは「過程」のどの要素、「結果」のどの要素を目的とするのか、ということに途轍もなく多様性がある。
食、そして料理はその多様性がわかりやすく見える営みであろう。
行為としては同じ事をしていても、その営みのどこに豊かさを見出すかというのは個々人で極めて大きく異なっている。自分が何らかの要素を目的としている時、それがなければその営み全体が自分にとって意味をなさないということがままある。でも他の人は、自分が目的の候補として思いつきもしないことを、同じ営みの中で目的とみなしているということもある。豊かさとはあまりに多種多様。
例えばゲームなんかもそうだ。少し前にうちあわせCastでもちらっと触れられていたが、攻略情報を見てそれをただなぞっているのは果たしてゲームを遊んでいることになるのか?
遊んでいることになるとは、つまり本人なりの豊かさを感じているかどうかと言えるだろう。攻略情報をなぞることは試行錯誤の楽しみを得ようとしないということで、確かにゲームの楽しさの一部を自ら手放しているかもしれない。そしてその他に何もゲームから豊かさを得ていないとすれば、すなわち遊んでいることになっていないように思える。流行っているゲームについて把握するためにやって、それで終わりの場合もあるだろう。
ここで個人的な話をすると、ゲームの「攻略」にはあまり興味がない。苦戦なんかしたくないし、無駄足を踏みたくもない。日常生活が困難に溢れているのだからゲームくらいはサクサク前に進みたい。ではなぜゲームをやっているのかと言えば、ひとつにはゲームを芸術作品として楽しんでいるということがある。グラフィックや音楽、ストーリーに感動・感心するのが楽しい。もうひとつは、「何かをすれば、何かの結果が出る」というごく単純な体験を得たいというのがある。プチプチを潰したい、シールを貼りたい、ボタンを押したい、スイッチをカチカチやりたい、というようなことと同じ種類の快である。大して頭は使わないかもしれないが気分はいい。
食と料理で言うならば、「食べること自体は特に興味はないけれどレストランの雰囲気・サービスや誰かと共有する空間は好き」とか「料理自体は大して興味はないけれど包丁でトントン野菜を切る瞬間が好き」とかいうことになるだろうか。
選択的吝嗇の危険なパターンと充実
選択的吝嗇についても少し考えた。
私も「××にお金を使うなら○○に使いたい」ということで××に投資をしないという選択をしばしばする。で、これが非常に困ったことを引き起こす場合がある。
倉下さんのお話については健全に「自分は本を好きであり、そちらにお金を使うのが豊かさをもたらすので、そうする」という選択をしてのことだろうし、それは普通に主体的で好ましいことのはずである。そう言えるものがあるべきとすら思う。
一方で、自分が何らかの規範性に乗っ取られている場合にこの選択的吝嗇が発生すると本当にまずいことになる(なった)。まず優先順位がおかしいことになる。自分固有の豊かさを考える視点はどこかに行き(だって社会の役に立たないしステータスにも関わらないしお金にもならないし)、これがあった方がいいんだろう的なものばかりが上位にくる。そして優先順位の下の方の扱いが異様にぞんざいになる。そんなものはどうでもよく、無価値であり、努めて無視すべきである、みたいなことになる。自分の無意識がたまにそれに抗って自分らしい豊かさを求めて何かしたとき、それは無価値なのであって、余計なお金を使ってしまった、なんということだ、ということになる。
もしも規範性の支配を受けている自覚があるならば、「××にお金を使うんだったら……」という判断をしようとした時にそれが妥当なのかどうかを考えなくては危ないと経験上感じる。
逆に、自分のことがわからないがゆえに選択的吝嗇がどこにも発生しない、という問題も想像した。
いろいろなことにお金を使っているが結局この人は何が好きなんだろう、と感じる人というのがいる。全てにこだわりがあるというタイプでもなさそうで、自分の美学を語ることはない。実際、そういう曖昧な「豊かっぽい」だけの生活に虚しさを感じて、全く違う生活に転じる人が時々いる。
何かにお金をかけないという選択は、それに意識を向けている人間であるという見られ方を諦めることでもある。主体的な選択が当たり前の人にとっては全くどうということもないのが、そうでない人間にとってはそこに弱点を作るようで怖いことに感じられる可能性がある。
規範性に乗っ取られている状態も同じことで、実際問題使えるお金や時間に限りがあるという時に、捨ててしまっても「見られ方」に影響しなさそうなものから捨てていくことになる。つまり自分の個人的な豊かさのためのものである。しかも「影響しなさそう」と自分が思っているだけで実際にはその判断すら大抵合っていないのだが、とにかく捨てても大丈夫そうなものから捨ててしまうことになる。
自分はこれにお金をかけたいから、こっちは別にいいや、という選択が特に苦もなくできることは極めて重要なことだと思う。健康な「選択的吝嗇」があることが人生の充実を意味していると言っても過言ではない気がする。
そのようなことを(勝手に)考えた。
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