ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第三回。
今回は文体とテンションの話をしていきたい。
ブログを書こうとした時の困り事として、内容だけでなく語り口の問題がある。
「です・ます調」の敬体なのか、「だ・である調」の常体なのか、「~じゃね?」「~だよね」などの軽い口語なのか、如何にも堅苦しい書き言葉なのか。どれを選択すべきかというのは思いの外難しい話で、最終的に「気分次第」で済ませたくなる。
どういう時にどれを選ぶべきかは簡単に結論を出せることではなく、またここで結論を出したいわけでもない。ただ、私は語り口に迷ったせいでブログを書くことに困難を感じたことがあり、そこから脱しようと試みたのだ、ということを報告しようと思ってその一連をここに書くことにする。
文体の話については以前noteにも記事を書いたことがあり、その内容も一部用いながら整理し直していきたい。
ブログとして書く拠点をこのNoratetsu Labに移してからは、基本的に「だ・である調」で統一している。今回ここまでの間には「~だ」も「~である」も登場していないが、敬体を使わず淡々と断定的に語っているので「だ・である調」になっている。
しかし、noteやそれ以前の既に存在していないブログでは、どちらかと言えば「です・ます調」の敬体で書いていることが多かった。その語り方になんだか違和感を覚えて書いていられなくなり、記事の更新は滞るばかりだった。ただ、敬体で書いていたのもそもそもは「だ・である調」に違和感があったからのことで、結局どうしたら納得できるのかが自分でわからないという状態がしばらく続いていた。
敬体か常体かということの他にも、読み手との距離感を左右する表現というのがあり、それを考えなしに使ってしまうと後から自分で自分の文章を気持ち悪く思ってしまうことになる。例えば極端な例を挙げると「皆さんも~してみてはいかがでしょうか」「さて今から~を読み解いていこう」のような表現である。ここまであからさまに書くことは少ないが、「~でしょう」「~しよう」は断定せずに印象を和らげる目的でうっかり使ってしまうことがある。書いた時は印象を丸めることに意識が向いているので気がつかず、後で読み直した時に「誰に語りかけているんだ!」と急に気持ち悪くなるのである。
語りかける表現そのものが気持ち悪いという話ではないし、他の人がそう書いているのを読んでも別におかしいとは感じない。あまりに連発していると「この人は自分の立ち位置をどう捉えているのだろう……?」と気になってくるが、自然に含まれているならばまあ人に何かを呼びかけるものとしては普通の文章だなと思う。語りかけたいなら語りかける表現を使えば良い、という単純な話である。
ところが、前々回から書いているように、私は世に訴えたいわけではないので、つまり読み手の感性や生活に積極的に影響を与えたいとは思っていない。別に語りかけたくないのだ。よって、相手に語りかける表現を使うと非常におかしく感じてしまう。
語り方についての苦悩はここまで書いた通りなのだが、この混乱には要因が幾つかあるように思われる。現時点で思いつくのは以下の三点だ。
書く目的の迷走
および読み手として想定する対象の曖昧さ
文体が持つ力についての無知
私は何故書くのだろうか。知見を元に講演したいのか? 信念の演説をしたいのか? 成果を発表したいのか? 人を慰めたいのか? 自分に言い聞かせたいのか?
私自身の目的については前回はっきりさせたところである。はっきりしたからブログに書いたのだが、しかし書くまではそれほど明瞭ではなかった。どうしたいのかということは自分の内側に最初からあるのだが、それを自分で捕まえることは驚くほど難しい。外れていけば違和感として心が訴えてくるが、この道を行きたいのだと明確に知らせてくれるわけではない。ひたすら自分の内面を描写して納得がいくまで検証するほかないのである。なお、私の目的をまとめ直せば「自己の仔細な言語化を通じて他の誰かの内面の言語化に貢献する」ということになるであろう。
目的が定まらないことには読み手を想定することもできない。ターゲットを絞らないままでは「なんとなく多くの人に読んでもらえそうな文章」というのをぼんやり書くことになってしまう。
読み手を想定するということは、読み手との距離や読み手へのアプローチの強さを決めるということである。絵的に考えるならば、矢印の向きと長さと大きさと質感をイメージすることと言えよう。質感というのは曖昧な言い方になってしまうが、例えば触って気持ち良いもふもふの矢印なのか、当たったら穴を開けられそうな硬くて尖った矢印なのか、といった意味である。
私が自分の目的に沿ってイメージしているのは、木でできた握りこぶしくらいのころっとした矢印が自分を中心にして放射状に複数浮いているような状態だ。柔らかくはないが冷たくも鋭くもなく、誰かを狙って飛んでいくでもなく、ひとつの文章で示すものがひとつに集約されているわけでもない。それを物的に表すならそういう矢印になる。と言って「なるほど!」と思ってもらいたいのではないのだが、とにかく自分が誰に向かってどうしたいのかを自分でわかる必要があるというのがここで言いたいことである。
目的と対象が明らかになったとして、では実際に使うべきはどういう文体なのか。「です・ます調」と「だ・である調」の差異としてはまず堅さの違いがある。柔らかく書きたいなら「です・ます調」を使えばいいし、堅く書きたいなら「だ・である調」を使えばいい。しかし話はそれほど単純ではないだろう。そのふたつの違いは堅さには留まらない。全く同じことを語尾を変えて表現したというだけならば確かに堅さの違いがあるということになるだろうが、そもそもどういう内容を表現できるかということに恐らく違いが生じてくる。
敬体の「です・ます調」は読み手に対して丁寧語を使っているということだが、となれば必然的に、読み手の方に体を向け聞いてもらうことを前提に話しかけているがごとき格好になるように思う。独り言で敬体を使うというのはもちろんあり得ないではないが、常に天が聞いているから丁寧な言葉遣いを貫くと決めているといった信条がない限りは、大抵の場合敬体には聞き手の人間というのが想定されていそうである。
そうなると、逆に敬体で書くことを選択したことによって聞き手の人間を想定せざるを得なくなるということも考えられる。敬体と常体のどちらが自分のデフォルトなのかという個々人の性質の差が感覚を大きく左右するところかもしれないが、実際私にとっては敬体というのは読み手に寄り添わざるを得ない形式のように感じられてしまう。つまり、私は人に語りかけたいのではないにもかかわらず、語感の柔らかさを求めて敬体を選択してしまったがために、人に語りかけるものとして適切な内容を書かなくてはいけない気分になっていた、というのが私の迷走中に起きていたことなのである。
そもそも「だ・である調」ならばガチガチに堅いのかというとそんなことはなく、風のようにさらっと過ぎていく文もあればスーパーボールのように跳ね回る剽軽な文もある。自然に書いていけば書き手の内面を流れる空気がそのまま表現されるだろう。敬体でも常体でも構わないが、誰に向かってどういう自分であろうとするのが自分にとって自然なのかがわかっていれば、書きたいことを違和感なく書いていけるはずである。無理して敬体で書こうとしていた時には「主張したいわけじゃないから断定的に書きたくない」というふうに思って常体を避けていたが、私にとって敬体は自然ではなく、余所行きのおめかしをしたものであり、内面を綴るには向いていなかった。文体が書き手である自分に及ぼす影響について、私は長いこと無知でいたのである。
今のところの自分の解としては、文体は常体を基本とし、語りかけるような「Let's」的言い回しは禁止する、ということで納得している。なお、noteはSNS的な要素によって読み手の存在を否応無しに意識してしまい、場所を個人ブログにすることで自分の文体に場違い感を覚えずに済むようになった。
これで文体の問題は大方解決したが、もう一歩踏み込むと「テンション」をどうするかということがある。再び矢印のイメージに重ねるならば、矢印の色や模様をどうするかであると言えるかもしれない。「テンション」の定義はこれと言いにくいので曖昧なままにしてしまうがご容赦願いたい。そもそも文の場合は「調子」と言ったほうが良いのかもしれないが、体調的な「調子」と区別するため、今回は「テンション」と書くことにする。
自分のテンションを色に喩えてみるとすると、恐らく赤やオレンジではないだろう。金や銀でもないし、当然虹色でもない。水色のように爽やかではなく、青をイメージするほどクールでもない気がする。彩度や明度は低くても、どちらかと言えば暖色系ではなかろうか。自分で思うのと読み手の感想とでは乖離があるかもしれないが、想像するに深緑や焦げ茶あたりだろうか? ポップな模様はないだろう。強いて言えばアラベスク、あるいは鱗紋とかかもしれない。
テンションは文体と密接に結びついているようであるが、しかし文体とは別の次元で決まるもののようにも思う。一文一文をばらして見れば同じようでも、全体として出来上がる文章の雰囲気は人それぞれ違うものである。難しい言葉を使えば堅くて暗いのかと言えばそうでもないし、平易な言葉を使えば明るく親しみやすいかと言えばそうとも限らない。話の飛ぶ幅や登場する固有名詞の種類、大和言葉と漢語の兼ね合い、自虐や諦観の有無、そういった様々な要素から総合的に判断されるものなのだろう。
テンションは個性であって正解はないし、どんなものにも需要はあるだろう。自分と似ているものは安心するし、自分と違うものは刺激的だ。よって何でも良いのだが、自分という人間はどういうテンションで物を語るのが自然なのかは知っておく必要がある。あまりに人の文章を参考にしようとすると、文の構造を学ぶに留まらず、その人のテンションまでもをコピーしようとしてしまったりする。一致しているのなら良いのだが、自分と違うがゆえに魅力的に感じたというものを真似ようとしても継続は難しいだろう。私は人の真似を諦め、自分に馴染む空気によってのみ書き表すことにした。
私が書こうとしている文章のテンションが広く受け入れられるものかはわからない。ただ、私の固有のテンションを私自身がきちんと表現している限り、誰かは波長の一致に親近感を覚え、誰かは捉えどころのない不思議さを興味深く思うだろうと信じている。
次回は記事にするネタの管理方法の話を予定している。
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