ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十三回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。

 目的が混在していると下手な文章になる問題。

 

 前回ブログの書き方ド下手問題⑫~経緯を説明しようとし過ぎている~に引き続き今年の個人的な反省文。

 文章の目的が複数あるような場合、その文章は失敗しやすいようだ。当たり前と言えば当たり前なのだが、目的を細かく分けて語る道筋が見えなければ複数の目的を兼ねながら文章を書くということをしてしまってもおかしくない(そういう文章を今年は書いてしまった)

 

 文章を通じてやりたいことというのは、大別すれば「言い表したい」「教えたい」「読んだ人を変えてやりたい」の三つくらいになるのではないだろうか。それを通じて何を実現したいのか、というのは更に奥にまたあるが、文章そのものの目的としてはそれ以上は分けられない気がする。ここではそれぞれ「表現」「共有」「演説」としておこう。

  • 「表現」タイプ:感じたことを言い表したくて書く文章

  • 「共有」タイプ:情報を人に伝えたくて書く文章

  • 「演説」タイプ:他者の認識を変えたくて書く文章

 このうち「演説」タイプの文章は当ブログではカバーしないので脇に置いておくとして、問題は「表現」タイプと「共有」タイプの境界だ。

 日記系の記事なら「表現」タイプになるし、技術系の記事は「共有」タイプになる。その境目ははっきりしていて迷うことはない。しかし、例えば紀行文的なものになると境は曖昧になってくる。自分が感じたことを書くわけだが、そのためにまず前提を共有しなければならないからだ。こういう場所に行ってこういうものを見てこういう体験をして、そこで私はこう思ったのだ、という流れになる。

 

 で、本当の紀行文ならば、大体そこにある事実が面白いし、五感に訴えるものだから何かしら想像を膨らませやすい。わくわくさせたところに作者の所感がすっと加わることで臨場感も増すだろう。

 ところが。具体的な事物ではない世界の話をしながらとなるとどうもうまくいかない。五感に頼れない場合、イメージを浮かばせるのがとても大変だからだ。*1

 自分の「表現」の前提に何か情報が必要なら、それを伝えるための「共有」の文が要る。その文が複雑化して読み手の負担が増えていくと、よっぽど面白い話でなければ「表現」の部分が霞んでしまう。抽象的な領域の話は、前提の共有がどうしても複雑になるので紀行文的に書くのは難しい。

 「表現」と「共有」を同居させるならば共有部分が十分コンパクトであった方が良い。どうしても膨張するなら、せめて「共有」のターンと「表現」のターンははっきり分けて書く。情報の共有は淡々と明快に進め、自分の解釈は別途噛み直すようにして表現する。巧みな人は織物のように両方編み込んだ文章を書けるかもしれないが、それは非常に高度な技術になってしまうだろう。

 紀行文的に書いたらいいような気がしていたことも、前提の共有のために読み手がどのくらい負担を強いられるかを踏まえて構造を考える必要がある。変に「表現」の方に重きを置いて「共有」を駆け足で済ませようとしてしまうと「共有」のための文章の位置づけが曖昧になってつまらなくなる。そのことが今年は身に沁みたので、文章の組み立て方を改めていきたいと思う。

 


*1: 以前、シリーズ記事の不本意さを反省した時に、「行きあたりばったりな紀行文を目指す」と書いたのだがNTA-DIY:なんでこれを書いているのか考え直す、それは多分困難な道だったのだと思う。私が体験したことをうまく伝えて、私が感じたワクワク感をちょっとでも追体験してもらえるような術はないかと思って考えたことだったけれど、私の文章のうまくなさ以前に(それも大きな要因だが)、私がやりたかったことをそのまま実現する術はそもそもなかったのではないかと思っている。

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