『わたしの知的生産の技術』という本を読み始めた。1978年出版(講談社)の昔の本である。

 梅棹忠夫の『知的生産の技術』(1969年)を受けて発足した「知的生産の技術」研究会にて行われた講演、または書き下ろしの文章をまとめた本で、載っているのは紀田順一郎、加藤秀俊、小中陽太郎、羽仁五郎、青地晨、飯塚昭男、外山滋比古、渡部昇一、竹内均、小室直樹、西堀栄三郎、岡村昭彦、蘆原英了、松本道弘、岩崎隆治のもの。本当に恥ずかしながら全員を存じ上げてはいなかったけれども、多分ものすごいメンバーだろう。なお掲載されている文章の長さ・濃さはそれぞれ大きく違っている。
 梅棹忠夫はこの研究会の顧問ということになっていて序文を寄せている。

 この時代の知識人の文章が魅力的であるのは、重要そうなところと面白いところに線を引こうとしたらほとんど全部線を引くことになってしまうようなところにある。
 そういう文章は知的刺激に溢れていて、読書嫌い気味な性質(たち)でも端から端まで読むことに苦痛がない。読書が苦手な人は変にやさしい文章の本より昭和の大物(のうち語り口が平易な人々)の著作を読んだらいいと思う。

 さて、知的刺激に溢れている文章は当然極めて知的で博識な人が書いているが、知的で博識でなければ読めないような文章ではなく、それがゆえにむしろ知的刺激に溢れている。
 読者に何かを要求するような文章は、そうすることで篩い落としてターゲットを絞る必要があるのでない限り、単に衒学的で不親切であるように思う。
 この本に名を連ねている人々は衒学的でなく不親切でもない語りをしているが、しかし「不親切でない」というのは「噛み砕いてやわらかくしてあげる」という「親切さ」とは違う。書き手と読み手との間にそういう上下があるのではなく、ふつうのコミュニケーションとして、互いに苦労がないように話すということだ。

 専門用語、業界用語めいた言葉選びをした場合というのは、文脈を限定して意味を厳密にして語ることになるだろう。それゆえに、不必要にそのような語りをすると限定されたその文脈に乗れない、乗る気がない身から見た場合に嫌な感じがしてしまう。
 逆にそのような厳密な言葉選びをしないなら、語りに対する解釈の幅が広がって読み手の中に生まれる意味が曖昧になる。そうなると困る場合というのはあって、例えば論文で平易な語りをしていたらそれが含みうる意味が多様になってしまい、論文として価値がないということもあるだろう。
 よって、自分の語りが読み手との間にどのような対話を生んでほしいのかが重要である。知的生産について語っている人々の語りには、より広い読み手との間により多様な対話を生み出したいという意思を感じる。高度に知的であるはずなのに、誰でも読める文章なのである。その語りに対してどのような対話を生み出せるかは読み手の知性にかかっているだろうが、語り手の側が読み手を選別することはない。
 汎用性が高い言葉で語ればその言葉から連想しうるものはより多くなり、化学反応も生まれやすいと想像できる。一般的な語彙で語ることの効能は読み手にとって理解が容易というだけに留まらないだろう。
 自分が知っている専門用語を、その使用が必須というのでもないタイミングで、しかも補足もなく平気で使っている文章をしばしば見るが、例えばこの『わたしの知的生産の技術』を読めば当時の知識人が如何に語彙の専門性に頼らずに豊かな話をしているかに驚かされるだろうと思う。

 最初の方で「重要そうなところと面白いところに線を引こうとしたらほとんど全部線を引くことになってしまう」と書いた。多分そのように文章を書ける人からするとそれは当たり前の手つきなのだが、当然ながらそうではない文章の方が世の中では多い。
 何か言いたいことがあって文章を書くわけだが、自分が言いたいことの説得力を上げるための助走が長くてしかも面白くないようなのがよくある。例えばアメリカの実用書には具体的な誰それがどうこうという例示がやたらとあるが、そういう箇所に線を引きたくなることはあまりない。
 そういう文がいつも余計というのではないし理解のために必要なステップをなしていることはあるが、それが後ろに続く何かの補強に終始してその文単体で魅力を持たないならば、読み手としては書き手の言いたいことに到達するまでの忍耐を強いられるように感じられる。斜め読みで済むならそれに越したことはないということになり、隅々まで読み込んで楽しもうという気は起こらない。

 昔の知識人のエッセイ的な語りが魅力的だったのは、ズバッと忌憚なくものを言っているからではないと思う。そのような物言いも含む、より上位の要素というのがある。
 それがつまり、「全ての文が独立して意味を持つ」ということだろう。全ての文がそれぞれ意味をなしているので、全体の文脈から外れて思い切ったことを言うこともあろうし、その言い方によっては何かをズバッと容赦なく斬るみたいなこともあるわけである。
 もしも全ての文が或る結論に向けた文脈に縛られた部品に過ぎないのならば、そこからの脱線は許されないし、「余計な一言」は入る余地がない。
 で、このことを誤解して「ズバッと言ってしまえる」ことに魅力を見出してしまうと、ズバッと言いたいという文脈のための文が組み上げられて、全体としてただズバズバ言うだけの文章になる。文章における切れ味とか格好良さというのはそういうことではないと思う。

 こう考えると、実用書を書く時、手法をどうにかわかりやすく少しでも読み手のためになるように伝えるために書こう、という殊勝な思いが強すぎると「面白さ」はいまひとつになってもおかしくない。
 全ての文を独立したもの、個々で面白く意味を成すものにするのは簡単なことではない。言わずもがなだが、まず面白い文を書ける必要がある。面白くない文を書かないことも必要である。十に一つくらい面白い、みたいな打率ではちょっと薄い。なおここでの「面白さ」というのはワハッと笑えるという意味ではない。
 そして特定の文脈で固めないことには勇気が要る。文脈から外れた文というのはつまるところ「目的」のためには無くてもいい文であって、それでも書くのは、文の面白さが読み手を豊かにすることを信じられるからだろう。自分の文を信じ、それを受け取る読み手を信じる必要がある。

 半世紀前の本だが、今読んでも得られるものはたいへんに多い。百年後に読まれてもきっと多くのものをもたらすのだと思う。

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