Twitterのオタクたちは「嫌いなものを語るな、好きなものを語れ」ということを耳にタコができるほど聞いている。嫌いなものを語ることは本人を含めて誰にとってもほとんどメリットがなく、およそ「賢明」ではない。

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それでも嫌いなものを語りたいという欲求はなくしがたいもので、「好みの問題」に過ぎないとわかっているものについてはなんとか我慢しても、批判を浴びて当然の出来事が発生したりすると待ってましたとばかり恨み言をぶつけたりする。その気持ちは私も持っている。チクリと皮肉を言ってやりたいみたいなことはある。

 

逆に嫌いなものを語らないことで受ける不利益は何か。実際に不利益はない気がするけれど、主観的には言わないでいることの方が損に感じられるところがあるから言ってしまうわけである。

誰も自分が嫌いなものに対してネガティブ評価をしないとすると、目に映るのはポジティブ評価だけになる。そうするとみんなそれを良いと思っているかのようで、世界がそれに染まるような感じがしてくる。それを否定するのは許されないかのような雰囲気が漂っているように思えてくる。

それはまあ、当たり前に苦痛だろう。自分が嫌いなものが肯定されているのを見ることは、間接的にそれを嫌っている自分の感性が否定されているような気持ちになるものである。その解釈は妥当ではないとしても、妥当であろうがなかろうが心に発生するものは発生するのだ。

そういう気分は不愉快を通り越して焦燥や恐怖をもたらす。「みんな」が自分の嫌いなものを肯定し始めるとかなり辛い。

 

しかし実際にはそれは「みんな」などではない。如何なるものについても「沈黙している人」が相当数いる。むしろ世の人間のほとんどは「沈黙している人」である。で、心配しなくても、そこに「それを嫌いな人」は必ず多数いる。

もちろん、同じものを嫌いな友人などが実際にいた方が心は安定するだろう。しかし逆に「嫌いな方が当たり前」という感覚に陥るとそれもそれでよろしくない。攻撃性を増すようではよくないので、嫌い談義であまり盛り上がらないことである。

沈黙の中に同士はいる。そう信じることで平静を保つのが、自分を貶めずに済む現実的な選択肢だろう。