ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第四回。
今回はブログ記事として書くネタをどう管理すべきかという話で、ちょっと長くなってしまうがお付き合いいただければ幸いである。
まずネタとは何だろうか、ということから少し考えてみる。
ブログに限らずあらゆる創造的行為にその元となるネタというものがあり、どの形態でもネタの発生速度に創造のペースは到底追いつかない。しかしながら絶え間なく湧き出るというほどコンスタントで無尽蔵というのでもなく、ネタが生まれたらすかさず溜めておかないと創造は停滞してしまう。この溜め方がなかなかに難しい。
ネタにも創造の発端になるものや創造の妥当性を支える根拠になるもの、創造の方向性を決める思想となるものなど様々ある。というか、そのいずれなのか定まらないものを私は「ネタ」や「発想」と呼んで曖昧に扱っている。もし何かを物理的あるいはシステム的に構築することだけが創造ならば、構築するものそのもの、それを説明するもの、それを進める先として胸に刻むもの、というふうに整理されるかもしれないが、「執筆」のように物理的な構築無しに思考を人に伝えることを創造の本体とするとなると、全ての段階、全ての種類の発想が創造の種となり得てしまう。ネタの位置づけと扱いは複雑で流動的になり、書くにあたって実際にどう使うかが決まる瞬間まで整理がつかない。ネタをどう育てていけるかがわからないのである。ある程度整理できたとしてもそこからどこまでどう膨らむかわからないのに、整理すらできないとなるとひとつひとつがまるで宇宙か何かのように途方も無い存在になってしまう。
したがって、テーマを明確に限定せずある程度以上の幅をもって雑多に書くとするならば、たとえ語る対象の種類を図書分類のように仕分けることは可能でも、実際に書く行為に於いて有効な形でネタを分類することはどうも難しいように思う。分類はしないことを前提にネタの管理を考える必要がありそうである。
ネタとは増え続けるものである。核となるものが新たに発生するし、既に存在しているものからいくつにも分岐する。何かを見て何かを思ったということがもうネタとなり得るわけで、そうなると生きている間じゅう、ネタにしようという意識が働きさえすればそこにネタが生まれることになる。
ネタには生死がある。分岐した先同士に矛盾が生じて丸ごと扱うことができなくなることもあるし、環境や心境に依存した発想はその前提の変化によって意味をなさなくなる。しかし、矛盾があること自体、あるいは環境や心境に依存していること自体をネタとして全体を書くことは可能であり、そうなるとネタは生き返る。産業ではあり得なくとも、表現ではそういうことが可能になる。
地球に存在する全ての物質全ての細胞を管理するにはどうしたらいいか、を考えるのと同じくらい果てしないことのように思えてくるが、幸いひとりの人間の中に生まれる発想の母数は何兆や何京というほどにはならないし、普通の人は何万から何十万くらいで収まりそうではある。何百程度では収まらないのは確かだが、パソコンやスマホなら普通のスペックのものが一台あるだけで済み、アナログのノートでも何十冊か、多くともせいぜい何百冊かあればまかなえる範囲であろう。
ただ、それくらいの規模にはなるということは踏まえる必要がある。目視で全てを把握することはできないし、関連しているはずのネタ同士を取り出して結びつけるのも容易でない。ネタとして発生したときにはそのネタがどういう意味をなし得るかわからないせいで、後で使う時のために的確に備えるのもほとんど不可能である。とりあえず全部を収録できること、そして目視に頼らず検索する術があることは必須と言える。
そしてそれぞれがいつでも育つ可能性がある。潜在意識下で育った結果が新たな発想かのようにポンと誕生することも多々あって、必ずしも一度記録した文言そのものが膨らむわけではないが、いつでも膨らませることができるようであった方が良いのは確かだ。ノートなら余白を設けたり、カードなら後から差し挟めるようなルールを作っておいたりという工夫が必要になるだろうし、デジタルだとTwitterのような編集不可能な形ではなくいつでも書き足せる形式でネタを扱った方が便利だろう。元の文言に隣接した場所に書き足さないとすれば、リンクできるように通し番号や固有のIDないしURLが欲しいところである。
更に、こういう形態を維持するためのコストは限りなくゼロであってほしい。ネタはパッと浮かぶもので、すぐに消えてしまうから直ちに捕まえなくてはならないし、一方で今必要なものでもないから、他のことを中断せずに済むようでなければならない。メモする以上の動作や認知資源の消費は避けたいし、避けないと継続は難しい。几帳面な人はその都度きちんと整備すること自体が自分の気分を良くし人生の質を上げてくれるかもしれないが、ずぼら寄りな人間は残念ながらそうならずひたすらコストとして嵩んでしまう。
さてここからがド下手問題としての本題だが、実際問題どうしたら良いのだろうか。
これはまあ大変に難題で、正直なところ自分にとっての正解もまだ見つけ出せたわけではないのだが、これなら大丈夫かも……?と思うやり方には一応至ったので書いてみることにする。
失敗の歳月は長く、思い出せるだけでも、大学ノートに書き、文庫サイズほどの手帳に書き、バイブルサイズのシステム手帳に書き、ルーズリーフに書き、情報カードに書き、スケッチブックに書き、Wordに打ち、プレーンテキストに打ち、フリーウェアのテキスト管理ツールを数々使ってはやめ、Evernoteを使ってはやめ、Dynalistを使ってはやめ、Obsidianを使ってはやめ、Scrapboxを使っても迷走してきた。○○ダイエットを試しては挫折するというのと同じようなものである。試したものはどれもそれぞれに良いところがあって、それぞれの手段そのものを「こんなのは駄目だ」と批判したい気持ちは露ほどもない。問題はただただ私の内面にある。
何でも良いからどれかを継続できたらそれで解決する気がするのだが、それがどうにも難しい。何かが気に入らなくなるのである。完璧なシステムを追求する価値のあるほど大層なアイデアを書けるわけでもないのに何をごちゃごちゃ悩むのかと思わなくもないが、凡人なりに自分の思いつきは自分にとって大事で、うまいこと蓄積してくれないと嫌なのだ。
書く瞬間がしっくり来ない、書いた結果がしっくり来ない、探す手段がしっくり来ない、嫌になる要素は色々あるが、それならばどうしたら自分が納得するのかがなかなかわからない。その時の気分で馴染むものに書いて分散してもいいじゃないか、と書く時には思ったりもするのだが、後になって探す段になるとやはり分散していては困る。とても困っている。
ブログを書く人間になるということさえも思い描いていなかった頃は、発想をその後どうするのかを決めようがなく、ただ「とりあえず書き留める」ということしかできなかった。こういうことをしていきたいというビジョンがあれば話は違っていただろうが、ある時期までの私は人に敷いてもらったレールを進む以外にどうしたらいいのか全く考えることができなかったので、そういう不確かな自己に輪郭を作りたいと無意識下で渦巻くエネルギーを言葉に変換するだけで精一杯だった。
しかしだんだんと「自分は何かを書いてもいいんじゃないか」と思うようになり、最近はいよいよ本格的に自分の内側をアウトプットしようという気になっているのだが、そうなってやっとネタの辿るべき道をイメージできるようになった。まずは思いついたものを全部メモする。それを「書く」ことを前提として集めて操作する。そして「書く」ために然るべき場所に切り出して書く作業をする。重要なのはあくまで「書く」ことを前提とすること、そして「書く」ための場所を作ることである。
現在、ゆるいブログみたいな位置づけでScrapboxの公開プロジェクトを更新しているが、そこでの思考の育ち方やリンクの繋がり方が割と良い感じで続いているので、公開しにくいものや今後ちゃんと書きたいものを水面下で捏ねていくための非公開プロジェクトを何ヶ月か前に作ってみた。本やweb記事の引用も適宜収録して、自分のツイートをまとめたりもする場所だ。
これがなんと、全くうまくいかなかった。想定外のうまくいかなさで何がまずいのか分析するのにかなりの時間を要したのだが、一言で言うと「書くため」「知るため」「考えるため」が混在していたのが原因だったようだ。そういうものを混在させられることがScrapboxの利点のような気はするが、恐らく私にとってそういう混在は自分の頭の中だけでたくさんで、外部脳までもカオスになってほしくはないのである。「書くこと」と「知ること」「考えること」は言うまでもなく密接に結びついているのだが、情報それぞれがゴールとするものが異なっているのが私には混乱の元になってしまうらしい。公開プロジェクトでも「知ったこと」のためのページは作らないようにしていて、それは曖昧で不完全な知識を人に見えるところに知識っぽく置いておきたくないという意識からだったのだが、図らずも自分の混乱要素の除去に寄与していたようだ。
ということで、今は書くための専用のプロジェクトを作ってやっている。少し前まではDynalistを書く場にしていたのだが、文章化の作業そのものについてはとても良い感触がある一方で、これから書こうかなと思っている発想の類がリスト状に並んでいるのが私にとっては全くプラスに働かないようなので、アウトライナーはやめてScrapboxに移った。Scrapboxはいくらでもテキスト情報を詰め込むことができ、検索ももちろんできる。ひとつのページのサイズに制限もなくいくらでも書き足すことができてページ間に容易にリンクが貼れる。
ただ、書く用プロジェクトでは無闇にページ数は増やさないようにしている。私は公開プロジェクトにて内容ごとに分けずに時系列で書き足していくツイート場のような場を作っているのだが、それと同様に、書く用プロジェクトでも整理せずに思いついた順に書いていくページを「Timeline」と題して設けている。ページに分けてしまうと編集のためにはそのページを開く必要があって気楽にはやりにくいと感じるため、まだ内容となるものが何行もないようなものはページにはしないでおいてある。加えて内容のサイズ感が一覧からはわからないため、本腰を入れているものとペラッとしたものとが並んでいるのは嫌だということもある。
また、ページとして分けないというのはタイトルをつけなくて良いということであり、Twitterが書きやすいのと同様の効果が得られる。パソコンを開いていれば書き込む場所に迷うこともない。スマホの場合はすぐ開いて書き込みやすい場所として一度Dynalistに書いておき、パソコンを開いた時に移している。
なおTimelineはInboxではなく、書かれたものは処理待ちのものではない。思いついたものを書き出したという時点でタスクとしては完了しており、必要があれば更に書き足すことも可能だという認識のものである。
よし書くぞと思ったものはページを作成し、思考の整理のためのアウトラインと、文章として成立させるためのアウトラインを作り、コードブロックに本文を書いている。コードブロックは日本語の文章を書いて違和感のないようにUserCSSで見た目をちょっと整えてある(この一連についてはそのうち詳しく書くかもしれない)。
また、Timelineと個別ページの間の位置づけとして、大きいテーマについて構想を練るページも作ってあり、ページ一覧上部のpin欄には構想用のページが並んでいる。
それまでDynalistに溜めてあった分の内容はそのプロジェクトに移したが、それでもまだ量が少ない状態のため、もっと増えてきた時に使い勝手がどうかはこれから検証することになる。前々回で書いたように自分に書ける文章のパターンが見えてきたこともあり、そういう「型」の存在を生かしたやり方も模索しているところである。
それでも今のところは「なんかこのままいくと混乱しそう」という予感は持たないでいられている。「書く」ということが自分の中に位置づけられたことで、混沌極まりなかった発想群に然るべき居場所を提供できるようになったように感じている。そして実際に必要な要素は何なのかが見えてきたことにより、ツールの機能に依存して振り回されることもなくなりそうである。なお、「書く」ため以外の発想というのももちろんあり、生活をより良くするためのアイデアなども日々生まれるが、それはそれでまた別の居場所を作っている。
一応集中的な連載としてはひとまず終わりということにする。ブログを書くことに関して他に書きたいこともいくらか思いついてはいるが、根幹というよりは枝葉になるので、そのうち書きたくなったら書こうと思っている。その際にはまた⑤、⑥と続けることにする。
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