最近「記録のつけ方」全般についていろいろ考え直している。

 今までというのは、記録をつけようとして記録をつけていた。それはそうだろう、と思われるかもしれないがちょっと待ってほしい。

 記録をつけようとして記録をつけるというのはつまり、記録をつけられたらそれで万事オーケーかのような態度ということを指している。これで情報の散逸は免れ、後から確認しようと思えばできる、よかったよかった、という状態だ。

 で、どうも「記録をつけようとしてつける私」の感性は、「記録を見たい私」の感性とは随分ずれているらしい。

 何が言いたいかというと、要は記録されたものが総じて面白くないのだ。

 

 これは別に「漫然と記録をつけていても駄目なんですよ、ちゃんと考えて設計しなきゃいけませんよ」みたいなことを言いたいのではないし、ただの個人的な日記なので真剣に読んでほしい話ではない。

 あと、これは正確な記録をつけることがそもそも目的であるもの(業務記録や研究記録など)の話ではなく、いわゆるライフログを含む「後から読み返した時に自分が助かりたい個人的な記録」について書いている。

 

 記録をつける時は、記録をつけやすいか、検索で取り出しやすいか、必要な項目があるか、みたいなことを考える。それはまあ大事ではある。しかしながら、それらの条件を満たした、記録として完璧っぽいものを溜めていったとしても、その後それが特に喜びをもたらさないことが割とよくある。

 そうなる理由はいろいろある。ビューが気に入らないとか、無機質過ぎるとか、ごちゃごちゃしているとか、アプリケーションが重いとか、「だから何」感があるとか。記録としての完成度と、自分にとっての感触の良さというのは一致していないので、記録をつけてもそれを利用する気が起きなくて持ち腐れになってしまう場合がある。

 だからといって、記録をつける時に「感覚」でやってしまうと後から困ったりもする。「記録をつけようとしてつける私」の立場のままどう考えても「記録を見たい私」の意には沿わないのだ。いずれにしろ合ってないなら適当にやるよりかは頭でっかちなほうがマシだ。これを忘れて「使えない記録」を生み出してしまったようなことは実際ある。

 

 記録をあまり見たくならないので、記録に対して意識を向けるのは「記録をつける時」ばかりになりがちだ。それゆえに「記録をつける私」のああしたらいいんじゃないかこうしたらいいんじゃないかが常に先走っていて、肝心の「記録を見たい私」は閉口している。

 記録を見る時にはどうにか探したい情報を探し出し、やれやれどうにか取り出せたと溜め息を吐いて、そしてその記録についてはおしまいになる。前後に目をやってへーとかふーんとか多少は思うが、折を見て読み返したいみたいな気持ちにはそうそうならない。

 

 なんだかすごくおかしいのだが、「駄目じゃない?」とはっきり思ったのは、自分が年老いた後にどういう記録がどういう形で残ってほしいかを考えてみた時だ。今の時点で納得いっていないような(しかも多くがデジタルの)記録がこの先どんな意味を持てるか考えると、いやシンプルにゴミだなと思った。愛着を持って嬉しさを感じながら(あるいはかつての苦悩をまざまざと思い出しながら)読み返せるようなものでないと、個人の記録としては存在意義が薄い。

 もちろん、今つけている記録がそもそも年寄りになった時にまで必要かというと、全部が全部そうではない。要らないもののほうが多いだろう。しかしこの調子だと将来にわたって残したい記録が納得できる形で残せるとは思えない。

 年寄り視点で考えると、今デジタルが合理的と信じているものも、紙で残したほうが価値があるんじゃないかと思えてくる。で、それは今の時点でも本当はそうだったりする。便利なデジタルツールがあるんだからデジタルがいいに決まっていると思ったりする一方で、例えば大学ノートに膨大な記録を残しているような様子を見るとそちらのほうに強く憧れを感じる。今更大学ノートじゃ捗らないのかと言えば、別にそうでもないような気がする。機械的な「処理」をしないなら人間にとってはどっちも大して変わらないかもしれない。

 

 便利かどうかで考えるのは、便利でなくてはならないものに限ったほうがいいのかもしれない。便利なほうが良さそうな気がしても実際大して便利でなくてもいいようなものは、むしろ便利でないほうに正解があることもある。

 さすがに年寄り視点で全てを考えるのは現実的ではないが、せめて五年後くらいの自分の視点で考えてみる。そうするととりあえず五年後に続いていないかもしれないツールや、到底五年も継続できそうにないやり方というのはやめたほうがいいとわかる。そして今やっている形で蓄積していった五年分の記録がどうありがたいかを想像する。あんまりありがたくなさそうならやり方を変えたほうがいいかもしれない。

 

 そんな感じで、五年後の自分がグチグチ文句を言うことにならないようにもうちょっとハッピーな感じでやっていきたいと考えている。

 そのわかりやすい例として、デジタルでつけていた一部の記録を紙に(具体的にはB5のルーズリーフなどに)つけることにする、というのもあるが、別に「アナログの方が良い」という話をしているわけではない。便利っぽさに引きずられているだけのようなものを再考して大胆に(しかし慎重に)改めたいということである。

 

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